前日譚6:理子が希に惚れた理由―醜い現実と甘い夢

 そかれら数日たったある日のこと。

 自宅でのんびりしていた理子の元に電話がかかってきた。

「理子」

 理子がリビングに飲み物を取りに言った直後、電話の子機を持って母が近づいてきた。

「紀夫おじさんからお電話よ」

 紀夫おじさん、つまり下久部長である。

「理子に話があるって。この前の話の件で……」

 理子は身構えた。この前の話と言われると起業の件しか心当たりがない。

(しかしなぜ下久おじさんがその話を知ってる?)

 起業の件は会社では何も言ってない。希と両親だけである。

 ――だとすると、父か?

 父と叔父は特に仲が良い。

 告げ口したとは思わないが、おそらく、父が叔父へ勝手に相談をしてしまったのだろう。

 そこまで理解したうえで、理子は叔父との面談に応じた。


「突然呼び出してゴメンね」

「いえ、本当は日を見て、私からちゃんと相談するつもりでした」

 下久は休日にトイックスの応接スペースに理子を呼び出した。

 あまり他の人に話を聴かれたくないからだろう。

 ソファに座るように促される。理子が座ると下久もやおら話を始めた。

「まぁ、隠す必要はないと思うけど、お父さんから相談を受けてね……」

 理子は黙って話に耳を傾ける。

「君が起業したいと言っているらしいね」

 やはりその話だったか。

 分かってはいたが、内心理子は舌打ちした。

 不快感を表に出したつもりはないが、下久には今の心境はさすがに伝わっているらしい。

「勘違いしないで欲しいんだが、お父さんは君の事を心配しているだけなんだ。君がやりたいことを邪魔したいとか、そんな風に思っているわけじゃない。ただ、あまりにも急な話だしね……それから僕自身も、ちょっと驚いてる。君は若手の中でも優秀だし、トイックスの中でも評価高いから。できればずっと働いてほしいと思っていたし」

「すみません、目をかけてくださっていたのに、ご迷惑をおかけして……」

 へりくだりつつも、理子は自分の意見を通す。

「有体に言うと、まだいつから始めるかとか、具体的なことは何も決まってないんです。でも、近い将来、起業はしたいと思っています」

「他の人と一緒に会社を立てるそうだけど、それってひょっとして明坂くんかい?」

 理子の同期でしかも辞めることが決まっている人間は明坂希だけだ。

 父はそこまで細かいことを話してしまったらしい。

 会社に迷惑をかけてしまう手前、下手に出ていた理子だが、さすがにそこまで踏み込まれてしまうと気分が悪くなった。

 黙り込む理子に対し、下久は話を続ける。

「理子ちゃんのお父さんとしては、会社うんぬん以上に、その相手がどんな人かが一番気になっているみたいだよ。君が騙されているんじゃないかと勘ぐってね、それで僕に相談してきたんだよ」

「まさか、むしろ私の起業の夢に彼女が乗ってくれてるだけです。これは私のワガママなんです」

 よもや希の人格を疑ってくるとは……少々腹が立ち、真正面から否定した。

「素朴な疑問だけど、君は明坂君とは仲が良いのかい? あまりそういう印象はなかったんだけど」

 あまりその話にズカズカと踏み込まれたくないなと理子は思い、曖昧な返事だけすることにした。

「まぁ、友達です。仲は良いつもりですよ」

 理子としては曖昧な返事のつもりだったが、その答えにも下久は顔をしかめていた。

 よくよく考えれば、下久は希に、会社の社員たちがたくさんいる前で企画を真っ向から否定されたのだ。

 面目をつぶされた下久には、どんな返事でも複雑な心境になってしまうのだろう。

「まぁ、君は大学でも経営関係の勉強をしていたようだし、起業したいという気持ちもわからなくはないよ。でも、君はまだまだ若手だし、なにより今世間は不景気だしさ。夢をかなえるのはもっと未来でも良いんじゃないかなって思うんだよね」

「確かにそうかもしれません。リスクがあるのも分かっています」

 本当の事なんかこのオッサンに話したくない。

 本当のことを言う価値なんかこの男にはない。

 そう思ったので本心は隠す。

「だからこそやるべきだと思っているんです。今から起業するのと、30歳になってから起業するのとでは、その後のノウハウの蓄積が大きく変わってきます。スタートラインが全然違うと思います。だからこそ今のうちにリスクを取ってでもやるべきだと考えています」

「…………」

 本心の言葉ではないが、それでも決意の固さは伝わったようだ。

 しばらく下久は黙考していた。

 彼からすれば、自分のコネで入った人間が一年足らずで辞められるのが不本意なのだろう。

「いつ辞めるつもり? お父さんは君が週末起業でやるみたいなこと言ってると聞いたんだけど」

 そこまで話しやがったのか。父と叔父は仲が良い事は知っていたが、正直そんな細かい事まで勝手にバラされてはたまったものではない。

「いえ、週末起業というのはあくまでアイデアの一つで、どのみち年内は準備期間に当てるつもりです。トイックスの仕事や、引継ぎなども出てくると思いますし、実際に会社を立ち上げるのは早くて来年の上半期だと思います」

「年内に辞めるつもりなの?」

「それも、正直考えはまとまっていません」

「こういうことはあんまり言いたくないんだけど、トイックスは副業禁止なんだよね。就業規則にもそう書いてあるのは理子ちゃんも分かってるよね?」

「はい」

「だからもし会社を立ち上げるなら、そのタイミングで辞めてもらわないといけないんだけど、それまでに準備がしっかり整うのかな? 起業ってそんな順調にできるとは思えないんだけど」

「未来の事は分かりません。ですがもし、起業するなら会社を辞めろと仰るなら、それに従います」

「若いね君も」

 かたくなな理子の様子に、突如として下久の態度は不快なものに変わった。

 これまでの長い付き合いで理子が見たことがない厳しいものだ。

「現実はそんなに甘くないんだよ。いったいどんなビジネスをやろうとしているかは知らないけどね、仮にスタートでうまく行ったところでそれが何十年も続くわけじゃないんだ。そして大体の会社はスタートで躓いて失敗するものなんだ。そうなったとき、君は自分の生活はどうするつもりだよ。甘い夢を見るのは結構。でも、君の将来を心配している両親の気持ちも少しは考えたらどうだい」

 ここまで感情を抑えていたようで、下久は憤然とした態度を隠すことなくまくし立てた。

 下久のいうことにも一理ある。

 理子が甘い夢を見ているのは間違いない。

 明坂希と彼女の作る人形を、私の手で売るんだ。広めるんだ。

 そんな思いから起業というアイデアを思いついたのである。

 今の自分が、熱に浮かされているのは間違いない。

 うまくいかない可能性の方が大きいのかもしれない。

 甘い夢なのは、間違いない。

 だが、


 ――私が夢を見て、何が悪いんだよ。


 いったいトイックスには何がある。

 ここにあるのは厳しい現実などではない。

 現実は現実でも、醜い現実なのだ。

 ここにいる人たちは、自分がどんどん腐っていくのを、分かっていても止められない連中だ。

 それは詩織も、恵も、そして理子もその一員だった。

 だがそんな中、腐っていくのを真っ向から拒否した人間がいた。

 それが明坂希である。

 もしかしたら彼女も、醜い現実に晒されて腐りかけていた時期があったかもしれない。

 だが、子供の頃のクリスマスの思い出だけはかたくなに守り続けた。

 だからこそ、彼女は醜い現実を拒絶し、夢をあきらめずに挑戦している。

 それを彼女と接して気づいたのだ。

 理子には希がまぶしかった。

 理子にとっては、明坂希という存在は、まぶしいほどに輝く、甘くて素敵な夢をもっている。

 起業の先に厳しい現実が待ち受けていることくらい、理子にだってわかっている。

 だがたとえ厳しい現実が立ちはだかったとしても、その先に甘い夢があるのであれば、きっと乗り越えられるに違いない。

 そしてそんな挑戦ができるのは、今この時をのぞいて他にないのである。


 だがしかし――、


 この覚悟をどれだけの言葉で表現しても、下久はどのみち納得なんかしない。

 だから、理子は頭を下げる。

「お気遣いありがとうございます」

 叔父と姪としてのそれではなく、ひたすら他人行儀な態度を貫くことにした。

「両親が納得していないのは私も理解しています。なので、両親には私からちゃんとお話して、納得尽くのうえで自分の道を進むつもりです。それから、仕事もけじめは付けます。退職の時期などはまた人事の人と改めてご相談いたします」

 言外に、これ以上どんな説得も聞く耳持たないという感情を含んだ言葉である。

 それを察知し、下久の態度は途端にやる気のない、だらしないものになる。

「残念だよ。君には目をかけてたのにさ」

 ため息交じりに愚痴り始める。

「僕もぶっちゃけ、あの明坂にそそのかされてるだけだと思ってたよ。だから落ち着いて話せばわかると思ってたのに」

「彼女を悪く言うのはやめてください」

 下久の口から彼女の名前が出た瞬間、突如として理子の怒りに火がついた。

 自分でも抑えられないくらいに怒りがこみあげてくる。

 しかし下久も同じくらい憤懣が溜まっているらしく、さらに聞いてくる。

「分からないんだが、どうして明坂くんなんだね? あんな勤務態度も悪くて社会常識もマナーもなっていない子に、会社を経営する才能があるとは思えないんだよ」

「もう失礼しますね」

 希を否定しようとする下久の言葉に嫌悪感を抱き、一方的に理子は話を打ち切った。

 これ以上話しても無駄だ。

 最初から期待などしていなかったが、このまま話を続けても不快さが増すだけだ。

「待ちなさい」

 なおも引き留めようとする下久。

 いよいよ怒りが臨界点に達した理子は、カバンから封筒を取り出してそれを下久に突き出した。

「これ、差し上げます」

「なんだこれは?」

 その情報は理子にとっては博打であり、切り札だ。

 もっと慎重に出そうと思ったのだが、この勘違い親父に我慢がならなかった。

 ある意味、醜い現実にオサラバするにはちょうどいいかもしれないものである。

「別におじさんの趣味どうこう言うとつもりないですけど、あまり会社のカネで派手なことしない方が良いですよ。それでは」

 一方的にそれだけ告げて、そそくさとその場を後にした。

 やがて渡された封筒の中身を見て、下久は青ざめる。

 そこには自分が出した経費清算書と一緒に、領収書と名刺のコピーが入っていたのだ。

 接待費の名目で計上していた、風俗店のものだった。



「ほんと隙だらけで馬鹿らしくなるわ。あんなもの会社に回すなよなぁ」

 人形作りで家に引きこもっていた希を引っ張り出し、理子は喫茶店で愚痴っていた。

 理子は事の顛末を全て希にぶっちゃけた。

 もちろん、下久に突き付けた経費のことも含めてだ。

「しかしよくそんな情報、突き止められたね」

 希はコーヒーを啜りながらそう言った。

「まーねー」

 下久は個人的な夜遊びのカネを経費として突っ込んでいた。

 こういうものの調べ方も色々だが、切られていた領収書の内容に違和感があったのでそれを手掛かりにした。手がかりとなった領収書の金額は30000円そこそこと大したものではないものの、なぜか支払先の宛名がゴム印ではなく手書きなうえ、法人印の捺印もなく、あからさまに怪しいものだった。

 それは風俗代で、しかも取引先なんか関係なく個人的な夜遊びで使ったものの様だった。それを会社の経費につけ回してきたのである。

「恩のある叔父さんに対して、こんなことしたくはなかったんだけど、常識的にもどうかと思うし、ぶっちゃけ前々からなんとなく不信感は持ってたからね」

「会社、どうするの? アンタまで辞めるつもり?」

 希に尋ねられ、理子は考えるように天井を仰いだ。

「……あの会社にしても意味はない。起業とか関係なく、遅かれ早かれ辞めるだろうね」

 しばらくお互いに沈黙する。そしてそれを希は破った。

「起業、しようと思う」

 はっとして希を見つめる。

「理子が、アタシの人形を見て感動してくれたの、本当は凄くうれしかった。でも、理子をアタシの夢に巻き込むのが怖かった。うまくいくなんて思えないし……。でも理子がここまで思い切ったなら、アタシもいつまでも二の足踏んでられないから、やるよ」

 そう言って希はコーヒーを啜った。

 ちょっと照れたような、はにかんだ笑顔を浮かべている希の顔を、理子はしばらく見つめて、つついた。

「このツンデレ」

「うるせ」

 二人は笑いあった。


 それから起業するまでの間、二人はお互いにやれることをやっていた。

 希は本格的に自分のオリジナルの人形の試作をはじめ、研究開発に没頭した。

 とはいえ父の方針で全くの無職というのは許してくれなかったようで、なんでも父の知り合いの会社にバイトで入り、ウェブ関連の業務をやらされているという。いわゆるIT土方と呼ばれるものだ。

 それでもなんとか希のなかで人形の設計思想はある程度固まり、あとはそれを実際に形にするだけというところに到達したようである。


 一方、理子は両親を粘り強く説得し、不承不承ながらなんとか起業の許しを得た。

 トイックスは年末には退職が決まり、仕事そのものは真面目にこなしつつも起業についてあれこれ勉強し、さび付いていた知識を掘り起こしていた。

 また、叔父もあの日以来、取り立てて理子に対して何も言わなくなった。部署も違うのでお互いに積極的に干渉しない限り関わることは少ない。

 叔父にも妻子がある。あの渡した情報はコピーなので、理子があのやましさ全開の情報を握っている限り何も言ってこないに違いない。

 喧嘩別れのようになってしまったのは心残りではあったものの、それは仕方がないことだった。


「会社なんだけど、ひとまず合同会社として立ち上げたいと思う。まぁ私が代表だし、本店所在地はウチにしておくわね。あと社名だけど……どうしようかな……」

 理子にもいろいろ案はあったが、しっくりくる名前は浮かばなかった。

 そして、希が提案する。

「アニマっていうのはどう?」

「アニマ? どういう意味?」

「魂って意味よ。アタシは人形作りに魂を込めている。だからそれを名前にしたい」

「じゃあそうしよっか」

 ふと、とあることが気になって理子は質問した。

「そういやさ、忘れてたけど、希のお父さんには起業の件ちゃんと話したの?」

「したよもちろん」

「反対されなかった?」

「別に」


 ――起業することにしたから。

 レストランで晩飯を一緒に食べていた時、希は父にそう言った。

 ――そうか。借金はするなよ。やるなら自分のカネでやれ。


「それで終わった」

「それ、うらやましいわー」

 両親の説得は非常に骨が折れた。理子は心底うらやましかった。

「そう? 親身になってくれる親が二人もいてくれて良いじゃない」

「起業のついでに結婚しない? 明日から明坂理子になるわ私」

「アホ」

 二人で笑い合う。


 こうして、アニマ合同会社という名の、二人の甘い夢の物語が始まった。

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ドールを作る会社を起業したら何故かモテモテになった件 赤月めう(杉村おさむ) @sugimuraosamu

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