たたりもっけ

安良巻祐介

 

 午後の講義の後、中庭を歩いていると、友人のKから話しかけられた。

 「弟が帰ってきた。…」

 Kの弟は、五年前に死んでいる。

 ちょうどよい木陰があったので、私とKはそこへ座った。

 話を聞いてみると、鳥になって帰ったのだという。

 実家ではなく、独り暮らしをしている自分の家の方へ来たのだと、点々たる木漏れ日を浴びながら、Kは薄い目をさらに細めて言った。

 昨日の晩に、開け放していた窓から入ってきたのを、誂え向きの鳥籠があったので、その中へ入れたらしい。

 これから色々話をしてみようと思っている、と言って、Kは話しかけてきた時と同様の唐突さで立ち上がり、講義だ、と呟くと去って行った。

 その後ろ姿を見つめながら、考えた。


 Kの家は、母を早くに亡くした父子家庭であったが、それにもかかわらずKの弟というのは大変な我儘であった。Kは、黙ってそんな弟の面倒を見ていた。

 五年前のあの日も確か、Kの弟は、梅雨の雨で増水した川を見に行くと言って、制止を振り切って飛び出していったのだ。出先でそのことを聞いたKは、無言で雨の中を駆け去っていった。その姿は、今でも脳裏に焼き付いている。

 結局Kは間に合わず、そのまま、弟は帰らぬ人となった。遺体は翌々日、下流で引き揚げられた。

 慌ただしい葬儀の席で、Kはただ、いつもより少し青い顔をして佇んでいたように思う。

 五年が経つ今、弟の帰還を語ったKの表情は、やはりあのときと同じように見えた。ただその青い顔が何らかの心の動きによるものなのか、あるいは常の不健康さを反映しているだけなのかは、うすい木漏れ日のもとでは判別しかねた。


 その日から、折に触れてKは家にいる「弟」の話をするようになった。

 あいつがこういうことを言った、おれはこう話した、するとあいつはこんな顔をした……。

 普通の食事は摂らないから、生のねずみを与えなければならないのだというようなことも私に語った。

 いちいち私は黙って聞いた。

 殆ど人付き合いをしない男なので、話相手は、十数年来の友人たる私だけであるようだった。

 しかし、様子の変化には周りも気づいているらしく、博物学科のある友人などは、君君、彼だけれどね、付き合いがあるのかい、あれはどうだろうね、と言って、中庭を横切っていくKの黒い姿を指差したりした。

 Kの顔はしだいしだいに青黒く、影が濃くなっていくように見受けられ、やがて月が一つ終わり、梅雨に入ると、大学へ来なくなった。

 しかし、私の元には、時折思い出したように電話がかかってきた。話題はやはり、鳥籠の中の「弟」のことで、私はただ、黙って聞いていた。

 私たちが話している時も、大概、窓の外では雨が降り続いていた。

 雨はいつまでも続くかのように思われた。けれど、実際には、ゆっくりと、しかし確実に、梅雨は歩み過ぎて行ったのだ。

 最後の挨拶のような、ひと際激しい雨の日の午後、Kから電話がかかってきた。

 いつもとは違い、Kは笑っていた。青く濁った泡のように、つぶつぶと。

 受話器越しにそうしてひとしきり笑ってみせたのち、Kは口ごもった。それから唐突に、ああそうだ、そうなのだ、と言った。

 何がと尋ねると、五年前と答えた。さらに問うても、ただ、五年前、五年前、と繰り返した。

 そして、そうだろう、そうだろう、と、少し遠くなった声で叫んだ。

 私へではなく、電話線の向こうで、彼の部屋の中の何かへ向けて叫んでいるようだった。

 ふいに、外の雨音が大きくなり、ワッというKの叫び声が聞こえた気がした。

 何かが倒れるような物音と、激しい雨に似たノイズ音が混ざって、電話は切れた。

 私は電話を置いて、その足でKのアパートへと向かった。

 雨の中、棟の低い建物に着くと、人気のない一階を通り抜け、階段を上った。

 戸の鍵はかかっていない。踏み込むと同時に、生臭い匂いが肺腑を突く。

 滲んだように黒い、短い廊下の向こうに、鼠色の居間が見えた。

 その端、電話の傍に、Kが倒れていた。

 駆けよって抱き起してみると、すでに息がなかった。顔は極限まで青黒くなり、まるで葡萄のようだ。

 Kの足元に大きな鳥籠があり、その周りには、細かな骨や肉片が散らかっていた。鼠のものなのだろうが、何かもっと別のものにも見える。

 籠を取り上げてみると、中身は空で、止まり木の辺りに、腐肉が数片粘りついて糸を引いているだけだった。

 私は、頭の中でKのあの叫び声と、泡のような笑い声を思い出しながら、窓に手を伸ばして、引き開けた。

 一気に、風と雨粒が吹き込んできた。部屋の中の生臭い空気が、かき回され、少しずつさらわれていった。

 もう一度Kの骸と暗い部屋の中を見回してから、電話の上の暦に目をやると、今日の数字の上に、小さく赤い丸が付けられていた。

 五年目。

 命日の印だと気付いた時、窓の方で、ばさばさと何かが飛び去る音が聞こえた気がした。

 振り返って見てみたが、開け放した窓の外には、ただ降りしきる雨があるばかりであった。

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たたりもっけ 安良巻祐介 @aramaki88

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