再試合へ
帰路に着いた明臣は、終始翻弄され続け何も出来ていない自分自身に惨めさを募らせた。期末考査でもそうだった。準備すれば可能性は広がったはずなのだ。黒井はるが特別な存在というわけではない。己が、何かにつけて準備不足の不心得者であるだけなのだ。何が、武将の名が込められた名前だ。今のままでは、戦場に丸腰で向かっていくだけの阿呆ではないか。日暮れが近づき、影が伸びるのに従い彼の感情は膨れて、己の弱さを呵責した。
「内田くん。なに不景気な顔してるの?」
久しぶりにキョウコの声を聞いた。「悪かった。あの時の忠告さえ気づいていれば、君が呆れて、見放すような事も無かっただろうに」内田は声にならない後悔の念に囚われていた。キョウコは保健委員として振る舞った二日間以降、彼の前に姿を見ていなかった。そのことで、彼はキョウコを不親切だと切り捨てていた。
「困った時は、助けに行くって言ったでしょ」
しかし一言には優しさがあった。行為が為に落ちぶれて、結果を見ては落ち込んで、自身の存在を認められなくなるほど、落第少年の心は傷ついていた。その傷が身から出た錆のせいだと理解するほどに、悪循環は留まることを知らなかった。転校生の心情は、周囲が想像できないほど窶れてしまっていた。
その状況で、顕われたキョウコに内田は、そこが教会であり、キョウコがシスターであるかのような錯覚を覚えた。少年の本来持つべき素直さが自身の惨めな部分を懺悔させ、従い流れる涙が心を洗った。内田は、自分が何も変わっていないこと。全然、積極的に成れていないこと。ただの中学生であることを認めた。『なんだろう。どこかに在ったのだ。親父が居ない新生活が始まり、大人の仲間入りが出来たのではないか』と錯覚してしまった馬鹿馬鹿しい誤解が。内田が恥じる事柄は、それ以外にもあり過ぎた。すべてを認める頃には、街灯が道を照らすようになっていた。
「いいんじゃない。相手が、興味をもったんならそれだけで」
キョウコはあっさり言い切った。
「大体、男の子は女心を読めない生き物だといいますし、相手の話をそのまま受けとっていれば、問題はないよ」
そうだ、そうなのだ。それがキョウコらしい突き放しだった。内田は気づいていた。数学教師が積み上げた理論もたったひとつの気まぐれで崩れてしまう。今の内田には、公園で黒井はるが示した気まぐれに乗る以外の選択肢がなく。ただ、『次までに自分が何をするのか?』その行動を決めなければいけない。そこに怖気付いている。それだけなのだ。相手が同級生だというのに、なんとも不甲斐ない様だろうか。涙の筋はいつしか大きな迂回を始めていた。
「そうね、そういう顔のほうがいいよ」
そう言い残して、キョウコは街の中に消えていった。
夏の暑さは安定したようで、暑い暑いといいながら、皆、変わらぬ一日を過ごしていた。その暑さに、蔦もさすがに草臥れるのではないかと心配になるのだが。水と養分を得て、夏の盛りに負けじ劣らず葉を広げていた。温暖化対策というならば、街中を緑一色にしてしまえばいいのにと。無駄に「オズの魔法使い」を宣伝するわけにも行かないので、気づかないことで空回りばかり続けている。内田の話に戻ろう。
内田は、必至に勉強していた。黒井はるは何者なのか。非行心理学を調べるとそこには、家庭環境の問題を問い質す文脈も見つかる。個人情報が守られた同士で、相手を調べ尽くすということは現実的ではなかった。カウンセラーの先生もその点は、厳重に守っているようだった。となれば、相手の一挙手一投足に集中して、紐解かなければならない。内田の心構えは、下手な言い換えをすると。ホームランバッターのそれだった。言葉のキャッチボールを無視した。完全な狙い撃ち。更にいうなら、ピッチャーライナーを狙った悪辣非道なスタイルだった。しかし、それに気づく者は居ない。また、その打率自体が一割に満たないだろう予測が立てられれば、アマチュアの理想を求めた悪足掻きでしか無かった。つまり、『またしても』な行動なのかもしれなかった。だが、内田はその方向に進むことで、自分自身を納得させていたのだった。
内田と黒井の待ち合わせは三度目を迎えようとしていた。前回は、黒井の方から詮索を入れるような質問をされた。転校生として、今まで行ってきた受け答え技術が十二分に発揮され、難なく相手の関心を惹くことに成功したようだった。そのまま、黒井の内情を探ろうとして、内田は見事にはぐらかされてしまったのだ。ツーアウト。相手の思い通りに空回ったのである。気の緩んでいるであろう好機に、内田は更にチャンスを広げる策を講じたのだった。
約束の時間はお昼。いつものベンチに向かうとそこにはシャッポを被った初老の先客が居た。その場では夏の風物詩的なラジオ番組が流れていた。《……六回の裏。四対二、大阪桐蔭の攻撃、四番萩原君。当たると長打になる選手ですからね、慎重に行きたいところですが、……内角。打った鋭い当たりがセンターへ、次のバッターは奥村君、バントの構えを見せています。一球目ボール球を見極めボール。二球目。打ったレフト線。一塁ランナー生還です。二塁打に成りました。大阪桐蔭ここで、五回六回と点差を縮めて来ております。……二塁ランナー走る盗塁成功。七番バッター中谷君は三塁ゴロに倒れました。ピッチャー三塁側を気にしてか、投球が定まりません。ファーボール……》
「こりゃー、ピッチャーにはしんどい場面だな」
男子中学生が隣りに座ったからか、シャッポの男性は、解説を始めた。
「先制点を守り切るプレッシャーを背負い続けた三巡目。全国の視線が集まる投球。じわじわ詰め寄られたら、並の精神じゃ持たない」
実況は逆転を告げ。打者一巡を仄めかしていた。内田には想定外だった。いままでに、人数調整で入った少年野球にはない重圧がその場にはある。野球のルールはある程度知っていたし、経験もないわけではない。しかし、物事を判断するには、理解するには、彼らの戦いの価値を評価するには、知識が足りなかった。
ラジオがゲームセットを伝える前に、黒井は現れた。
「今日は、お昼をご馳走していただけるということですけれど。遠くなりますか?」
いつものように丁寧な口調だった。どこまでが遠いか、細かい判断はせずに、内田は、近場だと返事をした。もしかすると、車の用意をしていたのかもしれない。そうなれば、また彼女にとって優位な状況が築かれるだろう。内田は瞬時にその判断を下したのだ。言ってしまえば単純な二択であったのだが、内田は想定していればこそ、今回のように優位な判断が選べたのだと手応えを感じた。今日こそは、自分のペースで話を進める。その決意を胸に、中学生同士の戦場をレストランへと移すのだった。
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