警部補

 「内田くん。今から公園に行くの?」

キョウコはいつも突然顕れる。内田は、彼女の声に気づき足を止めた。引っ越し先の町で呼び止められるというのは、馴染んでいる証拠ではあるが、夏休み中に道端で二度も出会すのは頻繁にあう部類は印象もあった。

「なんか、また困っていない?」

「やばい状況なんだ。つけられてる」

内田はそうと告げた。キョウコは一言で逼迫している状況を悟った。

「なるほど、では、ここで道が大きく二つに別れるね」

キョウコは横に並んで歩きながら話を続けた。

「今が夕方五時近くなので、ここから、公園に向かうと。四時から四時半を目処に遊びをお開きにして静まり返る地域を抜けることになる。そこで、追跡者の殺意次第で人生が終わってしまう」

話を聞くだけで内田は途方に暮れた。長い影が街に続いている。

「メインストリートを通って帰ると、この時間帯は人混みの中を進むことになるから、撃ち殺されることは減るけれど。知らぬ間に刺されてしまうかもね」

キョウコは茶化すように混雑に乗じて行われる殺人を仄めかした。可能性は不安が作り出した虚構である。しかし内田には怯えが現実だった。内田は先に述べられた公園で、青空の元の読書をした経験もある。それは緑の館が休館している日だった。蒸した風を厭わずに熱心に読み耽り、周囲が閑散とする時間帯まで読書を楽しんだのだった。夏に木陰がある公園であれば、死体の一時的な隠し場所に困らないだろう。さまよう内田はコンクリートとアスファルトで造られた味気ない町並み照らし出されて救われていた。これからどうしたらいいんだ。中学生に「バトル・ロワイヤル」で生き残れというのも無理がある。更にいうなら内田に、武器の類は与えられていなかった。

「内田くん。足速いよね。なら大丈夫だよ」

内田の絶望を知ってか、知らずか。キョウコは素っ頓狂に危機的状況を脱していると言い張った。そして、「相手は、尾行をしているだけかもしれない。さらに、捕まりたくないと考えている。でなければ、内田くんはもう息を引き取っているよ」キョウコの仮定から得られる打開策。それは、逃走だった。

「さっき、公園で大人が殴り合いの喧嘩をしていてね。それを通報した人が居るんだ」

(今から、現場方向に足を運べば、そこら辺でパトカーを見つけるだろう。そうしたら、勝手の知った脇道を縫って、追跡を逃れればいい)

キョウコの話は後半囁くほどに小さくなった。内田が逃げ切る算段を整えたことを周囲に漏らさないように注意を払ったのだろう。

「それじゃ、学校でまた会いましょう」

キョウコは踵を返して歩いて行った。追跡者に殺意がなく。分別がある。それを彼女は実証したのだった。彼女に追跡者が危害を加えないのを悟って、キョウコにしては珍しく丁寧だった助言に従い内田は歩き出した。


 公園付近にはパトカーがあった。内田は目視と同時にギア切り替え走り出した。一心に脇道を縫い走った。気がつけば、汗だくであり、動悸も激しくなっていたが。脚が止まる前に、嫌な気配は消えていた。これから、普通の中学生活を送れるのだろうか。思い浮かべた平和。内田は「転校してから、そんな生活なんてなかったな」と苦笑した。

 内田明臣の武勇伝は、その後、彼の帰りを待っていた黒井はるに伝えられた。精神的にも、肉体的にも、疲れきっていた内田の口からは、「キョウコが居なかったら、俺の命はなかった」と、黒井の知らない女性の事が何度も何度も語るに尽きた。そして、終始、内田が黒井自身を非難する事はなかった。それは、単純に張り合うだけの余力がなかっただけなのだが。夜の帳が下りる前に、彼女は俯きながら、部屋を出て行った。


 ここでもう一つの話をしておこう。それは、ただの職務規定違反だった。

「係長、なぜ少年係なんて嘘をついたのですか」

まだ若い青年署員だった。彼は、いま終わったばかりの取り調べがどうしても納得できなかった。

「これもひとつの技術だよ。売り子相手に話をするわけではないのだから、薬物係を語って十三歳の少年を委縮させて、思考不自由にする必要はないでしょ」

警部補としては若いながらも実績のある彼女は、若手の疑問に解を与えた。

「しかし、鑑識からは、バックがグランドに落ちていたとするなら綺麗過ぎるという所見も出ていました。あの少年は明らかに……」

言を荒らげる青年の口を指で塞ぎ。女係長は、「あなたは、そんなに私のことが不満かしら?」と戯けるように制した。その後で、青年の結婚式の仲人を務めたお淑やかな口調で、「男には、何に変えても守りたいものがあるでしょ」と諭した。

「しかし、それでは、事件を解決できない。少年係という嘘だって、明るみになってしまいますよ」

青年の口調からは芯が抜けていた。その言動に漂うのは、係長の今後に不安を抱き思い遣るような質のものだった。

「大丈夫よ。少年係の件は私に直通の電話番号を渡したから、彼の気が変われば、話が来るでしょう。それに、この件は、もう目星がついているわ」

揺るがない自信が彼女にはあった。青年署員は問い詰めが空振りに終わり、係長の確信に引っかかりを覚えても踏み込む当てが見つからなくなった。

「調書の方はお願いね。オリンピックも終わったし、そろそろ、私も休暇を取ろうかな」

彼女の指示は公に出来ない類を含んでいた。しかし、正義感の強い青年はそれを了承し彼女の絵に加担したのだ。それは、係長の導く結果への信頼の賜物だった。


 薬物係の者は係長の結果の一例はつい先日目の当たりにしていた。 

「今年のオリンピックは北京だから、八月。私の部下には三日以上の連休を与えるわ。進捗状況を整理して、七月二〇日までに日取りを申告しなさい」

その一報を聞いて、係の雰囲気が変わった。夏の暑さと人の流動が激しい休暇時期は、薬物係において、最も警戒を高める時期であった。例年の活動を知っているからこそ。「今年も、夏が来てしまったのか」と些か、重たい空気が係の間に充満していた。

「人員配備については、心配しなくて良いわ。すでに協力を仰いでいるので、甲子園でも、オリンピックでも、盆踊りでもしっかり予定を立てて、休暇を過ごしなさい」

係長の次いで出た言葉に、理想論ではなく。三連休の現実が見えてきた。夏場の暑さを忘れるようにビアガーデンで、酔いつぶれるのもいいだろう。なかなか、職務が頭を離れず気の抜けない日々を過ごしていた署員は、目を輝かせた。

「あと、資料の出来が良い優秀な部下には、私の懐から北京行きの航空券を出してあげるわ。八月を満喫するために、しっかり働きなさい」

その言葉が伝わると、どこからともなく拍手と「おおおー」という唸り声が聞こえてきた。その現場にいた部下の青年も皆と一緒に得も言えぬ高揚感を味わった。

 後日、約束が実行に移されて、柔道好きの署員が、優秀賞を手に八月十五日の決勝戦を見て帰って来たのだった。

 凄腕係長の休暇は、部下の皆が望むものであった。もうじき終わろうとする今年の八月を忘れることは一生ないだろう。薬物係にとって、伝説はその場に存在していた。


 正しくはなくても、上手くいけばいい。前例がなくても。規律が乱れても。結果として得るべきモノを追わなければいけない。係が持つ矛盾の中で繰り返された決断の量が違うのだ。

「久しぶりに、ちょっと、見回りに行こうかな」

女警部補を慕う青年署員は、彼女に野暮な質問をしてしまったと気づいて恥じていた。

「分からない事を知ろうとするのは、良いことよ。ただ、正解は一つじゃない」

取調室で採取出来るはずの少年の指紋を部屋を移して行っている事に、青年はベテランの配慮を悟った。少年の事だけではなく。未熟な部下の事も考えて行動している。署内の他の組織から「男女共同参画社会基本法で煽て上げられて居るだけのキャリア組がリーダーなんてね」そんな言葉でからかわれた事もあった。青年は、係長に向けられる妬みの多さを知っていた。隙あれば、引き摺り降ろそうとする周囲の敵意もあるだろう。しかし、それを物ともしない姿に、憧憬の念を抱いていた。


 夏の終わり。女警部補が休暇を満喫できたのかは知らないが。豪雨が襲う街の中、非常事態に駆り出される警察職員の働きは、素晴らしいものであった。


 残暑というには、早いのかもしれないが、夏の傷跡が残ったままの地域も含み、多くの学校は夏休みを終えた。内田明臣の属する新湯学院も校舎を開き。休みで焼けた少年少女を迎え入れていた。その登校する生徒の中に、一学期には見られなかった色白の女生徒の姿があった。黒井はるである。彼女には、幾つもの視線が突き刺さっていた。それは物珍しさから来るものだろうか。あまり、その光景を語りすぎると、学院に在籍した他の女生徒の反感を買う結果になるので、まぁ、規律正しい学院においては、異様な登校風景が見られたとだけ伝えておこう。

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