前日譚5:理子が希に惚れた理由―理子の大恋愛と恋路の妨げ

 その話が最終的に「起業」というかたちをなしたのは、希が退職願を出したタイミングであった。


 実際に希の実家に足を運び、彼女が作っている人形を見せてもらった。

 そこには恐ろしいほどの存在感を持つ人形たちが並んでいた。

 希にはなにか得体のしれないオーラを感じていたが、その源泉はここにあったのだ。

 もっとも、理子からすれば凄い人形でも、彼女はまだまだ納得していないらしい。

 理子は球体関節人形の分野にはまったくの素人なのでちんぷんかんぷんだったが、希に言わせれば、今作っているものは全て、市場に出回っている既存のモデルの延長でしかなく、彼女自身のオリジナルとは言えないもの、ということらしい。

 彼女曰く、それはコンセプト、つまり、設計思想に根付く問題だという。

 だがそのコンセプトが何なのか、いまだに実態をつかめずにいて、正直行き詰っているようだった。


 しかし理子は、大いに惚れてしまった。

 最初の内こそ興味本位だったわけだが、希の、人形に向き合う真摯な姿に、すっかり惚れてしまっていた。

 玩具そのものへの情熱なんか、トイックスでは一切感じられなかった。

 トイックスにあったのは、いわば売上ありきの戦略であり、売れ行きだけを念頭に置いた商品コンセプトだった。

 希の人形を目の当たりにした今、トイックスの玩具なんか色あせた樹脂の塊にしか見えなかった。

 それを見せてもらった後、理子は彼女のためにできること真剣に考えた。

 というより、彼女の夢を一緒に実現するために、自分が何をできるか考えた。

 そして行き着いたのが「起業」だった。


 とある休日、理子は喫茶店に希を誘い、いよいよ自分の考えを希に話した。

「起業……?」

 だが、希は首をかしげていた。

「正直ピンとこないな」

 希は退職の目途が立ったせいで、今や作っていたOLの仮面を取っていた。

 最近は退職が決まったことでかえって元気はつらつと言った感じで、クリエイターらしい独特のエネルギーを感じさせている。

「子供たちのために人形を作ってるんでしょ? でもさ、ただ作ってるだけじゃ誰も手に取ってくれないじゃん。本気でやりたいなら、何かしら広める方法も必要だし、何より売るためのスキームを作り上げることが希には必要よ」

「…………」

 希は考え込んでいた。理子はなおも続ける。

「正直、希の夢って、希が一人でやるにはでかすぎるし、かといってどこかの会社で雇ってもらって実現するのは難しいでしょ? ぶっちゃけ不景気で、どこの会社も売り上げや利益重視なんだし」

「まぁそれはそうだけど……」

「クリエイターの世界って私も正直よく知らない。でも、私は大学で経営の勉強はしてきた。だから私と一緒に挑戦してみない?――起業」

 希はしばらく目線を落として考える。そして質問してきた。

「根本的なこと訊くけどさ、アンタの目的はなんなの?」

 理子はきょとんとする。

「トイックスの同期ってだけで、正直そこまで親しくないでしょ? どうしてアタシみたいなヤツに構うのか、正直良く分からないんだけど」

 要するに希は、理子の本心を疑っているわけだ。

 まぁ無理もないか。最初から下心全開だっのたは本当なのだし。

 理子も正直前のめりになっていることは自覚していた。

 希からすれば唐突で、怪しいものを感じるのは致し方ない。

「正直、口にするの恥ずいんだけど……」

 少し呼吸を整えて話を始める。

「ぶっちゃけいうとね、起業は学生時代から興味あったんだけど、どんなことをするか思い浮かばなくて結局普通に就職したの。でも、いざトイックスに入ったら毎日退屈でさ。もう飽き飽きしてた。だからといって、今の仕事を離れる気持ちにもなかなかなれなくてさ。あなたと同じで、トイックスにいたらどんどん自分が分からなくなってきちゃったの。ようするに腐ってたワケ」

 不信感を取り除くには本音を全て言うしかない。理子は言う。

「それで、希の話や、あなたの作った人形を見てね、凄く感動したの。こんなに心を動かされたのは久しぶりだった。それで、もともと私にも夢があったなって思い出した。あなたと、あなたの人形が思い出させてくれた」

 希はずっと理子の話を訊いていた。口は一切挟まない。

「私は希の事好きだし、あなたの作る人形も素敵。だからね、アンタの夢と私の夢、同時に叶えられるなら、これ以上素敵なことないと思う。それじゃダメ?」

 言い終えて、

 今更ながらなんか愛の告白みたいだ。

 いや、実際これは守谷理子という人間ができる、愛の告白の仕方だったのかもしれない。

 希も理子の赤裸々な言葉に、少々耳が赤くなっているようだ。

「理子の気持ちが本気なのはわかった。けど……」

 どうやらまだ不審は完全にはぬぐえていないようで、どう反応したらいいか困っているように見えた。

 結論を急ごうとする希に、理子は念押しする。

「もし私の事信用できないっていうなら、希が私のことを信用するまで待つわ。幸い私は、アンタと違ってダラダラ生きてても生活には困らないしね。こっちはそんなに急がないから、ゆっくり考えて欲しい」

「なら、そうするわ」

 希はうなずいた。

「でもさ、仮に起業したら、理子はトイックスどうするつもりなの?」

「私としては、起業してもしばらくはトイックスにいるつもりよ。それで、本腰入れる段階になったら辞めようかと思う。いきなり辞めて起業するのはさすがにリスク高いしね」

「…………」

 理子の話に、希は真剣に考えている様子だ。

 だが今この場でこれ以上の進展は望むべきではないだろう。

「時間はいくらでもあるから、気が向いたらいつでも連絡してね」



 それからしばらく経ったある日、夕食のタイミングで理子は両親に軽く起業についての話をした。

 理子としては「起業をちょっと考えてる」くらいのニュアンスだったが、過保護な両親はその話を真に受け、大いに驚いた様子だった。

「本気で言ってるのか?」

 父親は大いに顔をしかめていた。

「会社辞めるつもりなの? せっかくおじさんのおかげでちゃんとした会社に入れたのに」

 と、これは母だ。怒りすら感じさせる父とは対照的に、母は死別でもしたように悲しい表情を浮かべていた。

 予想外に父と母の反発は大きいものである。

 この段階で希の話をしてしまうのは得策じゃないなと感じた理子は、ひとまず学生時代から起業は考えていて、そろそろチャレンジしたいとそれだけを言うにとどめた。

「まだ何をするのかはっきりしてないんだけどね」

「やりたいことも見つかっていないのに起業するっておかしくない? トイックスで色々学んで、目的がはっきりしてからチャレンジした方が良いと思うんだけど」

「いや、とにかく準備だけでも今から進めないとさ……」

 詰問めいた両親の言葉に、理子もさすがに言葉が詰まってしまう。それでも両親は質問を止めない。

「今は週末起業ってのもあるし、とりあえずちょっとずつやってみたいんだけど……」

「一人で会社をやるつもり?」

「ううん。一緒にやろうって私が誘っている友達がいる。その二人でやるつもり」

「誰それ? 私たちの知ってる人? もしかして大学の人?」

「トイックスの同期よ。女性で、私の二つ年下で……」

「ダメだろそんなの」

 父は真っ向から反対した。

「もっと経験豊かな人がトップになってやろうっていうならまだ分かる。でもお前は大して社会人経験を積んでないじゃないか。その一緒にやるって相手だって、きっと迷惑するんじゃないのか? 相手にだって家族も生活もあるんだ。そこまでちゃんと考えてるのか、理子」

 それを突かれると痛い。

 確かに起業は理子の夢の一つだが、上手くいかなければ生活に大きな痛手をこうむることになる。ある意味博打のようなものかもしれない。

 更に言えば、希からもまだ返事待ちだ。だから今はまだイエスもノーも言えない状況である。

「別に今すぐどうこうって話じゃないから。とりあえずもう少し時間ちょうだい」

 そうとしか言えなかった。


 理子は自室に戻ると、まくらを壁に投げつけた。

「まったく」

 盛大なため息をつき、理子はベッドに倒れ込む。

 希の話をほとんどしなかったとはいえ、父と母の拒否反応はすさまじいものだった。

 あれではまるで、結婚に反対する親のそれである。

 いや、自覚がないだけで、これはもしかしたら守谷理子にとって、一世一代の大恋愛なのかもしれない。

「なら起業したら、私と希は夫婦かな」

 苦笑いする。なんて気が早いのだろうか。彼女からまだ良いとも悪いとも言われてないのにだ。

 恋に障害はつきものである。ましてやこれは起業なのだ。

 親のあの程度の反対でつぶされているようでは、ビジネスなんかできっこない。

(この程度の障害くらい、乗り越えてみせるさ)


 だがさほど間を置かず、理子の前に新たな障害が立ちふさがることになった。

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