第2話 怒

 七瀬の行動は突拍子もなかったが、頭は悪くなかった。というより、勉強面では学年トップクラスの成績で、記憶力に関しては群を抜いていた。特に動物や植物などの自分の興味のある分野となると、数百ページある図鑑の内容をほとんど覚えてしまうほどだった。彼女はその図鑑を僕の家まで持ち出して延々と語り続けることもよくあった。

 まだ幼かった頃の僕らは毎日のように一緒に遊んだ。近所の公園や神社、駄菓子屋、いろんな場所へ散歩しに行くこともあった。

 大袈裟で少しおかしな言動も自由奔放な態度も七瀬の個性だと、そう思っていた。

でも、いつからだろう。

僕が七瀬を避けるようになってしまったのは。



 衝撃のカミングアウトから三日後、さっそく七瀬に連れ出され、バスを乗り継いで向かった先は動物園だった。

「動物園なんて遠足以来だ」

「そうなの?私は毎年来てるよ。あの子達に会いに行かなきゃいけないからね」

「あの子達?」

「キリンの『りんりん』に、カバの『かばのすけ』、羊の『ぽんちゃん』!あとねー」

「ちょっと待て、それ名前?」

「うん!私がつけてるの」

「ネーミングセンス微妙だな」

 軽口のつもりでそう言うと、七瀬はそっぽを向いて急に無口になった。まずい。

「冗談だよ」

「……あっそ」

「ごめんって」

「…………別に」

 完全に地雷を踏んでしまった。よほど自分にとっては愛着のある名前だったのだろう。これからだというのに先が思いやられる。


 お昼前には目的地に着き、1つ1つのエリアを時間をかけて見回った。夏休みではあったが平日だったためか、園内は案外空いていた。

 七瀬は動物を見つけるとさっきまでの不機嫌が嘘のように目を輝かせ、その動物の生態や習性、特徴などを事細かに教えてくれた。

 話すことに夢中になる姿を見て、幼少期の七瀬をたびたび思い出した。


「ケンちゃんは進路どうするつもり?」

 休憩所で買ったソフトクリームを舐めながら僕に聞いてきた。

「いや……特に考えてない」

 やりたいことも特にないため普通科のある高校に行ければいいと思っていた。普通科を目指す中学生の大半はそうだろう。

「そんなのもったいないよー。せっかく将来があるんだからさ」

「そういう七瀬こそ、病気じゃなかったら進路どうしてたの」

「私はね、獣医さんになりたかったな。たくさんの動物さんたちを助ける仕事がしたかったし、卒業したら都会の専門学校に行って勉強するつもりだった」

「そんなはっきりした目標あったんだ」

「まあ、もうなれないんだけどね」

 あっさりとした深刻さなど微塵もないような声色だった。それが逆に僕を不安にさせた。かける言葉に戸惑ってしまう。

「ほら、食べないとソフトクリーム溶けてきてるよ」

「うわ!本当だ!」

 七瀬は慌てて垂れてきたクリームを舐め始めた。上手く話を逸らせただろうか。

 額から汗がしたり落ちるのはきっとこの蒸し暑さのせいだけじゃない。


 ゾウのエリアを過ぎたところで、アルパカや羊、ヤギなどがいるエリアに着く。

 七瀬が一目散に向かったのは羊の小屋だった。柵の前には1匹の羊がいる。

「ぽんちゃ~ん!会いたかったよ~」

 声をワントーンあげてわざと幼い口調で羊に話しかける。羊もそれに応えるように「メェ」と短く鳴き声をあげた。

「すごいな。会話してるみたい」

「ぽんちゃんは友達だからね」

「そう言えば、なんでぽんちゃんなの?」

「ほら、毛ががふわふわぽんぽんしてるでしょ?だからぽんちゃん」

 なら、毛を刈り取られたらなんて呼ぶつもりだろう。そんなことを考えるが、ここで気を悪くされると今日一日付き合った苦労が水の泡になるので黙っておこう。

 ここの羊は触れることができるようで、飼育員さんに頼むと柵の中に入れてもらえた。七瀬は愛おしそうに羊の頭を撫でている。

「ぽんちゃん。私ね、もうここには来れないんだ。もうすぐ死んじゃうの。」

 羊はじっと七瀬を見つめ、低い唸り声を発した。僕には心做しか七瀬との別れを惜しむように見えた。

「この子ね、私が小さかったときからずっといるんだ。人間でいうと、もうおばあちゃんなんだよ」

「そうなんだ」

「ぽんちゃんは大人しくて良い子だから、きっと寿命を全うして、苦しむことなく皆に見守られながら天国に行けるんだと思う」

 屈んだ姿勢で羊を撫でながらそう呟く彼女の横顔は寂しげだった。まるで「自分とは違って」と羨むように。無性にもどかしく感じて、それを否定してやりたくなった。

「七瀬、お前は…」

「あっ」

 突然七瀬が目線を上にあげて、前方を指さした。

「ねぇ、見て!夕焼けだよ」

 明るい表情を取り戻し、その景色に感嘆の声を上げる。美しさと禍々しさを兼ね備える真っ赤な空の色合いに、このまま吸い込まれていきそうな気がした。どこからかヒグラシの鳴き声が聞こえてきて、何とも言えない寂寥感に襲われる。

「そろそろ帰ろうか」

 言いかけた言葉を飲み込んで、そう七瀬に促す。

 会うのは今日で最後なわけではない。感傷的な気分になるのはもっと後でもいいだろう。



 翌日は植物園に、その3日後は水族館。さらにその2日後には自然科学博物館にも連れ出された。その間、七瀬は興奮気味に自分の持てる知識をフルスロットルで話し続けた。話の内容の半分以上は覚えてないけれど。

 どちらも少し無理すれば電車やバスで行ける距離にあるとはいえ、中学生の財布には少々厳しい数日間となった。今日は七瀬を家に呼び、一度計画を立て直そうと説得することにした。


「さすがにこのペースで1ヶ月も遊び続けたら貯金なくなるって」

「私はお小遣い使い果たすつもりだから別に気にしないよ」

「僕の小遣いが尽きそうなんですけど…」

「もう、ワガママだなあ。好きにしろって言ったのはケンちゃんでしょ」

 眉をひそめ、下唇を突き出し、明らかに不満そうな態度を示す。ワガママなのはどっちだ、と言いたい気持ちをぐっとこらえる。怒らせると、これ以上面倒になるのは目に見えていた。

「私さぁ、急に計画変えるの嫌なんだよね。本当は今日も遊園地行くつもりだったのに」

「家族に連れてってもらったら?」

「ずっと気を遣われるから楽しめないよ。私が何か話すたびに泣きそうになってるし」

「まあ、そうだろうね。そもそもこんなに遊びに行ってるけど、病院には行かないの?一応病気なんでしょ?」

「それも嫌だね。どうせ治療も意味ないし、せっかくなら最期まで楽しいことしたいじゃん」

「じゃあ、もし今ここで倒れたらどうするんだよ」

「んー、ここを私の死に場所する」

「勘弁してくれ……」

 さすがにそれは困る。どこか近場で七瀬が好きそうな場所はあっただろうか。考えを巡らせてると、急に七瀬が立ち上がった。

「よし!じゃあ、いつものとこ行こう!」


 連れてこられたのは商店街の中にある図書館だった。図書館独特の古い紙の匂いが立ち込めている。「いつもの」というのは、七瀬が学校帰りによく立ち寄っている場所だからだろう。普段滅多に来ることがない僕にとっては少し気が詰まりそうな空間だった。

「それで、これからどうするの?」

「そんなの図書館に来たんだから本読まないでどうするの」

「いつも来てるなら別に僕がついてくる必要はなかったんじゃ……」

「私が来たかった場所だし、お金もかからない。最高でしょ?」

 それはそうだが、何しろ僕は本を読むのが苦手なのだ。

 七瀬は小説コーナーの本棚を物色し、1冊抜き出して近くの空いていた席に座る。

「ケンちゃんも好きな本持ってきなよ」

 そう言って彼女は分厚い小説を熱心に読み始めた。これは話しかけてもダメそうだ。時間を潰すためにも諦めて本を探すことにした。

 適当に読みやすそうな題名の本を手に取り、七瀬の隣の席に座った。

 読み始めて数分後、じわじわやって来る眠気に襲われた。目を擦って耐えていたが、どうやらそれも限界なようで、本を置いて机に突っ伏し、目を閉じた。


「ケンちゃん、ケンちゃんってば」

 肩を揺すられて、目を覚ます。ふと壁にかかっている時計に目をやると、あれから三時間経っていた。突っ伏した状態で何時間も寝ていたせいで肩と腕が痛い。

「ごめん。何かあった?」

「もう読み終わったし、退屈になっちゃった。なんか面白いことしようよ」

 図書館で面白いことも何もないだろう。謎の提案に首を捻る。

「あ、いいこと思いついた」

 七瀬は僕に顔を近づけて耳打ちした。

「お互いに相手をイメージした本を選んでプレゼンするの」

「悪いけど、僕そんなに本は詳しくなくて…」

「決まりね!じゃあ早速探してくる!」

 小声ながらも声を弾ませて、相変わらず人の話も聞かずに小走りでどこかへ行ってしまった。本の知識が皆無な僕にとってこれほど難題なものはない。

「七瀬のイメージ…かぁ」

 自由奔放。無邪気。というか幼稚。変人……ダメだ。ろくなのがない。当てもなく、小説コーナーの本棚を左から右、上から下へと見回していく。

 とある見覚えのある本に目が止まった。おもむろに取り出して表紙を確認する。

 フランツ・カフカの『変身』。もちろん僕が自らこの本を手に取って、知った訳では無い。かなり前に、七瀬が僕に教えてくれた本だ。何故彼女がこの本を知っていたのかは分からないが、当時は話のあらすじを簡単に説明してくれた気がする。

 主人公のグレゴール・ザムザはある朝が目覚めると毒虫になっていた。言葉も体も自由がきかなくなり、その醜い姿から周囲の人間からも嫌悪されてしまう。そして、ある日父親に林檎をぶつけられ、グレゴール・ザムザは死んでしまう。そうして家族の気が晴れていった。

 うろ覚えだが、大まかな話の流れはこうだったはずだ。

 不遇な運命によって、周りから疎まれ死んでいく主人公……

 僕は本をしばらく見つめていた。


「本見つかった?」

「うん」

「お!どれどれ?」

 結局僕が選んだのは動物の写真集だった。『変身』を渡すのはいくらなんでも酷すぎる。

「へぇ、可愛いじゃん!よく見つけたね。私の何をイメージしたの?」

「あ、えっと……動物好きなところ?」

「安直だなぁ」

 安直だってなんだっていい。気を損ねさえしないなら。

「それで、七瀬は何選んだの」

「私はねぇ、これだよ」

 顔の前に突き出した本は、太宰治の『走れメロス』だった。

「七瀬にしては、メジャーなもの選んだね」

 本に関しても博識な七瀬ならもっと小難しい内容の小説を選んでくるかと思ったので、僕でも知っているような本を持って来たのが意外だった。

「理由の1つはね、ダメなことはダメだって言えるところかな。ほらメロスも王様に反論しに行ったでしょ?」

「僕そんなこといつも言ってたっけ」

「まあ、私に対してだけだろうけどね」

 心を見透かされたような気がして、一瞬鼓動が早くなる。顔に出さないように、平静を取り繕った。

「一つはってことは、他にも理由あるの?」

「んー、あくまでもイメージって話なんだけど」

 七瀬は口の端を少し上げ、こちらに顔を向ける。

「ケンちゃんはさ、大切な友達のためならどんな場所にいても走ってきてくれそうな気がするの」

 意味深な言葉と表情。何か試されているのだろうか。でも意図が分からない。

「それって、どういう意味?」

「そのまんまの意味だよ」

 くすくす笑って椅子から立ち上がる。役場の方から5時のチャイムの『夕焼け小焼け』が聴こえてきた。

「お金のないケンちゃんに配慮して、今度からは近所で行きたいところでも考えとくよ」

「気を遣わせて悪いね」

「私はケンちゃんと過ごせたらそれでいいの」

 あの頑固な珍しく自分の意思を変えたことに、少し驚いた。それほどまで僕といることを望んでいるのだろうか。少し面映ゆい気持ちになる。

 そのまま図書館を出ようとする七瀬を呼び止めた。

「あ、ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」

「じゃあ、外で待ってるね」

 思えば僕はいつの間にか七瀬と話すようになって、デート……という名の七瀬の付き添いをして、徐々に開いていた距離が近くなっていくような気がする。昔に比べて七瀬が多少は大人になったからだろうか。本当に多少だけど。

 …それとも、僕が七瀬にずっと後ろめたさを感じているからだろうか。頼みが断れないのも、機嫌を損ねさせたくないのも。

 胸の奥がズキリと痛む。よそう。こんなことを考えるのは。今は残りの寿命が少ない七瀬の望みを出来るだけ叶えてやることに専念しよう。


 用を足し終えて、出入口の方へ向かう。外へ出ても七瀬の姿が見当たらない。不審に思い辺りを探していると、図書館の横の駐輪場の方から複数人の女子の聞こえた。僕は少し離れた植え込みに身を隠しながら、様子を伺った。

「……なんであんたたちがここにいるの」

「ははっ、そんな怖い顔しないでよ」

 クラスの女子のリーダー的存在の子と、そのそばにいつもいる二人に七瀬が絡まれていた。思えばここは学校からも遠くない位置にある。当然、知り合いの一人や二人に会うことは覚悟していたが、相手が悪かった。

「そういえば、なんで学校あんなに休んでたの?」

「どうせサボりでしょ?」

「ずるーい」

 ケラケラと笑う彼女達の姿は年相応のお洒落な格好をしているのに、とても醜悪に見えた。七瀬は拳を握りしめ、俯いている。

「いいよねー、受験生なのにお気楽で」

「頭良いからって余裕かましすぎ」

「あんたらに……」

「何?声ちっさくて聞こえないんだけど」

 下を向いていた七瀬が顔を上げて思い切り息を吸った。

「あんたらに私の何がわかる!!!!」

 七瀬の怒りのこもった劈くような叫び声が辺り一帯に響き渡った。呆気にとられている女子三人に背を向け、逃げ出すように走り出した。俺のそばを横切り、一瞬目が合ったが何も言わずに行ってしまった。

「何あいつ……うっざ」

「ねぇ、あれ芝崎じゃない?」

 メンバーの一人に指をさされる。見つかってしまった。

「誰だっけ?」

「ほら、芝崎賢太だよ。同じクラスの地味な奴」

 呆然と立ち尽くしていると彼女達が近寄ってきた。体がこわばって逃げ遅れてしまった。

「今の会話聞いてたの?趣味わるーい」

 嘲笑が含まれる口調に、取り巻き二人がこそこそと話している。

 彼女達には憤慨とも嫌悪とも言える感情を抱く。ぐるぐると頭が回る感覚。忘れかけていたあのトラウマが蘇ってくる。まともに話せるような状態じゃない。気を保っていないと、今にも吐きそうだった。

「え、もしかして、七瀬と一緒に来てたの?」

 本当は何と言うべきかなんてわかってる。でも、それを貫けるほど僕は強くなかった。この場から今すぐ離れたい。その一心で、僕は声を絞り出すように言った。


「そんなわけ、ないだろ」

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