高校生編(伏線回収はまた今度)
夏休みの期間になると、電車の雰囲気は変る。それは、制服で過ごしていた生徒達が、自身の個性を示す装いと共に、目的の街に、新たな個性を開拓する旅に出たりするのだから、その意気込みと、通学に向かう意気込みが同じであっていいはずがない。それ以外の男たちも、背広を脱ぎ、会社員からお父さんの顔になり、子供に流れる町並みの説明を求められていたりする。交通の便が発達しても、その敷かれたレールは、よっぽどの過疎化現象に見舞われない限りは、撤去されることはないだろう。
内田明臣は、新湯学院のある古巣に戻る途中、電車を使っていたのだった。
親父に受験をすることを告げると、「頑張れよ」と一言の返事の後に、マンションはそのまま借りておくので、必要な荷物だけ纏めるんだぞ。そんな言葉が続いた。内田は、親父が受験に失敗する事などに心配する素振りを見せず、新しい環境に向かう我が子を応援していた事実に、信頼の厚さを再認した。そして、親父が珍しく語りだした言葉を素直に受け止めた。
「明臣。男には時に、秘密の隠れ家が恋しくなるものだ。そういう時は、寮を抜けだして戻ってこい」
戻ってこいがどこまでの範囲を指すかなど考える必要はない。親父は学校案内のパンフレットを見ただけで、明臣に最も適した餞別を与えたのだ。それはまた、受験の合否は些細な事だと暗示し、新天地での生活すら、縛られることのないものだと示していた。親父が示した信頼を適当に解釈していいのなら、内田明臣が未来に向かおうとする事を認めただけ。それは我が子の想いを引きとめようとする過保護な親心を見せなかっただけの彼らしい行為だった。
電車に揺られる時間にそんな出来事を思い出していた。明臣にとっては、今回の帰郷は親父の想定した逃げ帰りなどではなかった。ただ、個人的に、確認しておきたい事があったのだ。そして、向かう先も学院や自宅ではなかった。内田は一年半以上の期間を過ごしていながら、一度として訪れていない場所であった。勿体振っていても埒が明かないので、新湯医院が目的地だったと伝えよう。そこに何があるのか。旅人になる内田は何もわからないまま、興味に誘われ、進んだのだった。
「こんにちわ。お兄ちゃん」
病院とはそういうところである。有り触れた日常生活に何かしらの異常をきたした者が集う場である。だから、自らを中学生だと語る少女が、内田を認めると「今、ケータイを弄っていたけれど、電源は切りましたか?ただでさえ、ワンセグや、GPSだのと意味のわからない電波を飛び交わす機器ですので、患者さんに大事があるといけません。危機の管理お願いしますね」と、声を掛けて来たとしても、そして、それから饒舌に世間話を始めたとしても、何ら不思議はない。只の、世間に興味を持ち始めた少女が行った言葉遊びでしかなかった。その言葉遊びが、携帯各社が悩んでいるLTE使用に触れなかった点などを見れば、浅はかな知識でさも私は世の中を知っていますよ。と語るおませさんがそこに居たのだった。
「お兄ちゃん二年前の夏はありがとうございます」
医院に巣食う当たり前の正常さを示した少女は、突然、内田の意識の外から繋がりを示して来た。それに内田は恰も痴漢の冤罪に掛けられた被害者であるような驚きを隠せなかった。しかし、その後に続く話が、内田明臣が、確かに被害者だった事を思い起こさせた。
二年前の夏。黒井はるに渡されたバックは女刑事の一存で処理された。その時の仕掛け人が少女なのであった。それは最もわかり易い手法で伝えられた。医院の壁に嵌め込まれている医師名前一覧に医院長として江里口という苗字を認めたのだ。
「お母さんね、私の前で、『ごめんなさい。あなたが弱い人間なんて思っていないわ』って泣いたんだよ」
少女がどんな問題を抱えていたのかは知らない。しかし、内田明臣の行動が彼女達を救ったのは紛れもない事実なのだろう。「すごく。すごく嬉しかった。お兄ちゃんありがとう」そんな言葉で締めくくると、少女は振り返り、「パパ、挨拶終わったよ」と呼びかける。そこには白衣を纏った父親が立っていた。ネームプレートを見ると、外科部長と記されている。二代続く医師の家のご令嬢が、さも当たり前のように、父親に甘えている。その光景を明臣は微笑ましく思った。「今ではこんなに元気になったんだよ」彼女がオーバーとも採れる仕草で振り返る時に漏らした言葉。無駄ではなかった肝試しは、そうして内田の心を満たしたのだった。
「部長すみません急患です」「私でないといけないのかね、今、私は、家族の団欒というかけがえの無い事の最中なんだ。しかし、人命はそれ以上に取り返しようのないものだ。待っててくれるか」少女の頭をしっかり撫でて、オペに向かう医師の顔を作った男は、全てにおいて完璧だった。親の七光りなんて言葉は、そこにはなかったし、少女にもそんな甘えを許さない様に振る舞った。内田はその場を観たが為に、本当は、彼らに何の干渉もしていなかったのではないか。という相手の謙虚さを垣間見た気がした。
そんな医院である。唯でさえ、地図上に「新湯」なんて言葉が見当たらないのであるから、学院と関係した何かしらの非常識が蔓延っていても可怪しくはない。その心構えを持って臨んだ内田は、少女の出迎えすら、必然的な事柄である気がした。携帯電話の行に視てはいけない闇が潜んでいるように感じもしたのである。が、そんな些細な事は、次の出会いに掻き消されたのであった。
黒井はるがそこには居た。目の前の同級生はマキシワンピースを着こなし、さぞ、私は綺麗でしょ、と言わんばかりの気品を湛えて立っていた。
「明臣さん。最近の流行りらしいのですが、似合っていますでしょうか?」
控えめに口遊むような体で訊ねるあたり、彼女は相変わらずだと感じた。絶対的な美しさを持っていながら、それについての意識が足りない。一旦、距離を置いたからこそ。その魔性のセンスは明らかなものになった。内田は、今まで心に刺さっていた刺が消えているのを知っている。それは今さっき少女が与えた消化液が綺麗に溶かしてしまったのだ。仄かな熱さが残った心に、黒井の刺激は、より刺激的だった。が、その場において、内田の理性は引き止められた。内田は「綺麗だよ。周りも君のことを見ずにはいられない。どうして、ここに居るんだい」煽てた後の質問。効果的な駆け引き。内田と黒井の仲はこれで始まったのだし、二年前は、それが全てだった。当初の予定はそうではなかったが、今日こそ、あの夏お預けを食らった質問の答えが聞けるのではないかと、男は興奮した。
「綺麗だなんて、さらりと嬉しい事をおっしゃられますね。私は私用でしたのですが、明臣さんがお見えになったものですから、如何なされたのかと思い声を掛けさせて頂きました」
綺麗に纏められた彼女の返答は、内田の踏み込みをすんなり躱すものだった。「遠い街で学業に励まれてらっしゃるはずですのに、連絡もなく現われるなんて水くさいですよ」と、追撃されると、フェンシングでパラードの後、リポストを決められた格好となり、内田は黒井はるの秘密に言及出来ない敗北感を味わった。
「ちょっと用事があって、一週間居る予定なんだ」
ちょっと、と濁したのではあるが、内田明臣の今回の用事には、黒井の協力が必要になるかもしれないと予測していた。そうであるから、必要以上に警戒することもなく。彼女に現状を打ち明けたのだった。
内田が携帯電話を持つようになったのは、高校生になってからだった。新湯学院が、それらの使用を禁止していた訳ではないのだが、必要を感じる付き合いがなかったのだ。それはいつか読んだ本に影響を受けたのかもしれない。ただ、携帯電話を持つに至った経緯が、今回の帰郷の理由だった。
「これから、コレがないと困ることもあるでしょ」とキョウコ名義の携帯が、新湯医院の住所を使って送られて来たのだった。そして何度か、キョウコとのメールのやり取りを交わしたのであるが、全く近況が見えて来ないので、内田は、キョウコを確かめに来たのだった。
「明臣さんが訪ねられることを、キョウコさんがお望みになったのでしょうか」
黒井の質問は、明臣の抱いていた不安を大きくした。「携帯電話を使わないようにしているとはいえ、世話を掛けっ放しというのも気がひけるので、返却しようかと思っている」そんな心中も晒したのであるが、キョウコの望む事が、今まで以上に不鮮明だという靄を打ち消す術としては、不完全だった。そこで、内田は、キョウコの近況について黒井から話を聞き出そうと試みたのだった。黒井は医院での用が済んでいたらしく。「いろいろ、お話したいことがありますので、移動しながらでいいですか」との前置きで確認を取り、足を外に向けたのだった。その後の話は聞き流すことの出来ない意外なものだった。
「先ほどの質問なのですか。キョウコさんには一度もお会いしたことがないのです。どのような方なのでしょうか」
キョウコは困った時に顕われる。RPG風に例えると、僧侶的な復活呪文の使い手だった。それが、窮地に追い込まれることのない賢者の前に姿を見せるか。丸っと一年会わない日々も過ごしたのである。キョウコの感覚は狂わないのである。宣言通りの事を宣言通りに行う。当たり前のようで難しい。それだからこそ心強い保健委員だった。だからこそ、内田は自発的に彼女の危機を察して行動しようとしたのだった。しかし、キョウコの外見上の特徴を述べる程に、まじまじと観察していなかったことに、今、気がついたのだった。一度目の出会いは、後ろ姿であったし、二度目は振る舞いに慌て、それ以降は、精神的に穏やかでなかった事で、言動と仕草が示す解決策に、周りが見えなくなっていた。眼鏡は掛けていなかった。髪の毛はショートの部類だった。それ以上は、不確かだった。
「残念ですが、キョウコさんの件で、明臣さんに協力出来る術がないのですが、一度、キョウコさん自身に連絡してみては如何でしょうか?」
それは、キョウコの口癖を聞き及んで紡いだユーモアなのかもしれなかった。が、内田は、その提案に従った。そして「それよりも、明臣さんに会いたがっている方がいらっしゃるのですが、付いて来ていただけますか」とタクシーに乗り込み、左の席に手を添え、上目遣いになった格好で、呼びかける彼女の誘いを断らなかった。
新湯学院に向かうよう指示されたタクシーは道順を訊ねることなく。スムーズに運転を始めた。創立一〇年のまだ若い学院であるが、学校施設としての認知は地元に行き渡ったものになっていた。内田生徒会長が、事を急がなかった理由は、こういう部分にもある。六年間の学院生活を修めた者の実績がまだ出ていない。そんな状況で、中等部の生徒会長が渡っていく制度を辞めたのなら、学院の運営に少なからず影響があるだろうと心得ていたのだ。しかし、この春に大卒者の就職が結果として表れたのである。そうなれば、学院との対立も緩和されるだろう。そういう憶測も非常勤顧問と共にしていたのだった。そんな深慮遠謀の素質があるからこそ、黒井はるの行動には肝を抜かしたのだった。
「今、学院の一〇周年記念事業で映画館を建設しているのですけれど、その出資者が明臣さんのことを待ち焦がれているのです」
車内で、内田が聞いた事柄は、進学生代表として黒井はるの行ったスピーチの中で、映画館の建設が語られ、どのような運びをしたのかは不明なのだが、記念事業として、高等部の生徒を巻き込んだ建築工事がなされているという信じがたいものであった。
「皆様、私を銀幕の中で観たいと望んでおられるようでして、格好つけるのです」
生徒の一存で進めることが出来ない事であるので、出資者の存在と関与が大きく影響しているのだろう。黒井がわざと詳細を伏せているのを知りつつ。内田は、事の真相について、興味を抱き始めたのだった。
目的地に着くと、大体の予想が立てられるようになった。新湯学院に隣接する緑の館。その隣に目隠し板で仕切られた工事現場があった。発注者は宇都良……。
「明臣君久し振りだね」
懐かしい顔があった。たった、五カ月ぶりの再会である。しかし、内田明臣は、その館長の皺がより深いものになった変化を見つけた。「この歳になって、もっと文化貢献したくなってね」昨日今日で、始められることではない。周到な準備があったことだろう。一年半の付き合いの中で、深い関係を築いて来ていたつもりになっていた。その為に、ご尊体の決断に関わらなかった事実を内田は素直に飲み込めなかった。男同士、ガキのように志を語った仲である。内田は、ムカつきを顔に出さない事で精一杯だった。
「去年の秋に思いついたのだ。今、本を読む子供が減っている。更に、ネット環境のモラルの低下が起こっている。そんな折に、情報の価値をしっかり維持する活動をするならば、古風なやり方ではあるが、映像についての価値意識を持たせる必要があるのではないか」
館長の芯はしっかり通っていた。そこに、利益より理想の方に比重が傾いているのを察した。理想が実現すれば、金銭で計り知れない見返りとなるだろう。それが、風流な生き様と呼べるのかもしれないが、生徒会長として、学院の社会的な駆け引きを聞き齧った者とすれば、あまりにも安易な考えだと否定したい気持ちがあった。それは、館長の事を見放すような真似が出来ないという内田が抱いた強い友情の証でもあった。
「わかって居るつもりだよ。君に迷惑を掛けたくはなかったし、どうせなら、少しでも社会の為になる方法を取りたかった」
午前中を電車で過ごし、医院に向かう前に昼食は済ませた。その流れであったので、まだ陽が残っているのであるが、時刻は夕方を迎えていた。
《皆様、本日はお疲れ様でした。暑い中、よく頑張りました。生徒の皆様は、賃金の精算をいたしますので、事務所の方にお越しください》
黒井はるの声だった。給料を手に家族の元に帰る高校生達は、父親達と対等に語り合う逞しさを身につけていた。中には内田と同世代だって居るのである。だが、彼らの達成感と同じモノを内田は知らなかった。「ハッカーの天才に掛かればご覧の通りさ」「お前、余計なとこまで結束した癖に何言ってんのさ」作業内で得た経験を語り合う若者は、幼くはなかった。
「明臣さん。どうなさいましたか」
黒井はるは不思議そうな顔をして、覗き込んできた。奴だ。黒井がありふれた手順で満足するはずがない。映画館を作る。その過程に非日常を組み込んでしまったのだ。法律的な手続きは、解決していると教えられた。内田はその光景を目の当たりにして、意味を探って、春の大卒者就職率が六〇、八%と二年連続で低下し、先行きが不安定である中で、仕事に対する意欲や意識を養う場を早めに作ることは有益だと感じた。
「論語読みの論語知らずという訳ではないのだが、生きるのに必要な事が身につくのであれば、その困難に投資しようと決めたのだ」
館長が思い切った決断を下す為に、内田明臣は何が出来ただろうか。黒井はるが見ている世界に追いつこうと足掻いた夏は、もう終わってしまったのか。終わらせてよかったのか。男子高校生は、己の成長を否定したい感情に囚われた。平穏な日々が与えてくれたもの。そこに成長はなかった。脳裏に渦巻く記録は、ただ、内田生徒会長が居た学院があったとしか刻んでは居ない。
内田は、羞恥心を抱いて、帰郷一日目を終えたのだった。
「お爺様とは、語り合えましたでしょうか」
そんな立場に居ない。それが、内田の正直な感想だった。
キョウコの返信は『父親が病いで倒れたので、転校する事になりました』それだけだった。それがいつ起こったことなのか。らしくないメールのやり取りをしていた時に、状況は悪化していたのかもしれない。内田は部外者として立ち入れない部分なのかと諦めた。しかし、所在くらいは教えて欲しい。そう、反応を示し、やり取りを終えたのだった。
内田明臣が、八月十一日、帰郷二日目に緑の館を訪れたのは、館長からの誘いがあったからだった。家の電話にモーニングコールを掛けるあたり、黒井の言っていた通り、館長は内田と語り合いたい事があるようだった。そして、初対面時に登録した電話番号を引っ張りだして、連絡を取る。昨日は情けないと自身を責めた内田ではあったが、その館長の人柄を貶めるほどの薄情者ではなかった。
館長室に通されるとそこには、建設中の映画館の柵が見えた。
「いつも、窓を開いていると、監督と生徒と業者さんが仕事をしている音が聞こえてくる」
明日から建設現場は盆休みに入るらしい。そんな世間話をしていたかと思うと、本題は、その話ではないと区切りをつけ、話し始めた。
「明臣君はパンドラを知っているかな」
『パンドラ』――文芸と批評とコミックが「交差」する講談社BOXマガジン――それが、去年の夏に出版された、四号目の表紙だった。「活字たちよ!」という力強いキャッチコピーが躍っている。
「私はこの本が好きだった。世の中を変えるのではないかという期待を抱いていた。今でもそれは、変わらないが、丸っと一年音沙汰が無い」
次号予告の内容を示しつつ、「どう思うか」と問われて内田は、返事に困った。館長は純粋な男である。例えその本の主題が見えず、若者の感覚で購買意欲が湧かないようなマイナーなものだとしても、良いと思う部分を見つけると、率先して普及に務めるのだ。今回の場合は、文学全体に貢献しようとする情熱に打たれたのだろう。
例えば、「アルケミスト」を読んで、納得出来る世代と、出来ない世代がいる。全体を通じての質を見る者達と、部分部分の内容から欠点を評う者達。今の時代は完璧を求めてしまっている。出来ることなら、首尾一貫して、クオリティーの高い情報を得たいと馬鹿げたことを考えているんだ。そんな文学の俎上が荒れているのだ。
まともにモノを考えることなんて出来ていない。若い世代を締め出して、社会の安定を願う。そんな社会に挑み続ける体力が、気力が、根性がどこにある。内田は気づいていたし、館長も目を背けているだけだ。虚しい呼びかけが雑誌の表紙を飾っていた。
返答をしないという返事もある。行間を読むのではなく。空気を読んで、内田は、その部屋を後にした。しかし、館長を見捨てたり、見放したりするのではなかった。
若者の読書離れが深刻化しているなら、今日一日を緑の館で過ごしてもいいと思った。それくらいしか、慈しみを示す行動が思いつかなかった。
出版事情はわからない。彼らが何を考えているのか。ただ、一人の男は、『パンドラ』の一ページに希望を見つけていた。
夏季休業中の内田明臣は、少なからずその展開を待っていたのだろう。夕暮れと共に、作業終いのアナウンスが聞こえてくる。黒井はるの感情豊かな言葉に、男たちは自身の成した事の大きさを受け止めた。「……教え導き、安全に一日を勤め上げる。誇り高い職人の仕事でした。私達はその姿勢を見て育っていきます……」連休明けからもよろしくご指導ください。という内容が響き渡った。
その余韻を感じつつ、手にした本を読み進めていると、「明臣さん、これから映画に付き合って頂けないでしょうか」と映画のチケットを差し出している黒井に声を掛けられた。彼女にしては意外なほど、易しい要求だった。
館長が、黒井が、学院生徒が携わっている映画館建設。それは、その土地に映画館がないから行うという類のものではなかった。内田はその時、救済事業という言葉を知らなかった。政権が変わって、風向きが変われば、生活が変わる者だって現われる。複合的な思惑を背負い進んでいる事業と内田の接点は殆どなかった。
だが、内田が同級生に誘われた映画を断れば、彼らの築こうとしている未来を否定する事に繋がるのではないか。そんな暗算も成り立つのである。黒井に踏み絵を置かれ試されている。そのような状況こそ彼の求めていた駆け引きだった。それは記憶に残る途方も無い要求を達成することで得られた自身の成長への欲求でもあった。
映画館に着くと、そこでは、公開中の映画の予告が流れていた。
《「あなたは見抜けますか」……「彼女は、一体何者なのか」「その名はソルト」……「その目的は?あなたの『予想』に、挑戦する!」……「すべての瞬間に仕掛けてくる」》
「もう騙されている」と字幕が続く、それが、黒井に誘われたスパイ映画だった。
内田は、カップルとしてこの映画を選んだのなら、失敗だっただろうと思った。真剣に見入ってしまう。スリリングな展開と漂う謎の雰囲気。人を飽きさせない娯楽がそこで展開されたのだ。しかし、映画館を後に歩き出すと、状況が一変した。
「明臣さんは、金髪と黒髪どちらが好みでしょうか」
それは、ヒロインが髪を黒く染めたのを見て思いついた質問のようだった。
「では、ロングヘアとショートカットでは……」
彼女は、柄にも無く内田の好みを知りたがっていた。映画を観たという共有された情報から、相手の嗜好を探ろうとする。そういった尋問に内田はつまらなそうな顔で黙りこんでいた。そういう間柄ではない。内田明臣は、黒井はるを安っぽい女だと認めたくはなかった。彼が、今まで接してきた常識外れな優等生に、恋心のようなものを見せつけられて、吐き気を催すほどの拒絶反応が起こりそうな息苦しさを感じていた。
最高傑作と称されるような芸術品が一人の男の好み一つで汚れてしまっていいものだろうか。そのような厳かな言いようは事実ではないにしても、内田は恐れていた。彼女との関係に距離を求めていた。相手の体温が伝わるほど距離は近すぎたのだ。だから、ディナータイムのひとときを提案したのだった。
映画館の近くには飲食店が幾つもあった。夜八時といって閉店を急ぐ店は少なく。高校生二人のディナーは手頃な焼き肉に決まった。『カップルメニュー三千円』という一人一五〇〇円のバイキングメニューが黒井の気を惹いたようだった。
店内に落ち着いた雰囲気なんてものはなかった。空調で幾分か涼しさのある店内は夏休みの家族連れや会社員の飲み会などの利用客で繁盛していた。
内田は案内された席で、六〇分間のバイキングにはドリンク、デザートも含まれると知らされた。それに見合う価格設定として素材の質が落ちているのだろう。そんな憶測を立てた。実際、自炊をしていて、肉の大体の値段はわかっている。一キロ食べられたなら、施設利用料込で考えて元が取れる。良心的なお店であるが、カップルでない場合は、一人分は二千円で済まなくなっていた。育ち盛りの高校生が五〇〇グラムの肉を平らげるのは難しいことではない。しかし、網が一卓分であり常に焼き続けて、やっと目標に辿り着ける。そんな状況を悟って、内田は密かに意気込んだ挑戦を断念した。
「明臣さん。タレが何種類もあるのですが、どのように使い分けするのがいいのでしょうか?」
黒井の質問はどうでもいい事のように感じられたが、内田は、遠い記憶を思い出した。黒井は殆んど外食をしない生活を送っていた。彼女の質問はからかいではなく。素直に困っているのだ。焼肉店のテーブルに「濃い口」「あっさり」「ポン酢」「塩ダレ」「胡麻ダレ」と並べられたボトルを見て、好きなタレを選べばいい。口直しが必要なら、取り替えられるというただそれだけの事を説明した。
彼氏、彼女が向き合って、一輪の網で焼き肉をしたら、遠慮というものが生まれる。予想通りというべきか、彼女の食は進んでいなかった。自ら入れたピーマンを焦がしたり、玉ねぎをバラバラにして回収に慌てたりなどしている。「野菜が好きなのかい?」と問い掛けると。「私だけ贅沢をしていると悪いような気がしまして……」と咄嗟に出た返事なのだろう。相手の家庭事情が窺えるような言葉に、内田は食事の効能を思い出した。そして、今回こそ、黒井のことを理解しようと相手の素直な反応に対して、内田の素直な気持ちを吐露したのだった。
「君の質問を無視しながら、君の隠された私生活を知りたいと思ってしまっている。それは、君に好感を持たれる為ではなく自身の好奇心を満たす為の行為だ。幻滅するだろ」
彼氏彼女という関係に落ち着きたくなかった内田にとって、その言葉は黒井との間合いを取り戻すための卑劣なアッパーカットだった。のぼせた相手に対する暴言。しかし、意識が砕け散るような事はなく。「そんなことありません」と振りほどかれるのを拒むような返答がなされる。そうすると、後の意地の張り合いは身を切るような話題になっていくのだろうと内田は予感を抱いていた。しかし、黒井はひとつの喩え話で内田の暴発を予期していた事実を示した。
「ある娘さんが子供の面倒を見ている時に、子供が口におはじきを咥えたらしいのです。そうすると、飲み込んでしまっては危ないので、吐き出すことと、渡すことを子供に訴えました。子供は、癇癪を起こして、口からおはじきを出しはしましたが、そのまま、それを娘さんへ投げつけたのだそうです。娘さんはその日、片目を失いました。しかし、子供を好きであることを失はなかったそうなのです。彼女は年老いても子供が好きだったといいます。周りの子供が嫌がるのを知っていて、その愛情を失うことはなかったのです。……明臣さんは如何思われますか」
内田は返答に困った。子供の無邪気さというのが内田の暴言を暗示しているものなんのだろうか。相手を傷つけ、相手を傷つけたという後ろめたさから付き合い方を変えることが更に、不幸を長引かせると言いたいのだろうか。黒井の遠回しな挿話は、予想外の強烈なフックとなって内田の視界を揺さぶった。思考が定まらずたたらを踏む内田に、黒井は優しい追い打ちをかけた。
「どのような不幸に出会ったとしても、人はすべてを失うことなどない。そう信じています。私の日常は献身的なものですよ」
黒井はるの言葉が終わると、沈黙が訪れた。献身という言葉が先ほどの映画のラストシーンのせいで意味の異なった愛国心めいたものに指しているように思えてしまう。内田は、黒井を理解するのにはまだ自身が未熟であると理解した。
彼らは、焼き肉を楽しんだ。黒井との問答の後、内田は、彼女の為に肉を焼いた。それは、献身的な姿だったかもしれない。「美味しい」と笑顔で肉を口に運ぶ彼女に、行き過ぎた恥じらいはなかった。物事を考えていて薄っぺらい肉を焦がしてしまったのでは面白くない。料理人としての内田は寡黙であったが、黒井の今まで見せていなかった一面をしっかりと眺めていた。
店を出て、夜の街を歩く二人。黒井は思い出したように、「明臣さん、なんでも、物事を始めるのにはヒントが必要です」と言った。それは、いつもとは異なった口調だった。それに応じるまでもなく。丁度良いタイミングで、事件は起こったのだ。
男が、傷だらけの男が、いきなり繁華街に現れたのだ。正しくいうなれば、脇道から、メインストリートに転がり出てきた。その異様な光景と、汗だくの男の姿を見て、内田が起こす行動はひとつだった。脳裏に、昔の記憶が蘇る。追われる者の恐怖心。その現場で、男を保護する以外の考えなど起こる余地がなかった。
内田は男を連れて帰った。黒井も同行したのであるが、応急処置を済ますと帰っていった。寝息をたて始めた男の様子を窺い、内田は、手首を拘束することにした。事情の詮索は明日に回したまま身元不明の男を匿う事にした。この案件には裏がある。それに黒井も関わっている。携帯を確認し『いまは、探さないで欲しい』というキョウコの求めを飲み内田は眠りについた。
十二日木曜日。男は順調に回復した。思ったよりも怪我は酷くなかったようだった。というのは嘘である。昨日の段階で、内田が見つけた違和感。男の傷の大半は、偽物だった。映画で使われるような特殊メイクだったのだ。寝汗を拭こうかと介護の真似事を始めて気がついた事実であった。その後、現在に至るまで男の手首を拘束して居たのである。追手を振り切りメインストリートに飛び出てくる体力が残って居るとしたら、傷は明らかにオーバーだった。どうして気が付かなかったのか。黒井は手当の時に気づいていたはずである。不信感も起こるほどに、仕組まれた状況は、意味の分からないものだった。
内田は、男が目を覚ますのを待った。叩き起こしてもいいのであるが、もし仮に、男が被害者であった場合。その対応は尾を引くことになるだろう。そうなれば、内田が不信の檻に囚われたように、話は進展しなくなる。夏場。逃走劇で体力を消耗させた男がどれくらいで回復するのか。適当に文庫を手に取り時間を潰していた。
男は目を覚ますと、「ありがたい」といった。内田明臣が「警察まで送った方がいいか」と聞いたのを皮切りに尋問はスムーズに進んだ。男は、「城下町リンチ倶楽部」に属しているのだという。その組織は未成年層が厚く。主に、親が事件や事故の当事者となって、人生を狂わされたと嘆く者を抱き込んでは、さまざまな唆しを働いているのだそうだ。その一つに、最近の社会情勢を鑑みて設けられた保険を悪用するグループがあったのだという。ターゲットにされたのは生命保険の延長で、事件、事故に巻き込まれた場合の収入の保障をするという保険だった。年間の掛け金が一月分の給料と同額でありながら、適応範囲が広いことで、共済金の感覚で広まったのだそうだ。それに目をつけ、加入者に近づき、襲撃した事実のでっち上げをし、特殊メイクを施して、正規の診断書を悪化させて利益を生じさせた。その内容を聴けば、組織名がそのまま、行動を表しているように思われた。まるで「伏魔殿」だ。病院の協力の下、私刑を手助けする集団。そして被害者は善意の人であった。許される訳ではない。男は、その事実を公にしようとし、追われる身になったのだという。
そこまで聴いて、内田は、「なぜ警察を拒んだのか」問い質した。決定的な矛盾だと見切った。しかし、その収穫は男の涙で消え去った。「追われている時に、言われたのです。お前がすべての実行犯なんだから、逃げられると思うなよ」恐怖が男を捕まえている。
暫く続いた沈黙は、投函音にて打ち切られた。昼の真っ只中、その時間に、ご丁寧に玄関のドアまで郵便を届ける配達員を内田は知らなかった。そこまで、意識が回るのだから、その先の展開は、予想の範囲内だった。
『黒井はるは預かった。人質の交換といこうではないか』
趣味の悪い冗談にして欲しかった。内田明臣は、今までの黒井はるの振る舞いに圧倒され続け、彼女が体格的にただの女子高生であることを忘れてしまっていた。なぜ、一人で帰したのか。彼女が襲われるきっかけを作ったのは内田自身であった。三時間後までに策を練らなければいけなくなった。
たらればを言い出したら、きりがない。もし、内田が生徒会長として、もっと親密に人間関係を形成していれば。もし、黒井はるの交友関係を知っていれば。もし、事件が一日早く起こっていれば。どんな条件も、内田に増援の見込みを与えてはくれなかった。ならば、人質交換をするだけだ。
指定された場所は、不動産の売り物件看板が立った廃工場だった。ちょっとした幹線道路沿いにあり、最近まで機能していたのだろう。荒れた感じは少なかった。内田と男のツーショットは不信感丸出しだった。腕を拘束された男を引き連れて工場まで歩く。その内田を目撃さえすれば、誰かが事件を通報するだろう。後は、時間稼ぎをするだけ。工場の扉を開けると、そこには十五人の人影があった。
「よく来たな。人質の交換といこう」
相手は、内田の手の内を知ってか、早速、黒井を開放した。人質交換が成立すれば、もう留まる意味は無い。例え、事情聴取が起こっても、内田に非はないだろう。ふらふらと女性らしい弱々さが見て取れる黒井はるを迎えると、ぐうぅうと腹の虫が泣いていた。まったくシリアスではない。店の残り香も気づかない振りをして出口に向かう。事件が終わったと思っていた。そうして気が緩んだせいだろうか。内田は、相手の言葉を理解するのに時間が掛かった。二度目の言葉で、意識が追いついた。
「キョウコの仇はどーすんの」
善意の人がキョウコの父親だった。そのような解釈が稲妻のように内田を襲った。それは、堪えられない衝動だった。「すまない」そんな言葉で、黒井を説得し、内田は十人を超える集団の中へ殴り込みをかけた。鍛えた体は凶器だった。顔面を殴られ気絶する者。腹を打たれて悶絶する者。
内田の格闘センスは、転入を機に隠してきた過去の遺産だった。人に馴染めず。傷口を見られるのを嫌い。多くの揉め事を拳で葬ってきた。「お前、強いんだな」そんな言葉で、誘われた事もあった。しかし、すべてを台無しにする暴力は誰の手にも負えないのだった。
立ち塞がる者を倒す。連携なんて考えていない相手は、瞬く間に伸されていた。大男が内田を掴みスロイダーを仕掛けてきたのは、連携ではなく、消耗を見計らっての姑息な戦法だった。内田は片手が壊れるのを感じた。叫びを噛み殺して、大男を睨んだ。そこに、同世代に向けた手加減が消えた。全身のバネを使った蹴りが炸裂する。ローキックから、相手の体勢を崩す。隙を見つければ、頭を吹き飛ばさんばかりの蹴りの軌道が描かれる。しかし、内田が、優位という状況ではなかった。満身創痍だった。喧嘩をして血の味を知る。口が切れるというのは、怯える要因にはならない。もし、そこで空気が変わらなかったら。内田は、力の限りを尽くし、満足するまで暴れただろう。
「カーット!はい。そこまで」
今まで倒れていた者が立ち上がる。頬に手を当て痛がる素振りをしている者も居る。状況が変わったのは明らかだった。
「内田君、すべて嘘だったんだ」内田に連れられてきた男が語った。「今日は、映画の撮影として、エキストラを募ったんだ。一人一発殴られたら負け。倒れて居るように、もし、再起戦するなら、それ以降は自己責任。ただし、約束を守った場合の怪我については、面倒をみる……彼には酷いことをしたね」と括られた言葉を聞いて、内田は、やっと冷静さを取り戻した。
内田明臣は騙されていた。その事実を知らされたとはいえ、彼には嘘の範囲が解らなかった。男は、今回の件で、撮影現場の許可や周辺住民への挨拶などを行うことで、部外者の干渉を最小限にしたのだという。つまり、内田の策は完全に潰れていた。孤立無援の内田が、その場で、「内田君のお陰で、素晴らしい映像が撮れた。クライアントも満足するだろう」と差し出した男の手を拒絶すれば、撮影はただの暴力事件に発展するかもしれない。内田は個人的な我侭に身を任せるのを躊躇った。二人は握手をし、周囲の拍手の中で、撮影を終えたのだった。黒井はるは黙ってその姿を見つめているだけだった。もし、彼女の感情を一つだけ拾うとするなら、悔しさがあっただろう。
帰郷四日目。内田は、特殊メイクの男の話を思い返していた。「今回は擬闘ではなく実戦を撮って欲しいと依頼されてね。更には、内田君をその気にさせる長台詞すら与えられた。正直、仕事があれば断りたい仕事だった」男は、仕事の後は、正直者だった。黒井が誘拐される段取りまでは知らなかったらしい。内田の家で、情報料として冷やし中華を頬張り「まぁ、少年。試される時が、成長のチャンスだ。夢を掴めよ」と気障な台詞を残していった。その後、「片付けがあるから、しばらくは街に居るが、追加の仕事は受け付けないぞ」と戯けてみせて、夜の街に出て行った。
他人に料理を振る舞い。満足している顔を見たことで、内田の慌ただしい日々に幾許の安らぎが生じた。それは、とても貴重な時間だった。それ故、黒幕であるクライアントについて言及出来なかった事実に、それ程落胆はなかった。必要なら、相手から関わってくるだろう。そしてまた、帰り道でスーパーに寄った内田達と別行動を取った黒井はるは何かを知っている。それが、何であるのか。下手な詮索を重ねれば、また時間を無駄にするだろう。そうしてみると、内田明臣は、思春期を脱したのかもしれない。彼は、振りかかる火の粉を払い避ける努力はしても、それ以上は、よっぽどのことがない限り、踏み込まないことにしたのだった。
内田の隠れ家にはテレビがない。地上デジタル放送の普及活動がされる中、読書に目覚めた彼は、新聞を主な情報源にしたのだった。その乗り換えが、休業中の内田の行動を予測しやすいものにしていた。
乱闘の翌日。内田は緑の館で新聞を読んでいた。『台風四号は東北を通過』『愛知県では突風が発生』そんなリードを眺めて、内田は嵐に雨雲を奪われた曇り空を思い出していた。
「先輩。お久しぶりです」
中性的な声で、内田の意識を引いたのは、生徒会長選挙で健闘した後輩だった。
「戻られていると、聞いたので、こちらに居るのではと伺いました」と続ける後輩は、近況を話し始めた。生徒会長になって、学院の制度について真剣に取り組もうとすると、感情論で論じてはいけない都合や事情が見えるようになり、何も出来ないまま一年が過ぎようとしている。そこで、悩んで足止めを食らっているのに、高等部では黒井が新しいことを始めたりしている。それで生じる葛藤に、現生徒会長は己の未熟さを恨んでいるようだった。
内田は、黒井と一般生徒を同じ天秤で量ってはいけないと諭そうとした。が、そこに、別の男が割り込んできた。
「内田会長。何、死んだような顔してんだよ」
しけたつらしてんじゃない。という意味だろう。発言者は日に焼けた顔に野球帽を冠っていた。
「自分は、一年としてまた下積みを経験する事になっても、目標を忘れていない」
その言葉は、現生徒会長の見失った目標を知り、間違った標的を改めさせようとした内田の胸に突き刺さった。「お前はまだ、彼の目標なんだ。その事を忘れるな。後輩の空回りを保護している余裕があるなら、お前の行き先をちゃんと見ろ。まったく感じないぞ」キャプテンだった男は、内田の肩に手を置いた後、一言挨拶をして去っていった。
内田明臣は、夢を見失っていた。何でも出来ると勘違いしていた。抱いていた万能感は、黒井はると張り合った経験と、高校入試を経て知ったエリート集団との食い違いだった。それは、高速道路を降りてスピードの錯覚を起こした車のように、危うい運転をして居るのと同じ愚行だった。確実に目的地に辿り着こうという慎重さを失って居たのだ。
「先輩。僕は、法学部を目指します」
後輩の宣言は、黒井はるの行動を支えた、法律の専門家のように、志に力添えの出来る大人になると続く揺るがない目標設定だった。「それでも、先輩は、僕の目標でいてください」後輩の望みは、内田を困惑させた。が、「わかった」と答えて、互いに頑張る約束を交わした。
他人は自分を写す鏡だという。内田生徒会長は、物事を成し遂げるための決意を抱かせる崇拝の対象として完成していた。しかし今はその能力を失っている。それはなぜだろう。もしここでひとつの例を取り上げるならば、蝶の脱皮に立ち会った者が、その蝶に特別な感情を抱いてしまうのと同じく。青虫ばかりの中学生の集団の中で、見事な脱皮を迎えた内田を、特別視していたのに過ぎないのではないか。反抗期を過ぎて青年期に至る。その青年らしい振る舞いに、中学生の憧れを投射されたのであって、世の中で特別という程の成長を果たしては居なかったのだ。仮に、エリート高校の集団で自身が優れていると感じていたとするなら、それは、親の期待に応えようと空回りをする者や、逆に反抗し自らの目標に向かう者など、苦難の道を進む同級生を傍観していただけなのだ。内田本人の目標は、学力的な面においては、劣っている事はなかった。その他の面で、部活動などに参加していれば良かったのかもしれないが。専門を持たない何でも屋という役回りが定着していた内田には、それ程真剣に打ち込む意義を持っては居なかったのだ。内田は世の中を甘くみていた。出来る事と、任されることが同一である時期は過ぎ、任されるために特化した技能の研鑽が必要な競争社会に踏み込むタイミングを逃したのだ。逆にいえば、二足の草鞋を履かなかった事で、内田の学力面の優秀さは、ありきたりなモノと捉えられ始めていた。もし、スポーツ推薦の高学力な生徒であったのならば、新湯学院の看板をより良く宣伝したのだろう。そんな考えに内田が行き当たったのならば、生徒会長選挙で、彼を落選へ追い込んだのは、失策だったと己を責め始めたのかもしれない。しかし、周囲は、内田を一人にするほど冷たくはなかった。
「明臣君。いいかな」
館長に案内された館長室には先客が居た。内田明臣にとって、彼女は然程気に留める必要のない人物だった。付き合いがあったといっても、それ程の恩を感じるわけでもなく。因縁があるといったところで、柵が残るような野暮はしなかったはずだ。簡単にいうなら人生の中で誰もが遭遇するであろう大人だった。大人という言い方で片付けるのが適切で無いならば、子供が大人の付き合いに気づく本音と建前といった日本人の狡さを示した女性だった。
勿体つける意味があるかといえば、そんなものはない。ただ、内田が、入室時に女の後ろ姿を発見し、館長以外の者が同席する事実に、戸惑ったのは確かだった。その者が誰であるのか。そういう詮索がなされて、改まった自己紹介が必要じゃないと思い至るまでの時間を無駄な言葉で綴ってしまったのだ。先客は、内田生徒会長の顧問を務めたカウンセラーだった。
「内田くん、久しぶり。私はやっぱり今年度で転勤することにするよ」
何がやっぱりなのか。内田にとって、彼女は親しい間柄ではなかった。言動の軽さから若干軽蔑している。彼女の現状を目の当たりにして、思い付く言葉は、我侭な性分は苦労するだろうなという嘲りだった。
彼女は現生徒会長の顧問を終えたら、普通の学校に籍を置きたいと願っているようだった。新湯学院の持つ特殊な環境が、統計学的な後ろ盾を元に動く心理学者にはとてつもなく億劫な現場だと店仕舞いを進める。彼女には偉大な先人たちの着想を手掛かりに問題と向き合おうとする姿勢はなかった。そのたゆまぬ努力を諦めた点に彼女の弱さがあった。
「これあげる」と手渡された彼女の名前と住所が印刷された名刺に目を落としていると。
「正月くらいは、実家に帰るから年賀状くらい送ってよ」
そんな要求を残して、彼女は部屋を出て行った。
不自然に続いた再会劇にどんな思惑が隠されているのだろうか。カウンセラーが館長室に居たということは、お茶の準備をしているご老体も無関係ではないだろう。内田はその時になって、やっと理解し始めた。いや、理解なんてものはまだ先の話で、勘付いたくらいなのかもしれない。ただ、ひとつ、一昨日と状況は異なっていた。
館長は、内田に彼女の事をどれくらい知っているか。という問いかけをした。どれくらいと聞かれて、答えられるものは、学院のカウンセラーである事以外は、何もなかった。先ほど貰った名刺にしても、名前と住所以外は、心理カウンセラーという肩書すら書いていない。年賀状の送付にしか使えないようなシロモノだった。
「彼女はね、お寺の住職さんなんだ。このことは、印刷された住所を検索すればすぐわかるだろう。ただ、明臣君は最近物事に興味を失くしているように見えたからね。予め知らせたんだ」
内田明臣は年長者の言葉に凍りついた。それは、内田が陥っているスランプの確信に触れるような鋭い指摘だった。漫然と過ごした日々の中で再会した黒井達の行動は眩しかった。
もしも、「物事を判断するのに、知識が大切だ」という意識を失って居なかったなら、昨日の件は回避出来たのではないだろうか。「騙す」という共通項があった。特殊メイクで傷ついたヒロインから始まる映画の後で、特殊メイクが施された男が現われる。あの時、「これは映画の撮影なんだろ。台本を見せてくれないか」というカマをかければ、話は変わっただろう。擬闘についての指南だって起こったかもしれない。少なくとも彼は怪我人を減らす決断をしただろう。なのに、計画的な犯行に殆んど無策で飛び込んで、相手の思惑に踊らされた。つくづく自身が滑稽でならなかった。更に、内田はそれ以上の深入りを拒絶した。関心を抱かないことで、事件を風化させようとした。準備をしないことで、弱者であり続けようとした。現実に向き合わないことで、失敗から目を背けたのだった。しかし、凡てが無駄な抵抗だった。周囲はそんな一般的な社会人としての内田明臣を望んでは居なかった。
「彼女のカウンセラーとしての仕事ぶりは凄いものだよ。男にはどうしても真似できない。それは、狡い女と言っていいのかな。本心を隠して相手を惑わせる。肉体機能的な不利さえ覆してしまう底知れない策士だ。明臣君は気づけたと思ったのだがね」
確かに内田は彼女を恐ろしいと感じたことがあった。しかし、それは、数奇な体験を経た彼にはそれほどまで鬼気迫るものではなかった。まるで、地面の小石を蹴飛ばす勢いで打ち負かしてしまったのだ。それは単なるラッキーパンチだったのかもしれない。カウンセラーの仕掛けた修正を弾き飛ばす熱狂は、内田を長い間苦しめた。判断を間違ってはいけない。そう知りながらも、薄々気がついていた事実。黒井はるが登校することで、新湯学院は変わってしまった。それは、普通の転校生が起こせることではなかった。
カウンセラーの提案を見直すと、黒井と内田の間に漂う気不味い空気を察した生徒会長選の提案だったのかもしれない。そして、黒井の圧倒的な存在感を危惧してのダークホースの起用。あの戦いで内田達は思い上がりに終止符を打つべきだったのかもしれない。そうすることで、今の状態は解消していただろう。
「彼女は言っていたよ。はる君を助けてあげることは出来なかったと」
内田は気づいて気づかない振りをしていた。いや、正確にいうと、なんとなく気づいていたが、本当は、何もわかっては居なかった。だから、この数日間が堪えたのだ。
「明臣君。君はどうして、はる君の居場所になってあげられなかったのだ。皆がそうであると信じていたのに」
仕方がない。仕方がない。仕方がない。それは恐かったんだ。恐かったんだ。
怒っているわけでも、叱っているわけでもなかった。そこに居る年長者は、内田に気づいて欲しかった。と諭していたのだ。じわじわと吸収された言葉は内田明臣を追い詰めた。
内田は帰省した僅かな期間で、宙ぶらりんな自身と周囲の思い込みの差に苦しめられた。しかし、その葛藤は黒井はるが直面した状態に比べたら、まだ救いのあるものだった。状況を整理して、原因を突き止めれば、ひとつの可能性として、内田が男の甲斐性という古い考えを無視した。そんな無責任な生徒会長の姿があった。
「彼女について、しっかり考えてあげなさい」
そういう言葉は、館長にとっては珍しい発言だった。内田は昼を言い訳に緑の館を後にした。
しかし、危機的な状況下で甦る記憶は、内田の頭脳を加速させた。
内田が昼食を取るために家に帰ったと書く必要はないだろう。久しぶりに、内田清一という男の考えそうな事を検討すれば、明臣の家が、学院の近場にあるのは予想がつくだろう。それは、転入のための転居だったのだから、わざわざ、学院から離れた土地を選ぶのは不可解である。そういう理屈だ。家賃がどうのという細かいことで、物件を選ぶような年収ではなかった。そんな推測も隠れ家として残す判断を下す辺で見えてくる。
今ここで、展開した考察というのは、推理小説を書きました。と宣伝した場合に、読者が人の行動限界を計算する上で重要な条件になってくる。シャーロック・ホームズはそういう些細な点から、犯人を特定したのだ。しかし、この話は、いまだに、事件が通報されていない。というのは単純に、完全犯罪が起こるのは、間抜けにも、誰もが事実を見つめようとしないからに他ならない。
その点で、内田明臣は元不登校児を苦しめ続けたという事態を重く受け止めた。その解決策を探そうとした。そして、いろいろな記憶の中から、手掛かりを得ようと躍起になった。
話の流れに任せてしまえば、時間が解決するという言葉通り、終着点に辿り着く。しかし、どうせなら、見過ごした状況について、一度、考えてみていただきたい。
白紙の答案用紙に赤ペンを走らせるほどつまらない行為はないと思う。内田が何を考えたのか。その前に、内田を透して何に気がついたのか。無粋な問い掛けですまないが、推理してみて欲しい。
事件が起きていない。犯行声明が流れていない。予告状すら届いていない。そんなもの推理なんて出来るものか。一言で片付けるならナンセンスな提案である。過去についてくよくよ悩むことに意味があるのか。内田明臣が自宅に帰り、簡単な昼を食べながら考えたことは、温故知新という類のものだった。嘆くのではなく。悩むのだ。悩みというのは、諦めない脳内活動の表れである。それを止めたら感情に任せて泣き寝入りでもするしかない。
ここで内田明臣の読み筋を紹介しよう。ただそれはひとつの行動をするための長い思案を現したに過ぎない。それらは過去の蓄積である。
黒井はるの考えていることは、理解出来ない。それが、内田の感嘆で締め括った評価だった。それは単純に彼女を遠ざけただけだった。内田生徒会長は黒井はるを学院の中でひとりぼっちにした。それが彼女の行動を被服という得意分野に向かわせ、部活動を通じ、女生徒の憧れの的。男子生徒の好意の対象になっていった。しかし、そうであっても内田という存在が厄介払いの護符になっていた。
内田明臣が他校に進学したことによって、その関係は変わったのだろうか。黒井はるの本性を知り、付き合い続けようとする者は現れたのだろうか。彼女が誘拐された時、内田は彼女の交友関係を探らなかった。もし工事現場が盆休みに入っていなかったならば、彼女の異変に気づいただろう。内田はタイミングの悪さに戸惑った。発覚から三時間以内で、事態について理解を得ることは出来るのか。緑の館の館長はどうだろうか。映画館建設で黒井と協力関係にあるなら、彼女の緊急連絡先などを控えているかもしれない。そんな望みもあったはずだ。しかし、内田は、前日の夢を追うばかりの男にそのような期待を抱くことは出来なかった。同じく前日の焼き肉店で黒井が見せた仕草から、もしかすると、彼女の生活はそれ程裕福ではないのかもしれない。そんな可能性が見えて来た。彼女は何かを失っている。その暗示が示すものが何であるのか。親身になって付き合うという姿勢を示さなかった内田は、肉を焼く程度の優しさしか示せなかった。そこまで考え進めて、彼女は優しさを必要とするような弱い女なのか。と疑問が浮かぶ。なぜなら人質解放の場面で弱い存在だと気づくまで、内田は、彼女をそのように見ていなかったのだ。では、彼女はそのように見られたいのだろうか。あの乱闘騒ぎの仕掛け役については、なんとなく目星がついてきた。その確信を得るために、内田は見逃していた事柄を意識せずに居られなかった。
「館長さん。黒井はるとの付き合いはどれくらいになるんだい?」
内田明臣は気障な言い草にしなければ、格好がつかなかった。
「はる君達の事は生まれる前から知っているよ。彼女の両親の仲人を務めたからね」
内田はその答えを予知していた。黒井はるが、外食慣れしていない。なのに、あの夏、見事にランチを召し上がっていた。その振る舞いだけで、事前にスケジュールが漏れていたと何故気づかなかったのか。館長が裏切り者だと避難される立場に居るわけではない。逆の視点から見れば、黒井はるが食事の場で粗相をしでかしたら、内田は興味を失ったかもしれない。一人の少女が知識を望んだ時に、彼が意地悪なんてするはずがなかった。そのお陰で次の出会いがあるまでは、二人の関係は上手く行っていた。あの時、内田の住所がどこから漏れたのか。学院の近くに住んでいれば、キョウコが駆けつけたのと同じように、ちょっとした尾行ですぐ見当がついてしまう。まぁ、記憶の中で気づいたキョウコの尾行癖は苦笑するしかなかったが、キョウコの事も精査すると、新湯医院に足跡を残したのは、黒井の悩みを打ち消すためだったのかもしれない。そんな仮説なども組み上がっていた。
館長室で先ほどまで、うたた寝をしていたご老体は、久しぶりにイキイキとした明臣の姿を見た。
「はる君には幸せになって欲しい。そう思っているのだけれども、どうも私には人を幸せにする才能がないらしくてね……だがまぁ、男同士が密室で女の秘密を語るなんて、不毛だと思わないかい?」
内田明臣の逸る気持ちを落ち着かせるように、館長は戯けてみせた。そして、青年にどこまで推測したのかを尋ねた。
内田は、薬の件以外は、館長の守備範囲だと予測していた。その意識のもと、交換出来る二年前の人間関係を語った。館長はその推理を嬉しそうに聞いていた。そしてそのまま、内田が隠している事柄について触れようとはしなかった。
「明臣君は凄いな。あの問いかけだけで、私のお節介に気がついたか」
紳士の感心を受けて、内田は悪い気はしなかった。しかし、誇らしげにするには、いろいろと後手に回りすぎたと恥じていた。とはいえ、ここからは、未来を決断するために挑まなければいけない。内田を差し置いてというのは語弊があるが、黒井と館長が進めた建設事業にどのような思惑があるのか、じっくりと伺うことにした。
「社会貢献という言葉だけでは納得出来ないか。そうなると、社会貢献という意味合いを深く掘り下げて説明するしかないのかな」
出資者がそれから話した内容は、哲学に近いものだった。
「公共事業が縮小し、民間の動きが鈍れば経済は縮小する。そういう危機を救うために資産家は資産を持っているんだ。自分の手の届く範囲で支え合う姿勢を失ってしまったら、社会は別の意味で冷たくなっていく。悲しいと思わないかい?」
社会に希望を与えるのが、自身の責務だと考えている紳士は、より温かい血の通ったお金を布教したかったのだ。内田は改めて、その考えを実現した黒井はるは凄い奴だと呆れた。
理想が現実になることを、夢が叶うという。人は夢を追うことで、困難に立ち向かうことが出来る。しかし、その困難をどのように克服するのか。大概の人間は、理論を積み重ねても実行することが出来ない。困難とはそれだけ険しいものなのだ。ただ、どんな物事でも方法さえ解れば簡単に解決が出来ると嘯く者も居る。そこには、見通しが立ち、実力があり、行動が出来る。余裕が必要なのだ。困っている者というのは余裕を失っている。どうして出来ないかを考える余地すらない事もある。そういう困った人に一言余裕を持たせる言葉を囁やければいいのに。
内田は言葉が出なかった。内田にとって社会という言葉はまだ大きすぎた。中学時代は身近なことを整理するのに手一杯で、周りの気遣いに気が付く事すら出来なかった。その後、高校に進学したとしても、そこに明確な差異は生じて居なかった。簡単に言ってしまえば、社会に出るために準備というものを全くせず、歳を重ねた。そして、焼き肉が安い。元が取れる。そんな浅はかな感覚を身に着けてしまっている自身が憎かった。
「はる君は昔から物分りが良かった。彼女からしてみれば、欲に流されるような生き方というのは不自然なのかもしれない。しかし、理解出来ないと喚くような幼稚さは備えていない。彼女は他人の欲を満たすのが上手いんだ」
他人が頭に浮かんだ言葉を口ずさんだ時、それを瞬時に理解しろ。というのは無理な話である。苦心して、「彼女は利己主義ではない。そして、人の言葉を汲み取る能力が優れている」と訳せばいいだろうか。付け加えるなら、彼女自身が発した「献身」という言葉がそのまますべてを語ったともいえる。
綺麗に纏まった話にはならなかったが、年長者は、映画館建設が黒井はるの指導なしには実現出来なかったという懐を述べたのだった。普通に鉄筋コンクリート造の建屋を作るだけなら、どうとでも出来たのだ。ただ、それは大人の押し付けであり、効果的な文化振興に繋がらないだろう。黒井はるが銀幕に映る。という言葉に導かれた若き労働力が仕事を熟す楽しみに気づき、更にその場で様々な事を学ぶ。それは、大人になりたい高校生の学習意欲を満たす方法だったのかもしれない。
内田明臣は、学習という言葉の本来持つ意味を知ってはいた。しかし、自身が何を学ぶべきなのか。行動力というのか。活動力というのか。物事に関わっていく意志を低下させた頃から、徐々に抱き始めた戸惑い――。
繰り返しになる。繰り返しになる。繰り返しになってしまう。困っていた。内田明臣は、どうしてもひとつの気掛かりを解決しないことには、部屋を出られないと決意していた。にもかかわらず、話のキッカケを上手く見いだせないことに落ち込み、更に、手綱を探る手さえ振れない情けない男に成り下がっていた。勇気が足りない。もしかすると、内田が他人との会話に自信がないのは、少年時代の傷跡のせいなのかもしれない。それは正真正銘深層心理に刻まれたトラウマだった。疑問を解決しようと投げかけた言葉が、自身の存在を脅かすかもしれない。話し相手との仲が親しくなれば尚の事、内田は言葉を詰まらせた。そんな哀れな男は自信を取り戻す秘策が欲しかった。
「明臣君。昨日の撮影はどうだった」
その言葉は、渡りに船と称して申し分ない情報を内田に告げる挨拶だった。紳士の問いかけに違和感を覚えて、やっと内田は推測が外れたのを知った。
「館長さんと黒井で進めてたのではないのか」
もし、密接な関係にある二人が仕掛けていたのだとすれば、黒井はるは昨日の段階で、何からの報告をしているだろう。しかし、内田は、館長にそのような知識が備えていないと感じ取った。仮に黒井から話が伝わっていたのなら、「昨日は悪かったね、騙すような事をして」という振り方で話が始まっただろう。その相手の持つ人柄を知ればこそ、違和感を咄嗟に言葉に表したのだった。その瞬間、館長と内田は腹の探り合いなんてことをしなくて良くなった。館長が後ろめたい感情を持ち合わせていないのに、何を探るというのか。内田明臣が行うことは、聞き出せる範囲で情報が欲しいと意志を表示することだけだった。
映画撮影の件を館長は話し始めた。ここで注意しておかなければいけないことがある。たった二文字で表せる事柄を、意味の通じない長い言葉で表現しようとする男の話は、無駄に長かった。それは、話の途中で、思い出を拾い上げては寄り道をする。結論だけ言えば、内田が何を聞き取ったのかの文章まで話を進めてしまった方が流れはいい。しかし、まぁ、たまには、年長者の欠伸が出そうな長い能弁を聞いてみよう。
「自主制作映画を撮りたいと打診を受けたのは、去年の春だった。丁度、彼らが中学に進学した時期で、学院にそのような準備がなかったのだから、高額な機材を用意するのに頼られたというわけだ。いくら可愛い孫のおねだりといっても、そう安々と買い与える質のものではなかったからね。どういう映画を撮りたくて、どれだけの機材が必要なのか。資料を作るように課題を出したのだ。必死に調べたようだった。その内、カメラ、レンズ、架台、照明、マイクなど、いろいろな情報が提出されて、カメラには技術が必要だから早めに馴染みたいと求められた。それで、デジタル化が進んでいる段階ですぐに次のモデルが欲しくなるとか、買い換えたくならないようにじっくり検討しなさい。中古市場とかも含めて試算して、額面を三割削減したら認めますよ。そんな提案をした。潤沢な資金があれば物事を始めるのは簡単だ。しかし、努力無くして手に入れた物は粗末に扱われるかもしれない。彼らはそうして、機材を手に入れた。それからはいろいろ頑張っていたらしい。打ち込めば打ち込む程に、未熟な部分がわかるらしく。フォーカスやら露出やらいろいろな技術の本を欲しがった。彼が読みたがる本は徐々に難しくなっているようだった。そうこうしていると、映画を観に行きたいと、私を誘ったりしてね。一緒に映画を見に行っては、ノートにペンを走らせていた。研究ノートを見せてもらった事もあるが、さっぱりだった。そんな時に、どういう映画を撮るのか質問してみたんだ。なんて言ったと思う。爺ちゃん。俺はどんな映像でも撮れる男になるんだ。だから、監督次第でどんな映像でも撮るよ。いっぱしの職人のような言葉を吐いていたが、一度も映像を見せてはくれていなかった。そんなやり取りの裏で、映画館建設の話が、はる君を中心に進められた。映画館建設についてはもう話すことはないと思う。明臣君も昨日会ったのではないかと思うが、孫は変わり者だが、はる君が話に乗ったなら、問題無くおわったのかな。いい歳して孫の為だけに映画館を作ったと知られたら呆れられるかな。まぁ、いろいろな要因が重なって、最終的に文化振興という名目に落ち着いた。それだけで良いんだけど。明臣君は一つ伝えておこうかと思う」
孫が可愛いというお爺さんの話を聞いて、内田は自己正当化という言葉を思い浮かべた。人の行いの動機を突き詰めてしまえば、それは無計画なのかもしれない。突拍子もない衝動をなんとか理由をつけて許可する。そこには突き所は幾らでもある。しかし、上手いこと目隠ししているのだ。内田は昨日の廃工場の中で同じ空気を吸っていたお孫さんがどんな人か見当はつかなかったが、少なくとも黒井寄りの気質を感じ取った。カメラがあることに気付かないという失態を演じたのではなく。それ程高度な撮影技術を培っているのだろう。そのように内田は心得て、失意を抱かないように務めた。とはいえ、思い出話が部屋の空気を変えたのは確かだった。内田は、先程までの重苦しい探り合いが終わり、孫可愛がりする男の話を聞いたことで楽になった。思い煩いを起こしやすい彼にとっては、それは本当に助けになった。もし、内田明臣の推理が外れた事実だけを知らされたのなら、その後の話は、穏やかには聴けなかっただろう。
「私はもう今年で六十二になる。ここ以外にも少し土地を持っていてね。人に貸して収入を得たりしているんだ。明臣君は、リーマン・ショックを覚えているかい?サブプライムローンとかニュースで聞いたと思う。金融機関がお金を貸す時は、返して貰える見込みが無いといけないよね。そこで、担保を用意するわけだけれど、サブプライム住宅ローンは、返済が出来無かった場合にローンを組んだ住宅で清算しようとしたのだ。元々、家を建てるのが困難な境遇の者にとっては、夢のような条件だったのかもしれない。ローン返済の為に仕事をして完済する。そういう理想が崩れても、アメリカという土地を欲しがる者が多かったから、土地を売ることで、利益を得られる計算も成り立ったらしいのだ。そう考えて、必ず返済される債権という商品が市場でお金のように取引されるようになった。しかし、それは、不可思議なキャッチボールだった。最初に普通のローンを組めない者を救済しようとした行動が、相手の成長を促す高利貸しというトレーニングに替わり、遂には人の限界を見誤ってしまった。途中でリタイアして、家を手放すだけで済んだ者もいたかもしれない。その空き家をローンで購入させるという斡旋で間を繋げたかもしれない。誰かがどこかで、負積を返済するという幻想で回した取引は、不良債権の発生率のという現実に滞り始めた。人は誰でも、働いて稼いで納めてくれる生き物だ。そんなに社会は上手く回っていなかった。ノーリスク・ハイリターンの幻は露と消え、証券に姿を変えた不良債権を手放す者が続発した。明臣君、物事を判断するのは、相手に示された数字だけではいけないんだよ。まぁ、そういうアメリカで起こった些細なトラブルが、太平洋を渡って、日本経済にも混乱を及ぼした。リーマン・ショックというのは、資産家が資産運用に慎重になったというただそれだけの転換点だった。そのはずなのだが、不況という言葉が世の中を歩きまわった。恐慌という垂れ幕が掲げられたりもしたのかな。私の知り合いの社長さんがね。先代までは、従業員の生活もあるのでダンピングは出来ない。そう頑なに答えていたのだが、下請けの立場をわきまえろとか、技術革新が出来ないなら、他にも取引手は居ると振る舞われたらしくてね。泣いて来たんだ。私は何も出来なかったさ。彼らの作った部品を買う意味がなかったし、人件費を減らす機械を入れることに、社長は乗り気ではなかった。ただ、将来の破綻が見えているだけ。結局、工場を畳んで、町を出て行った。散り散りになった彼らの生活を追うことは出来なかった。だが誼だから、廃工場を引き受けたのだ。もし、彼らの親会社の担当が、皆の苦しみを理解していれば、必要以上の利益は追求しなかったかもしれない。でも、悲しいことに、不況の時期、少しでも会社に元気があるアピールをしないことには資金が回らない。そう恐れる経営者は少なくないんだ。情報化社会というのは、そういう流れなのかもしれない。明臣君は、昨日のロケーションに何を感じたかな。私が関与したのは、その工場の鍵を貸しただけなんだ」
昨日の撮影に、納得なんか出来ないと内田は思っていた。人に騙され他人に暴力を振る。そして、その暴力行為すら偽りの中で揉み消される。ただ、資産家として関与した男の話を聞くと、世の中は罰せられない罪が無数に存在するように思われた。否、それは正しくはなく。法廷まで進まない罪な行為が多いのだと感じたのだ。もっと正直にいうならば、内田明臣は、全く用意をして居なかった話を聞かされたことで、何かしらの答えを出そうとして、ありきたりな見解を用意したのだった。だが、紳士的な男の一言で、急拵えの惣菜はお蔵入りとなった。
「未来には幾つもの危険が潜んでいる。しかし、社会では決断を迫られるのだ」
館長は、どんな想いで決断をしたのだろうか。内田は、理想に燃える男を危ういと感じる事があった。しかし、今それが、本来の大人の有様なのかもしれないと思い直した。
内田が、緑の館を出る頃には、すっかり日が落ちていた。意味もなくキーワードを並べた人気小説を読むより、館長の話を聴く方が楽しかった。館長は、先代の残した工場が潰れていく様を見るのが耐えられなかった知り合いの気持ちを汲んだのだと言い。町を出る選択に秘められた願いを読み取っていた。詳しい話はその手の企業秘密を漏らすことになるので、伏せるが、内田は彼の知人の決断が未来を掴むための行動だと知りホッとした。
内田は家に帰って、キョウコにメールを送った。『本当のことが知りたい。新湯医院に何があるのか、教えもらえるか?』そこまで踏み込んで失敗したとしても、昨日聞いた話の真偽を確かめるくらいはしたいと思った。また同時に薄っすらと黒井の影を感じた。
翌日、内田明臣は新湯医院を訪れていた。キョウコの返信は父親の病室を知らせるものだった。そこは精神病棟だった。病室の横には「千秋さん」とネームプレートが表示されていた。ネームプレートに苗字が表示されていないのは、精神疾患者に対する配慮なのかもしれないと内田は考えた。使用中と書かれただけの部屋や面会拒絶の看板がぶら下がった扉もあった。面会を申し込んで「娘さんから話うかがっております」と看護師同伴で電子ロック化された病棟に進んだ時は、別世界に踏み込んでしまったのではないかと不安になった。しかし、いざ、病室の前に立つと不安という曖昧なものではなく。窮地に立たされているように思えて来た。同伴が居る。これは、勝手な行動でトラブルが起きないための処置なのだろう。受付には待機用の椅子もあったことから、病棟内が立て込んでいる時は、もしかしたら、進入すら禁止されるのかもしれない。事務的に見れば何らおかしな事がなく。お見舞いの負担を減らす取り組みだというのに、内田は、それが苦しかった。しかし、「どうぞ」と無慈悲な言葉を掛けられると、進む以外の選択肢は存在しなかった。引き返してしまったなら、反動を受けてキョウコが更に遠く離れてしまうだろう。もし誰かが「一度決めたことならば、くよくよせずに進め」と指南したとするなら、それは間違いだ。決めるという行動は、判断する資料を揃え、能力を磨き、満を持して行う行為であって、準備不足で戸惑う行為は当たり前の本能的な危機感なのだ。それを抑える為に、これから会う相手が、いきなり人を襲うようなことがないという保障が欲しかった。看護師が熟知しているのだから、そんな事は起こり得ないと思われるだろうが、高を括ってはいけない。世の中には暴力よりも残忍なモノはいくらでもあるのだ。
緊張とともに駆け巡った恐怖に、日常的と形容して良いような病室の光景が飛び込んできた。精神病棟と云えども、そこは牢獄なんかではない。窓もあるし、照明器具もある。空調さえ行き届いている。その空間に、内田の常識を揺らがせる要素はなかった。もし内田が殺伐とした光景を思い描いていたというのであれば、それは人道に反した医療行為を常識と認識していたということになり、そんなところにキョウコが親を預ている可能性を取り消さなかった判断の弱さが批難されるだろう。しかし、内田は恐れていた。そして、その感情は未だに払拭出来ていないのである。
病室には静かに時間が流れていった。「はじめまして、こんにちは、キョウコさんに聞いて伺いました」そういう言葉を掛けようかと悩んだ。もしそこで、キョウコとの関係について問われた時、何と切り返すべきだろうか。内田がまごついた理由を解き明かすなら、キョウコがそこに居るだろう。そんな都合の良い展開から、内情を探ろうと計画を立てた。初盤での失敗だった。とはいえ、訪問先で挨拶をしないのは失礼だ、内田明臣はその言葉に現状を打開する希望を込めた。
「こんにちは、今日は生憎の曇り空ですが、この時期は暑くならなくてよかったですね」
天気が崩れている訳でもなく。晴れ渡った訳でもない。直射日光が射さない一日は、海に行くなりの肌を焼く目的がないのであれば、外出日和だった。しかし、空調の効いた部屋には、その感覚は共有されないのかもしれないと後悔した。
「君が明臣さんか、娘から話は聞いているよ」
内田は出来ることなら、「こんにちは、そうですね、過ごしやすい日ですね」と柔らかく迎えられたかった。相手の状況を掴んでいない現時点で、自身の話が相手の耳に入っている。いつもの事だが、そういう状況に陥ると、内田は、敵地に乗り込むような気になってくる。そんな事ばかりを繰り返しているように思えた。まるで、いつまでも転入生であるかのように、好奇の目が自分の情報を赤の他人に運んでいってしまう。それは親切心でのお節介であって、見ず知らずの人と打ち解ける為のあるべきアポイントメントという手順の簡単なものであるはずなのだが、同時に不安を煽る要素になっていた。「どのように伺っていましたか?」至って冷静に、相手を傷つけないように、身の上話から話を発展させて理解を深めよう。内田明臣は集中した。相手の第一声には少なからず威嚇の念が込められていた。その状態で娘さんの名前を「キョウコさん」と呼ぶのは危険な橋である。なので、「あなたの娘さんにお世話になっていましたので、挨拶に来ました」と告げたのだった。しかし、それでも話が拗れるかもしれない。事実、携帯電話の件で、無条件の提供を受けているのだから、伝えて差し支えないように思われるが、その支払いを行って居るものが誰であるのか定かではない状況では地雷だった。となれば、「中学時分に世話になり、異なった進路を進んだので、帰省した際に気になり、興味の赴くまま、伝えられた病室まで足を運んだ次第です」と恰も、この部屋にキョウコが療養していると思い込んでいたかのような話を進めるのが妙案に思えた。その勘が当たったらしく、男から、同調するように「そうか、それは残念だ。娘は今日は来ないかもしれないな」と返事が帰ってきた。
しかしそれは、この街に居るはずのない彼女が、頻繁に見舞いにやって来ているようにも捉えられる言葉であった。内田は耳を疑った。そして、この特異な環境にいる男の存在にあたりをつけ始めた。キョウコが新湯学院に在籍していない事実は、黒井も告げていた。同じ街に居るのなら会うことは容易なのではないか。またそうであるなら『転校した』と伝えるメールは、学院内で会うわけではないなら不要のはずなのだ。そこには、逢えない訳がある。キョウコが忙しくしていて時間が割けないというのでなければ、この病室を待ち合わせ場所に出来たはずなのだ。それをしなかった。矛盾する内容に一つの可能性を描くなら、千秋さんがそういう幻想を抱いている。そんな悲しい現実だった。内田が抱いた予想から、キョウコがどれくらいの頻度で身の回りの世話をしに来るのかを聞き出すと、明らかに辻褄が合わなくなっていった。だからといって、追求するのは野暮だった。
内田はその場で何が出来るのだろうか。逆に考えると、キョウコは内田に何を求めたのだろうか。それを知るためには、台本がどこまで事実を語って居たのかを検めたかった。しかしその好奇心で、過去の出来事を掻き回したならば、千秋さんが傷つくかもしれない。配慮を重ね、抽象的に物事を推し量る。互いの間に紛争が起こらない慎重なやり取りが続いた。
地道な問答の成果が出るまでには、時間が掛かった。
「君は忘れてはいけない恐怖を抱えて生き続けることはできるかい?」
千秋さんの質問は、軽率に答えられるような内容ではなかった。内田明臣が今までに経験した恐怖は、一過性のものであった。ホラー映画のように幕が下りれば余韻が残るだけ。そう、幕が下りれば、恐怖というものは長々と抱え込むものではなく。存在し続ける恐怖に対しては、慣れを培うのが社会的な生き物だと結論を出した。その時、内田は、二年前の夏。キョウコに助けられた自身の心境を投射した。千秋さんも恐怖を克服さえ出来れば、こんなところにいる必要はなくなるだろう。親身になって、導き手になるための答えを探そうとした時に、次の言葉が遣って来た。
「僕は信じられなくなったんだ。一人の力で変わることがない社会に合わせるならば、恐怖を忘れた振りをして、僕が変わらなければならない」
内田は、昨日の館長の話を振り返った。資産家が社会貢献に役立つように投資するのと浪漫を語って頂いた後に、保険会社の行動とどのような違いがあるのか訊いたのだった。それは今日のための勉強だった。会社は利益を追求する。保険は保障する案件の発生率と、加入者数、掛け金の釣り合いが取れて採算が得られるようになっている。授けると預かるだとお金の動きは全く違う。というような断言があった後で、しかし、困っている者に授けるためにお金を用意するという点では同じなのかもしれない。千秋さんの言葉はそうすると変だった。「社会を変えるのは一人の力では出来ない」なので共済金など、大勢で力を備蓄して危機に備えるのだ。そういう保険の仕事人として恐怖にぶつかったならば、一人で立ち向かおうとする方が考え違いなのではないか。もし、そんな些細な見当の誤りなのならば、キョウコが見破らないわけはない。となると、多くの加入者の悪意によって騙された事実とその解決に「城下町リンチ倶楽部」が関わって居て板挟みになったのか。いや、しかし、その集団は捏ち上げの偽物だったのではないか。連想が続くに連れて現実が見えなくなる。果たして千秋さんは何を恐れているのか。内田は、何の糸口も見出だせなくなり途方に暮れた。
内田明臣は次の一手を見つけられなかった。何を話そうと、どんな進展があろうと、専門家が解決できない病を治せるという自信が湧いてこなくなった。沈黙は蝉の鳴き声強く感じさせた。目的を失ったら、理解なんて示せないのかもしれない。
「明臣さんこんなところで、何をなされているのでしょうか?」
黒井はるがそこに居た。デジャヴだった。この病院では前にも同じようなことがあった。病室の入り口に佇む黒井に対して、内田は緊張の糸が解れたように、思いついた言葉を告げた。「君こそどうしてここに居るんだい」その一言で、黒井は走り去っていった。それは突然の出来事だった。内田の戸惑いが形になるより先に、看護師は内田を病棟から閉め出した。何もわからない。展開に思考が追いつかなかった。内田は誰かに説明してもらいたかった。今、この瞬間。何があったんだ。パニックに陥った。何かに例えると、ピッチャーに対峙していたバッターをいきなりアンパイアが退場にするような暴挙だった。
内田は、病室に留まる理由を失っていた。何かを求めた行動は虚しい空振りに終わった。それでも、それが内田明臣の出来るすべてだったのならそれでいいだろう。完全燃焼という言葉には程遠い結果になったが、緊張感は空腹をもたらした。内田が出口に向かうと少女に呼び止められた。もうこの展開は飽きてきた。この病院で同じような事があった。それも一週間以内の話である。江里口というちょっと変わった苗字を持つ。ここの令嬢さんが現れたのだ。
「お兄ちゃん。久しぶり、これから一緒に昼食しない?」
内田は少女の要求を受ける必要はなかった。しかし、このタイミングで出会った事に何かしらの意図が隠されているなら、付き合うことに価値があるだろうと考えた。それは、キョウコからの携帯電話という解決しないキーアイテムとの関連性を望んでしまうような馬鹿馬鹿しい一面でもあるのだが、そんな時間潰し以外にするべきことがなかった。
夏休みの課題を終わらせ旅に出たが目的地を見失った男。その男は、帰りの飛行機の予定までの数日を持て余していた。
内田と江里口は近くにある蕎麦屋で昼食を取った。その際に、「お兄ちゃん。エリちゃんって呼んでね」と指示された。おそらく家族からはそんな呼ばれ方はしていないだろう。中学生が自分の名前にどんな意味があるのか調べたりすると、偶に別の名前が良かったなどと言い出す者も居る。内田は、少女のフルネームを知らない。先ほどの病室での一件からすると逆の謎を抱えていたのだった。そして、「江里口さん江里口さん」と呼び止めて話をするよりも呼びやすいニックネームが提案されたのだった。ところが、蕎麦を啜っている時に「おや、タマちゃんじゃないの、今日のは、美味しいかい?」と顔見知りの客が声を掛けて行った。なるほど、そこに来て内田は理解した。小学校低学年の頃に多摩川でその名前が流行っていた。となれば、二つ下の少女はその渾名を嫌がるだろう。親も大変だ。まさか、子供がそんなことで悩まされるとは思いもしなかっただろう。いや、タマちゃんって猫の呼び名ではなかっただろうか。内田はそんな事を考えながら、食事を済まし、改めて名前を聞こうとしたが、「今、エリちゃんって呼んだのだから、それでいいでしょ」と突っぱねられてしまった。初めて黒井にあった時、彼女が、この少女と同じ年齢だったのかと思うとおかしさが込み上げた。
内田は蕎麦屋を後にして、江里口の買い物に付き合わされることになった。「タクシーは冷房が効いていて極楽」黒井と乗車した時にはこんな言葉は聞けなかった。月三万円の小遣いでやり繰りをしている内田からすれば、真夏日が続いていようとも、徒歩での移動を選択しただろう。予定がない一日であれば、それで十分なのだ。しかし、エリちゃんは暇ではなかった。まずは花屋に向かった。次に、菓子屋を訪れおやつを食べた。そして向かった先は墓所だった。内田にとっては、この土地に親戚が居るのかさえわからない。だから、お盆と呼ばれる時期になっても、滞在期間中に、墓参りをしたことはなかった。内田に水桶を持つように指示して、花束を持ちツカツカと歩いて行く少女。父親は忙しいのだろう。母親も忙しいのだろう。内田は、そう考えてエリちゃんの家庭事情だけは詳しくなっていることに気がついた。医師の父と刑事の母。ひとり、墓石の前で立ち止まっている少女を追って、内田は墓参りの手伝いを始めた。
江里口家之墓。それは見事な墓だった。例えば、ここで「白い巨塔」という言葉を冗談で引っ張り出して来るならば、その社会から離脱した先人達の魂が眠る場所として、黒御影石は洒落ていた。半世紀ほど前の小説に影響を受けている訳ではないと思うが、医院の令嬢が死と向き合っている光景は絵になった。儀式というような畏まったものではなく。水で洗い、花やお供えをして、線香をあげる。それだけだった。部外者である内田は、召使か執事か下僕のように働いた。そんな風に言っても、少女の手の届かないところまで柄杓を運び、布巾で磨いたくらいである。なぜ部外者でそこまでしたのか。内田が昨日悟った言葉で答えるなら、行動は無計画だった。成り行きがそうさせた。という具合だった。良いことも悪いことも含めて、なんとなく時間を過ごしていた。予定のない男にとって、それは、現実から目を背けるひとときだったのかもしれない。
明臣は、線香をあげ、手を合わせてお参りを済むと少女が余らせている仏花が気になった。
「すみません。もう一箇所もお願いします」
案の定、令嬢の人使いは荒かった。これが先払いされた大福一個分の仕事量かと考えれば、納得出来ないこともない。容易いことであったが、内田は思わぬ物を発見した。
黒井千代の墓。エリちゃんが次の場所と向かった墓石に彫り込まれた名に内田は戦慄を覚えた。関り合いがなければなんら琴線に触れるようなことはない。しかし、黒井という苗字には内田は敏感だった。そして、水桶を持って向かい合った。しかし、繋がりが分らず戸惑いがあった。場違いな事をしているのではないかと躊躇いがあった。いつしか縋るような祈りを捧げていた。黒井千代さんは頼りを失いつつある男に何を教えてくれるのだろうか。石の温もりが内田の手を暖めていた。
夏の日は長い。蝉の勢力争いが続き、声色が変わり始めても、まだ家路に就くような時間と意識されない。だからこそ、「帰り道は、歩きましょう」と提案されても、内田は、嫌な顔をしなかった。
蝉の鳴き声が鳴りやまない並木を歩きながら、体を動かしている疲れを逃すためか、少女が問いかけを始めた。
「お兄ちゃんは、お墓参りは初めてだったのかな?」
内田明臣はその問いが、育ちを見透かしているように感じて嫌な汗をかいた。
「お墓を人に見立てて、頭から水を掛けるような事はせずに、向き合うもの。黒井さんの墓では、丁寧でしたから、もしかして、江里口家が嫌いなのかな」
解き明かされたロジックは簡単なものだった。内田が二度目に丁寧な仕草をとったのは、少女の推理からは、ずれていたが男になにかしらの言い訳を求めるような狡い質問となっていた。内田は返事を迷った。「そんなことはない」と答えるだけで笑って済ませる話ではあったのだが、もし、その真相を追及されたら、黒井に対する何かしらの弁解が必要になってしまうだろう。それが、女性の好奇心というもので、恋話が好きそうな少女に、絶好の時間潰しのネタにされてしまう。それが、明臣にとっては不都合だったのだ。
「もしかして、黒井さんに特別な感情を抱いている?」
違う。否定しようと言葉を探して、内田は泥沼に突き飛ばされたと気が付いた。言い訳を重ねるほどに、話が悪化する。どのように答えたらいいのか。内田は、戸惑っていた。そんな時に、「年上の者をからかうものではないですね」と笑いつつ、「お兄ちゃんの場合は顔を見ればすぐわかりますよ。黒井さんのお墓に何かを感じていたんですよね」少女の話し振りに物知り顔という言葉を当てればよかったのだろうか。内田は、エリちゃんの示した事柄について、整理し始めた。
内田明臣は、あのお墓の前でどんな想いを感じていたのだろうか。明臣は生まれてから一度も母親の顔を見たことがなかった。また、そのことについて不満を感じた事もなかった。日常の中で居ないのが当たり前だったし、不便を感じなかった。そういう点は、内田清一の甲斐性だったのだろうが、その特別と思わない事柄を思い出させた点に、黒井さんの墓は衝撃的だったのだ。もし、そのお墓が黒井はるの母親のものだったとしたのなら、不登校児に興味を抱かせた内田明臣はひとり親家庭で育ったという境遇の一致によるものだったのであって、あの夏のすべての努力は影響力を持たなかったのかもしれないと思い始めたのだった。
いったい、内田明臣は何が出来たというのか。何も出来ない自身の不甲斐なさを知れば知るほどに、虚しい思いに囚われていた。
「なんで、人はお墓の前で手を合わせるのかな。お墓には遺骨が眠っている。でも誰も、骨になんて興味はないんだ。亡くなったものに対して想い侍らせ、見守って欲しいと願ったりする。テキトーな言い方をすれば、都合よく。お参りした分見舞って欲しいと考えている。でも、何かに縋りたい時、神様なんかより、血の繋がったご先祖様の方が気持ちを汲んでくれると思うよね。それで良いと思うんだ。お兄ちゃんも言えない悩みを抱えたらそれでいいんじゃないかな」
見透かされていたと感じた少女の素振りは、ただ、内田が人に言えない悩みを抱えていると見抜いただけだったのかもしれなかった。内田明臣は、少女の提案を面白いと感じた。正しく整理すれば、違うのだろうけれども、悩みを抱える毎に本を読んだりしていた勤勉な男からすれば、知識だけで満たされない想いを癒す手段として、一連の行事に意味があるのだと意識し始めた。今までに、内田が知ろうとしなかったルーツというキーワードが見つかった。「定年後に行うことだよそれは」といった指摘があがるかもしれない。もし仮に、内田がその方向に突っ走ってしまったのなら、この物語から解放して、隠居生活を見送ったことだろう。だが、エリちゃんはそんな暴走をしないように上手いとはいえないがそれなりの舵取りを始めた。
「黒井さんと江里口家の繋がりに興味があるんでしょ。別に誰かが傷つくわけではないので、ちょっと身内の話をしますね」
もし仮に、医院の令嬢が、運動嫌いの少女だったのなら、帰り道を歩こうなどとは提案しなかっただろう。その延長線にある少女の長話は、歩きながらでも語りきれるほど、整理された内容だった。ただ、医院までの距離を考えてか、ところどころ、間を置いたり、道端の椅子に腰かけたりなどしていたので、一語一句間違えずに書くことに何も意味はなく。雨の降らない、薄曇りの日に晴天の霹靂だったなんて情景を描くほどちぐはぐな事はしたくないなので、申し訳ないが、編集に突かれて、どうしても頁数を稼がないといけないと説得されるまでは、概要を書き留めるに留めて置きたい。それは、それほど大層な話ではないのだ。
「黒井千代さんは私の伯母さんにあたる人なんです。お兄ちゃんの同級生の黒井はるさんとは従姉妹の関係ということになるのです」
たったそれだけのことを勿体ぶって話したのか。内田は少女の打ち明け話に、驚く要素がそれほどなかった。事前の出来事で薄々気が付いていたことだったし、昨日の一件で、黒井には、しっかりとした後ろ盾があると予感していたので、新湯を冠する医院との繋がりで、驚くことの方が白々しいというものだった。
それで、身内話が終わるのならば、括弧書き前に行った釈明とはなんだったのか。とあまりの記憶力のなさを非難されてしまうだろう。少女が続けた話を、出来るだけ詳細に伝えよう。ただ、それは、医院に着くまでの時間稼ぎであり、真夏の運動時に神経を擦り減らすような話題ではなかった。
「そういうとわかると思いますが、はるさんのお母さんはもう他界されているのです。新湯医院の医院長、私の外祖父は二人娘を授かりました。それがすべての不運であったのかもしれません」
神妙な話を始めるためか、俯き気味にしていた視線を、まるで遠くに過去が見えているかのように遠目に変えて語りだした。
「二人姉妹ならば、どちらかが婿を取るだろう。まだ、都市化していないこの町では、家業を継ぐために、当然そうなるだろうと考えられていました。その環境で、長女が駆け落ちをしたのです。それは、新聞やテレビに取り上げられないだけで、よくあるお家騒動だったのかもしれません。ところが、私の母も同じように家を出て行こうとしたのです。それが、社会の中で、働く女の時代が始まろうとしていた頃なので、若い者の夢見た自由だったのかもしれません。しかし、それを認めない者が居たのです」
内田は、墓参りの一件から家を大事にする古風な土地柄が根付いていると勘づいていた。だとしても、語られる内容を先読みする知識はなかった。
「出来ちゃった婚ならば送り出すしかないだろうと考えた母の思惑は外れて、赤子を父親の元に送り付けるという生き別れを味あわされる事になったのです」
淡々と語る少女は、そういう事があったとしか聞かされていない。そんな立場なようだった。
「そして、許婚との結婚と私の出産という予定消化が行われた。それだけの話だったらよかったのですけどね」
もし、その当時の光景を書くのならば、生々しい産声と怒り、そして悲恋の涙が流れる辛い話になるのだろう。ただ、そういうのは、他人を罵る言葉を書くのが好きな脚本家が作る物語であって、青年と少女が夏日真っ只中に熱く語りあるような事柄ではなかった。それは少女の口振りにも表れていた。もっとも伝えたい事のための前振りで、動揺させないために、単調な説明にした。そういう計画性があったのだろう。
「私が生まれた時、彼が送り付けられて来た。私設書庫の館長さんのお孫さんは、そういう経緯があるの。館長さんの奥さんが、医院長の妹さんにあたるので、意趣返しになったのでしょうけれど。私は幼馴染として放っておく訳にはいかないのです」
それは、若々しい者の持つ正義感の表れだろう。放っておく訳にいかないという言葉が何を示しているのか、内田は理解が遅れていた。小難しい算数の問題を口頭で告げられたような状況だったのだから、理解出来なくてもいいのかもしれないが、今後の付き合い方のヒントが与えられた形になった。
「それでね」
少女は続けて話す。それはお願いの質を含み始めた。
「彼が、自身の生い立ちに劣等感を抱いていて、お兄ちゃんに盗撮まがいの出演依頼をしてしまった事を否定しないで欲しいの」
協力してあげて。という真摯な願いに「わかったよ」と一言返事をし、二人は医院に戻ったのだった。
誰に聞かれるともしれない公道で、身内話を話す必要性はあったのだろうか。もしかすると彼女は追い詰められているのかもしれない。内田はそんな不安を抱くと思考を加速させた。ひとつひとつの語句を思い出しながら、意味合いを検証していく。しかし、内田明臣は見落としてしまったのだ。難しい問題ではないが、その見落としは若さが持つ知識の未熟さなのかもしれない。種明かしは先延ばしして、彼らの医院での場面に移っていこう。
内田明臣は医院に少女を送り届ける務めを果たした。なぜ、墓参りの後に帰路を急がなかったのか。野暮な見解を述べれば、内田という男には、紳士的な振る舞いを自然に選択する清冽な人格が備わっていた。「恥ずかしくない生き方をしろ」そういう指導だけで誰もが育つものではない。しかし、それでも少女一人で夕刻の迫る街路を歩かせようとは考えなかったのだ。それが二歳だけ齢が上であるお兄さんとしての振る舞いだった。また、そのように仕向けた少女の語り聞かせだった。
エリちゃんが医院まで送ってもらわなければいけない理由。その目的が、二人の前に現れた。
「環。手術は無事に終わったよ」
大雑把に大学病院と民間医院では違いがある。教授という席もなく。研究に打ち込むわけでもない。公立の病院ですらない新湯医院には、独自の管理体制が敷かれていた。それが、例えば、急患に対する当番制であったり、外科医のスケジュール管理の仕方であったり、命を扱う現場として過酷な手術が発生するとしても、過労が起こるような事がないような慎重な人員配備だったりした。それが、予算枠を気にしない私立の強みなのかもしれないが、その理念を維持するために一般人には計り知れない交渉活動が成されていた。魅力のある病院というのは手術を恐れる医師の紹介状を断らないのである。その圧倒的な存在感が、根付いているからこそ。内田の忙しいのだろうと判断した事柄が覆されたのだった。それは社会人が日常的に勤務に拘束されるのと同じ出勤日というだけの話だったのだ。その一日の終わりに出くわし、内田は図ったような再会で、晩餐の誘いを受けたのだった。
「内田明臣君。いろいろお世話になったので、食事でもどうだろうか。お礼も伝えたい」
挨拶の後で外科医が申し出た提案は、靄の掛っている一件の真相が明らかになる含みを帯びていた。内田明臣は山積みの課題の前に成す術が見つからず。無力感を感じていた。そういう塞ぎ込みがちな心理状態だったからこそ、過去の功績を讃えようとする男の誘いに乗ったのだった。もう一つ、内田は物事を判断するためには知識が必要だと心得ていたその沁みついた思想が戸惑いを打ち消したのだ。
外科部長ともなると、診察室なんてものではなく部屋を一室、割り振れていてもおかしくはない。そこでどんな密談が交わされるのか。江里口外科部長は電話で出前を注文していた。「何がいい?」そんな質問と一緒に提示された何冊ものカタログ。内田は、医師の不養生という諺を思い浮かべ、味の濃いメニューが並んでいるなと思った。しかしそれは、実生活で妥当な配慮だった。炊事を行えなかった代わりに出前が頼られるのだ。そこで、味のしない料理が出た日には、疲れが更に喚起されるだろう。濃くて美味い料理。その方が冷めても味が残るのである。ましてや神経をすり減らした術後の医師達は、一般の味覚では満足できないのだ。疲れた体に心地の良い栄養補給。どこぞのサプリメントに頼らない医師らしい丸印が目についた。
「さあさあ」
急き立てられるように、注文を問われると、メニューの豊富さは厄介だった。そんな時に、積極的に「私は、中華を頼もうかな」なんて先陣を切る声が聞こえた。それが中国料理ではなく。あからさまな日本人好みの甘辛い定食だったとしても、内田は注文に方向性が出来たと安堵した。
かつ丼が中華なのか。些か疑問ではあるのだが、内田は、本格中華を謳った出前店のかつ丼に興味を惹かれた。また、その価格帯がとても良心的だった。そんな計算を繰り返す内田だから、その注文後のひと時に何が起こるのか不安でしょうがなかった。
「実は娘から男を連れて行くと、メールを貰っていてね。驚いたよ」
エリちゃんのユーモアセンスには苦笑するしかなかった。一緒に街を歩いていたとしても、化粧室まで同伴するわけではない。内田がはっきりどのタイミングと見分けたのではないのだが、心当たりはあった。コロンボ効果というものがある。それは、気を許して話をしようじゃないかという投げかけで、内田もその投げかけに答えるように「中学生は言葉遊びが好きな時期ですから。振り回されますね」と相槌を打った。それが相手の望んだ答えだったのか。話の先が読めないことに変わりはなかった。
「まったく。なに二人で腹の探り合いをしているのやら」
その場を仕切るのは私だと云わんばかりの態度で少女は話し始めた。
「今日、お兄ちゃんには、仲蔵の話をしたの。何も知らないんだから」
理不尽な言葉にどんな意味が込められているのか。もしかしたら、なんら意味深な事はなく。ただ、その年頃の少女の持つつんけんとした個性なのかもしれないと内田は納得を試みていた。
「それでね、二年前の件をまったく知らないのではないかと思って、連れて来たの」
もし、今の内田が感じた思いを適切に書くならば、傲慢だったのかもしれない。二歳年下の少女に黒井はるほどの才覚を感じていなかった。だから、当てずっぽうのくだらない話が展開されると感じたりしていたのだ。外科医との話がメインなのだから前座の役目はそう必要がないとはなから認めていなかった。そこで感じた、「何も知らない」という辱めを与えるような言葉に反感を抱いた。しかし、その言葉は、事実であった。外科部長の一室で、共有される情報を持たざる身である事は揺るがぬ事実で、状況の流れるままに教えられるものだと甘く構えていた男の鼻を折り曲げたのだった。
「それでは」と外科医が口にした時に、粗熱を冷まし終えたのだろう少女が湯呑を配りだした。内田は食前の番茶に健康に対する意識を改めて感じた。その感心の余韻に浸りつつ、昼に聞いた話をなぞるように外科医の語りが始まった。
「新湯医院を取り巻く環境は特殊でね。この地域の医療所では静養所としての開院から数えると一番長い歴史を持っているんだ。調剤を始めたのも、蘭学に取り組んだのも、なんでも流行の先端を追っていた。そういう血筋なので、彼女たちの犯した過ちというのは、避けられない時代の流れだったのかもしれない」
外科医がそういう家訓として掲げられていそうな、医学者の向上心の部分を語ったのを聞くと、素直に「新湯」という言葉の表すものが見えるような気がした。
「君も知っている通り、複雑な家庭が存在していてね。自分は悩みが絶えなかったんだ」
内田明臣は、医院が求めた血筋への拘りを改めて聞くと酷い話だと感じた。次女を院内に監禁してまで、妊娠の事実を秘匿し、嫡男を父親に押し付けてしまう。その身勝手な振る舞いと執拗な計画性に怖さも感じた。人命を尊重する医院において、人権を否定するような暴挙が起こったその事実を隠匿し続けても良いものだろうか。内田の自問の後に、エリちゃんがこの件を外出先で語った光景が蘇った。どうすれば良いのか。秘密を打ち明けられた先の身の振りようが分らずにただ苦悩し始めたのだ。そんな折に扉を叩く音がした。出前は部屋の空気など気にせずに配達された。
内田は、終始、無言でかつ丼を食べていた。
「そんな深刻な顔をしても、何も変わらないよ」
少女が明るさを振りまこうとするその気持ちを汲めなかった。内田明臣はその状況が罪を背負い続けた者たちの諦めに似た感情なのだと見做そうとした。
「お兄ちゃん。私は私の生まれる前に起こってしまった事に、嘆いている暇はないの」
それは、存在し続ける現実であって、逃げる事の出来ない常識だった。
「新湯医院では、そのような事が起こってしまった。その後、後遺症のようなものがいくつか起こってしまってね」
外科医が語りだした。
「自分は、彼女の許婚だった。そして、彼女の見つけた幸せを奪ってまで結婚をした。妻はしばらくして諦めたように娘を宿した。その苦痛を誰かにぶつけようなどとはしなかった。そして、娘を得ても、自分は役目が終えられていないと恐れていた。医院を存続させる駒として生き続けることに不安があった。そんな時に、あれが起こった」
外科医の話は少女の内容を克明になぞっただけだった。ただ、内田は内容が重くなったように感じられた。
「妻の姉が他界した」
内田の心構えを無視した黒井の母親の死の話題に焦点が合わなかった。
「それから、妻は必死に昇進を重ねていった。警察という組織と新湯医院で、二人の後ろ盾は決別していくような感覚を覚えてね。自分は焦っていた。医師としての技量も地位も得られぬままに、ただ、医院と家系を繋ぐ為に生かされている。いつしか漠然と悲しさに浸っていた」
話に追いつくと、仮面家族という言葉が脳裏を過った。内田は、外科医の当時の心境をなぜか実感として受け入れられるような気がした。果たして、外科医に気を許せる相手は居たのだろうか。医院側に付けば、妻との溝は深まるばかり、しかし、妻との関係が医院によってもたらされたものであるがゆえに、二人は、親密にはなれなかったのだろう。真面目な青年医師が抱えた問題は、ノイローゼに近いものだったらしい。
「向精神薬。それが君の運んだ物の通称だ。あの頃は、それがないと不安で生きていられなかった」
外科医の懺悔は過去との決別を告げた。
「自分は愚かだった。涙を流して語る妻の心境を知るまでは、自分だけが辛い思いをしていると誤解していた」
「ご馳走様」
少女の明るい声が通った。
「うじうじと昔話をしていれば、自身が変わったと錯覚する。実際、自信を持てない人生を過ごしていた男が、自身の身に宿っている知識と技量、ある程度の周りの評価に気がついて生き方を変えただけの話。コンプレックスを乗り越えるためのきっかけに、お兄ちゃんが関わったのです。かつ丼、まだ残ってるよ」
内田は食事を続ける気になれなかった。外科医の話は重く。少女の発言は正反対で、ただ不快感を与えるものだった。しかし、父親の話の腰を折った乱入者は、言葉を続けた。
「お涙ちょうだいの小説でもあるまいし状況の伝わらない言葉を並べて、ぐだぐだ時間を潰しなさんな。食事に誘ったのは、昔話をするのが目的ではないでしょう。お礼がしたいと言ったのならば、まずはその気持ちを伝えないと」
内田は、突拍子もない少女の発言の裏に「男はまだ弱いままだ」という指摘が含まれているように感じた。女子中学生の反抗期というものだろうか。いや、少女の発言はより精神的な高みから投げかけられたものに感じられた。ましてや男子高校生の感情のベクトルを捻じ曲げた事実に衝撃を禁じ得なかった。
儀礼や仕来りといった事柄に通じているように思われた少女の豹変は、何も変わらない状態の打開策としては、効果的だった。
「自身が弱いだ。不幸だ。という言葉は響きが良いのかもしれないけれど、世の中の不条理から逃げる為に酒に溺れるように、薬漬けになった無様な状況を、正常な判断が持てず。独り苦しんでいたと表現するのは好きになれない。ただ、理解者が居るのに手を拱いている。そういう状況が改善された。そういう機会だったのです」
少女はドラマチックを否定し続けた。美談としないことで滑稽話の出来そこない程度で他人に吹聴する気さえ起らなくさせる。そういう予防線なのかもしれない。内田明臣はその努力に気づく気づかないに関わらず、口が堅い男であった。しかし、繰り返された否定に、過去を過去として決別しようとする少女の姿勢がはっきりと映った。
「内田明臣君。君のお蔭で何とか立ち直ることが出来た。ありがとう」
内田は、外科部長の地位に居る男の感謝の言葉がなぜ自身に宛てられるのかどうしても素直に受け止められなかった。大風が吹けば桶屋が儲かるという言葉ではないが、江里口家の問題は、部外者の行動がなくとも解決していたように思えたのだ。桶屋だけの努力で儲けが出たのなら、風にも鼠にも感謝なんかいらないだろう。あの時、内田はただ震えているだけの鼠だったのだ。もともとの元凶が黒井だったのか。目の前の少女なのか。追及しない以上真相は分らないのであるが、快く挨拶が出来ない心境で迷子になっていた。『あなたは困っている。内田くん、そういう時は、ちゃんと訊ねないといけないんじゃないかな?』思い出の言葉は、内田の弱い部分を照らし出し、咄嗟に言葉を紡がせた。
「どうして、俺に打ち明けたのでしょうか?正直、受け止め方に迷っています」
わからなかった。その素直な気持ちを打ち明けると、二人の顔が険しくなった。
「誰にでもこの話をするわけではない。内田君には身内同然の縁があると思っていてね。勝手な思い込みなら、失礼。今日はこの辺でお開きにしようか」
何一つ解決を見ないまま、新湯医院に根付いた闇を聞き知っただけ。内田明臣は無知だった。
熱帯夜が続いていた。内田は日課のトレーニングをしながら、新湯医院での出来事に思い出していた。帰宅時に玄関のドアには、明日の予定らしい案内状が挿されていた。映画の撮影だったか。少女が行った告白は、そのアポイントメントに重きが置かれていた。外科部長は、映画少年の話題に触れなかった。外科部長が婿養子である事実と、その家族関係で悩んでいた事実。その解消策として、妻である警察署職員に精神安定剤の詰まったバックを渡す。突拍子のない。偶然の重なり合いでしか成し得ないドミノ倒しの結果。家族関係が改善されたのだという。なぜ、内田が必要とされたのだろう。内田明臣は当時小学六年生だったエリちゃんが、すべてを計画したとは考えなかった。母親の元に薬を届けることくらい簡単なこと。そう思いつつも現実として、内田が清一の職場に用事を済ませに訪れたことはなかった。犯罪心理学でいうところの同じ罪を被ることで同族意識を濃くする。誰かがそれを望んだのか。あの闇のヴェールルに包まれた黒井はるが策を講じたのか。もしかすると、外科医自らが策を練り、黒井が加担して都合よく担ぎだされた結果。内輪話を振られるほどの信頼形成に繋がったのか。頭にいくら血が昇ったとしても、脳内は明確な答えを導き出せやしなかった。
内田の体力作りが示すように、明確な目標を失った惰性で生きている状況では、結果は望めないのだ。館長に訊いてみるしかないかな。女刑事の件も知っているのだろう。内田は、キョウコの父との面会の解釈を諦めていた。どうすることも出来ない疑問より、手頃に答えが解りそうな問題に没頭する方が楽なのだ。なぜ、あの場所に黒井が居たのか。新湯医院には幾つもの不審な点があった。謎を解くほどの知識がない。悪を糾すほどの地位もない。内田は何も出来なかった一日を明日の望みで締め括ったのだ。
「なるほど、明臣君は新湯に纏わる血縁関係を教えられたというわけか。部外者ではないから驚くことではないが、世間に伏せて欲しい内情も感じ取って居るだろう。江里口外科部長には兄が居てね。私の倅という関係なんだ。法律を勉強して、いろいろと世話になっている。どこかにコンプレックスを感じているのだろう。仲の良い兄弟という理想はなかなか叶わないものだ。進む道が異なったと判って以来、隔たりを持って付き合っているようだった。気づいていながら何も出来ない。いや、何もせず見守って居たのだが、互いに意識し、認め合う関係であれば、それだけで良いと思っているのだ」
昼の用事までに聞き出そうとした話は、不透明な意趣返しの内容を伝えていた。養子縁組として苗字を改める事になった外科医には、届けられた赤子の持つ暗示性が質悪なものだったろう。許嫁という決まりの元、定められたシナリオを遂行するだけのはずが、世継ぎの男児が登場しかけたのだ。思惑に狂わされ続ける男の立場は、可哀想で済まされなかった。気が触れるのも分かる。内田明臣は、終った事を掘り起こすような馬鹿なことを制止した少女の意志も汲めるような気がした。愚かだった。知りたいからという理由だけで、相手に過去を語らせる事がどんなに罰当たりなことなのか。相手が気を許して語った後に、後悔に苛まれる場合だってあるのだ。配慮の足りない自己意識を恥じて内田は館長に訊ねた。
「悪いことをしたのだろうか」
もしそこが、法廷だったのならば、責任能力の無さを非難されるような力のない呟きだった。罪の意識はある。なのに自覚がない。中途半端な青年期なりかけのモラトリアム人の嘆きとも捉えられた。
「明臣君は、拒む相手に無理を強いてまで好奇心を満たそうとしたのかな。私は出来た人間ではないが、それくらいは分るよ」
気遣いの出来る男の言葉に、内田明臣は救われた。
予定の時間は十時。盆の時期を感じ取り早馬に乗ったご先祖様が街に帰ってくる。そんなタイミングだった。
「爺ちゃん、行ってくるよ」
映画小僧が内田明臣を迎えに来たのは、内田が、館長の優しさを感じ取ったすぐ後だった。
「映画といえば、台詞回しとか、いろいろ勉強する事柄があるのだけれど、今回は無声映画を作る。内田先輩は表情の豊かさで定評があるので、指示通りに表情を工夫して欲しい」
無理難題というのはこういう言葉をいうのだろう。表情が豊かな事と、演技が出来る事は、別問題なのだ。それは、盗撮紛いの実戦を撮影したカメラマン本人も承知のはずだった。昼から夕方にかけて、撮影は困難を極めた。マイク位置の確認がない分だけ意識を役に集中するように指示される。しかし、カメラで覗かれている事実を忘れて、雰囲気に溶け込むのは素人には容易な事ではなかった。しかし、そこは、時間に追われる作業の中で妥協をし、シーンを重ねていく他なかった。
内田明臣は、周囲の期待に応えられない自身の無能さを痛感していた。テレビを見ない性分だったからこそ、役者の視点に立つという想定をしたことがなかった。この事態が新湯学院に転入した当初の失敗に重なる部分が大きいと思えるほどに、内田の気持ちは萎むばかりだった。
「明臣さん。あまり緊張なさらないで、いつものように穏やかな顔をしましょう」
黒井はるが、休憩中の内田の元を訪れて、飲み物を差し入れて来た。物語は、よくある不良映画の展開をなぞるモノだったが、内田の性格を残した主人公は、ぐれるのではなく、正義感の為に、不良たちに遊ばれているという滑稽な存在として描かれるようだった。攫われた黒井を救う騎士か何かの役回り。配役上の悪役たちがべらべらと状況を語っていく。内田は、怒りや、憐みや、虚しさといった感情をクローズアップされた表情で示さなければいけない。長文の演説を読み上げるよりも難易度が高い。そういう状況を練習不足の打開案として呈するあたりに悪意を感じてもよかったのかもしれない。内田明臣は真面目にその課題に向き合った。そのクライマックス。黒井を救出した体で始まる他愛無い笑い話のリテイクが繰り広げられていたのだった。「マジックアワー」の時間帯は過ぎ去ろうとしている。美しい二人の語らいをフィルムに残そうとするカメラマンの情熱が焦りとして、周囲に伝わりつつある切迫された余裕のない時間帯だった。
「カーット」
その声が響き渡ると、世界が変わった。いや、周囲の表情が一気に晴れやかなものに変わっていったというのが正しいだろ。黄昏に近づくに連れて表情は読めなくなる。モザイクの掛りつつある風景で切り取られた時間が高校生の幸せなひとときとして写されたのだった。
「またしても盗撮ですか」
誰かがおどけて言った。計画的な犯行の主犯格は映画小僧で、共犯者が黒井はる。被害者が内田明臣となるのだろうか。ギブスを身に着けた大男がおどけ文句の発信者だと気が付くと、明臣は「改めて、謝ってもいいだろうか」と問いかけた。「良いってことよ。撮影で、肉体労働するくらいしか取り柄のない方が悪かったんだ。最大の敵として立ちはだかるわけだから、感謝しているよ」素人に臨場感を叩きこんだ役者の言葉に、内田は深々と礼をし「ありがとう」と声を張った。一石のが投じられて波紋が広がるように、「ありがとう」が湧き上がる。そんな純粋な現場が夕暮れの一角に完成したのだった。
「お疲れ様です」
黒井はるが内田に声を掛ける。それは予感していた対応だった。しかし、内田はどのように向き合うべきか判別がつかなかった。無声映画という利点を使った撮影中に演技指導の怒声が飛ぶ。そんな特殊な環境で悠然とヒロインを務めた黒井に内田は頭が上がらなかった。今日の件以外もほぼすべての点で劣っている。その事実を突きつけられる度に、相手にされる危機を覚えるようになった。果たして、振り回されないように振る舞う事が出来るのだろうか。
「打ち上げなどの用意はないみたいですので、また、ご一緒しませんか」
食事の誘い。夏の長い一日を存分に使った撮影の後なので、内田は夕食の準備をしていなかった。しかし、空腹は覚えるのに、食欲が湧くような気がしなかった。軽く喫茶店で済まそう。そういう時に喫茶・軽食を謳う珈琲店は気が楽になる。千円もあれば、簡単なスパゲティーと食後のコーヒー。おまけで、デザートを注文出来る場合もある。黒井を初めて誘ったレストランとは質が違うが、内田の目に映った彼女は懐かしさを覚えたようだった。とても幸せそうに食事を進めていた。
内田明臣は彼女のペースに釣られて、食事を平らげてしまった。「美味しかったですね」と話しかけてくる黒井に反発する気力は湧かず。同意していた。そして、コーヒーを待つ合間に、昨日の件を聞いてみたのだ。
「昨日、新湯医院の事を聞いたよ。君がどういう立ち位置に居るのかはよくわからなかったが、一昨年の件がなんとなく視えて来たんだ。でもまだわからないままなのだ。君の話を教えてくれないだろうか」
嫌なら断ってもいい。その意志が伝わったのか、黒井の反応が想像よりも柔らかだった。
「その要求は、お断りしてもいいのですよね。では、私の意志で語らせていただきます」
意外な前置きから、黒井はるの記憶が紐解かれた。
「幼少期に家族を失うような事がありまして、母が縁を切った実家のお世話になる時期が続いたのです。居場所がなかったといえば、嘘になります。ただ、その環境に慣れてしまうのが怖かった。自立することばかり考えて生きていたのです。明臣さんは、私の特技を知っていますよね」
今日はやけに活発に言葉を継むぐ黒井に、内田は感心していた。投げかけられた問いかけの答えなんて考える間を与えずに、彼女は話を続けていく。
「針仕事が得意。というより、それくらいしか見込みがなかったので、頑張ってみたのです」
被服部に引き入れられる程の腕前を示していた。女子中学生の過去を思い返してみても、内田は、その生い立ちに明るくなかった。しかし、常識的に考えてみて、裁縫技術を十三歳までに上達させるには、どれほどの修練が必要なのか。思い立つ時期から、日毎の積み重ねがあったとしても、彼女の実績は理解の範囲を超えるものだった。
「布と糸で服を縫う。その形が安定するまでに、形見のミシンは音を上げてしまった。収入がない状態で財産を注ぎ込んでゆく時間を経て、私たちは、服を売る商売が出来るようになったのです。年端の行かぬ子供にはインターネット販売で、大人に交じって商売をするくらいしか収入を得る方法がなかった」
黒井はるが、語った、自立という意識は、母親譲りのモノだったのだろう。自立心が示すまま、焼け野原のランナーが闇市を駆け回ったように、生計を立てようと奮闘していたのだ。それは、小学児童らしさの欠片もない異様な執念のようだった。内田明臣は母親を知らないという共通項が二人を繋ぎ止めたと思っていた。実際、物に不自由をしたことがない内田と、苦労を乗り越えて来た黒井の社会はまったく別のモノだった。
「そうは言っても、手作りの服で得られる収入は安定しない。そういうわけで、取引をしたのです」
中学生の金銭感覚について論じたのならば、内田明臣の独り暮らしをする状況と一般家庭の小遣いが違うように、黒井はるの商売勘定は男子高校生の学力でも認識出来ない事項だった。その為、内田が振り回されないよう心掛けた思いは虚しく。想定出来ない打ち明け話に飲み込まれていったのだ。
「コーヒーをお持ちしました」
店員さんが二階で食事をする客の動向を感知して、用意が整うまで、長い食後の空白があった。回転率よりも造詣の深さを重んじる作りの店だからなのか。ゆったりと流れる時間は木のぬくもりも功を奏し、二人を和ませようとした。黒井は気を緩ませていたのだろう。内田は黒井に対する駆け引きを仕舞い込んでいた。アイスコーヒーの氷をくるくる回している彼女は、「続きを知りたい?」といった表情で、内田の関心具合を探っていた。
全く。撮影を終わらせたという開放感でしでかしてしまった失態を取り繕うと恥じるのではなく。堂々と、計画通りに話を進めているように振る舞う黒井の態度に、思わず苦笑いし、「それで何があったのかな」と優しく問い掛けた。
「あの夏、私達は取引をしたのです。内田さんが昨日どこまで内情をお知りになったのか知りませんので、繰り返しになってしまうかもしれませんが、私には姉が居るのです。私よりも勉強家の姉は、パソコンを使って利益を生み出そうとしたのです。その手始めにプログラミングの本を大量に読み漁っていました。お爺様にはいろいろその手の本を用意していただいたので、もしかすると、感づかれていましたでしょうか」
黒井はるの態度の変化は、雰囲気に酔ったという類のものではなく。内田に知られてしまったという思い込みから発せられた、諦めを含んだそれなのだと、その段になり内田は気付かされた。しかし、それは同時に、内田が今までに黒井はるの内情を探ろうとする素振りを続けた為に起こった運の気まぐれだった。わかりやすい語句にするなら、運も実力の内。その空間で内田の願いは叶おうとしていた。
「姉が行った取引は単純なもので、新湯医院のホームページを作るという仕事を請け負うことでした。その診察スケジュールを演算処理するカラクリやビジュアルレイアウトなど、とても私の知力では成しえない事を行っていました。後は、正式に仕事として受け入れられるようにするだけ。そこに、年齢の壁が生じていたのです」
黒井はるの事を少しでも理解しようと努力し続けていた男は、黒井はるが及ばないと言を呈して、初めて彼女の姉の存在を知った。新湯医院の事をネット上で検索した事のない内田は、ホームページの現物は見ていないのであるが、それが安っぽいものだとは思えなかった。
「年齢の壁。明臣さんは、中学二年生が出来る事の限界を踏み越えて行った。そういう行動を示したのが、あの日の内容だと伝えればよろしいでしょうか」
そういう行動。勇気と言い換えられる言葉。警察署を相手に肝試しをするような不良行為が、彼女達の生活基盤を築く礎になった。そんな言い分で納得させるのは困難なように思われた。ただ、内田は、黒井はるがバックを持ち出した経緯については、新湯医院の問題を解決する見返りに、ホームページを導入してもらう。そういう経緯があったのだと合点がいった。
わからなかった事が一つ解決した。内田は、ここに来て一つの紳士的な意識を持って居た。江里口刑事の事は彼女自身の口から聴かなければいけない。内田が、館長との会話で手を伸ばさなかったのは、彼がはぐらかす未来を知っていたからであり、黒井はるが曖昧に語ったのは、内田にその件が悟られていないという入れ知恵がなされていたからなのかもしれない。そんな共通認識の影を内田は感じた。
話が終わり、コーヒーを飲み干すと、街は夜に移っていた。
「明臣さん。これから星を見に行きませんか?」
黒井はるが望んだことを叶えてあげよう。内田は、それが探究欲を満たしてくれた彼女に対する礼儀だと。提案を素直に受け入れた。
ペルセウス流星群も末期である。街の明かりが遠ざかる場所に移動しても、理想の夜空はみえないかもしれない。しかし、望んだ光景以の発見があるから、人は空を見上げて呟くのだ。
「綺麗」
「ああ、こんなに星が見えるなんて思わなかった」
新湯医院のように古いしきたりが残った土地では、都市化を目指してはいても、夜を奪うほどの経済の発展は起こっていなかった。闇の残る夜景だって、高台を探せば見下ろせるかもしれない。静かに熱く茹だるような夜風を感じながら、内田は自身のちっぽけな疑問の蓋を閉ざした。
「私と内田生徒会長は付き合っている。そんな噂が流れているのですけれど……」
「今の状況じゃ釣り合わないだろう」
もし、内田が卑屈な答えを返さなかったら、それはそのまま嘘が本当に変わっていただろう。黒井はるの計画は、意志の強さが災いしたのか、動物の本能的な対応能力で回避される虫網のように、空を切った。
「いじわる」
寝転んで夜空を見上げている。呼吸をするように吐かれたやり取りは、余韻を残しつつも、雑味を生じさせない本音ばかりだった。
内田明臣は、虫刺されに気付いて、昨日の夜を実感した。
「タクシーが逃げるといけないから戻ろう」
流れ星を探したわけではない。ぼんやりと星を眺めて寛いだ。時間にして三十分も掛らない現実逃避をして帰って来たのだった。交わした言葉に実りなんてものはなく。変わらない日常がまた始まろうとしていた。
内田の在学している高校は、ここよりも都会にあった。日本列島でどこが都会で、どこが田舎なのか。明確な仕切りなんていうものはなく。ビルが立ち並んでいると都会っぽく感じる。駅前が栄えていると繁華街と形容したくなる。その程度で、大都会は東京辺りを指し示すのだが、それ以外はどこぞの設計会社の思惑に則った。ありふれた住宅街ばかりだった。伝統的な暮らしを尊ぶ精神が根付くような田舎といってみても、外見上は都市化しつつある街であった。それをどんぐりの背比べと比喩するなら、学力の高い進学校というのも蓋を開ければ、一流大学に入れるだけの学習能力のある生徒を選りすぐり、競争社会で成績を残せるように指導をする環境なだけであった。その程度で特記するべき存在感を社会に知らしめるような高校は稀なのだ。新湯学院がその特記するにあたう高校をどのように決めていたのか。端的に言い表すならば、良家の坊ちゃんが通うような敷居の高さではなく。学力だけで勝負が出来るそういうつまらない点で、高校を選んでいたのだった。それは、スポーツ特待という箔よりも存在感の薄さを否めなかった。血筋の縁を持ち出すような事柄でさえなかったので、外交的な進学先が内田の思い描いた未来と異なった落胆は大きかったのだ。そこまで、書いてしまうと、学校名を晒すのが名誉を傷つける結果になってしまうので、地元からは飛行機で飛ばないと時間と気力を奪われるような立地にある高校だったと伝えておこう。つまり、内田明臣の帰省は航空券の手配をした段階で一週間と期限が切られていたのだ。
新聞を読み終えるのを待っていたかのように、ご老人が内田を呼んだ。館長室に漂う珈琲の香りに昨日の喫茶店での顛末を思い出していた。黒井はるの背負う十字架の如き不幸と異常な生活の実態。聞き及んで一夜が過ぎようとしていても、まだ、纏めきれない程の複雑さを伝えられたのだった。
内田明臣はまだ理解者には成れていなかった。物事を知りたいと思い。気付かされても、理解するにはよっぽどの時間が掛かる。そういう難解な部分は必ずしも黒井に限った話ではなかった。今まで、多くの表面的な付き合いを重ねた相手は、その実、内情を探らせないことで、複雑さを仕舞っていたに過ぎない。まだ、内田自身が気づいていない事であるので、野暮な話になるのかもしれないが、内田が信頼を得た事で、物事の深みを知る権利を得たのだろう。そう、その立派な男を称えるように、上機嫌のご老人が話を始めた。
「明臣君、昨日は撮影ご苦労様。上手くいったと喜んでいたよ」
ファインダーを覗きながら納得の行くまでリテイクを要求した少年。その気迫に内田は押されていた。本当に「上手くいった」なんて言葉が語られたのだろうか。
内田は逃げた。内田は消えた。内田は遠ざけようとした。あの場に自身の個性が示すのを諦めた。無能な男はただ従うだけだった。しかし、そんな状態にいたても、お粗末な振る舞いを続けていると悲観せずには居られなかった。苦しみから開放された時、内田は、評価を恐れて足早に現場を後にした。過去を閉ざす行動が執り行われた。その後で、記憶に残るのは、負い目を感じ続けた余韻だった。カメラ小僧の指示が怒声が、原型を留めない熱量として意識に痕跡を刻んだのだ。
「自信がないです。お世辞なのだと思います」
内田明臣が謙虚な文句を発するのは珍しい。対面する男もそれには驚いているようだった。そうして、部屋に備え付けられている応接机の引き出しから一通の封筒を取り出した。そして、「明臣君はこれをどう思うだろうか」一言を添えて、内田の前に差し出したのだった。
封筒の中には、二枚の印刷物が入っていた。文面をそのまま、書き写そう。
『 謹んで、申し上げます。
この激励文兼嘆願文兼懇願文兼……決意表明文を、開いていただき、ありがとうございます。私は、あなたに命より大切なものを、救われました。
もう、すでに、文章が危うくなって来ました。なので、電光石火の隼の如く。自暴自棄から、思春期、そして、悟りし者が見せるという、忽然の鬼!なるものの思惑をご覧にいれて進ぜましょう?
NHKが死んだのは、ぼくが十代になった時だったろう。NHKの売りは、何といっても、子供たちに夢と希望の詰まった情報を届ける。にあったのです。それは、見えないもの、見ていなかったものとの対峙によるものか、何なのか……。
十代の僕は、NHKに娯楽なんて求めていなかった。娯楽ならビールの宣伝に頼っちまってる諸民放さんに遣らせりゃヨシで、そこに手を出したのが、品を下げてまで、利益を?……??利益気にせず追っかけつづけれる半国家放送だったのでは?う~ひくっ!と、とんでもない数の二日酔い者たちの好きがる画を画かない筈の反民放への絶望だったのだ。
「さあ、みんなでやってみよう、いってみよう!」それだけでよかったのだ。それこそが、NHKにしか出来ない事なのだから。なぜ、CGなんて、使うのさ、そんなのいらねい、てやんでい。男なら、ほんもんもって、夢諭せってんでい。僕は絶対受信料を払わない、それは、テレビもないワンルームだけが理由じゃない。
講談社BOXの諸先人方へ、私は、五年後小説家として、世に出ます。三五歳の人生を経て、神道、仙道、手練道に埋没する人生設計ですので、十年で、文豪の地位を、確立します。そして、山籠り、海潜り。総ての世界を取り込むのです。
だから、譲れないお願い事があるのです。第一回パンドラ特賞は、五年間待っていていただきたいのです。流水大賞の歴代大賞受賞者と、流水大先生。西尾パンドラ初代巻頭担当作家。そして、座談会メンバー一同と、豪華な顔ぶれの皆様が指揮をとり、私が受賞する。日本で一番難しく、文壇の歴史を大きく変える。最高に素晴らしい賞。それを作るのを、お頼み申す次第。
パンドラ特賞
募集要項―原稿(処女作)それに伴うキャッチコピー、あらすじ。第二~五作までのキャッチ広告(宣伝文句)・タイトルは、仮名としてではなく。絶対替わることのないようなものにすること。あとは、絶対未提出の小説を、素人として、出稿し提出すること。
報酬―西尾維新の後釜、にして、その上を行くパンドラ先導役への就任。詳細、絶対掲載の五作品をパンドラで発行。年毎二回なら、五年分の拘束。上下に分け掲載しつつ、半端が出る場合は、完全版を、銀箱で同時出版。なお、発表作品は、特賞応募時の順にしたがうこと。第二~五作の不確定内容は、仮受賞後半月刻みで、あらすじの提出を迫られる。挫折即白紙、思春期の思い出創りに。
パンドラに残りし希望を力に、ちっぽけな勇気を試しなさい。必ず、未来は待っている。空前絶後パンドラの因縁再び!?
同題掲載破り機能搭載。修羅を居切れるか私。
講談社に繁栄あれ、そして文壇の再興と、日本社会の再建に。われらは、日本語のスペシャリスト。いや、ソーシャリストだ!
講談社BOXは、鬼才の次は、修羅を作り上げた。もう、ゼロアカなんて、古すぎる。文民は、道場を飛び出し、世界の人に、平和の心を伝えるのだ。
そういえば、五作品の内に、連続ものはなしだぜ、連続性は、よいけれど。
ありがとう。そういって誕生日プレゼントを頂きに往きます。逃げないでください。絶対待っていてください。そして、待てないものを、流水大賞に、挙げないでください。お願いします。
NHKにほんまもんの娯楽を、快楽を、感動を引き起こすことのできる。日本語の素晴らしさを、伝えてあげましょう。
ネットのない僕は、販売日厳守。下克上に魅かれました。
慎みの気持より、開かれた感動が、先走りすぎました。まさに、パンドラから飛び出した災悪の如く。私の心は、手紙の中に蔓延っていることでしょう。
お忙しい中ありがとうございます。そして、五年後のクリスマス日本文学会の聖地でお会いいたしましょう。
この文章を印刷しないで、特賞要綱違反になるから。
本気、全力莫迦、のパンドラ信奉者より かしこ?』
内田の目には、支離滅裂な文章は拙さを感じさせ、意味を探りあぐねた言葉遊びは気分を悪くさせる。全体を通して意味のないものに映った。
「下手な文章だと思うかな。だがしかし、感情がそのまま形になっているのを目の当たりにすると、意志の籠もった文句ほど説得力のある言葉はない。文章じゃなかったら、衝撃を躱せない。それだけの力が彼にはあった」
以前、『パンドラ』を内田に紹介した男は、その本に興味を持つに至った経緯を解き明かした。情熱がそこにはあった。それを冷静に眺めると、ただ狂っているようにしか見えず。簡単に否定してしまえるようなものだった。
もし仮に、NHKを擁護するならば、資金の潤沢な組織がいち早く最新の技術を導入することにより、一般企業がノウハウを授かる足掛りが出来るという。そういう先駆者的な役回りが上げられるだろう。懐古主義という言葉は、言い過ぎかもしれないが、一億人の人口があれば一部の意見者からは、落ち着いて安定した番組と、前衛的な挑戦に満ちた企画。両輪を工夫して飽きることのないような情報提供をして欲しいと、いろいろな言葉を使って指南されても可怪しくはない。しかし、彼が思い描くように日本語の凄みが足りないため、指摘の方法を誤り、「つまらない。つまらない」と文句ばかりを並べてしまって居る。そんな推測も出来るのだ。
内田明臣も悩んでいた。この文章の欠点を挙げる事は出来ても、意志を挫く事が出来ない。そういう実直さに満ちた文句が、処理を鈍らせ続けていたのだ。
「明臣君は、自信が持てないことには、素直な表情をする。それがそれで、周囲に気の置けない奴だと思わせる。だけれど、初めは誰でも意気込みが大切だと思わないかい?」
内田が用紙の内容に処理落ちの警鐘のような頭痛を覚えていた。感情に流されては危険だ。この文章には危険が潜んでいる。物事が定まりきらない未熟な状態で発信している欠陥のある提案だ。内田はまさに四日前に起こした暴力行為を通じて、判断の誤りが自身の身を危うくすると学んだばかりだった。そう考えるからこそ、出版社に対して、朧気な夢物語を語る行動を危険と判断したのだった。
「人は誰しも成長する伸びしろがあると思わないかい。私が、映画館建設の出資者になることだって、五年前には誰も想像しないことだった。未来を語るというのは、それだけで恵まれた才能なのだと感じる。逆にいうと、若者の特権として、幅広い夢が許されている」
ロマンを語る男は、手紙が送られて来たであろう封筒を手に取り続けた。
「一昨年の冬だった。彼は二十歳の誕生日を前に、未来に対する希望を書き残したのだ。文中の言葉を拾えば、同じ手紙が出版社に届けられたのかもしれない。まだ、結果の出ていない事柄を語られても君は困るだろう。しかし、この手紙が一つの結果なのだ」
内田明臣は聞き手に徹した。館長は語り始めると話が長い。それは、単調でつまらない話になるかもしれない。出来る限りの工夫を凝らして、二時間ほどの演目を紹介することにする。なので姿勢を崩し、楽にして眺めて頂ければと思う。要約すると、紳士的な老人の苦手とする他人の話が、そこで紹介されたのだった。
「新湯学院についてどう思うだろうか。まだ、開校から十年しか経っていない私立の学校法人。多くの者は何も知らない。明臣君ならばこそ、学院の持つ異常さを知っているのではなかろうか」
転校生として内田明臣は、生徒の成長を第一に考える特殊な教育方針に驚いた。驚きという一過性の感情だけではなく。戸惑いから挫折を味わうまでのフルコースを嘗めていた。
「本来、学校教育はそんなにデリケートになる必要はないのだ。落ち溢れが出ても、塾がある。基本教育だけで優秀な子供が育つと考える親は、それだけで浅はかだ。そんな厳しい立場に立ってもいいと思うのだが、新湯学院のように少年少女の成長を否定しない配慮を目一杯する仕組みが作り上げられている。それは本来親が子供に施すべき育みの一部だと思うのだがね」
今まで、一切学院の事情に触れなかった男の価値観に内田は驚きを隠せなかった。理想を掲げるのであれば、学校教育のあり方が万遍なく平等であり、家庭での躾などの行いで、個々の人格形成がなされるのが望ましい。人生の道筋を丸投げするような親を否定する。そんな厳しさがあった。
「しかし、現実はそう裕福な家庭ばかりではない。明臣君は、親の居ない子供の気持ちがわかるかな」
不意打ちのような質問。瞬時に、黒井はるの顔が浮かんだ。それと同時に、内田自身も親を持たない身であると思いついた。
「先ほどの手紙を書いた青年は親を失っていた。親が連帯保証人にサインをしていたが為に、心中を図ったのだ。新湯学院が創立して二年目の春に彼を迎え入れた。別け隔てなく平等に能力を磨ける学校を目指して動いていた」
もし仮に、親を失った子供の話を広げるならば、父親が母親を刺し、その最期の苦しみ様に肝の座りきらなかった男は自殺を諦め。酒を呷って寝た。そこに、警察官が踏み込んだ。法廷でなされた小学五年の証言は、酒によって妻を刺したという男の共実を裏切り。子供の為に刑が軽くなるよう嘘を吐いてしまったと涙する殺人犯の罪を決定付けた。自己破産をなぜ申請しなかったのか。社会保障からの再生を模索しなかった男に、法治国家の法を理解しない者への言い分が突き刺さった。もしかすると、男が世間から姿を消す方法として、服役を選んだだけという詮索も出来るのであるが。事実としてはっきりしている事は、孤独な少年が生まれた。それだけだった。金の切れ目が縁の切れ目。親が崩した社会の中で少年は自身を見失った。
「様々な重圧を受けて、学院を運営する。その当時はよく教員がここを訪れていた。模索を続けていたんだ」
二年目の春。全職員を召集して行われた理事長の演説は、新設校で一年を乗り越えた者達に、大きなハードルを知らせるものだった。孤独な少年は法の元で児童相談所の手続きを経て、福祉施設から転校先の小学校に通っていた。その後、中学校に進学していく。手続き上、なんの問題もない。その一連の成長に、口を挟む者が居た。
「事件を経て、親を失い。転校した生徒が、進学で元の学区の生徒達と過ごすことになる。そこに子供への配慮はあるのだろうか。さらにいえば、寡婦家庭ではない孤児に、高校進学への道筋を描く十分な援助は今のところ整っていない。新湯医院はその子供を受け入れる用意をして、今日、面会に来たのです」
親が居ない。家がない。生活を安定させる不安がある。実際、保護という観点だけでいうならば、少年は社会から阻害されるような位置付けには至っていなかった。ただ、子供達の持つ無邪気な好奇心が少年を蝕む可能性を考慮して動くものが居なかった。つまりは法の元の平等という言葉で、割りきって事務的に物事を消化し、もしも、問題が発生したならば、また、規則に鑑みて解決を図ろう。そういった後手に回るのは社会の仕組み上仕方がないと言い切ってしまう組織と、男のプライドが衝突したのだった。
その件を深追いするならば、発言者について説明しなければいけなくなる。それは、江里口という男であった。不条理に人が傷つくことを嫌い。医者という肩書を身に着けながらも、解決出来ない問題を常に探している物好きだった。その行動が、多くの反感を買う事も常だったが、「抵抗されて諦めるなら、馬鹿だよ。納得して終れるよう手段を尽くせ」男の言動は相手の頭が垂れるまで、容赦がなかった。ただ、その振る舞いに間違いが無いように並外れた注意力を注いで事にあたる。そういう医者としての素養が滲み出る男だった。
「常に過ちを犯せない危機感を抱く集団を造る。私はそういうのは好きじゃないんだ。人間、間違うからこそ反省があり、成長があり、感動がある。そう思っているんだよ。もしかしたら、内田生徒会長は、新湯学院の流れの中で人間らしさを忘れてしまったのではないかと、戸惑うこともあるのだ」
それを老いぼれの戯言だと切り捨ててしまっても良かった。内田明臣の心が、館長の精神性から離れてしまった現状を、二人は同時に感じていた。それを打ち明けられた事で、内田は不安を感じた。思いの誤差を正しく言い表すならば、一寸先の闇の中に踏み込もうとする勇気があればこそ、知識が必要となる。しかしそれは、必ず闇を照らしだす程の万能な物には成り得ない。完璧を求めるあまり安全な方を選択し続ける。それが内田が囚われた「つまらない日常」だったのではないか。刺激が足りないのは、意識して危機を回避し続けたからであり。その心構えが、些細な事を悔やむ精神を作っていった。明臣は臆病な男になっていた。
「親を失った少年は、小説家を目指した。前途多難な人生を過ごしたからといって、それだけで成れるならば苦労はしない。だからといって、諦めさせるのも傲慢というものだろう。ただ、依り代を失わないように、『君の人生は本にして切り売り出来る程安っぽいものなのかい。私は、フィクションが読みたい。同情はしないよ』と激励を送ったのだ」
内田明臣は考えた。夢見がちな文章に追記された五作品という規定は大人の忠告を反映したものだったのだろう。状況を整理するならば、館長の一言を受けてすぐに用意した提案ではない。卒業から日を重ね、手紙に認めて送る。その少年の真面目さと、二人の信頼関係に感じずには居られなかった。そして、今、館長が突きつけているのは、内田自身の未発達な部分だった。人間らしさ。内田明臣は黒井はると出遭ってから学力的な面で、飛躍的な進歩を遂げた。そしてある程度の達観した物言いが出来るようになった。しかし、それ以降の成長がなかった。周囲との誤差を補おうとまごつき続けていた。その僅かな距離感はもしかすると、世代特有の反抗意識が導き出した錯覚だったのかもしれない。はっきりとしない意識の中で、内田は、周囲の言動に流されまいと反発を続けていたのだ。昨日の黒井はるに返した「釣り合わない」という言葉も、本心ではあるが、相手を傷つけていたのではないか。館長が示した言葉に内田は、友好的な関係を自身が裏切り続けたような罪悪感を覚えさせられた。一人では生きていけない人間が、まるで周囲を否定し続けられるような、間違えや妥協を許さない己の挙動を認知したのだった。
「ちょっと用事を思い出した」内田明臣は席を立った。「まだ、出発には時間があるようだが、気をつけて行け」紳士的な男らしい温かさのある強い声を聞き部屋を後にした。
内田は穏やかで居られなかった。黒井はるを探していた。とは言っても緑の館を出てからの足取りは戸惑いを感じさせず。一直線に新湯医院を目指していた。
黒井はるに会ったら、謝ろう。自分の感情を優先して無造作に相手を否定する言葉に意味などない。今まで、彼女の事を理解しようとしながらも、気持ちを汲もうとしなかった仕打ちを悔やんでいた。だから、炎天下の中、汗を厭わず走り続けたのだった。
二度あることは三度ある。その諺は、災は注意を怠れば、何度でも発生するという意味合いなのだ。内田明臣は途方に暮れた。あの謀ったような出会いは好意だったのだろう。仏の顔も三度まで、知らぬ間に使い果たしてしまった思いやりは医院に残ってはいなかった。エリちゃんも現れない。彼女の父親ともあれっきり弁解すらしていなかった。今回の帰省は周囲に落胆を振りまいただけなのではないか。自身の不甲斐なさにつくづく苛ついた。
そんな惨めな男が、医院の玄関先で携帯を使っている人を見た。「これから、コレがないと困ることもあるでしょ」メモ紙の言葉が蘇る。内田の携帯には殆ど電話番号が登録されていなかった。個人情報の保護を煩く布教する国策のお蔭か連絡もにも電話番号の記載はなく。使う用途が、キョウコとのメールばかりだった端末には、当時内田が手にしていた数少ない繋がりが登録されただけで終わっていた。ディスプレイには「江里口刑事」と表示されている。繋がるだろうか。
蕎麦屋の腕は上達しない。もしそこが医院の傍の蕎麦屋でなければ、流行らなかったであろう。それほど、質まずまず、量まずまず、価格帯妥当のどこにでもある閑古鳥が今にも鳴きだしそうな御食事処だった。しかし、その店には長い歴史が詰まっていた。親しみの念は積る事はあれど、薄れる事がない。なぜなら、お見舞いをした相手を思いながら啜った麺の味は、思い煩いを癒す特効薬に化けていたのだ。
内田明臣はその味をどのように感じていたのだろうか。電話に出た相手は、「落ち着いて、今近くにいるから待ち合わせしましょう」とその食事処を指示した。
「待たせたかしら」
女刑事は内田との再会の為に用事を早急に済ませた。この語り口では、内容が分らず不審がる事だろう。例えば、薬物課の女刑事が事件の参考人として精神病棟に入院している者を見舞っていたとしたならば、内田の電話に対して素早い対応を取っていても不思議ではない。医院内で携帯の電源を切っていない事を指摘されたのならば、その非難は躱せないだろう。厳しく指摘するなら、課長クラスの要人は携帯電話を常に繋がる状態にしておかなければいけない。そんな決まりがないのであれば、内田の着信を確認後に折り返し、その際に蕎麦屋の待ち合わせを申し出たとすべきだったのだ。しかし、そうなると打ちひしがれた男の苦悩をさらに長々と書かなければいけなくなる。繋がらない電話に絶望し自身の都合ばかり優先して生きてきた惨めな男が、掛け返された電話の主に感動する。もしそんな瞬間に浮かれてしまうような安っぽい内田を描いてしまったなら、悔いが残るだろう。それと予定の頁数で話を終わらせる英断として、ここは、筆の誤りを隠し通す事にするのだ。
内田明臣は、江里口刑事に聞くべき話を纏め切れて居なかった。咄嗟の判断で繋がらない未来さえある馬鹿げた選択をした。それが予想を裏切る形で待ち人を引き寄せたのだ。「先日はご馳走様でした」と内田は医院での一件を伝えた。その流れで、外科部長と令嬢の二人に不快な思いをさせたのかもしれない疑念を打ち明けた。黒井を追っていた男が、そんな話をする必要があったのか。黒井はるの叔母にあたる刑事に事情を告げれば、何か情報の抽斗を広げられるのではないか。そんな淡い期待があった。そしてその勢いのまま、「今、黒井はるさんを探しているのですが、心当たりはありますか」と問いかけた。
女刑事は、内田の粗筋を丁寧に聞き取った。それは、二年前の夏に重なるような光景でもあった。悩みながらも結論を求め足掻く青年に、再度、「落ち着いて、彼女には心当たりがあります」と宥めつつ語りだした。
「アキくんは、黒井さんの家系の話を聞いたのでしたね」
内田明臣が黒井はるを探す手段として、女刑事に相談を持ち掛けた。そうなれば、家系の話を知っているのだろう推測が立つ。ただ、どこまで、知っているのか。外科医が部外者である内田を信用したのとは違う推し量りが始まったのだ。
「そうですか、私が叔母であり、新湯医院の方針の元で出来ちゃった婚を認められなかった過去まで知らされたのですね」
電話越しに「人の目の届きにくい二階で待ち合わせしましょう。先に蕎麦でも食べていて下さい」と注文を付けた時点で血筋などに纏わる話の決着を付けようとしているのだろうと心構えをしていた内田は、纏まらないながらも尋ねられるまま、言葉を交わしていた。
「アキくんは、黒井さんの境遇を知って、どのように思われたのですか」
「どのように~」という言葉が意味するのは、どんな感情が浮かんだのかと言い換えられる。可哀想だとか同情したとか、そんな言葉ではなく。ついさっきまでの行動からすれば、恋や、愛だのと言葉が浮かぶべきだった。しかし、内田は頑張っている彼女に浮ついた感情を抱いては居なかった。そして、返事が詰まった。
「彼女の事を知りたいと想う気持ちは大事なことだけれど、自分の事を知るのも大切な事なのよ」
女刑事は内田の煮え切らない感情を無視して、話を進めていった。その口振りを綺麗に分解してしまうと、今までの前振りは本題を語るための口実に過ぎず。黒井に気を取られて、聞く耳が遠のいて居る内田の注意を惹くための緻密な語りだったのだ。
「清一さんとは打ち解けたかしら」
内田明臣にとって清一という男は父親である以外は謎に包まれた存在だった。そういうぶっきら棒な説明で済ませてしまえる程、興味を抱いても裏切られる軽薄な故の不信感が募っていた。そうはいってもご存知の通りの事件を経てから、近くに居ても疎遠であり、信用を示しはすれど打ち解けるような人間味は薄い。そんな他人行儀な付き合いが続いていた。つまりは、蟠りを解消出来ず、興味を失ってしまった蚊帳の外の親父だった。そんな状況であるから、二年前の返事が事務的なものであったのであるし、その言葉の質から二人の関係性を悟られてより踏み込んだ質問を示されたのだった。高校進学の折の面会時に、親心のようなものを感じ取っては居たのだが、明臣は、清一に対して微塵も興味を示していなかった。同じ言葉の連続で飽きている読者の為に丁寧な解説をすると、内田明臣は働く高校生の姿を目の当たりにした時に、今まで、養われる身であるのが当たり前と思い込み、まったく見向きもしていなかった親父の影を感じ取っていた。そんな深層心理で興味の範囲外に追いやられた男との共通項に触れられた余波が彼への衝撃をより大きくしていたのだ。
内田明臣の事をカウンセリングする女刑事は言葉の淀みや記憶の拠り所を拾い集めて、青年の抱いている問題を浮き彫りにしていった。その手法は、仲間意識の強い集団を崩す常套句を用いた人心掌握術だったと伝わるだろうか、それは沁みついた職人芸であり、捨てることが出来ないくらい女性は刑事を極めていたのだった。そうなれば、向かい合っただけで内面を剥き出しにされてしまう未来を決定づけられた内田への同情の念さえ湧いてしまう。江里口の血筋はそういった修験者染みた登り詰めるまで険しい鍛錬を欠かさない気質があった。
「この前は、少年係と自己紹介しましたが、本当は、薬物係の刑事なんですよ」
内田は打ち明けられた事実に微塵も衝撃を受けなかった。それは、相手が刑事である以外の面で新湯医院と繋がりがあるという関係性以上に意表を突くような話題ではなかったのだ。「そうですか、それで、あの一件を揉み消したのですか」薬物係の頭にもなればそれくらいのことが出来るのだろう。苦しめられた時間の念を込めた皮肉が口を突いて出た。医院と警察。一般人では到底敵わない組織に翻弄された少年の記憶は清算のしようのない過去になっていた。なぜ巻き込まれたのか。黒井はるの行動動機すらわからず、理不尽な事件に内田は気持ち悪さを感じていた。
「本当はもっと、早く伝えるべきだったのかもしれないけれど、アキくんの顔を見たら、まるで知らない人のようだったから」
女刑事は勿体ぶって話を澱ませた。もっと積極的に内田明臣が話を聴く姿勢になっていれば、無意味な駆け引きはいらないはずだった。しかし、「知らない人」と赤の他人を前にして、当たり前のような言葉を用意してくるあたりに、内田が無頓着で聞き流しはしなかった。
「『アキ君』どうしてあなたは俺の事をそう呼ぶのですか。親しみを込められるような関係はまだ築いていないと思うのですが」
違和感をそのまま相手にぶつけたのは、相手が公務員である以上揉め事を起こさないと見込んだ姑息な出かただった。きつい言葉に頬を強張らせ目頭を紅くする女。彼女は、悲しみを覚えていた。その状況で、「いい、よく聞いて」と凄まれて、お願いを聞き入れない薄情者がどこに居るだろうか。内田は、滞りなく受け身に転じたのだった。
「明臣君。あなたは私の子供なの。誰からも教えられなかったのね」
たったそれだけの話の為に、どれだけの時間を費やしたのだろうか。早々に気付かれた読者の方は茶番が終わるのをまだかまだかと待ち焦がれていたことだろう。新湯医院の陰謀で初産を公にされなかった女の子供が、カメラ小僧だと思い込んでいた無知な青年は、物事を整理するのに時間が掛った。また、嘘を吐かれているのではないか。そんな思いも過る。しかし、医院令嬢と送り付けられた児が同い年の幼馴染という点で、意趣返しの歪さが浮き彫りになっていくのだ。そうすれば、悲劇の母は、初産の子をどこに引き離されたのか。まぁそんな面倒な経緯を書き連ねるのも馬鹿馬鹿しい。ただ、内田清一と女刑事が明臣の親だった。そんな血縁関係が明かされたのだった。そうなれば、内田が日々鍛錬を怠らなかった体力作りも、黒井はるに追いつこうと努めた思い出も、すべて遺伝子に刻まれた生存本能の一端だったと解釈できてしまう。江里口の血縁で打ち解けた新湯医院の外科部長も、あの令嬢も、何も知らない明臣に何度も機会を与え続けていたのだと悟らされたのだった。
「刑事さんの言う事が、本当かどうか、今ここで証明を求めるような野暮はしません。今度は、嘘ではないんですね」
「ええ」と返された言葉が内田の心に決着を与えた。その一瞬は怯えを帯びた静かな時間だった。「そうですか」感動なんて安っぽい言葉は浮かびやしない。ただ、今まで持っていなかったものを手に入れてしまった。そんな不安が降りかかってきたのだ。わかり易く伝えるなら宝くじで大金を手にしてしまった瞬間と同じように、築き上げた人生が一瞬で姿を変えるような。そんな落ち着かない状況に置かれたのだった。どうにかその気持ちを落ち着かせるために、言葉だけは淡々と、冷静を装い。そして、一瞬前の自身に戻ろうと、黒井の話を引き出そうとした。
「だから、黒井はるが俺に肝試しをさせた」
親子との再会は感動的なものだっただろうか。望みもしない状態での出来事は、偶発的な事故にほかならず、内田は穏やかではいられなかった。ただ、すべての辻褄が合った事で、事件の全体像が観えたのだった。そうして、過去の整理を終えた男が望むのは、一つだけだった。
「黒井にお礼がしたい。どこに居るか、知らないだろうか」
今、理由を述べて席を外さないと気まずい思いをする。そんな予感があった。親父との接し方に戸惑っている青年が、意識すらしていなかった母親にどんな振る舞いをすべきなのか。わからない。わからない以上は、女刑事に過去の柵を用いて望む情報を得る。そんな打算的な振る舞いを押し通すしかないと心得ていた。
しかし、その行動に待ったをかけるように、
「母との再会を喜んでいないのに、お礼をしたいとは、随分ちぐはぐな話ですよ」
女が発したのは面倒な事から逃げようとする内田明臣を射すくめる指摘だった。そして、矢継ぎ早に説教が始まった。
「薬物係に務めているとね、人の弱さをよくよく見せつけられる。昔より楽という恩恵を受け取りやすくなった社会では、辛さから逃げる為に薬を求める者が後を絶たない。医院の娘が言うのもなんだけれど、限度を過ぎた薬物依存が、今の日本の姿を映していると思うほどよ。誰もが、生きていれば不具合を抱える。それをどう処理するのか、騙し騙しでも過ごさなければいけない。その苦痛に耐える為に必死になるの。アキくん、人が弱いのは、必死では生き続けられない限界のせいなの。だから、必死になれる間に苦痛の元を絶とうと模索する。その手助けが出来たのなら、喜ばしい事だと思わない?」
刑事が人は更生すると理想を語った。それだけで済ますわけにはいかない問いかけがあった。黒井はるが描いた苦痛の根絶がなされたのか。新湯医院の外科部長は立ち直った。それだけで良いならば、内田が感謝する意味がない。内田自身が、飾ることなく見つめなければいけない事案。家族間の対話が必要だと示唆されたのだった。それは、母親と死別した黒井には叶わぬことである。理屈だけを並べても、人が成長の一歩を踏み出すことなんて出来ない。どうすれば良いのか、悩みが渦を巻き始めると、内田の予想通り先行きが怪しくなった。
「アキくんは男らしいから寡黙でも様になっているわ。だから、私が、あの人みたいに何か母親らしい助言をしますね」
それは内田明臣の為に認められた言葉だった。
「人は弱く。間違いを経験するもの。恥ずかしくない生き方っていうのは、最終的に納得出来るよう全力で問題に向き合う決意のようなものだと思うの。だけど、勘違いしないでね、警察だって犯人を一人で追い詰める事なんてしない。仲間の力が必要な時は頼ってでも信念を突き通す。そんなことが出来る大人を目指して。あなたは出来るそう思うわ」
台詞回しを語るなんて愚問である。日常生活で咄嗟にその言葉を使ったならば、小説でもあるまいし飾り過ぎだ。と訝しく思うだろう。江里口刑事は明臣に伝える言葉を何遍も何遍も考えていた。どのような言葉を伝えるべきなのか。その言葉は清一の意に添うものであり、自出を辿るものであり、未来を照らすものでありたかった。そして、思いの丈を込めて伝えた。温かい声色だった。
内田明臣走っていた。予定ではその必要がなかったのに、寝坊を冒した哀れな人のように焦りを隠さずに走り続けた。それは薬物係の聖母様が明臣に伝えたいとも簡単な進むべき道のせいだった。「はるさんはアキくんを待っているはずよ。私はもう引き止めない。元気でね」何もかも忘れたかった。だってそうだろ。内田明臣は引き離される運命の下で母親と再会したのだ。母親らしい事をしようとしている女刑事が、女心を教えてくれたとして、それに報いる準備がなかった。ただ、準備不足なら黒井に伝えなければいけない事がある。はっきり、納得させる言葉を伝えなきゃいけない。二年前の成り行きで進学先に隠れたのとは違う。別れ方を探していた。
駅のホームには黒井はるが居た。明臣が飛行機に乗るならば、ここから乗車する。地元民なら誰でも分かる通過点だった。黒井はるの考えている事をいまさら記す必要があるのだろうか。黒井には江里口の血筋が流れている。そういう説明で納得出来るだろう。「明臣さんと会って話をしたい」それならば、家に押しかけることも出来ただろう。私設書庫でも可能だった。運が良ければ、病院で鉢合わせもあり得る。しかし、勘付いていた。黒井はるの求める答えが導かれるとは限らない。その際の逃げ場として、旅立ちの場所で待ち続けたのだ。
いいか、編集長。よく聞け。二人が結ばれてめでたく遠距離恋愛が始まったとしたならば、今後はケータイ小説の体で物語が進むことになる。「会いたい」「辛い」「今何しているの?」そんな言葉を黒井に書かせて満足か。メールの文章に一喜一憂する乙女心は、どうぞその手のスペシャリストに原稿を譲ってあげてください。出来ない。出来ないものは出来ない。黒井がこの小説の中で幸せを謳歌する事は有り得ない。なぜなら、内田明臣はキョウコに惚れてしまっているんだ。たったそれだけの理由だ。その事柄が、これからのクライマックスの主題に成って行くのだが、内田が、黒井はるに、「キョウコを好きだから、お前とは付き合えない」という言葉と告げるだろうか。面白くない。本当に、情けない。物語の終盤というものは、積み重ねが柵が多すぎて、予定消化のやり取りしか書く事が許されない。だから、ちょっと憂さ晴らしに、こんな駄文で気持ちを落ち着かせるのだ。
日が照っている夏は日増しに暑くなる。青年が彼女の姿を見つけた時には、喉が枯れるほど汗をかいた後だった。
「明臣さん出発には早いようですが、大丈夫ですか」
ハンカチを手に息絶え絶えの男を介抱しようとする。館長は彼女を献身と讃えた。それに間違いがないのだろうけれど、内田がその優しさに応える気がなかった。その為、悲痛な情景になっていた。日陰のあるベンチに移動し手提げから飲み物を取り出す。内田は次に訪れる親切が恐かった。
「どうして、君はそんなに」
「明臣さんあなたはどうして」
二人に関係のない駅のアナウンスが鳴り響いていた。蝉も忙しなく鳴き続けている。二人の静寂が何を求めて居るのか。踏み出す勇気を持っていたのは彼女の方だった。
「どうして、そんなに怖がるのですか。避けようとするのですか」
彼女が激高する事はなかった。しかし、その叫びは内田に届いていた。「釣り合わない」と言った時もそうなのだ。内田明臣は黒井はるの近くに居ると自身の劣等感に恥ずかしい人間なのではないかと思い煩うことがあった。だからこそ、強くなりたかった。肉体的な面でも、精神的な面でも、知能的な面でも、どこか一つ抜きん出ているだけで恵まれているという感覚に気がつくことはなく。黒井はるというほぼ完璧に近い。その世代で比較すれば、完璧を通り越した超人的な存在に全体像で向かい合っていたのだ。馬鹿だった。よっぽどの馬鹿だった。彼は阿呆なんだよ。分かり切った事。視線の先の相手の長所は良く見えて、自身の長所が貧相に見える。その客観を見失った判断では、内田が自信を抱くことなど出来なかった。
「明臣さんは私にはないものを沢山持っています。それをここで語らせるのですか」
黒井はるが新湯医院に出入りしていて、医院の令嬢とも付き合いがある。だとしたならば、この状況を飲み込めないわけがなかった。だから、先ほどの叫びは疑問ではなく。糾弾の質が込められていた。向き合ってくれと願いを込めていた。「自信を持てない人生を過ごしていた男が、自身の身に宿っている知識と技量、ある程度の周りの評価に気がついて生き方を変えただけの話」血筋が語る物語なんかではない。二年前、薬に溺れた男が外科部長を務めていたのだろうか。係長と部長単語の意味だけを比べればその差がわかるだろう。地位を築く為に生き方を変えた男が居たのだ。内田明臣はその場で知識や技量を評価に繋げる術を持っていなかった。しかしそれは、世間一般の高校生では劣っていると指摘されるような事柄ではなかった。生徒会長を全うした後に行うこと。進むべき道。それが描けていなかった。その点に、大きな負い目を感じていたのだ。
「ごめん。俺にはわからないんだ。どうして君は優しんだ」
泣きたかった。いろいろな人から好意を向けられても、それに応えられない未熟さ。その感情に苦しめられる男は、彼女の言葉に励まされていた。いや、励まそうという気持ちに応えよう努力して、充てなく藻掻いていた。
「私達は愛情が欲しかった。母親の愛を探した。そしたら、娘の為にお洋服を作ろうと意気込んでいた面影が蘇って来たのです。それなら誰かが願いを叶えないといけないよね」
黒井の言葉が乱れていた。内田明臣は黒井の執念の源を知らされた。今日に至るまで、母親を意識せずなんの欲望も抱かなかった明臣は、親の願いを叶えようとした子供の必死さを十分に理解する下地はなかった。そんな経験不足の身であっても凄みを感知出来る程、黒井はるが成した柄は異常だった。その求めた生き方の延長線上に、他人に対する優しさがあったのだろう。
「親を失った不幸な子供とは見られたくなかった。それだけなのです」
内田明臣は育ちの良さを全面開放している彼女に抵抗感を感じていた。しかし、それが彼女の認められたいと願い続けた姿だった。不登校児というレッテルの裏で周囲を驚かせる程の発達を遂げた少女。その影の努力を聞き齧っただけで、凡人にはついて行けないと壁を作ってしまう。だがそれではいけないのだ。もしそこに居るのが内田明臣でなかったなら、仮に女子生徒同士の会話だったのならば、黒井を抱きしめていたことだろう。そのまま感情に任せて涙しても良かった。苦しみや哀しみを背負って生きる彼女に代わって泣くことで綺麗に纏められたのかもしれない。だが、そんな事にはならなかった。
高校生二人がベンチに座っている。時刻表から離れた空間に慌ただしく行き来する人達の関心は届きやしなかった。内田は黒井の肩を抱いていた。寄り添い落ち着くのを待った。彼女が気を許している。そんな事はわかっていたのだ。どのように別れるのか。内田は必死に言葉を探した。
「俺はこのままではいけない。君は素敵な人だ。誰もが認めるだけの才能がある。そして、何より優しい。俺は、今までに母親なんて想像したこともなかったが、君が語った愛情という言葉に何か、間違いかもしれないが母性のようなものを感じた。それはあの夏から君に与えられたものだったのかもしれない」
内田が語り始めた言葉は抽象的で、思い付くままの勢いだった。一緒に勉強した日々や、励まされた時間。生徒会長になるまでの応援者として尽くした黒井はるは、同級生なんて間柄で伝えきれない恩人だった。だからといって、いつまでのそのままの関係を続けるわけには行かない。
「君を嫌いなわけじゃない。ただ、優しさに溺れてダメになるのが恐いんだ。だから、いまのままでは君の気持ちに応じられない。ごめん」
話はそれで終わってしまった。「わかった」と声がした。
列車は人を乗せて移動する。各々が目的の土地に消えていく。内田明臣は、その夏、目的を果たせぬまま、故郷を後にした。返せぬままの携帯電話に「黒井はる」の名前が刻まれた。それと、「江里口刑事」の名前が削除された。
出会いは別れの始まり、感動は落胆の呼び水に過ぎない。しかし、積み重ねられた思い出が人生を幸福に導く。
内田明臣。お前は幸福を感じているのか。まだ若干の頁数が残っている。後日談でも書きながら、この第一部を終わらせようと思う。
「なかなか良く撮れてるじゃない。それで、編集の方を私に頼むって事はそれなりの見返りがあるんでしょうね」
病室には少女の声が満ちていた。
「内田生徒会長と黒井はるのロマンス。そんな筋書きを書きつつ、あれこれ考えてみたけれど、思っていたより、逞しいのね彼。なぜかしら、もうちょっと弱々しい文学青年かと勘違いしていました」
声の主はパソコンのディスプレイを見ながら動画の編集と字幕を打ち込んでいる。
「この顔いいわね、恋をしている乙女。そのまんまじゃない。なのに、どうして片思い止まりなのかしら。いや、だからこそここまで美しいのかもしれないわね」
BGMの選曲、フェイド操作やら細々と画面に映り込むウインドウの数々。映画編集の知識がない身では画面に映る単語を拾うことしか出来ないので、何をしているのか適切に伝えることは出来ない。
「で、あなたが告白したらなんて返って来たの」
病室で佇んでいた少年は言いにくそうに顔を歪めた。
「答えられないの?」
理不尽な圧力。女がその空間の支配権を握っている。上下関係が変わることがない。そんな主人の命令が少年の口を開かせる。
「きっと、はるは振られるわ。だから慰めに行けば、良い事があるかもしれないわよ」
言葉の主は先程の女である。そのアドバイスは内田明臣の出発の日にカメラ小僧に伝えられた。もうすでに、名前が明かされていた覚えがあるので、本名で語ることにしよう。
宇都良仲蔵は宇都良家に養子として迎えられた子供である。館長の長男の息子という位置づけで生活をしているのであるが、婚姻関係の都合で、実際は館長の養子と戸籍に記載されている。そんな説明が必要なのか。まぁ、古典落語で言えば、そういう身分をしっかり語ることにより、生来の苦労というものを伝えるのである。が、現在の日本に置いては、どこの家に生まれても苦労が絶えないのであるから、用のない噺だったのかもしれない。
仲蔵はカメラマンという肩書を好んでいた。そういう生き方をするんだ。それは、安っぽい入れ知恵のせいだったのかもしれない。皆、カメラの前では笑顔になる。そんなどこかの脚本家が使った台詞を鵜呑みにして、そういう幸せに立ち会える生き方をしたいと考えたのだ。しかし、それは記念撮影という状況下でのみ語られる理屈であって、カメラが笑顔ばかりを写す道具かと問えば、非ユークリッド幾何学のように例外が思い浮かぶだろう。仲蔵に話を戻せば、彼は彼の哲学の中に、カメラの神秘を感じた。そして、夢を抱き目標を掲げ、進んで来たのだ。
腐れ縁の医院令嬢と先ほどの女。どちらも気が強く。優しさの欠片も感じられないサバサバした醜態を知っていればこそ。彼は黒井はるに夢中になった。子供は単純に優しい人に惹かれるのだ。そうして、思いの丈を伝える為に、八月十六日月曜日の駅に向かったのだった。それが、ハイエナのような行動だったとしても、一つの義理立てとして振られるのを待ったのだ。なかなか中学生にしては、律儀なやつなのだ。
離れ行く列車を見送ると、黒井はホームを後に改札口に向かった。駅の出口には図ったように少年が立っていた。
「明臣は、はるねぇの事なんて言ったんだ。俺は誰よりも大切にするから、振り向いてくれよ」
真摯な叫び、又は訴えというのだろうか。その場に居合わせたティッシュ配りのアルバイトが二人の関係に興味を示したりなどしていた。そうなれば、どうにか収集を着けなければいけない。
「仲くん。私はあなたの事を見ていますよ。あまり人前で叫ぶものではありません。感心できませんよ」
興奮する少年を叱ると、そのまま、好奇の目が届かぬ場所に連れて行った。
「振られたんだろ。明臣は意気地なしだから、絶対に向き合わないって知ってるんだ。だから」
内田明臣はそういう男だった。いや、内田生徒会長はそのように見られていたのだろう。中学二年の男子生徒はあの選挙演説を見ていなかった。生徒会長として、式に参加する姿を見たくらいの経験しかない。男が本気で物事に向き合った時、どれ程の魅力を発揮するのか、目の当たりにしなかった。その不運が空回りをしていた。
「明臣さんを悪く言うものではないですよ。彼は、彼の未来を切り拓く為に、また旅立って行ったのです。仲蔵。あなたにはわからないでしょうけれど、一度や二度振られたって、諦められない人なのよ」
泣いていた。それは感情豊かな仲蔵が、内田と黒井の間にある信頼関係に悔しさを堪えられず流した激情だった。
黒井はるは彼を宥めようとはしなかった。感情のままに涙する少年を独り残してその場を後にした。もしその時、少年がはるの姿を写そうと必死にカメラワークを考えたならば、ハンカチを手に堪えた感情が納められただろう。
映画監督が女優に報われない恋をする話を聞いた事がある。黒井はるは女優ではない。もしかすると、誰にでも優しくする女ではなかったのかもしれない。それとも出会いが彼女を変えたのか。境遇のあまり恵まれた生活をしていた宇都良仲蔵にとってそれは大きな失恋だった。相手を振り向かせたい。認められたい。その経験が彼のカメラマンとしてのセンスの糧になったと.書き記してしまっては、些か、やり過ぎだろうか。まだまだ若い少年少女の群像劇はそのように特に幸せな終決を迎えずに幕を閉じることになった。
「困ったことがあったら、この番号に電話しなよ。ここに来るくらいの交通費は貯めておくから」
内田明臣が別れ際に手渡したメモを黒井はるは丁寧に仕舞った。決意に満ちた顔で、男は別れを告げた。詮索するまでもない。少年はいつしか社会人へと成長して行く。その過程がどんなに苦しくとも、辛くとも、惨めであれど、社会に認められるまでは、意地を張り通すしかないのだ。その覚悟を誰から学んだのか、明臣は忘れることがないだろう。(完)
城下町リンチ倶楽部外伝 瓦斯探偵 @hut
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