前日譚4:理子が希に惚れた理由―暴発した希

 その次の週。

 もう7月。上半期が終わった。春先から梅雨の時期までは比較的ヒマを持て余すこともあるトイックスも、夏に差し掛かると一気に慌ただしくなる。そんな境目のある時期である。

「あーあ、こういうことか……」

 理子は経費のリストと領収書を見比べて天を仰いだ。

 他の人よりも少し早めに出社しての調査だった。まだオフィスにはほとんど人がいない。

「くっだらねぇ。知って損した」

 一人でぼやき、理子はその書類を封筒に入れ、そのままデスクの引き出しにしまった。


 やがて始業時間になり、希も含めた社員がおおむね出社する。と、

「これから呼ぶ人、今日の会議には出席してね」

 下久である。呼ばれたメンバーはおおむね営業部員であるが、さらに田崎経理課長以下数名、そして理子の名前も呼ばれた。

 会議室へ向かうと、そこには10名ちょっとの社員が集められていた。

「7月に入ったし、そろそろクリスマス商戦に向けた目玉商品の企画に入ろうと思ってね」

 他の玩具メーカーと同じく、トイックスにとっても年末商戦は最大のビジネスチャンスだ。

 既製品の販売をどうするかは秋になってから考えればよいのだが、新商品については夏からすでに企画を決めなければ販売に間に合わない。

 見ると、営業部員の若手は全員が出席しているようだ。といっても彼らはほぼ見学である。営業が企画も兼ねている都合があり、勉強のために出席しているという感じであろう。経理が呼ばれたのはコストについての話し合いもあるためだ。

 下久部長は咳払いして話し始めた。

「これは知り合いから入手したオフレコの情報なんだけど、10月に販売予定のゲームに合わせて、他社からこのゲームのマスコットキャラクターのフィギュアが販売されるらしい。ちょうどクリスマス商戦に合わせた時期に販売されるね。価格帯は過去の類似商品からして9800円から12800円くらい……」

 社外秘のスタンプが押された書類が回される。極秘のはずの競合他社の情報をすっぱ抜いてくるのは、下久の持つ人脈を使った得意戦術だ。

「このメーカーの製品はおしなべて品質は良いんだけど、値段が高いということで思いのほか数は出ないらしい。ロットも少ないしね。それで、ウチもこのゲームとライセンス契約をして、似たようなコンセプトの製品を、大幅に安い金額で販売したい」

「ちなみに上代はいくらくらいで考えてますか?」

 田崎経理課長が質問すると、下久は答えた。

「私は上代4980円で収まるようにと考えている。このくらいの金額ならウチの会社ならそこそこの品質で出せるし、大量生産しても捌けるだろうから、クリスマスの目玉にするにはピッタリだと考えている」

「これを機に、もしかしたら競合他社の抱えているユーザーをトイックスに引っ張ってこれるかもしれないですね」

 そう発したのは、集められた営業部員で、成績トップを誇る人間だ。名前は……忘れた。

「アリですね」

 その営業トップのナニガシは、そう理解を示した。

 理子もこの企画はかなりのものだと思った。あまりこの手のエンターテイメントに明るくない理子でもこのゲームが評判になっていることは知っていた。子供向けのゲームの中では比較的人気があるらしく、ニュースでも取り上げられるくらいの知名度である。

 なにより他の競合他社から顧客を奪い取る行為は、一見品のない行為に見えるが、ビジネスとしては立派な戦略であり、必要不可欠でもある。

「他に質問ある?」

 会議は特に問題なく順調に進む、と思われた。が――

「いいですか?」

 一人の女性が挙手した。

 希だった。

 若手のなかの若手。バイトを除けば最年少だろう。

 あくまで見学のために呼ばれているだけの彼女が二回りも三回りも年の離れた部長に突然質問するとは、だれも予想しなかったに違いない。

 しかも彼女の口からこぼれた質問は、あまりに挑戦的であった。

「これは誰のための商品なんでしょうか?」

「なに?」

 下久は目を丸くした。隣にいた詩織が青ざめて希の袖を引っ張っている。

 だが希は止まらない。

「私は、こんなもの作るくらいならもっと喜ばれるようなまともなおもちゃを作りたいです。いい加減劣化コピーばかり作るのはやめにしませんか?」

「それはどういう意味だ?」

 さすがにここまで言われて、下久は戸惑いつつも怒りに火を付けた。

 突然の若手の暴走に皆が困惑していた。当然ながら理子も当惑している側である。

(どうしたのアイツ?)

 もともとウチの製品が気に入らないことは知っていた。この前のボーリングの時にもずいぶんな酷評だった。

 だからといって新人が部長に真正面から歯向かうとは、正気の沙汰とは思えない。

「言葉通りの意味ですよ。ずっと我慢してきたけど、さっぱりワケが分からない。なんでこんなニセモノばかり作らなきゃいけないんですか!!」

 ドン! と、希は拳でテーブルを殴った。

「こんなニセモノばかり作って恥ずかしくねぇのかよ!」

 彼女の様相はにわかに変貌した。

 普段はおとなしいくらいなのに、まるでオオカミのような狂暴なものに変わっていた。

 その変わり方に、理子までも寒気を覚えた。

 だがただ単に怒っているだけではない、鬼気迫るという表現がお似合いなほど、希の顔は真剣だった。

 その沸騰するような怒りは、一瞬にして希から抜け落ちた。

 そして、はぁ……と深いため息をつき。

「馬鹿か……」

 そう言い捨てて、希は会議室を出ていった。

 あまりの落差に、全員の思考が凍り付いていた。

 それからやや遅れて……

「なんなんだあいつは!」

 そう悲鳴にも似た怒鳴り声を下久は上げたのだった。


 その日の夕方。

 ナニガシ先輩に半ば引きずられるような形で、希は下久のところに謝罪をさせられていた。だが希は言葉の上では謝罪しつつも、やはり部長の企画が相当気にくわないようで、謝罪に言っているにも関わらず揉めていた。

 その様子を遠巻きに見ながら、詩織が理子に話しかけてくる。

「アイツ予想を上回る馬鹿だわ。異動決定ね。せいせいするわ」

 結局一時間ほど下久の怒号が聞こえたあげく、希は半ば追い出される形でその場から去るように命ぜられた。

 希の俯いたまま、帰り支度をさっさと済ませ、出て行く。

「とっとと辞めちまえ」

 詩織はそうぼやいた。


 理子が心当たりのある場所と言えば例のボーリング場くらいだった。

 店内に入ってキョロキョロと見回すと、案の定彼女の姿はそこにあった。

「私も良い?」

 ボールはガターに落ちるのを見届けてから、彼女に声をかける。

 彼女の顔はうつろだった。希は首をかしげる。

「なんでいんの?」

「美少女を求めてさまよってた」

「アホか」

 しかし追っ払うことはせず、希は休憩のためボールが戻ってきてもそのまま座ってコーラを口にしていた。

 二人してしばらく黙っていると、希が口を開いた。

「久しぶりに大声出したせいで頭がジンジンする」

「アンタあんなでかい声出るんだね。絶対オフィスの外まで聞こえていたわよ」

 からかったつもりだが、希の顔は暗く沈んだままだ。

「どうしてキレたの? 意見言うにしたってさ、もっとうまい方法あったでしょ?」

「だから、我慢しきれなくなったんだよ」

「本当に? 何か実際にあったんじゃないの?」

「違う」

 希の顔は、あの時と同じ真剣なものになった。

「もうこれ以上私の思い出が汚されることに我慢ができなかっただけ」

「……前にも訊いたけど、どうしてそんなに玩具にこだわるの? 言い方悪いかもだけど、しょせん子供の遊び道具でしょ? たしかにウチのおもちゃはチャチだと思うけど、結局そんな大して長く使う様なものでもないんだから、そこまで思い悩む必要なんかないと思うんだけど……」

「そんなことない。アタシは、7歳のクリスマスプレゼントのおかげで笑顔を取り戻せた」

 真剣なまなざしを、理子に向けた。

「アタシ、ひとりっ子で、しかも母さんは私が幼いころに死んじゃったの。だからお父さんと二人の父子家庭だった」

 その話に理子は息をのんだ。思いもよらない話である。

「親父は時間あれば私に構ってくれるんだけど、平日とかは普通に仕事でいないから、学校から帰っても一人だし、晩御飯とかは一人で食べることも多かった。それが寂しかった。だから親父にね、言ったの。クリスマスのプレゼントで、妹が欲しいって」

「妹か……随分難しいお願いをしたもんだ」

「親父はそれで、私に妹をくれたの」

 呆気にとられる。さっきから驚きっぱなしだが、理子は唖然とした顔を向けた。

「連れ子がいた人と再婚したとか?」

 そうとしか思えない。だが希は笑って否定した。

「まさか。親父はね、私に人形をプレゼントしてくれたの。球体関節人形だった」

 そう言って、希はスマホに入ってる写真を理子に見せた。

 そこには一瞬、本当の人間かと見まがうような精巧な人形が映されていた。

「すごい……」

 思わずそう口にする。

「カナエって名前よ。アタシの妹。カナエが来たクリスマスの時以来、私たちは三人家族になったの」

 そう話す希の顔は、これまでにないほど楽しそうな、朗らかなものになっていた。

 こんな笑顔を見たのは初めてだった。

「いつからそう考えるようになったかは分からないんだけど、私もこういうのを作りたいと思った。こういう人形を作って、子供たちを笑顔にしたい。それがいつの間にかアタシの夢になったの」

 カナエというその人形の話をする希の顔は、本当に楽しそうだった。

「もう10年以上も経ってるけど、ずっとカナエはアタシの側にいる」

 妹であるその人形をいとおしむ顔は、理子の方を向いたとたんひきしまった。

「理子、本物の玩具はね、どれだけ年月が経っても色あせないものなの。本当に家族と思えるくらいにすごいモノはね。それどころか、カナエは私に笑顔も夢もくれたわ。子供の私がそうだったように、私も子供たちに笑顔をあげたい。私はそのために生きている」

「……そうなんだ。だからキレちゃったんだ」

 要するに彼女は、クリスマスにあんな粗末なものを売らされることが嫌でたまらなかったのだ。

 あの怒りは、いわばニセモノをクリスマスに販売することへの拒否反応だったわけだ。

「トイックスじゃ絶対実現しないわね、その夢……」

 現実に引き戻され、希は再び視線を落とした。

「人形は、専門学校時代からずっと作り続けてる。でも、なかなか自分の発想や想いを上手にカタチにできなくてさ。それでも専門学校時代は割と手ごたえあったんだけど、最近はてんでダメ。ニセモノの相手ばかりしてたから、本物がいったい何なのか、分からなくなっちゃった」

「会社、辞めるの?」

「辞めるっきゃないでしょ。部長にあそこまでケンカ売っておいてのうのうとやってられるほど甘くないって。そのくらいは分かってる」

「辞めてどうするの?」

「知らないわよ。でも死ぬ前に一つくらいは、ちゃんとした人形を作り出したいわね」

「また大袈裟な……」

 理子は苦笑いしたが、希は存外本当に命を削ってでもやりかねない空気を感じさせた。

「気、使わせちゃってごめん。理子もアタシの事なんか忘れちゃっていいから」

 その希の言葉に、理子の心の中で何かが動いた。

 それが何なのかはっきりしないうちに、理子は思わず奇妙なことを口走ってしまった。

「希の夢さ、私も一緒に追いかけても良いかな?」

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