1) アダムとイヴの行為は原罪ではなく、じつは最初の祝福だった

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 アダムの堕落と説明されているものは、じつは向上だった。人類の歴史で最も偉大な出来事だった。


 それがなければ、相対性の世界は存在しなかっただろう。アダムとイヴの行為は原罪ではなく、じつは最初の祝福だったのだ。


 あなたがたは、彼らがはじめて「間違った」選択をしてくれたことを心の底から感謝すべきだ。アダムとイヴは、選択を可能にしてくれたのだから。


《神との対話1-P80》(一部略)

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 はじめに、キリスト教(カトリック)の教義における「セックス観」をまとめてみます。キリスト教の教派によって、多少の差異があることはいうまでもありません。


① 旧約聖書の『創世記第2章』に、人間始祖の堕落の顛末(てんまつ)が書かれています。


人間始祖の男性アダムと女性エバ(イブともいう)は、エデンの園で、神から「取って食べてはならない」と言われた善悪を知る木の実を、ヘビにそそのかされてエバが取って食べ、そしてアダムに与えてアダムも食べた。


② 「取って食べてはならない」という神の戒めを守らない(信じない)という罪を、アダムとエバが犯し、それが人間の罪のもと(原罪)となった。


③ エバは人間堕落の首謀者である。


④ アダムとエバから生まれたすべての人類は、生まれながらにして人間始祖の原罪を受け継いでいる。


⑤ その原罪を贖う(あがなう)ために、神から遣わされたイエス・キリストを信ずることによって、人間の原罪は許され、天国に行くことができる。


⑥ セックスは、原罪を負った人間を繁殖する行為、すなわち原罪を繁殖するものなので、生殖を意図する以外は、避けなければならない邪悪な行為である。


⑦ カトリックの指導者は、独身でなければならない(司祭独身制)。女性の司祭は認められない。


⑧ 歴史上のキリスト教指導者のうちで、「神の国が築かれるのは、すべての者が独身生活を送って人類が滅亡したあとである」と主張した者もいた。


 以上のようにキリスト教では、「セックス」を忌むべき邪悪な行為ととらえているのです。


 『神との対話』では、キリスト教の『原罪』教義に対して、エデンの園の神話の本質は人間の堕落ではなく、「神の最初の祝福」を表現しているといっています。


 人間は、人生の中で神性を体験していきます。魂の宿った最初の人間は、現実の相対的世界で、ゼロから神性の体験を始めるのです。


 善悪を知る木の実を食べたということは、相対的世界での様々な体験を人間が開始したという、祝福すべき船出を意味しているのです。


 すなわち、自らの自由意志でなすべき行為を選択し、神性を体験していく者(善悪を知る者)になったという祝福だというのです。


 したがって、キリスト教でいう原罪は人間にはありませんから、セックスによって原罪が伝播していくこともありません。


 『神との対話』での「セックス観」は、セックスは決して忌むべきものではなく、人間の遺伝子に組み込まれた自然な生命の営みであるというものです。


 したがってセックスは、他の体験と変わりない、人生における人間の生活体験のひとつであり、セックスを通して神性のどの部分を体験するかが、大切なことだというのです。

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