推敲まだよ

そういえば、少し時間を遡ると、更に異様な状況があった。それは落第生の家の中。

 内田は、納得が出来なかった。「前回の件は、適切に処理されましたので、明臣さんは、もう関わる必要はありませんよ」黒井が告げた言葉は、「警察関係者は自分の嘘に気づいていて、いつか、現場検証という追い打ちを仕掛けてくるのではないか」と内田が自身の犯した過ちに怯えている時に、傍に近寄り、頭に手を置き、母親が子供を撫でつけるような格好で、慈しむように発声された。そして、彼の心に響こうとした。

 なぜわかる。その裏付けは闇の中に閉ざされたままなのだが。「いいですか、私は明臣さんが肝試しを達成されたので、約束通り不登校児を辞めます。ですので、明臣さんが、この家に引き籠もってしまうようなことはなさらないでくださいね」と撫でる手の調子を時折変えつつ。怖気づいて再起不能に陥って居る男を慰め続けた。

 現実を直視すれば、もう、内田に主人公としての勇気は残って居なかった。「宇宙からの帰還」に出て来る男の末路が見え隠れしていた。

 黒井はるの心境は筆紙に尽くし難い。彼女の説得は、内田の夏休みの数分の一でしかない。しかし、その口唇には血が滲んでいた。


 中学生の起こす過ちは多岐に及ぶ。それは、肉体的な成長が視界を広げて行き、興味の幅が広がり、手の届く範囲が増え。残念ながら後手に回る大人の対応が、事案を回避し損ねてしまう。しかし、失敗が、人生の大部分を占めている。という発明家もいるのだ。彼らは、それにめげずに生き続けたのだ。だからこそ、自伝は子供達にとって良い教材になり得た。しかし、内田明臣という中学生に至っては、その気配は望めなかった。残念だ。私がここで、筆を折ってしまえば、この悲しい結末は、世に出回ることなどないだろう。が、黒井はるの輝かしい学院生活を望む声が聴こえる。もっと真面目に文章を書けと呆れる編集長のため息が聞こえる。仕方がない。そこで起こってしまった奇跡を書こう。


 黒井はるは、中学生として、男女の一線を越える過ちはしなかった。夏といえども夜は来る。門限があるかは定かで無いが。彼女は必ず帰っていった。黒井が最初に異様な部屋を訪れた時、内田は、玄関の鍵をせず。見覚えのある格好で、壁に凭れ掛かっていた。彼女は息を呑んだ。声を喪った。目を逸らしたい気持ちを抑えて、彼の息がまだ続いていることを確認した。そして、応急処置を施したのだった。それは、彼女にとっては、慣れた行為だった。

 謎の少女である黒井はるの看病は三日を過ぎた。精神を持っていかれた内田に回復の兆しは見られなかった。その三日目が、先ほどの黒井の姿だった。何度、同じ言葉を告げただろうか。彼女は、内田が気力を取り戻し、家路についた看護人を捕まえてくれるよう願って、玄関の鍵は一度も掛けなかった。その錠の音が彼の最期の気もしていた。

土砂降りの雨の中、少女の足取りは重く。傘が役立たずな状況だといっても、なんの備えもせずにびしょ濡れで進む彼女の姿は痛ましかった。

 辛い。こんな話は、見ていられない。しかし、因果応報でもあった。


 「内田くん。おい。玄関を開けっ放しにするなんで物騒じゃないか」

保健委員として見過ごせないな。内田は、感じた。「今の俺は、困ったってもんじゃないぜ、ダメかもしれない」正直にいうなら、今の内田は体のどこにも生きる気力が湧いてこなかった。「情けないぜ、ここで、死んでしまうのか」まだ三日である。内田の体は、ボクシング選手の減量失敗のそれと同様に弱々しくなっていた。しかし、三ラウンドはひょろひょろでも保つだけの基礎筋肉が残っていた。ただ、意識が神経を伝わって行こうとしないだけ。それが最大の問題だった。

「内田くん。あなたはまだ死なないよ。どうして同じ失敗ばかり繰り返すんだい」

キョウコはまた、デコピン未遂をした。しかし、その指先は、内田の心臓を指していた。いや、胸ポケットを、またもや紙一重で指し示していた。

「あなたは困っている。内田くん、そういう時は、ちゃんと訊ねないといけないんじゃないかな?」

おいおいおい。内田は馬鹿らしくなってきた。いや、自身を既に馬鹿だと認めたんだっけ。元気な状態なら、その部屋には笑い声が響いただろう。丁寧に寝かしつけられた床から抜け。内田はメモ紙の番号を確かめた。

キョウコは、男の心得た表情を確認すると、後は解決出来るでしょとばかりに、部屋をあとにした。


 世の中、死んでしまった者は生き返らない。いくら夏の盛りだといっても、ゾンビの類は、想像の中だけで済ませて欲しい。しかし、黒井はるは、それがゾンビを見ているのでもいいと思った事だろう。彼女は久しぶりに活きた明臣の姿を見た。「ごめんなさい」という言葉は、過去を思い出すようで伝えられなかった。ただ、男が「悪かったな」と言っただけで、その週の悪夢は帳消しになった。

 「悪かった」いろいろな事が思いがけない結果を生んだ。黒井はるにとって、その言葉は、救いだった。彼女の秘めたる思いの中で、顛末のすべてを語れない事態は、これから始まる二学期に希望を持つしか進む方向を持たなかった。内田明臣に何があったのか。黒井は触れることを怖がった。二人の間の力関係が変わった。

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