第3話 哀

 七瀬は同級生からいじめを受けていた。

 ひと学年に六十人しかいないような田舎の小学校だ。変わり者や、集団に合わせられない人間に対して酷く排他的だった。

 小学四年生の頃から徐々に悪化し、無視されたり、陰口を言われるようになっていった。ついには彼女に少しでも触れたら、菌でも触ったかのようにわざとらしく周りの人間に擦り付け合っていた。そのせいか七瀬は中学生になると、人付き合いをなるべく避け、目立った行動を控えるようになった。その彼女の努力の甲斐もあって、悪質ないじめはされなくなったが、派手なグループからは未だに嫌味を言われることがあった。


 僕と七瀬のクラスは違ったが、それでも七瀬には休み時間に一緒に談笑する女友達は数人いたようで、廊下ですれ違いざま見たことがあった。だから、七瀬にはそばに居てくれる人がいるのだと安心していた。

 が来るまでは。


 小学六年生だった時のある日、帰ろうとして宿題を教室の机に置き忘れたのに気づき、取りに戻った。七瀬のクラスの前を通ったとき、複数人の女子の会話が聞こえてきた。

「朱里って本当にウザいよね」

 その名前にすぐにピンとは来なかったが、朱里という名前はうちの学年で七瀬だけだったため、ふと気になって教室の外で聞き耳を立てた。どうやら声の主は普段七瀬とよく一緒にいる女子達らしかった。

「なんか発達障害?とかって自分で言ってたけど、そんなの言い訳にしたらなんでも許されるとか思ってるでしょ」

「『病気だから仕方ないの!可哀想でしょ!』って言ってるみたいでムカつくんだけど」

「自分で直そうともしないくせにさ」

 なんだこれは、と自分の耳を疑った。とてもあの七瀬と笑顔で話していた人達と同一人物とは思えなかった。

「この前とかちょっと冗談でからかっただけなのに『馬鹿にするな!』ってキレられたし」

「いきなり『朱里語』っていう意味不明な言葉喋り出すし、頭湧いてるんじゃないの」

「あいつといると私たちまで変人扱いされそう」

 僕には関係ないことだ。そう言い聞かせる。鼓動が煩い。息が苦しい。ここから早く逃げ出したいのに足が震えて動けない。


「あいつなんて消えちゃえばいいのにね」


 その言葉だけがいやにはっきりと耳に響いて、周りの音が何も聞こえなくなった。頭が真っ白になる感覚。これを「絶望」と言うのだと、小学生ながらに思い知った。

 この先どうしたかはよく覚えていない。でも、帰り道涙が止まらなかったことはよく覚えている。


 俺はそれから七瀬の顔をまともに見ることさえできなくなった。


 *


 図書館に行った日から一週間。それまでほぼ毎日あった七瀬からの連絡はすっかり途絶えていた。ただ単に気が向かないだけなのか、はたまた病気が悪化して歩き回れない状態にあるのか。前者であることを願う。

 そんなことを考えていると、母さんが部屋に入ってきた。

「賢太。なっちゃんから電話きたよ」

「なっちゃん」というのは、僕が小学生の時まで呼んでいたいた七瀬のあだ名である。家族ぐるみで仲が良かったこともあり、母さんは今でも七瀬をそう呼んでいる。

 急ぎ足で1階に降り、家の固定電話の受話器をとった。

「もしもし?どうしたの」

「夕飯食べた?」

「え…あ、うん。なんで?」

「今から海行く。あと十分後に駅に集合で。お金だけ準備しといて」

「今から!?」

 時計の針を見ると午後六時を回っていた。夏ゆえか、まだ外は明るいものの一番近くの海水浴場に行くのにでさえ電車で1時間半以上はかかる。おまけに田舎のせいで、乗り継ぎにも時間がかかるかもしれない。あまりにも無茶だ。

「さすがにやめとこうよ」

「お願い。どうしても今夜行きたいの」

「だから、なんでそんなに…」

 言いかけたところで一方的に電話を切られた。苛立ちで頭をかきむしり、乱暴に受話器を置いた。

「母さん。ちょっと出かけてくる。帰り遅くなるかもしれない」

「…そう。くれぐれも気をつけてね」

 母さんは何も聞かずに、心配そうな顔で見送ってくれた。


 *


「ちゃんと親に言って出てきたんだろうな」

「メモ置いてきた。『海に行ってきます。すぐに帰ってきます』って」

「帰ってから何言われても知らないから」

「構わないよ」

「そう」

 それ以降七瀬から話しかけてくることはなかった。ずっと車窓の流れる景色を眺めていた。広がる田園風景。代わり映えのない僕の日常を表しているかのようだ。ただ、変わったことと言えば隣に重病を抱えた女子と海に向かっていることだろう。

 結局、沈黙したまま一時間半がすぎた。


 海水浴場から少し離れた砂浜。遊泳時間はとっくに過ぎていて人は誰もいなかった。

 いつもの七瀬なら海を見た瞬間走り出してはしゃぎそうなのに、今日はただ静かに海を見つめていた。

 七瀬は波打ち際を沿って歩き始めた。僕は後ろを追うように付いていく。さざ波と砂浜を歩く音だけが聴こえる、騒がしい静寂だった。

「海ってさ、不思議だよね」

 ついに七瀬が口を開いた。聞き漏らさないように耳をすませる。

「昼間の海はあんなに明るくて賑やかなのに、夜の海はこんなに暗くて怖いんだから」

 七瀬は前を向いたままで表情は見えない。あれだけ普段感情を爆発させている彼女が、今は何を考えているのか全く分からなかった。

「まるで人間みたいだね」

 核心を突くような重みのある声。こんな七瀬は今まで見たことがなかった。

「ケンちゃん」

「な、何?」

 七瀬が足を止め、こちらを振り返った。

「この前、なんで助けてくれなかったの」

 あまりに冷たい声と突き刺すような視線が僕の心臓を凍りつかせた。喉の奥が詰まって声が出せない。

「まあ、いいよ。ケンちゃんもあの子達苦手だもんね。しょうがない」

「……ごめん」

 やっと出した声は自分が思うより掠れていた。声が七瀬に届かなかったのか、はたまた無視しているのか分からないが、彼女は海の方を向いて何も言わなかった。

 僕も海に目を向ける。

 僕達を映し出す水面。

 少し濁ったような青色。

 押し寄せては引き返す波。

 鼻にまとわりつく潮の匂い。

 不思議と今の僕には海がもつ爽やかさは全く感じられなかった。

 長い沈黙のあと、七瀬がこめかみを抑えてうずくまった。

「大丈夫?」

「だい……じょう、ぶ。ちょっとズキズキしただけ」

「やっぱり家にいた方がよかったんじゃないのか」

「私、もう外に出歩けないかもしれないから」

「え……」

 七瀬はこの一週間でかなり症状が進行していること、家族に家で安静にするように懇願されていること、今日が外出できる最後のチャンスだと思ったこと、今日に至るまでの経緯を話した。

「だから残念だけど、これでケンちゃんとデートするのも最後にするよ」

「そうか」

 希望を出来るだけ叶えると意気込んだばかりだったのに、もう僕の役目は終わるのか。果てしなく続く水平線をじっと見つめていると虚しさが込み上げてきた。

「七瀬はさ、どうして海に来たかったの?」

「だって夏だもん。人生最後の夏の思い出に男の子と夜の海で二人きりなんてロマンチックじゃない?」

「言葉の聞こえはいいけど」

 僕は苦笑した。実際は重病によって生み出された状況なのだから皮肉なものだ。

「あ、でも……」

 何かを思い出したように七瀬が小さく呟く。

「最後にあそこだけ行きたかったかな。もうそろそろ時期だろうし」

「え、どこ?」

「んー?なーいしょ」

 口に人差し指を当てて微笑んだ。今日初めて見せた柔らかい表情だった。


 *


 僕達は何を話すでもなく海を眺めていた。もはやどのくらい時間が経ったかのかも分からない。僕は想像した。この暗くて深い海の底まで飲み込まれていく自分を。余計なことを考えずに身を委ねられたらどんなに気が楽なのだろう。

 この世界には目を背けたいものが多すぎる。

「私ってさ、やっぱり頭おかしいのかな」

 唐突に発せられた七瀬の声でハッと我に返る。

「どうしてそう思うの」

「私は、みんなと同じようにはなれないから」

 七瀬の表情が徐々に曇り出した。

「みんなは、女の子と男の子が仲良くしてたら『付き合ってる』って勝手に決めつけたり、内緒って言った話を言いふらしたり、裏では不満言うくせに強い人に意見合わせたり」

「…………」

「私が、それはおかしいよって言ったら、『空気読めない』とか『言わなくても分かってよ』って言われるの」

「それは……」

「それがみんなの思う『普通』なの?」

 七瀬の声が掠れた。冷たい海風が僕達の間に吹き抜けていく。

「ねえ、普通って何?普通じゃないって何?」

 ふと顔を見ると、彼女の目から一筋の涙が零れ落ちた。

「私が弱音を吐くたびに『世間はそんなに甘くない』ってみんな寄ってたかって言ってくるの。そんなの私が一番知ってるよ」

 次から次へと溢れてくる涙を拭いながら、言葉を紡いでいく。僕は黙って聞いていた。

「誰も私のことなんて分かってくれない」

 七瀬は肩を震わせて、両手で顔を覆った。

「みんな大人になってくの。相手が言わないことも汲み取って、自分の思ったことも口に出さない。でも私にはそれが出来ないの」

「七瀬は……成長したよ」

「でもケンちゃんは私のこと学校の中では段々避けるようになった」

「……ごめん」

「どうせケンちゃんだって、私と一緒にいたら変人だって思われるのが嫌だったんでしょ!」

「それは違う!!」

 今日一番の大きな声が出た。それに驚いたのか、七瀬は一瞬肩を揺らした。

 自分は周りにどう思われようと構わなかった。ただあの一件からの僕は、七瀬と関係を持たなければ彼女の悪口を聞いても傷つくことはなくなるんじゃないかと心のどこかで思っていた。だから図書館の時も一刻も早くその場から離れたいがためにあの三人に嘘を吐いた。

 その結果、周りの人間からも七瀬からも逃げてしまった。

 ……僕は最低だ。こんなの見苦しい言い訳にしか過ぎないじゃないか。避けていたのは事実だ。理由がどうあれ結局は自分を守るためにそうしたことに変わりはない。普段七瀬を自分勝手だなんだと思いながら、僕の方がよっぽど自分勝手だった。

「僕は……」

 言葉に詰まり、目線が泳ぐ。

「そうやって、みんな私のこと置いて行っちゃうんだぁ……!」

 七瀬が声を荒らげた。それは怒りの声ではなく、悲しみの篭った声だった。せきを切ったように泣き出し、七瀬はこちらを向いて僕の胸を弱々しく叩き出した。

「『普通』になれなくて……いじめられて……もうすぐ死ぬ病気にかかって……なんで私ばっかりこんな目に会うの……?こんなのおかしいよ!」

 叩かれてる胸は少しも痛くないはずなのに、心臓が締め付けられるような痛みを感じた。

 僕は彼女の手首を掴み、動きを封じる。七瀬は抵抗したが、次第に力を抜いて俯き、僕の胸に頭をうずめた。僕は彼女の手首を解くと、そのまま彼女は僕に抱きついた。

 どうするべきか迷ったが、七瀬の背中と頭にそっと手を回し、落ち着かせるようにさすった。彼女の鼓動が聞こえてくる。触れた背中から体温が伝わってくる。

 彼女は今を生きている。

「人間なんて、嫌いだ」

 七瀬が吐き捨てるように呟いた。

「七瀬も……人間だよ」

「そう。だから死ぬの」

「生きてよ」

 声が上擦った。考える前に口が動く。

「死なないでよ……」

 言葉を発した瞬間、視界が滲んだ。脳がその意味を理解して、感情がようやく追いついた。そうだ、七瀬はもうすぐ死ぬ。誰にも理解されないまま、この世から跡形もなく消えてしまう。それがたまらなく怖くなった。

 息を吸い込むたびに胸が小さく震える。僕が鼻をすすると、七瀬が顔を上げて僕の顔を覗き込んだ。

「あはは、ケンちゃんは泣き虫だなぁ」

 真っ赤に目を腫らし、鼻水を垂らしながら、彼女は笑った。

 その笑顔があまりに儚くて、無性に「守りたい」なんて思った。遅すぎたかもしれない。だけど、どんなに傷ついても僕はもう逃げたりしない。最期の時まで彼女と向き合おう。そう心に誓った。


 だから、この時の僕は、二日後に七瀬が病院に運ばれるなんて思いもしなかったんだ。

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