パソコンのディスプレイが不調でやる気が起きない!

「さすが、私が見込んだだけはあるわね」

始業式四日後の珍事件はすぐさま非常勤のカウンセラーの耳に届いた。内田と黒井は、目の前の脳天気な女性に放課後の呼び出しをくらっていた。初めは「ご無沙汰しておりました」と丁寧にお辞儀の挨拶を交わし適当な近況を報告していた黒井はるも、カウンセラーとしては軽薄さが否めない彼女の振る舞いに呆れ始めて居るようだった。彼女はやたらに口数が多かった。要約してしまうと。不登校児の問題が解決され、落ちこぼれの内田くんの顔つきも変わったので、仕事がなくなって寂しいのだそうだ。年次契約をしているので、生活には支障がないようなのだが、株で儲けるような才能がないので、このままだと冬のボーナスの当てがないので困る。その言動に、普段無口な内田も厳しい顔で言葉を失っていた。大人の愚痴を聞くだけの無意味な時間が過ぎていた。

「すみません。失礼ですが、先生は私達に何を求めていらっしゃるのでしょうか?」

やはりというべきか、暴走する女を止めたのは、黒井の丁寧な意思表示だった。

「いや、ねぇ、今年も九月十四日に新湯祭があるでしょ」

新湯祭とは、新湯学院の学校祭のようなものであり、中等部は文化祭的な趣を持ち、クラスごとで舞台発表を行う。高等部は、模擬店などで、お金のやり取りを含む交流を行う。学院のすべてがお祭り騒ぎになる一日のことだった。その事については、学院案内に詳しく記されており。黒井は心得た表情をとり頷いていた。

「そこで、例年、生徒会長の立候補者の開示が行われるのよね」

内田は、話に取り残されそうになったが、人を頼るような女の話し振りに、用件が見えてきた。学院の生徒会長は二人いる。もう話す必要はないと思うが、高等部と中等部の二人である。それは、候補者自らが立候補しなければいけない仕組みを取り、学院内の三年生以外は理論上全員自薦することも可能なのであった。その意思表示の結果が、新湯祭の会場で始めて公示され、十月の二週目に実施される二学期中間考査の成績上位者の順に立候補者がそれぞれ五名までに絞られる。そして運命の十月一五日に選挙が行われるのだそうだ。内田は、そこだけは用意周到な女に紙資料で説明を受けたのだ。

「ね、わかったでしょ。生徒会長は、副会長その他の任命権が与えられるの」

カウンセラーは神頼みをするように手を合わせ、「お願い!黒井さんを立候補させて、わた」

「立候補は致しません」

黒井は、我侭なカウンセラーの言葉を遮り、落ち着き払った口調で断りを入れた。内田はというと、カウンセラーが内田の手に手綱が握られているかのような振る舞いをしているのに気づき心底呆れた。内田は気づいていなかったが、どのような段取りをしても、黒井は頷かなかっただろう。もし、カウンセラーがその事に気づいていて失態を演じたのなら、その行動が、一番正解に近いのかもしれなかった。


 我侭に付き合わされた二人は、図らずも一緒に帰ることになった。黒井はるには先程のやり取りがあったにも関わらず。怒っている様子が見られないので、内田は、つくづく考えの読めない奴だなと思った。そして、ふと、彼女の家も同じ方向なのかと、疑問を感じた。道路の隅には夕立があったのを知らせるように水溜りが出来ていた。時折よろよろとステップを踏んで、彼女はそれを避けて歩いていた。

 内田の予感は的中した。「お邪魔します」と上がり込む彼女は、得意の行動力で内田明臣を口説き落としたのだ。

「明臣さん。先ほど先生がおっしゃられた件なのですが」

あと一息で家に着く。彼女が言葉を発した時。現実が内田の傍から離れていくのを感じた。また来る。内田は身構えた。それは咄嗟の判断であり、出来ることなら、耳を塞いでしまいたかった。しかし、そこまでの余裕がなかった。後ろ手を組みゆるりと回れ右をする彼女に見惚れていた隙だらけの中学二年生は反応が遅れた。そして、彼女の提案を耳にした。

「明臣さんが立候補なされたらいかがでしょうか」

学院首位の化け物は、またしても病み上がりの少年に試練を与えた。内田明臣は、自身を馬鹿と定義しながら、論建ての出来ぬ阿呆ではなかった。黒井はるが通常登校したのだから、もうお役御免だと言い放とうとした。しかし、その時、彼は気づいてしまったのだ。無意識に視線を合わせてしまった。それがすべての間違えだった。黒井は瞳ですべてを語っていた。そこには笑みはなかった。ただひとつ。期待があった。彼は、「明臣さんでしたら出来ます。私が保証致します」という彼女の言葉で悟った。彼女の後悔の念が深いことを。内田は、そうして黒井はるに勉?を診てもらう事になったのだった。


 一学期後半を残念な姿で締め括った内田は、クラスの舞台発表に関わる話を蚊帳の外で聞いていた。おそらく、夏休み中に行動する事を見越して、発表についてホームルームで議論されていたのであるが。内田だけは読書で時間を潰していた。そんな周囲の誰もが知っている落ちこぼれが、生徒会選挙に立候補したのは、いくら質の良い生徒が揃っていても、失笑を買う事態になった。しかし、内田は、その状況に萎えるような弱い意志は持っていなかった。三十〇日間の勉?の日々。黒井は言った。「応用問題は記憶力の正確さを測っています。一見すると上限のない点数が施されていると錯覚しそうになりますが、五〇点を超えてしまうと伸び悩みます。記述等の工夫を凝らすと加点に繋げられることも出来るのですが、基礎問題が、疎かになるとその望みが限りなく薄くなってしまいます」それは、一生徒が知ることの出来るテスト対策ではなかった。内田は黒井の奔走に感謝した。そして、黒井が人望を築くに至った出来事を思い返していた。


 夏休みの課題は、『どの教科でもいいので、何かしらの課題を考えて提出物を用意する』生徒の自主性を重んじる校風は課題にも反映されていた。その提出物は後日、生徒に公開される事になっていた。

課題展示の会場で一際賑わう場所があった。そこには一着のドレスが飾られていた。家庭科の展示であり、その殆どが、お菓子作りや料理のレポートで済まされているのに、お姫様が着るかのようにきめ細かく仕立てられた展示品は、女生徒を魅了していた。それが黒井はるの実力である。内田明臣はというと、『少年事件判例集』を作ったくらいだった。「13歳の黙示録」を読んだ後であり、一番興味深い題材だと思っていた。しかし、一般受けが悪かった。それは夏休みの前半で作り終わった代物である。

 黒井は、登校初日から多くの男子生徒の目を奪っていた。更に、その言動の清らかさが、男子生徒ばかりか、女子生徒の心まで引き寄せていたのである。しかし、それは、黒井はるという個人の動きまわる範囲で起こるに留まっていた。だけれども、学年首位の少女は美しいらしいと噂が流れると、関心を抱かない生徒は少なかった。その関心が、好感ばかりではなかったという事実もあるのではあるが、九月五日に展示物という媒体をもって行われた布教活動は多大な集団感染を巻き起こしたのだった。

内田明臣は、学院内の勢力図などに興味を持っていなかった。だが、二学期という節目をもって、大量の造反者を抱えた派閥が、消え去ったのを知った。それから一ヶ月後に選挙がある。一年半を費やした地盤固めが脆くも崩れ去った裸一貫の者達の選挙戦。ある意味では、黒井の不参加という判断は正しかった。そして、内田明臣とその他の候補者との差が限りなく少ない絶好の機会でもあった。


 黒井が築いた人脈を使い。多くの答案用紙を検めたのは、疑いようもない事実であった。ただ、成績上位者の懐柔は困難であった為に、憶測の範囲で導き出された配点予想と、暫定ボーダーに向かい、スパルタ指導が施されているのであった。

 二人を夏の出来事から救うものは、理性よりむしろ多忙であった。彼らには、無心で突き進んでいる時間が必要だった。その為、知能の殆どを中間考査に注ぎ込んだのだった。


 九月の新湯祭は、黒井はるが学院一の美女と表彰された事を除いては、特筆すべきことが見つからなかった。登校日数三十三日での達成は、よっぽど更新される事はないだろう。しかし、その条件が揃っていたのは、周知の事実であるので、話を進めてしまおう。


 結果、十月の中間考査は波乱の展開をみせた。立候補者の面々が、自身の人脈基盤に不安を抱いた事。また、それに付随することであるが、彼らは、いままで行なってきたテスト勉強の手伝いを止めたのである。それは、黒井はるという怪物が彼らの支援者たちを食い荒らしたが為に起こった惨状だった。答案用紙には極度の二極化が発生した。とはいえ、八度目の対峙であるから、落第の憂き目に会うような生徒は居なかった。

 内田明臣は、学年三位の成績を残した。不動の首位を得ることは出来なかったが、二位に割り入った生徒ですら、そんな高みは口を開けて見上げる他なかった。学年首位の女傑は不登校を辞めた事で青天井を自由に飛び回っていた。詳しい記録を調べては居ないが、黒井はるの点数は前代未聞だった。

 「今回のテストは優しくしていただけたようで、明臣さんに嘘を吐いてしまいましたね」

内田は、この段になって、彼女は不登校のままの方が、学院にとって有益だったのではないか。と失礼な感想を持ってしまった。


 考査後三日分の登校日を挟んで、運命の投票日がやって来た。本来であれば、新湯祭から続く一ヶ月が、選挙戦として、候補者が生徒の関心を引こうとするのであるが。黒井はるが高等部の先輩方達を押し退けて讃えられた事実が、一週間分の熱狂の渦を発生させた。そんな異常な状況下で自身の名前を売る行為などに励めるはずもなく。九月二十三日の秋分の日を過ぎるまで、候補者達は、頭を抱えて生活していた。つまりは、テスト期間前の三日間と、考査後の三日分。合わせて、六日しか、実質的な選挙活動は出来なかったのだ。まぁ、仮に黒井が褒め称えられなかったとしても、従来の選挙活動のように、挨拶をして回る支援者の絶対数が減っていたので、正常な判断力のある候補者は、考査の結果と、投票日に執り行われる立候補者立会演説会が全てだと意識していた。

 内田が学年三位という成績を携えたのと同じように、五人の候補者が壇上に上がっていた。候補者の中には、一年生も居る。異常なほど注力された二年生のテスト結果、最終候補まで残った一年は一人であったが。その事実を内田と黒井は危険視していた。


「二年生は戦国時代かくもやってくらいに、混戦しているのに、一年生は静かなんだよね」

作戦会議だ。といい、ここぞとばかりに二人を呼びつけた軽薄な女は、情報収集の成果から、「一年が結束すると、ヤバイんじゃないか」と頻りに不安を語っていた。

 優等生二人は、何について不安になっているのか。おおよそ同じ見解を持っていた。

「ねえ、私って」

自己中心的な女の言葉を遮ったのは、珍しく内田だった。

「大丈夫ですよ。秘策があります。こう見えても自己紹介は得意ですので」

非常勤カウンセラーは「ほんとうに」と何度も聞き返していた。中間考査の結果が出るまで、一度として相談を持ちかけてこなかった女は、他の候補者の人柄ついてある程度の評価資料を用意して、内田に渡したのだった。

 個人情報の保護に厳密だった振る舞いは、その場に残っていなかった。


 演説会の前日になって渡された資料には、これまでの考査順位と点数。部活動成績。どこで調べたのか、異性との交友関係などまでが記載されていた。人を顔で判断するわけではないが、そういうゴシップ沙汰で、脚を引っ張るのも手なのかもしれない。

黒井はるを説得するのと、在校生を説得するのは、どちらが大変か。答えは、どちらも大変なのである。ではどの様に対策を練るか。会話という形式を取らない一対多数の演説に臨むにあたって、内田明臣は、転校生の自己紹介を何度も繰り返した経験を元に、その戦場に適した自己紹介文を考えた。それは、生来背負ってきた明臣を語ることだった。自身がどのような生き様を望むのか。他人に振り撒く愛想よりも、信念の方が、この学院の生徒に伝わると思った。始まりの日の失敗を今日こそ返上しようと意気込んだのだった。

演説の順番はくじ引きで決まる。それは、最後に演説をした方が有権者の耳に残りやすく。初っ端の話は、心の準備運動中といった体で聞き流されるおそれがあるので、公平を期す為の手順だった。残念ながら、内田は四番手だった。注目の一年は二番手であり。出鼻を挫くという言葉とは意味が違うが、一番手は案の定。手応えを感じることなく消えていった。

「……僕が言いたいのは、生徒会長が、他校の入試を受けてこの学校を去らねばいけないという風習を変えたいだけなんです。そんなの未来がなさ過ぎます……」

一年男子の演説は、内田の脳漿を撃ち飛ばした。

 内田明臣は、不勉強だった。生徒会長に立候補する癖に、今までに生徒の心得として提供された資料を読んでこなかった。黒井はるは、当然そんな落ち度があるわけはない。カウンセラーにしてもそれは同じだろう。その困惑に追い打ちを掛けるかの如く。

「……悩んだ結果。僕は、カウンセラーの先生に相談してこの場に立つことを決めたのです。僕達、中学生は、学校の道具じゃない。僕たちは自由を手にするのだ」

滾る正義感がそこにはあった。その言葉は二年生の意志を侵食しようと一気呵成に捲し立てられた。

 終わった。拍手が聞こえている。三番手の二年生は座席の上で腰を抜かしたのか、なかなか演説を始めなかった。内田明臣は、女の本性をそこに来て初めて知った。侮りすぎていた。座学では得られない知識がある。人との触れ合いで得られる貴重な体験がある。カウンセラーは生徒のことを熟知している。それは、内田が黒井と築き上げた経験を遥かに凌ぐ現場の真理だった。「明智光秀と豊臣秀吉が手をとったら、歴史が変わるのかな」馬鹿げた言葉は、若き君主の前から裸足で逃げていった。すっかりカードが見つからなかった。内田は、今まで自分は何をして来たんだろう。意識は記憶の迷宮を彷徨い始めた。


 内田にとって、カウンセラーの裏切りは、意表を突かれたものだった。それ故に、心が揺らいだ。いや、揺らいだでは済まないほどに、万物の根底を覆すような、野蛮な行為だと内田は知覚し、その瞳の奥に大人に対する不審の虚像を写しだした。大人は醜いものだ。

 それが、内田の経験だった。ただ、彼はすべてを忘れようとしていただけだった。


 メモ紙の携帯が繋がると「内田君どうしたの?」という返事が返って来た。相手が自分の電話番号を登録していた事に気づき内田は不安を濃くした。

「すみません、この前の件なのですが……」

電話越しに探るような沈黙が流れた。内田はどのように切り出すべきかを用意をしていなかった。それは、キョウコの示した答えに、何をする間もなく飛びついた彼の余裕の無さを表わしていた。

「何か、伝えたいことがあるのね。焦らなくていいわ、言えることから話してみて」

女刑事は、内田の怯えを心得ていた。そして、まるで這い這いをする赤子に安全な道を知らせるように、優しさの込められた声で話を聞いた。

「すみません。あの時自分は嘘をついていました」

その言葉を話すまでに、何度「すみません」と呟いただろうか。女刑事は、その言葉を聞く度に、彼の心を解きほぐそうと「いいのよ」という言葉を添えて、次の言葉を促した。

内田明臣が嘘を告白すると。

「いいのよ。男には、嘘を吐いてでも守りたいものはあるもの」

という返事が返って来た。内田は、その真意を探りきれなかった。

「アキくん。あの時のアキくんの顔は男のそれだったわ」

女刑事の独白めいた語りは、事件が既に解決したと打ち明けるまで続き、彼に一言「もう、あの件は忘れていいのよ」と告げた。

 それは到底納得出来ない事だった。内田は、黒井はるが、毎日、部屋を訪れている事実を知っている。あの日、あのバックに付着していた指紋は明らかに、二人のモノだった。内田は、隠された事実を知り、大人の都合に臍を噛んだ。

「それよりも、清一さんはどうしてる?」

内田明臣は、驚きを隠せなかった。背筋に痺れが走っていった。内田清一。それは、六月を機に会っていない親父の名前だった。


 母親の顔を知らない内田明臣にとって、親父は唯一の肉親だった。ずーっと一緒いた思い出がある。その為、転勤の度に転校し、新しい友達の輪に入ろうと頑張ったのだ。

 内田少年は、何の疑いもなく。そういう生活を繰り返していた。だから、少女の発した疑問に答えられなかったのだ。

 それは小学四年生の時の事件だった。小学校高学年となると、生活の授業では、親の仕事を調べたりする宿題が与えられる。内田少年は母親が居ない家庭であったので、二年ほど前から炊事洗濯の手伝いを始めていた。二人で作ったカレーを食べながら、内田少年は宿題が出た話をした。すると、内田清一、いや、その当時、まだ父さんと呼ばれていた男は、悩んだ顔をした。一応、名前が清一であることを告げ、職業は、ライターだと語った。内田少年が聞いたのは、それ以外では、「取材を重ねて記事を書く仕事だよ」という説明だった。その答えを持って学校に行くと、同じく新聞記者を務める親を持つ少女の事を教えられた。内田少年は、そういう出会いを大切にしていた。

「アキくんのお父さんも同じ仕事なんだね」

少女は内田少年が転校してきた時から、ずっと話しかけたいと思っていたらしいのだ。ただ、まだそれほど、人との付き合いを経験してきていない奥手な部分が、活発に友達を作っていく内田少年をみて、羨ましくも、憧れを抱いていた。そういう淡い感情を持ち続けていたのだった。いつか、という言葉は、人の決断を鈍らせる。その一言があるために、慎重になることが出来るとも取れるのであるが。元から、情報を集める能力を持たざる身では、その慎重さはただの先送りでしかなかった。少女は、図らず起こってしまった出会いに夢中になった。この瞬間を逃したら、内田少年はもう、私以外の友達と遊びに行ってしまう。その後戻りの出来ない心境は、発達の未熟な少年たち特有の心理なのかもしれない。思い出してみよう。いつでも遊べるのに、勉強や、宿題、大切だと教えられることをほっぽり出してまで、遊びに夢中になる友達は居なかっただろうか。誰しもが、そんな振る舞いをするわけではないが、少なくとも、新聞記者の父を持つ少女は、そのような精神性を持っていた。

「アキくんのお父さんはどこの会社に努めているの?」

少女は、内田少年が父親についてよく知らないことに気がついた。そういう点を発見するセンスは、もしかすると、親の影響だったのかもしれない。少女は、内田少年に、次会う時に教えてね。そう言い残して、「さよなら」する付き合いを始めた。

 少女の質問に、内田少年は嫌な顔せず答えていた。また、知らないことについて訊ねられれば、それこそ、父親と交わす話題が見つかったことに嬉しそうだった。

 二人は、そういう付き合いを続けた。ある時は学校で、ある時は公園で、またある時はスーパーでアイスを買食いしつつ。他愛もない話をして、少女は彼の見えていない部分を示していった。

 しかし、それは、内田清一にとって困った事態であった。彼には、子供には、否、どんな身近な主婦にでも知られてはいけない顔があったのだ。そう、団欒の場で交わされる質問に「そうだなぁ~」と間延びした枕詞を置いて話す男の話はすべて、偽物だった。

 内田少年がそれに気づいてしまったのは、本当に、偶然である。父親が酔いつぶれて帰った日に、洗濯の手伝いをして、彼の上着から鍵が落ちたのだった。それは、家の中にある父親しか入ることの許されない一室だった。男の趣味が詰まって居るのだろうか。その遺失物を洗面台の下から見つけた少年が中学生ならば、そんなことを考えただろう。そして、内田明臣というある程度の交友関係を築き上げられる好青年なら、無闇に扉を開けなかっただろう。小学四年生の少年はその点、まだ、校内で高学年の仲間入りしたばかりの好奇心の塊だった。ひょっとすると、内田少年は少女との付き合いが永くなったがために、そのような好奇心を持ってしまったのかもしれない。扉の向こう側。それは、男が社会全てに嘘をつくための要塞だった。

 少女は、清一が新聞記者でないことを突き止めていた。記者だというなら、今までにどんな記事を書いたのか。フリーライターでも実績があるだろう。そういうあやふやな輪郭を削ぎ落とす手順で、少年に親の輪郭に触れるよう質問を繰り返していたのだ。それが、一転した。

「ごめんなさい。父さんはライターなんかじゃなかった」

内田少年が理解出来たことは、その事実だけだった。内田清一の部屋に置かれた。企業相手の名前やプロフィール。個人に向けてのそれ。近所でも不審な偽名が使われていた。その事実を少女が掴むと。

「アキくんのお父さんは嘘つきなんだね」

少年の短い人生の中で、一度として遭った事のない正義の表情がそこにはあった。

「私のお父さんが言っていたの、犯罪を犯すような奴等には人の神経は通っていないって」

内田少年はその意味を聞いただけでは理解出来なかった。「詐欺師の子供には人の神経が通っているの?」そんな問題提起がされた。

 小さな公園には、砂場があった。そこに、白髭混じりのおっさんが棒倒し遊びに使うように錆びたナイフを授けた。そんな過去があり、子供を守ろうとするお母さんグループが、近寄ることを禁止していた。独占欲めいたものが芽生えていた少女は、内田少年と会う際は、そういう人気の少ない場所を多用するようになっていた。また、砂場に埋まっている回収されなかったもう一つのナイフを知っていた。調べることが本当に好きな少女だった。


 内田は、病院のベットで目を覚ました。腕には包帯が巻かれていた。一瞬で声が枯れるそんな叫びが、公園に響いたらしい。ただ、新聞にも、テレビにも、そんな事件は取り上げられなかった。

 内田はその時初めて、「恥ずかしくない生き方をしろ」と教えられた。父親の生き方はどうなのか。不健康に窶れている男を見て、反面教師という言葉を知らない内田でも、その時、強く生きようと決意した。そして同時に嘘を吐き続けた男を否定した。

 少女と内田は、その後出会うことはなかった。内田が退院とともに引っ越しをしたためである。内田少年はその時に心中したのかもしれない。父さんと呼んでいた輝く目をした少年は、親父に対して、もう、そんな希望を向けなくなった。ただ、どんな困難にも立ち向かえるよう。鍛錬を欠かさない。そんな人格を身につけたのだ。


 「すみません。一緒に暮らしてないんで、わかりません」

内田は、女刑事の探りから逃げるよう。電話を切る勢いで返事をした。

「そう、あの人は、立派な人よ。アキくんも強く生きてね」

意外な言葉は、耳に残る。内田明臣は、大人達の闇はまだ理解出来る範囲にないと感じた。

 終話の音が鳴っていた。


 思い出は、大人についての判断を、中学生の身分で下すには早過ぎる。そんな、当たり前を、当たり前だと思い起こさせた。なんで、カウンセラーに振り回されているのか。内田と、黒井はるにとって、選挙への思いとは、彼女ありきだったのか。意味もなくチラついた女の顔に、脇見運転をして自滅するなど、馬鹿馬鹿しいではないか。一瞬の白昼夢にしては濃厚な記憶が内田の脳内を活性化させ、覚醒めさせた。


 体育館は騒然としている。三番手の候補があまりの息苦しさに、噎せ返り倒れたのだ。投票を前にしての完全なリタイア。その処理のお陰で、内田明臣は間に合った。

 「突然の出来事に、戸惑って居る生徒が多いことは理解している。だから、冗長な演説はするつもりはない。聴いてくれ」

男は、その場を仕切るように語りだした。

「二番手に話した一年生の思いは無駄にしたくはないが、入試の件は俺達が、先輩として考える事柄だ。そう思わないか?キャプテン」

トリを務める野球部新キャプテンに話を振る。その後、また生徒に向かい内田は語る。

「先輩には先輩のメンツがある。何もかも他人の世話になるような教育は受けてきてないはずだ。それぞれが、それぞれの課題に向って日々頑張っている。俺は、六月に転入して来て、他の中学にはない。本物の自由を知った。しかし、それに付いて行けず落第した」

静けさを取り戻そうとした会場がざわめきだす。

「だが、今、この場に立っているのが現実だ。この夏。多くの困難に出遭った。そして、打ちのめされながらも、努力を重ねた」

二年生は内田が、こうも雄弁に語れる男だったのかと、驚きを隠せないでいる。

「今の新湯学院は甲子園にいけない無名校だ。だが、その逆境を乗り越えてこそ他校では味わえない達成感を得られるのではないのか?この学院を変えたいなら変えろ。俺は、不登校だった黒井はるを連れだして、生徒会長なんかにならずして、もう実現してみせた。そして、会長になったら、彼女を副会長に任命し、もう二度と不登校なんかにさせない!」

内田を落ちこぼれだったと認識していない在校生もこの言葉に感動していた。内田の言葉には本物しかなかった。

「ちょっと長くなったが、俺からは以上だ」

喝采が止まなかった。どこにそんな楽器を用意していたのかというほどに。会場いっぱいに響き渡る大音量の拍手は、選挙の終わりを知らせていた。

 トリの候補者は、「自分達には、ひとつの目標しか見えていませんので、これからもよろしくお願いします」というキャプテンの言葉しか語れなかった。学年二位の秀才が、甲子園のマウンドを踏んだかは、生徒会長選挙には関係がないので触れないでおこう。


 内田生徒会長はその後、非常勤のカウンセラーを顧問に迎え。退屈な日常を過ごしていた。時折、生徒総会を開く事もあったのだが、内田明臣という前例が、生徒の自主性を見守って居るだけに過ぎなかった。

 二年連続で黒井はるが新湯祭のアルバムを飾る。生徒会長選挙の幕が開いた。

 去年とは違う秋が始まる。季節の風がカーテンを揺らす生徒会室で男が寝ていた。夢を見ているようだ。彼は忘れていない。だから夢の中で思い出す。


 その日、内田明臣は、糸の切れた操り人形のように体が動かなかった。いや、体を動かすのがとても億劫だった。それといってする事がない。昨日行った一連の作業は、育ち盛りの少年に対して、それほど大きな疲れを与えていた。

目が覚めると体が動かないとはいえ、思考回路は廻り始める。処理出来ない情報が砂吹雪の勢いで吹き抜けていく。内田は独り、視界を奪われ、向かうべき方向を失い、その容赦の無い熱砂の中に封じ込められていた。助けを求めようにも、吹き上げる恐怖の渦は、どんな希望をも遮断した。それは天罰だった。触れてはいけない秘宝を事もあろうに持ち出した悪党。そんな不届き者を、赦す神など居なかった。ずっと「真実を告げよ」「戻ってこい」などと地鳴りとも、風音とも判別の付かない責め苛む言葉が轟々と響きわたっていた。

 彼は後悔していた。なぜ意地を張ったりなどしたのだろうか。嘘をついたりしたのだろうか。今の取り返しの出来ない状況に陥ると、なぜ予見出来なかったのか。

 独りで鬱ぎ込む彼の前に、黒井はるが現れた。その表情、仕草が、内田の危険な現状を語っていた。

 あれから三日。内田の症状は重度の鬱だった。ただ、理性が闇の中に吸い込まれただけであり、尿意を感じてはトイレに行き、事が済めば、自身の居て構わない場所に戻るだけ。その繰り返しをしていた。食欲というものが湧かないせいか、日に日にその移動回数は減っていた。三日目ともなると、生き物として感じるべき衝動が殆ど抜けきっていた。

 マンションの一室だというのに、雨の音が強く聞こえている。黒井はるは、どうして、こんな罪人に接しようと思うのだろう。彼の砂漠の中には現実の水音は一滴たりとも紛れ込まなかった。

 キョウコの声が届いたのは、彼と彼女の間に深い信頼があったからに他ならない。砂の嵐は轟くような声にかき消された。困った時は、助けに行く。その約束を裏切らないキョウコの声は、心の砂漠で怯えている彼の頭を揺さぶった。それは、激であった。

 彼の蘇った意識は、弱音を吐きながらも、勝手知ったるキョウコの行動によって、完全に覚醒させられた。


 懐かしい記憶である。内田明臣は生徒会長としてそれほど仕事をしなかった。黒井はるは、被服部なるものの部長と掛け持ちで忙しいようだった。この学院にはあいつが居る。困った人を見逃さない少女は今日も誰かを助けに行っているのだろう。「それじゃ、学校でまた会いましょう」どちらがその約束を破ったのか、平穏を手にしてしまった男に、キョウコは会いに来なかった。

そんな感傷的な気分になっている内田の元に彼は挨拶にやってきた。

 「先輩。どうして、新湯学院を捨てて行くんですか。僕は認めませんよ」

あの日、自身の理想を奪い取った言葉が成就されなかった事の説明を求めているようだった。

「いいか、新湯学院は捨てたもんじゃないと思っている。しかし、外の社会は、この私立校について、何も知らないんだ。知らない奴等に自己自慢をする時。必要になるものがある。それは実績だよ。俺はどこに行っても生きていける。そして、その背中にはいつもこの学院の看板を背負っている。捨てることも、忘れることも出来ないさ。それだけでいいだろ」

後輩は涙した。「僕はどうしたらいいんだ」そんな言葉を漏らした。好きにすれば良い。内田明臣は、後輩の目標を奪わなかった。他人の考えを奪ってまで、手柄を立てなきゃいけない。それほどの飢えは持ちあわせて居なかった。すべての世の中が平和になるなんて事は望めないが、穏やかな日常を過ごしただけで、彼には十分だった。


 彼らの中学生生活はそのように過ぎていった。


内田少年の純粋な心があれば、転校する回数を減らせたのかもしれない。中学生の明臣は、大きな問題を抱えていた。そして、失敗を重ねていたのだった。一年三ヶ月の放浪生活は、転勤族の振りをする。内田清一にとっても大変な期間であった。だからこそ。内田明臣は、新湯学院に転校し、彼女と出会ったのだ。それは、お膳立てされた出会いだった。しかし、今は過去よりも彼らの迎えた未来の話を始めたい。     (中学生編・完)

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