警察
「中身はクスリです。これを警察署に届けて戻ってきてください。夏の終わりですので、肝試しをしましょう」
黒井に内田は試された。
「クスリ? 薬、くすり? 何だ。何が起きたんだ?」
示される情報が内田を困惑させた。おそらく危険なモノが持ち込まれたのだ。彼には同情するしかない。内田は岐路に立たされた。黒井はるが「肝試し」と言った言葉をそのまま受け取ってルートを往復するか。断念するか。行為の先に内田の求めた不登校の解消があるとしても、リスクを見るに条件が悪かった。そこで「クスリ」について問うか、問わざるか、不安の塊と化した「クスリ」の謎が解けたのなら事態は変わるはずなのだ。情報が整理されて行く中で内田は一ヶ月が巻き戻りを始めたような気がした。ここで引き下がったら、全ては水の泡だ。黒井に近づく努力を続けた夏の終わり。加速のついてしまった心に理性はコントロールを失っていた。
「やるよ」
内田は、己の尊厳を懸けて、その選択をした。まだ十三歳の少年である。肝試しは、言葉通り、肝の据わった態度を少年に求めたのだった。少年犯罪に興味を持っただとか。非行心理学を学んでみただとか。すべての知識は、その状況下で無力だった。内田は、心の中で叫んだ。『座学で得られる知識なんて何の役にも立ちやしねぇ』それは、「助けてくれ」と手を伸ばしても館長ですら手に負えない難題だと認識して浮かび上がった言葉だった。
「やってやるよ」
内田は、バックを掴むと、玄関に向った。加熱する鼓動に駆け引きなんて無粋なものは要らなかった。黒井が背中に向けて「奴等に気をつけてね」と発した。内田は、「なんだ、そんな言葉も話せるのか」と小さな納得をして玄関を出て行った。
警察署はいつもの公園の近くにあった。治安がいい場所だからこそ、飲食店にも活気があるのかもしれない。スポーツシューズを入れるようなバッグを抱えた少年は、異様な気迫を湛えて門を叩いた。奴等というのは、制服を着た彼らのことかと、明臣は思案した。受付にバックを預けると身元を訊ねられた。学生証の類を常に携帯しているわけではない内田は、住所と氏名と自宅の電話を伝えた。「気をつけてね」といわれたばかりだというのに、無駄に自身の情報を伝えてしまったのではないか。そんな不安が内田の胸を過ぎた。しかし、適当な住所を伝えていたら、それはそれで、厄介な結果を生んだだろうと気持ちを落ち着けた。受付でバッグのファスナーで開かれる。中には彼女の言った通り。大量のパック分けされた錠剤が入っていた。まじまじと見つめるわけにも行かなったので、それが何の薬かを素人が知ることは出来なかった。
「先程は、これをお願いしますと渡されたのですが、拾得物という事でいいのでしょうか?」
受付の対応は、明らかに豹変した。脳天気に、中学生が野球グランドかどこかで忘れられていたバックを持ってきたのだろう。という空気が疑いの混じったモノになった。その空気を察した内田は、先に相手方が提案してくれた間違った方向で話を進めることにした。
「もうすぐ、学校が始まるので、自主練を再開しようとしてグランドに行った時に見つけました」
内田は部活などをしていない。だから、夏休み期間の運動部の邪魔にならないように、残り期間が数えられる程になってから、徐々にグランドに足を運ぼうと計画していた。と追加設定をして告げた。そこで、受付からは「詳しい話は後で聴くことになるかもしれません。今のうちに、身分を証明出来る物を提示できますか?」と問われた。内田がありのままに手持ちがないと困ってみせると、所属学校に問い合わせる流れになった。その後、待合室に案内されたのだった。
室内に置かれたテレビには、「日本の金メダルは九枚」と最終結果を報じるテロップ付きのハイライト映像が流れていた。そういえば、今年はオリンピックイヤーだったんだと内田は心得た。夏休みと同時進行していたはずの祭典であるが、内田の意識はそんなものには目もくれず。気品の良い少女の皮を被った化物と対峙する事で精一杯だった。冒険といえるようなありえない日々だった。そこにはマドハンド狩りなどの抜け道なんてなかった。《……受け継がれる勇者の心。モンスターを仲間にして、この夏壮大なる冒険の旅へ》流れるテレビコマーシャルを見る。内田は、冒険はフィクションの中だけにしてくれと自身の境遇を嘲り笑った。勇者の心があれば、あの怪物が仲間になるのか。気を張り続けていた内田に、ふと、今の自分は喜劇の主人公ではないかという錯覚が生じた。やることなすことすべてが空回り。思い上がれば、叩き潰される。ただその場に居続けられるのは、精神的なダメージしか与えられていないという悲しい現実に守られていたからだ。そして、それを受け入れているからだった。内田は、「俺は馬鹿だ」と強く思った。しかし、その閃きの陰には「逃げてもいい」という妥協案があるだけだった。
警察署のエアコンの利いた何不自由のない待合室に、内田明臣は軟禁されていた。それは事実ではないのかもしれないが。仮に彼が、勝手にその場を離れることは、問題となるだろうと行儀よく何かを待っていた。最近の時間つぶしを専ら文庫本に頼っていた内田にとって夏のテレビ特番などを見て過ごす時間は新鮮だった。また、何も考えず。ぼーっとしているのも久しい事だった。黒井はるは同級生である。その事実が、得体の知れない化け物への畏怖の念を薄れさせたのだろう。知恵を振り絞り、奴を狩り落とす事に専念した濃厚な時間は、極度の疲労として内田を襲っていた。彼の心理状態は、敗北を認め。また流されるままに手続きを済ますだけという答えに着地してしまっていた。俺はなんて惨めなんだ。内田の心にはまたあの影が忍び寄っていた。ごく一般の中学生だったならば、「そんなことには付き合うな」と助言を与える親が居ただろう。一人暮らしという環境が、彼を濁流の中に置き去りにしてしまったのだった。彼らに直接関係のない話であるが、その二日後あたりから日本各地は集中豪雨に見舞われたのだ。記録では穏やかでない大気の渦が、平成二〇年の夏の終わりを飾ったのだった。
嵐の前の静けさというのとは訳が違うが、内田明臣の通された取調室は静かだった。これから激しい質問攻めを受けるのだろうか。内田は平静を装い、空威張りを決め込むことにした。書き取りを担当する男性署員が筆記具の手入れをしていた。
「よろしくお願いします。これから、取り調べを担当します。江里口です」
最後に部屋に入ったのは女の刑事だった。
「内田明臣十三歳。私立新湯学院に通う二年生。家族構成は父との二人暮らしという事で間違いないですね」
学院の事務室に問い合わせて詳しい内容を聞き出せたのだろう。このご時世で、住所から家族構成まで事細かに調べあげている点に内田は、国家権力の凄さを感じていた。
「そんなに緊張しないでください。一応、重要参考人としてあなたからお話を聴くことになりますが、あのバックの中の物は違法薬物ではありませんでした」
刑事は続けて、薬物係から少年係に事が移されて、事情だけきちんと聞きくように指示が出ているという旨で質問をしてきた。
「自分は部活動には参加していなかったので、二学期からは、仲間に入れるように、今日からグランドで自主練をすることにしたのです。そして、あのバックを見つけました」
内田は用意していた言葉を、そのまま語った。
「なるほど、あのバックから入手された指紋が二人分であり、どちらも最近ついたものであると鑑識から話が来ているのだけれども、あなたの指紋と照合してもいいですか? また、ここに持ってくるまでに他の誰かが関与したりはしませんでしたか?」
内田は、質問に、「指紋の件は、協力します。自分以外の指紋については、見つける以前の状況がわからないので、残念ですがわかりません」と淀みなく答え、この調子なら尋問はもうすぐネタが尽きるだろうと楽観し始めた。
「ありがとうございます。指紋の件はお手数ですが後ほど、ご協力いただこうと思います。ただもう一つ、バックを拾った経緯について、どこに落ちていたかなど。出来る限りで構いませんので、教えていただけますか?」
内田の脳裏には幾筋もの光景が浮かぶ。バックがグランドに落ちていたとなると、夏休み明け間近の草の生い茂った場所で見つけたと答えるのが良いのだろうか。それとも、指紋の件もあるので、倉庫やベンチ付近で見つけ、もしかすると、昨晩から今朝の間に置かれたのかもしれませんと答えるのが良いのか。後者だと、最初にグランドと言ったざっくばらんな答えが変に思えるか。もし仮に、誰かがグランドの裏口付近の藪の中で、ブツの受け渡しを図ったとするならそれの方が現実的か。そうするとなぜそこで見つけたか。おおよそは、サッカーの練習をしていて藪にボールを蹴り入れたが妥当だろう。しかしそうなると、ボールの入手経路と、シューズはなんであったかを問われるか。普段の運動靴で自主練をし、ボールは体育用のボールを夏休み前に隠しておいた。そんな軽犯罪をでっち上げても良いかもしれない。そうなると、現場検証までに、それを手配することは可能か……。内田の思考は止まらなかった。虚実の選択。そこでボールは新品を使ったなどという。証拠捜索が可能な選択は、元から検討すらされなかった。
「内田さん大丈夫ですか?」
内田は目の前の女刑事の言葉に我に返る。時間にすれば、内田の沈黙は一分にも満たなかった。しかし、今までのスムーズな対応からは、明らかに反応が鈍かった。
「すみません。出来る限りといわれると、どこまで話せばいいか。悩んでしまいまして」
それは、事実でもあった。そこで女刑事が場所。時間帯。その時周囲に他の目撃者が居なかったか。などを丁寧に聞き取り始めた。その段になると、内田の対応は、以前のペースを取り戻していた。
「ありがとうございます。今日は、この辺りで終わりです。もしかすると、事件に発展するかもしれませんので、今のところは他言無用でお願いします。また、後日、現場検証をする場合がありますが、その時はどちらに連絡すればいいでしょうか?」
締めくくりに交換した連絡先。「何か、思い出したことがあったら」という言葉を添えられていたが、内田は、黒井を相手にするよりも、楽だったなという安堵感で、聞き流していた。
登山は下山し、家に帰るまでを目標にしなければならない。登頂するのはただの通過点だ。どこかで、そんな登山家の話を聞いたことがある。なるほど、それから考えれば、内田は、下山途中で遭難する類の新参者だったのかもしれない。
『後を付けられている。』内田がその危機感を確かにしたのは警察署から三回ほど交差点を過ぎた時だった。この状況が、黒井の忠告だったのだろうか。解らない事は多かった。疑惑の一つ目は取調室を出て、指紋の採取をされた折だった。女刑事の本当の所属を知ったのだった。
「江里口という苗字は珍しいですね」
ふと、内田は署員に話を振った。それは、緊張の糸が解けて衝いて出た言葉だった。「ああ、係長ですね。うちら薬物係の聖母ですよ」
「おいおい、それは、言い過ぎだろう」
署員同士が話すには、薬物中毒者の取り調べをするのに、彼女ほど根気のある刑事は居ないという温和な人柄と、密売人に対して魅せる逃げ道を完全に塞ぐ尋問術。優しさと厳しさが両立した完璧な女性なのだそうだ。その内容だけでは、警察官としてやっていけるのか疑問に思うのだが。実践的な棒術の技量に加えて、剣道の有段者ともなれば、日常の生活の中には彼女にとっての得物が溢れており、相手が咄嗟に手にする武器はその性質を熟知している彼女にとって凶器にはならないのだそうだ。過去に、遭遇した捕物の立ち居振る舞いは、まさに達人だったと現場の興奮を瞳に映すように語っていた。
内田にとって、造作も無い相手であった為に、誇張広告の類ではないかと疑いたくもなったが。警察署内で待ち時間も含めて、かなり時間を費やしていたので、続きそうな上司自慢に見切りをつけて帰路についたのだった。
――あの時、女刑事が身分を偽ったのは、なぜだ? 背後に感じる気配と共に、頭を重くする靄が漂い始めたのを感じた。歩みのペースを変えたりもして居たので、今の感覚に間違いはないだろう。まさか署からの尾行か? 住所は知られている。この足で、アリバイ作りに向かうと疑っているのだろうか? それよりも、他の疑念を掛けられているのか? 事情聴取で、話はすべて決着がついたのではないのか。「薬物係」という些細な点からであったが、不信が芽生えていたので、想像は疑心に満ちていた。また、黒井の持ち込んだ薬物が、なんであったのか? 刑事の言う通りに、違法な代物でなかった保障も出来なくなっていた。違法でないのであれば、そもそも、なぜ、取り調べを受けたのか? 何かしらの事件性があるのなら、黒井はどこから薬を持ちだしたのか?
内田の想像でしかないことだが、確実に思考は希望の持てない暗闇へと向かっていった。
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