May.6(20)連載①
@Aladdin1980
第1話
古い樫の木が風に音を立てている。小さな池はいの字型の独特の形をしていた。児童公園ほどの大きさしかないその場所は、太古の昔には神聖な場所として崇められていたという。いまでは四方を住宅に囲まれている。それでもみすぼらしい感じはしない。爽やかで居心地が良かった。
俺はぼんやりと抹茶色の池を見ている。青っ洟緑。何も予定のない日は近所をバイクで走り、昼飯あとにここに来ることが日課になっていた。池の周りに設けられた木の柵に腰掛け、木の枝の隙間から空を見上げる。きりっとした青い空だ。三好(みよし)さんは上野に行くと言っていた。美術展か何かだ。王子(おうじ)や明(あかり)も結局行くだろう。俺は特に絵画やオブジェなんかを見たいとは思わなかった。時間のなかで固まり、凝固した芸術家の才能たち。偉大な芸術家の作った作品は、彼ら自身なのだろうか?本人の手を離れた何か。作者と世間との隙間にぶら下がった宙吊りの何か。エリオットならなんていうだろう。シビル?シビラ?
五月は最高の季節だ。濃い緑の木々が匂う夏のほんの手前の季節。春が時折見せる残酷な寒さはもういない。寒さはその気配を完全に消していた。ここに居ようと望むなら、いつまでだって居られるだろう。そのことはどんなに素晴らしい事だろうか。体を強ばらせ、肌を乾燥させた冷気の暗い影はもうどこにもいない。木漏れ日はコントラストを作り、時折風に吹かれて不規則に揺れている。顔を上げると緑の枝が、さらさらという繊細な音を立てていた。目にも耳にもそれがいかにも気持ち良く響く。なんて心地がいいんだろう。
「ぐふふふ。羽田(はねだ)さんもお休みの日、一人でいるんじゃないですか?」黒ミサの陰険とも言える笑い声を思い出す。キュートだがくぐもった低い声だ。棒読みで台本を読むように話す。
「一人じゃないよ。木々と会話してる」
「ぐふふふふふふ」ひとしきり笑ったあと、赤い顔をして黒ミサは、「それでどんなお話をされるんですか?」興味津々な目で俺を見上げる。少しだけタレ目の、おかっぱ頭で可愛い顔をしているが、痘痕面なのが勿体無い。
「んんー、言語的なものではないね」悩んだ振りをしてから、真剣な顔で俺が答えると。
「んー、なるほど」と棒読みで返した。
エメラルドグリーンの葉が、風が吹く度にさらさらと音を立てる。言語的じゃない。でも確かに会話をしてるようにも聴こえる。顔に弱く当たる風。掴んでも千切れそうだ。織るがいい、風の織り手たち。
池の中央には直径1.5メートル程の小さな島が浮いていた。盛り上がった土の真ん中には子供の背丈ほどの潅木が生えていた。よく見るとその下には沢山の亀たちが日を浴びながら気持ち良さそうにびっちりと貼り付いている。それは例えば、なにかの暗示のようにも見える。でも結局変わったことなんて何も起こらない。風が吹いた。深緑の水面を撫でるようなさざ波がにわかに立つ。
池の柵から立ち上がり、反対側に向かって道路を横切る。閑静な住宅地に人影はなく、辺りはひっそりとしていた。道路を挟んだ池の向かいには、山の上に設けられた神社があった。清清しく美しい神社だ。ここでお参りをすることも日課のなかでのひとつのセットになっていた。欠くことの出来ない規則的なルーティン。
――良き習慣は狂信的に守られなければならない。
何の本で読んだ台詞だろう?確か小説だ。台詞じゃないな、箴言か。確かそれは主人公がルーズリーフに書き溜めた言葉のひとつ。いま引いたセンテンスは修正され生き残った方だっただろうか?破り捨てられた方だっただろうか?俺自身にもルーズリーフがいるんじゃないか?似非(えせ)詩人さん。丘の上の詩人。決して水には入らない。泳ぎ方を知らないんだ。試しに池の上に立ってみなよ。歩けるかも知れない。書き溜めてみるか、ルーズなリーフに。暗い部屋でビールを飲みタバコの煙を深く吸い込むとき、頭の上にふわふわと活字となって言葉が浮かぶ。複雑で入り組んだ無数の黒い活字たち。掴むことは出来ず、もやもやとただ漂っている。
神社の鳥居を潜るとすぐに見上げる程の急勾配な階段だ。正中を避け、頭を垂れて登る。足元のスニーカーに視線を落とす。何度も履き潰し、買い換えた黒のジャック・パーセル。もう何代目だろう。カート・コバーンのジャック・パーセル。いつか履かなくなる日が来るだろうか?境内に上がっても静かで人影はない。澄んだ空気が辺りに満ちている。手水舎で手を清め、口を漱ぐ。拝殿へと向かい、二礼、二拍手、一礼。
お参りを済ませると、大きな灯篭の近くにあった背もたれのない檜のベンチに座る。真新しいベンチは平たく大きい。俺は後ろ手に肘を付き、辺りをあらためて見回す。清潔な白い砂利が敷き詰められている。その砂利の上に一本のか細い柳の木が、葉陰を落としていた。とても静かだ。
さあどうやって今日という美しい日を絞め殺そう。あっという間に過ぎ去る青春の一日。無数の部屋の中から選ばれて、そのひとつに閉じ込められる可能性たち。今日も無為に過ごすだろう。変わったことなんて別に何も起こらない。しばらくして誰も来ないので横になってみる。日差しは暖かく、空は青い。五目ラーメンに小ライスでお腹がいっぱい。俺はとても幸福だ。
*
JR上野駅のホームに到着すると、三好は上着のポケットから携帯電話を取り出した。長髪と呼ぶには中途半端な長さの黒髪で、特に寝癖も気にならないといったところ。奥二重で切れ長の目。ぶかぶかした服を自ら好んで着るあたり、こだわりがあるようでいてその見た目は全体無頓着に見える。彼は待ち受け画面に目をやった。が、それは相変わらず無表情な顔をしている。誰からの着信もない。おそらくまだ待ち合わせ場所には誰も到着していないのだろう。真昼の1時12分。約束の時間はもう過ぎていた。到着時刻に間に合わないことに焦っていた自分をかえりみて、身勝手にも彼は少しだけ腹が立った。
公園口から横断歩道を渡り、大きな公園の敷地内の入口で二人を待つことにする。街路樹を囲んだ石段に腰掛けていたが、天気が良いせいもあるのだろう、平日にも関わらず人通りは非常に多い。建物、木々、人々。切り絵から透かされたような陽の光が地面を美しく照らしていた。光の角度が四月までとは違う。強く黄色い初夏の光線だ。
彼以外にもその場所で何かを待っている人たちは大勢いる。公園口の横断歩道をなんとはなしに見つめていると、彼は人々に混じってこちら側へ渡ってくる王子の姿を簡単に見つけた。目立つ男だから、すぐに目に留まる。目と鼻の造りが大きい整った顔立ちで、背が高い。A(アー).P(ペー).C(セー)の細身のデニムパンツに小襟のブロードシャツをタックインしている。センターパーツの長髪と相まって王子と言うあだ名に遜色がない。
「遅れてすみません」品の良いシェパードのように、申し訳なさそうに彼が言うと、
「おう。俺も今来た」ぼさぼさの頭を掻きあげ目を伏せがちに、三好は気にしてないって表情を気取った。
「まだ僕達二人ですか?親友さんは今日来ないんですね」高い鼻にわずかに掛かる、低い声で王子が訊くと、
「羽田のこと?あいつは来ない。気まぐれな奴だよ。明は来るよ」と三好は答える。
明はさらに遅れているようだった。先に来た二人はせっかくなので、旧東京大学音楽堂を見に行くことにする。王子が以前から興味を持っていた建物で、小さな施設だけに見学して時間を潰すのには丁度いいと考えたのだ。
公園内の大きな案内板を確認した後、二人はまっすぐ正面の大通りを突き進み、上野動物園の入り口にぶつかると、右に折れた。外はこれ以上ないくらい良い天気だった。日差しが顔に当たると心地よく、左右に並ぶ背の高い街路樹の間から見える空は高かった。
「今日は学校行かなくていーの?」三好が訊くと、
「んんー、でもこんな天気の日に行ったら、本当には勉強にならないんじゃないですかね」と、とぼけた顔で王子が答える。
「へへへへへ、またお前単位落とすぞ」」本当に嬉しそうに三好は笑った。「王子っていつまで学生やってんの?」
「今年で最後にしたいですね」
「あれ?留年中?」
「まあ、悪く言えばそうとも言えますね」
「へへへへへ、まあ中退よりはマシだ。親に感謝しとけ」
「ところで今日は何をするんですか?」話題を変えて王子が訊くと、
「ん?日本画観る」と三好は答える。
「日本画、ですか」
「え?駄目?」
「いや、いいです」王子は笑いかけた口元をもとに戻した。
音楽堂の前に到着すると、二人はそれをしげしげと眺める。それはかつての東京音楽学校の演奏会場として、大昔に建てられたものだった。赤茶色のペンキで塗装された木材の外壁と、西洋式に縦に長い形で縁られた窓。玄関前の小さなポーチと、その上に取り付けられた球体の白熱灯。遠近法のバランスが崩れたディズニーランドの洋館みたいに、現代の建築物と比較されるとあまりに小振りな演奏会場。西洋式でありながらも日本の文化や風土を払拭出来ず、逆に今にはない独特の美観を備えていた。
「僕も初めて来たんで、中がどうなのか分からないですが、付き合って貰っちゃって大丈夫ですか?」王子は、バイト先の社員である三好の顔を伺う。
「おう。いい感じの建物じゃん。別に俺も見たいし」
二人は入館料を払い、中を見学する。今晩、演奏会でもあるのだろうか。身奇麗な格好をした関係者らしい人たちの出入りが目立つ。ただ、基本的には空いていて、一般の観光客は余りいないようだ。彼らには専門的な建築様式などは分からない。すぐに一通りぐるりと廻れてしまい、最後に小さなコンサートホールに辿り着く。小ぶりな客席に男二人で腰掛け、誰もいない舞台を見渡す。舞台の奥には古くクラシカルなパイプオルガンが、控えめな執事のようにひっそりと佇んでいた。彼ら以外で席に着いているのは、若い母親と小さな男の子の二人連れのみ。二人の会話が届いて来た。
「こんなにお天気なのに、夜は雨なんだってー、信じられないねー」着ていた上着を脱ぎながら母親が言った。
「本当?ぼく雨きらい。洋服がびしょびしょになっちゃうから」よく通る子供の声が明瞭に響く。
「この時期は本当はあんまり降らないんだけどねー」
「雨なんてなくなればいいのに。雨のない春とー。雨のない夏とー。雨のない秋とー」何度も男の子はそのフレーズを続けた。
「大変なことになっちゃうぜ、ぼく」離れた席に座る親子に聞こえないようにぼそりと三好が言う。王子だけが声を抑えて笑った。そろそろ立ち上がろうとするところ、三好のポケットで携帯のバイブレーションが鳴る。明だ。三好は外に出てすぐに電話をかけ直す。
「いまどこ?」
「えー、どこかなぁ。なんて言ったら分かりますかねぇ?人がなんか凄い集まってる」明はもうこっちに向かっているようだった。
「へへへへへ。人がすごい集まってる?そんな情報で俺が分かると思う?」幅の広いゆったりした歩道を国立博物館の方に向かって歩いて行く。
「あはははは」少し乾いた笑い声。そのあとも明は悪ふざけを続ける。「とにかく色んな人がいっぱいいますねぇ」
「色んな人がいっぱいいる?だからそんな情報じゃ、どこにいるのか絶対に分かんないから」三好が視線を先に向けると、「あ、本当だ。人が凄い集まってるとこがある」
年齢も雰囲気も様々な人たちが、池の前の広場に大勢集まっているようだった。小学生くらいから上は六十代くらいだろうか。デイバックを背負っている人達が目立つ。なにかの団体のツアー客なのだろうか。どこまでがひとつの団体なのかも曖昧だったが、100人前後はいるようだった。
「ああ!三好さーん。おはようございます」出会えた喜びに声を上げ、こちらに向かって小さく手を振って明が近づいて来る。小柄だが、手足が長く人目を引く。ノースリーブのヘインズのTシャツにロウゲージのニットを肩から掛けていた。化粧っ気のない整った顔立ちに金貨のような木漏れ日が当たっている。透き通った肌に薄紅の頬が太陽の下で見ると美しく際立った。肩に掛かるくらいの髪は細く、手を加えない自然な下がり眉が彼女を年齢以上に幼く見せていた。
「ごめんなさい。遅刻しちゃいました」言葉とは裏腹な、でも控えめなその笑顔。少々の遅刻であれば神様だって多めに見るはずだ。
「おう」眉を上げて伏目勝ちに三好が応える。「平日よく休めたな」
「出張の代休溜まってたんで」
「出張?」
「関西に。心斎橋のオープンとそのイベントです」
「どう?売れてんの?」
「それなりに」三好の顔を見上げるように覗き込んで、「ところで今日はなにするんです?」
「ん?日本画見る」
「日本画?」明は眉を寄せる。
その場所からすぐのところに、東京国立博物館の正門はあった。上野公園内においても大きな敷地を占める施設で、大きな門の脇にチケットブースがある。特別展のチケットを買い、三人は門の内側へと入った。噴水前の本館が目の前に控え、その左脇を通るように平成館に向かう。クラシカルな様相の本館に比べ、平成館はとても現代的な建築物だ。人はなかなか多く、催しは盛況のよう。日差しの強くなった外から、白熱灯に照らされた室内に入ると、三好はいくぶんほっとした気持ちになった。
『対決―巨匠達の日本芸術』
美術展は新聞社の創刊を記念した催しで、日本美術における偉人たちの作品を一同に会したような贅沢なものだった。
「運慶」「快慶」
「雪舟」「雪村」
「応挙」「芦雪」
「光琳」「宗達」
「蕭白」「若冲」
「鉄斎」「大観」
高名な作家たちが他にもまだチケットの上に名を連ねていた。その名の通り「対決」というコンセプトを持った、各時代の巨匠たちの作品が対照的に並べられた催しだった。
「三好さん、こんな趣味あったんだぁ」明は一瞬ちらりと三好を見る。乾いた声だから言葉の表面をなぞっているように響く。彼がここへ来た目当ては本物の伊藤若冲を見ることにあった。テレビ番組の中でたまたま見たことをきっかけにその絵師の作品に興味を持ったのだ。普段は美術に疎い彼であった。それにしてもチケットをあらためて見てみると豪華な顔ぶれであることが何となくにも分かる。昔教科書か何かで見たような名前ばかりだ。
展示ブースに入ると、照明を落とした室内で「運慶」「快慶」が彫ったとされる仏像が左右に並び、来場者たちを迎えてくれていた。人の入りは非常に多くかなり込み合っている。自分が誘った手前、三好は二人に一抹の気まずさを感じていた。三人は作品に近づく順番を待たなければならない。
徐々に近づく運慶の作品。座禅した菩薩を彫った仏像で、高さは1mに満たないくらい。菩薩といっても実在の人物をモデルにしたようなリアルな作風。黒ずんだ木彫で落ち着きがある。三好は長い時間を経てエイジングされた運慶の木彫りの表面をじっと見つめてみる。何世紀も前の、遥か昔の仏像がいまここにあることを不思議にも思う。
彼らから見て向こう側、少し小振りで直立した仏像が快慶のもの。人混みを隔て、少し離れた場所からそれを見る。本来ならばこのふたつだけでも美術展の目玉となり得る作品かも知れなかった。静かだが、迫力のある作品たちだ。しかし彼らにはゆっくりとそれを眺める余裕がない。大勢の人の流れの中にあって押し出され、先へ先へと進まなければならなかった。次は水墨画のよう。コーナーの手前に貼られた大きなパネル板に「雪舟」「雪村」と書かれている。
説明書きには確か「中国画の模倣から離れつつある時代」とあった。どういった部分が模倣で、どこが日本的なのだろう?何かで見たことのあるような画が多い気がする。そのなかのひとつに「慧可断臂図」というものがあった。中国古典からのモチーフで、禅宗の祖である達磨に、慧可が弟子入りを懇願している場面が画かれていた。弟子入りの決意を見せる為、慧可は自らの切り落とした腕を捧げ持っていた。三好は達磨の姿と慧可の切り取られた腕を交互に睨み、何かをじっと読み取ろうとする。但し頭を回転させてはみるものの、はっきりとしたことはいまいち分からない。周りには人が常に大勢いる。その多くは中年を大分過ぎた人たちだったが、若い人も意外といるようだ。思ったよりも色々なタイプのひとが来ているようだった。
三好が周りを見渡すと、そういえばいつの間にか王子と明の姿が見えない。先に行ってしまったのだろうか。彼はペースアップしなければと内心焦る。二人はこの催しを楽しめているのだろうか?自分を置いてさっさと出口まで行ってしまうのだろうか?不安と作品をじっくりと観ることができない苛立ちが入り混じっていた。あいつらを連れてきたこと自体が間違いだったのかも知れない。
先へ先へと歩みを進め、いろいろな作家が手掛けた屏風や掛け軸、絵皿や茶器の前を通り過ぎた。少しずつではあるが、進むに伴い人の渋滞も緩和されていった。創造と革新、抽象と具象、躍動と静謐。様々なやり方で、名匠達の作品は対比されていた。「栄徳」が描いた豪華で力強い松がめきめきと金屏風のうえでその太い幹を伸ばしていれば、「等伯」の描いた柳は余白の多い金地の空間の中で静かな縦の線をすっと伸ばしていた。
全ての作品に対して共感出来るわけではないが、彼の気にった画もいくつかあった。例えば長谷川等伯の描いた松林の屏風画。金箔の貼り付けられていない素地の屏風の上に、薄い墨でぼんやりと少林が描かれている。烟ったように描かれた松の少林。どこまでも奥行きがありそうな淋しく、孤独な画だった。
「宗達」「光琳」の掛け軸や小品を飾る小さな部屋で、三好はようやく二人に追いつくことが出来た。いままで通ってきた部屋が仕切りのあまりない大きな部屋であったのに対し、川の溜まりのような小さな部屋だった。人はほとんどいない。三好は王子と目で挨拶を交わす。
部屋の真ん中に置かれたショーケースのひとつには、光琳が作った乱箱(みだればこ)がひっそりと展示されてあった。明はじっとショーケースのなかを覗き込んでいる。真剣な表情。彼は半分笑わせようとした気持ちから彼女に近づき、横に並んで真剣なふりをして乱箱を見つめてみた。四角いガラスのショーケースの中央に、そっと置かれた漆器の箱。
「きれぇ」明は唇を僅かに動かした。
彼が顔を見ても、彼女はその乱箱から目を逸らさなかった。その真っ直ぐな眼差しに、彼は何も声を発することが出来ない。蓋のない、底の浅い長方形型の平たい箱は、漆塗りの表面が風化の影響を受けている。小柄で若々しい彼女は、古い古い古典との美しいコントラストをなしていた。彼が小さなショーケース越しに、あらためて彼女の顔を盗み見ると、
「お洒落ぇ」しんとした空気の中、彼女の言葉が宙に浮かんだ。
白菊の花弁が外側にぐるり飾られた箱の内底に、水を通した光の屈折が藍色で表現されている。何も入っていない箱の底に写った光り輝く水の綾。その古びた器を彼女はまだ見つめていた。彼女の一言が三好のなかに何かを残した。水に揺蕩い、揺れる光の綾。じっと眺めていると、一瞬それが本当に見える気がした。
――――そうか。これはお洒落なんだ。
そのときなぜか三好は、自分自身を受け入れたような心持ちがした。気持ちが楽になった。恐らくは明が見るようにその作品をいま自分は見ている。そんな感覚があった。霧が晴れるように頭がすっきりとした。ふと近くにあった葵の花の画を横目に眺めてみても、今までとは違う感じ方で美しい良いなと実感することが出来る。
小さな部屋の最後に、宗達が描いた仔犬の掛け軸を三人で眺めた。薄墨でぼんやり描かれた仔犬。短い尻尾にずんぐりとした体躯で地面のにおいを嗅いでいる。手前に描かれた花たちが、画面に色彩を添えていた。墨の濃淡で毛並みの柔らかさを感じることが出来る。優しく、あたたかい画。
「可愛い」口角をわずかに上げて明が言った。
「確かに」ややもすると感情的になってしまう気持ちを押さえながら、三好は応えた。
*
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