食卓事情

 日頃、自炊で生活している内田は、外食について明るくなかった。しかし、絶対に負けたくない駆け引きがあった。そこで、三度目の面会までに、下調べをしたのだった。

「なるほど、男心を掴むには胃袋からという諺もあるから、その考えは間違えじゃないだろう。ちょっと、聞いて来よう」

内田にとって最も頼りになり、周囲からの人望も厚い館長は、悪巧みの計画に喜々とした表情を浮かべて協力してくれた。昔、読んだ漫画本で得た知識。どんな猛獣も捕食の時には隙が生まれる。それが本当であるかは定かではなかったが、内田明臣は藁にも掴む思いで、相手の胃袋を掴む計画を認めたのだった。

「公園の近くにレストランがあるそうだ。ディナーとなると、流石に値が張るようなのだが、昼の数量限定のハンバーグが付くランチが、手頃な値段で人気なのだそうだ」

内田は料理の腕には自信があった。ミンチ肉を使って料理を提供するのは、肉をムダにしないための行為だ。そして、それを効率良く宣伝材料にしている。ただ近いだけではなく。料理人としてポリシーが気に入った。時間があれば、下見に行くだろうが、間違いはないだろうと館長の差し出したメモを受け取った。


 落ち着いた雰囲気のお店だった。とはいえ、サラリーマンや、婦人会。女子高生など、様々な年代の客が列を作っていたので、静かなわけではなかった。下見の際に予約を取っておいたので、中学生のカップルは、そのまま奥の席に案内された。繁盛する季節である。テラス席を予約札で塞いでおくのはもったいないと、そんな勘定があったのかもしれない。内田は、真剣な眼差しで黒井の行動を観察した。

「明臣さんは決まりましたか?」

メニューを一通り眺めて、彼女は内田の目を見つめて尋ねてきた。二度目の来店であるから、注文はすでに心得ていた。「パスタのランチにするよ」それは、ハンバーグ必須のランチメニューで、パンかパスタを選べば、その日のスープを添えて提供されるという内容だった。その宣言を聞くと、「私も同じ物をお願いします」と一瞬の間をおいて黒井の反応が返って来た。

 呼び鈴を鳴らし、オーダーを告げる。もし、その二人の心理戦を解説するなら、彼女はメニューを見、おおよその価格を覚えたのだ。その後、内田に注文を訊ねた。ランチメニューがその時間帯で一番手ごろな価格帯で、量も多過ぎないようだと確信して注文した。それは、店内を進む間に見たプレートの大きさから推測した結果であった。逆に、ランチ以外を選択すれば、一品料理を選ぶことになり、二人の間にアンバランスな空気が漂うだろう。また、彼女はホストである内田よりも高額な食事を注文することを憚った。元から、同じ物を頼む選択肢しかなかったようにも思えるが、その反応までの一瞬の遅延が、ランチタイムを共にすることに対する関心具合を知らせているのだった。ただ、相手に合わせただけなのではない。その点を見極めて、更に慎重な判断をしようと内田は意思を高めたのだった。

 正午を過ぎたばかりの時間帯。流石にハンバーグの品切れが起こることはなく。メニュー通りに、トマトの冷製スープ。みょうがを使ったぺぺロンチーノと順序良くプレートが運ばれて来た。お互いテーブルマナーで動揺することもなく。食事の合間に彼女の口からは、「美味しい」など、幸せそうな言葉が零れていた。内田は、「口に合って良かったよ」と返事をし、「普段はどんな食事をしているのか?」と、台所の様子を窺った。「普段は病院食なので、このような食事は新鮮です」自然に返されたコメントに内田はペースが崩れるのを感じた。『パスタの麺をフォークに巻くのはきちんとフォークを使えない子供のための使用法なんだよ』といった蘊蓄で相手の平常心を揺さぶろうとした計画も適切なフォークマナーを見た後では意味を成さなくなったし、「病院食」というキーワードが集中力を高めていた内田のは強すぎるノイズとなった。

 黒井はるは、「病院食で生活している」その因果関係に囚われた頭は、その後の食事を単調なものにしてしまった。いつしかメインディッシュも食べ終え、「ふう、流石にお腹いっぱいになりますね」とにこやかに同意を求められるまで、心ここにあらずの状態だった。ただ、内田にとって、その日のランチが特別重い物でなかったので、胃袋に余裕はあった。しかし、課題を克服すべき頭はパンクしかけていた。

 内田の計画が暗礁に乗り上げてしまったのである。打開策がある。相手が晒せるプライバシーならば病院食について訊ねればいいのではないか。それは、綿密な計画のもとで行動しようとし過ぎたために陥った見落としだった。会計を済ませ、公園に戻る道で、内田は黒井に投げかけた。

「先ほどの病院食というのはなにか持病でもあるのかな?」

黒井はカウンセラーには知らされていない病気を抱えているのかもしれない。彼女を思い遣った言葉に、

「明臣さんは私の秘密を握ったらどうしますか?」

と内田の背筋に嫌なものが走る逆質問を返してきた。

「どうもしないさ、ただ、一緒に学校に行けたらいいなと思っているだけさ」

彼女が発する気迫と、少年の用意した口説き文句が、ぶつかり。消えた。


 ランチを振る舞った日は、たぶん好印象を与えられたのだろう。内田は、彼女の言葉を反芻した。

「明臣さんが本当に信頼出来る方なのか、試してもいいですか?今度、明臣さんの家に行きます」

その言葉は、個人情報保護の観点で得られていないはずの情報を入手しているという脅しにも聞こえた。『裏切り者が居るのか?』と内田の戸惑いは深まるばかりだった。が問題がないのであれば、そのままでもいいと思った。


 夏休みは無限に続くわけではない。甲子園。北京オリンピックと熱い戦いが終わると、生徒達の自由な時間は残り一週間ほどになっていた。そんな時期に彼女は約束通り現れた。

「こんにちわ。明臣さんいらっしゃいますか」

内田明臣はその段になって居留守を使うほど野暮な男ではなかった。玄関の扉を開けると、黒井は、遠く窓の光の差し込み具合を確認する仕草をとり、安堵した後。敷居をまたいだのだった。いつまでも、こんな駆け引きの説明が必要なのだろうか。そこにいるのは中学生だ。女子生徒が男子生徒の家に押し掛け女房よろしく訪れたとしても、警戒心を張り巡らせるのは当たり前だろう。内田とて、彼女が示す仕草の一つ一つを確かめなくとも、ある程度は、相手の緊張具合を推し量れるようになっているのである。通された部屋の下座に座り、珍しく持参した手提げバックを脇に置く。彼女の訪問が夏休み中に起こるだろうと身構えていた内田は、来客に飲み物を用意して、卓袱台を挟んで向かい合った。

「『十角館の殺人』はもう読み終えられましたか?」

それは、内田が前回持ち歩いていた文庫本だった。なるほど、面白い質問をする。書庫から借りた本にはブックカバーが使われていない。内田は、それらの本を持ち歩いて、もし、汚してしまう事態になったのなら、気に入ったと言って、買い取る決意があった。だから、注意深く観察していれば、そんな風に意表を突くような質問を考えつくだろう。今日の場合は、「コップに仕掛けはされていないか?」そんな意味合いだろう。殺人ネタとして使い古された手口である。あの推理小説の中でも捻りを加えられなかったら、採用されなかったであろう。古風過ぎる手だ。しかし、現実では、優しさのカモフラージュが掛かれば、人を欺ける。最も手頃なトリックかもしれなかった。「警戒する気持ちはわかる。一応、水で濯いであるし、君がグラスを選んでもいい。飲まなくたっていいんだ」戯けるように内田は語った。内田には十分過ぎる程の時間があった。自分の部屋に招いた客人に危害を加える方法は、心理学を下地にして、推理小説の中から幾つも見つけていた。その効果的な誘導法もある程度理解していた。後は、その逆を考えればいいだけ。相手の警戒を解き、確実に自身の牙と爪を隠す方法を探し、そのやり取りをシミュレーションし尽くしたのだ。物理学者のような根気強さと数学者のような理論展開で内田明臣は、不甲斐ない己自身を脱したのだ。内田は、自身の対応に、黒井はるが少々驚いたのを見逃さなかった。やはり今までの彼女の振る舞いは、圧倒的な実力差があってこそ出来た行為なのだ。住所を突き止めたというアドバンテージを捨て去り、正々堂々立ちはだかる学年首位の不登校児と、夏の成長著しい学年唯一の落ちこぼれ。その二人を隔てた卓袱台の上に、黒井はるは、手提げバックを乗せたのだった。

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