待ち合わせ

 梅雨が明けると一転して、熱い日が続いていた。内田が私設書庫に入り浸っていたのは、その気候の影響もあるのかもしれなかった。考査が一段落し、夏休みが来る。学院の性質上、遠い土地から出て来た生徒が、帰郷する話題なども上がっていた。一つのピリオドに向って努力し、その成果を讃え合うような充実した学院生活を過ごせていたならば、内田もその環の中に入れただろう。現実は、転校生から学院の異常事態とまで陰口を叩かれる落ちこぼれ。周囲の生徒が、明らかに接し方に苦労しているのが分かる。そんな堕転した苦痛の日々をやり過ごし、やっと、休みに入る問題児だった。

 部活もない。誘いもない。空白の一ヶ月。カウンセラーから渡されたメモ書きには、黒井に事前に連絡を取ったのだろう。待ち合わせ場所と時間が書かれていた。

 ――夏場の公園で児童が水鉄砲で遊んでいる。学院指定のスラックスとワイシャツ姿の内田は、暑さに耐えながらベンチを陣取り、予定の時刻になるのを待っていた。時折ハンカチを濡らして、顔を拭う。そんな仕草を繰り返し、文庫本に視線を這わす。待ち合わせの相手が、女性であることも知っていたし、今日の出会いが最初で最後になるかもしれないという念もあった。しかし、内田にとって、不登校児と面会する事に、異性を意識するような素振りはなかった。出会ったら何か話を振ろう。もう八月に入っているから、課題の類は終わっているだろう。その方向で相手の人柄が伺えればいいか。そんなざっくりとした準備どまりだった。それより手元の本に夢中だった。殺人事件が起き、数学教員が暗躍している。高校の授業は解らないが、自分の受けたテストとどちらの方が難解か。生徒が授業に関心を持つように論じる行などを追いながら、「本格ミステリー論争を引き起こした本だから、どうだい?」外で読める本として館長が薦めてきた時の事を思い出していた。返す時に気に入ったと伝えるとその場で購入も出来る。「本はナマモノだから、気に入った時に買わないと、廃版になってしまう。ここの本棚にも限りがあるから、そういう宝物は、自室の本棚に持ち帰ってもらいたいと願ってるんだよ」文化意識の向上と表現するのだろうか。ご老体が築き上げた理論によって活動する緑の館は、内田のお気に入りだった。

 蝉の鳴き声。子供のはしゃぐ声。車の通り過ぎる音も聞こえる。その雑音の中で時折、読書の集中力が切れ、安らげる空間に愛おしさを募らせるのだった。この件が終わったら、推理小説の分野を漁ろうか。小説の中の犯罪に文学少年の心は踊っていた。


 さささささささささささっさ、っさっさっさっさ……


 長い時間が過ぎていた。「真剣に読まれるのですね」その一言を掛けられるまで、内田はベンチが相席状態になっているのに気が付かなかった。もし、遊びまわっていた子供に水鉄砲を向けられたとしても、警戒せずに悪がき相手なら服を濡らされていたことだろう。暑さのピークが過ぎた頃合い。首筋に当てたハンカチは乾きつつあった。

「約束だとカウンセラーの先生と会うはずなのですが、どの様な趣向なのでしょうか?」

カウンセラーの不手際だった。それとも、計画的な犯行か。待ち合わせの時刻から遅れはなかったことの他にも、不意打ちの邂逅は、驚くべき事が多かった。

 不登校児であるから、人と会う事にコンプレックスを抱いているのかもしれない。

 不登校児なので、人と話をするのは苦手なのかもしれない。

 不登校児なら、制服を着てくることはないだろう。

目の前には、学院指定の夏服を着た。育ちの良さそうな少女が居た。ただ、想像通りの点があるとすれば、この時期でまだ日焼けをそれほどしていない。インドアな肌が陽を浴び輝いていることくらいだった。

 内田明臣は言葉を探した。咄嗟に口から出た言葉は、意識の外へ消えて行き。慌てふためく自身の姿を見て、彼女が可笑しさを堪えつつ震えているのに気がついた。『嵌められた。相手は自分のことを知っていて、わざと知らない振りをして近づいたのだ。でなければ、読書に夢中になっているとはいえ、寄せて三人座れるかどうかのベンチに腰を下ろし、異性の挙動を観察し続ける事は出来るはずがない』内田が事実に気がついた時には、「黒井はると申します。明臣さんですね。どうぞよろしくお願いします」とからかった事を包み隠さず明かされたのだった。

 相手は成績優秀な中学生である。何を考えているかわからない。というよりも、内田がこのところ出会う少女達は、理解し難いレベルの接触をしていた。考査で落第を経験して居なければ、彼女の気取っている振る舞いに、自尊心を傷つけられたかもしれない。黒井はるには、他人の信念を圧し折ってさえ道理を通してしまうような清らかさがあった。彼女は本当に問題児なのだろうか。内田の思考は撹乱した。わけが分からなかった。

「ごめんなさい。ちょっとからかいすぎたかしら」

気恥ずかしさを隠すように視線を外し、目を伏せる仕草をする。黒井の挙動は演技染みていた。内田はそれを知覚し、「ああ、用意してきたのだな」と感心した。準備があれば、答えも用意されていて、話し合いや、説得の類は発生しない。つまり、今の内田は正真正銘の道化でしかないと予感した。そして、内心笑いが止まらなかった。何をやってんだ。という自分への呆れに、何をやってんだ。という相手への酔に、日常の中で非日常を演じられ、それに見入って居る。読書の延長のように、なんの干渉も出来ず流れに身を任せてしまっている。なんだよ。強くなれるんじゃなかったのか。彼女が用意してきた言葉が頭を素通りしていく。「誰かが悪さを働いているのではありませんし、差し障って、障害があるのでもないのですが。問題がないのであれば、このままで、よろしいのではないでしょうか」大人の都合で、不登校は問題だ。と決めつけるのであれば、問題は解消しなければいけない。そう躍起になって当然のように思える。しかし、内田は、今、この状況で、答えを出せない自身に気がついた。物事を判断出来ないのは、決意が足りないせいだ。その決意を堅めるために、情報が欲しい。「なぜ、君は、……。」非難したいわけではない。疑問がある。どんな答えが戻ってくるか見当が付かない。内田の意識は彼女に伝わったのだろうか。

「明臣さん。あなたに興味を持ちました。また今度、会いましょう。今日のところは、このような約束で終わりにしませんか?」

夏休み中にまた会う約束を交わして、少年少女は別れたのだった。

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