屋上、キミと思春期症候群

John Mayer

第1話

 ほの暗い雲の塊が、頭上を一杯に覆う。風の流れが速いのか、すぐに形を変えて流れ去ってしまう。

 そんなに急いでどこに行くと言うのだろう。なんて、気の抜けたことを考えつつ、僕は購買の売れ残りのコッペパンに噛り付いた。パサついて、少し硬い。


『台風14号は、柏岬を毎時20キロの速度で北上中。中心の気圧は九百ミリバール。風速は――』


 野暮ったいデザインのラジオが、ざらついた男性アナウンサーの声を垂れ流している。そいつは、夏の盛りに誘われた嵐の到来を告げていた。

 既に強い風が吹いている。雨も直に降りだすだろう。けれど、僕はこうして学校の屋上で腰を据えていた。


 ――ある人を、待っているのだ。


『ただ今、市内全域に大雨暴風警報および、思春期警報が発令されました。付近にお住いの皆様はただちに避難してください』


 遂に警報まで出てしまった。帰りはずぶ濡れも覚悟するべきかな。僕が嘆息して空を見上げた、丁度その時。


「下校指示も出てるのに、帰らないでこんなところでたむろしてる。いけないんだぁ」


「どうわっ!」


 間の抜けた女の子の声が背中越しに聞こえて、僕は思わず飛び上がった。

 何故? おっとり、ほんわりとした声だ。普通なら驚くほどのことでもないのだけど。


「なーに驚いてんの? 臆病さんかな?」


「……違いますよ。頼子先輩、気配ないから」


 おっかなびっくり振り返る。搭屋の入り口に、女の子が立っていた。

 この学校のセーラー服。歳の頃より少しだけ背が高くて、長い黒髪を後ろで結わえたその出で立ち、ちらりと見えるうなじの透き通った肌色が、ちょっとどきりとする大人っぽさを垣間見せるけれど。


 にこりと細めた双眸は大きくて垂れ目で、幼く見えた。


「頼子先輩は、大事な後輩君がこわーい不良さんになったら忍びないなーと思ってここに来たのです。あんまり邪険にしないでほしいなぁ」


 ぽやっとした声と顔の通りの、おっとりとした人だった。

 彼女、頼子さん。僕の一つ上の先輩。ある時知り合った僕らは、こうして学校の屋上で世間話をする。今日の小テストは意地の悪い問題ばかりだったとか、学食のドライカレーが美味しかっただとか。


 その頼子さんを待って、僕はここにいた。特に待ち合わせはしていないけれど。

 で、やっぱり、来た。


 頼子さんが自慢の長身を弾ませる様にして歩いてくる。いつもより多めに弾んでおります、といった具合だ。頼子さん、大きいのは身長だけはない。


 しかし、彼女を知らない人はその様子に違和感を覚えると言う。


 さっき、彼女は搭屋の前に立っていた。ということは、彼女は意外と長い階段を上がって、重たいドアに手を掛けた。そして、もうすぐやって来る嵐の風圧に負けない力で、よいしょと押し開けたはずなのだけど、肝心の僕は気付かなかったのである。


 あの重くて立てつけの悪い戸を、音もなく開けた?

 僕がぼんやりと空を見上げていたって、それくらいの気配は気付くはずだ。

 しかも、彼女はスキップするように歩いてくるのに、その足音はちっとも聞こえない。


 そこにいて、目で見えるのに、まるで存在していないようだ。

 影法師か、透明なスクリーンに投影された人の似姿か。頼子さんは、それほどに気配がない。


「頼子さんこそ、いいんですか。下校指示だけじゃなくて警報も出てますよ。暴風警報と」


「思春期警報のこと? 私は、もう罹ってるからいいんです」


 頼子さんは、ふふんと鼻を鳴らした。

 僕は、それって笑える話なのかな、と眉間にしわを寄せた。

 とまれ、彼女のあっけらかんと言った、これが気配のない理由。


 『思春期症候群』


 十二歳から十七歳の少年少女に起こり得る病。かかった者は、必ず『何か』を失うという。

 例えば、味覚や触覚。妙なところでは、足の小指の爪がなくなっただとか。

 まあ、命までは奪われることはなく、大抵生活に支障ない。そしてある時、ふと元に戻るのだ。世間じゃ、はしかみたいなものだと言う。

 原因は知られていない。ただ、この街では強い風が吹くとそういう事が起こるのだ。だから、こんな台風の日には『思春期警報』なんてものが出る。


 頼子さんも、その思春期症候群にかかっている。

 失くしたのは気配。彼女の一挙手一投足には音がない。ドアを開けても音はしないし、足音だって聞こえないのだ。


 頼子さんは僕の隣に腰を下ろした。やっぱり、衣擦れの音もしないらしかった。


「頼子さんは人に気付かれる努力をするべきです。ただでさえ影が薄いんだから」


 悪戯好きな頼子さんは、気配がないのを良いことにさっきのような脅かしをやらかすのである。おかげで僕の心臓は休まる暇がない。


 こんな小言を漏らすと、頼子さんは決まって「あなたで遊ぶと楽しいから、いいんですぅ」と茶化すのだが。


「えへへ、そうかもですね……」


 頼子さんはへにゃりと笑うと、細い眉をハの字にしてみせた。

 何時もと反応が違う。僕はちょっと戸惑った。

 何故、気弱な顔を見せるのだろう。いつもの軽口のつもりだったのに。


 頼子さんは、三角座りで俯いた。どこか元気のない横顔に、僕は「頼子さん?」と声をかけた。


「あー、何か悪いもの食べた? それか、テストで赤点だった」


 頼子さんは頷くこともせず、自分の両膝の間に顔を埋めっぱなしだった。

 どうすればよいのだろう。僕はいつも天真爛漫な頼子さんしか目にしたことがなかったから。

 僕は頼子さんの隣で彼女をじっと見守った。


 それから、どれだけ時間が経っただろう。風がもっと強くなった気がする。

 もう今日は帰りましょう。恐る恐る声をかけようとしたその時、頼子さんは呟いた。


「好きな人が、いたんです」


 意外な言葉に、僕はまたも狼狽えた。

 今彼女は何と言った? 好きな人? このぽやっとした頼子さんに?


「陸上部の人、走ってる姿が素敵で。多分、初恋だったと思います……今日ね、はじめて告白したの」


 僕がここでぼんやりしてる間に、彼女は一世一代の挑戦をしていたらしかった。

絶句とは、こういうことなのだろうか。空いた口が塞がらなかった。

 何となく僕は、彼女に色恋沙汰は無縁だと思ってた。こんなに能天気でふわふわとした女子高生なんておらず、子供のような人だから。


 でも、頼子さんはあのけったいな病の罹患者じゃないか。思春期とは、つまりそういうことじゃないのか。


「ええと、その」


 たった一つ、浮かんだ言うべき言葉。僕はどうか、吐き出すのを我慢していた。男女関係に疎い童貞だって、頼子さんの様子で想像はつく。だったら、それを口にするのは彼女の傷を抉る様なもの。


 だけど、それを理性で分かっていて、僕は堪えることが出来なかった。

実の所、僕はどうしようもなく、性格の狡い男なのだ。


「あの、結果は――」


 言ってしまってから、僕はひどく後悔した。

 頼子さんは泣いていた。大粒の水滴が、ぽたりぽたりと地面に落ちていた。

 声はノーカウントだと思っていたけれど、まさか泣き声まで消えているなんて。僕は初めて、思春期症候群というやつを、恨んだ。


「気持ち悪いって、言われちゃいました。気配もないのに、いつの間にかそばにいるから。幽霊みたいだって。そんなこと、初めて言われて。私って普通じゃないんだなって……知ってました? 私、影もないんですって」


 そんなの知らない。僕は頼子さんと会っても、彼女の顔しか見ていなかった。


「ショックだったなぁ。私、化物みたいな言われ様だったなぁ」


「違う。頼子さんは、化物なんかじゃないよ」


 僕は絞り出すような声で言った。ただ、それ以上の言葉が思い浮かばなかった。


「えへへ。私に優しいの、キミだけですね」


 頼子さんは、ゆっくり立ち上がった。重たい足取りで辿り着いた手摺にを掛ける。

 なんだか嫌な予感がして、僕も腰を上げた。でも、動けないでいる。彼女のそばに近づけない。


「私、ちょっと疑問だったことがあるんです。この病気のまま死んでしまったら、どうなるんだろうって。私の気配は元に戻るんでしょうか。足音は? 影は? 例えば、ここから飛び降りた時、私の身体が地面に叩きつけられたら、その音は――」


「頼子さん!」


 吸い込まれるような散瞳した瞳に、僕は思わず震えた唇をどうにか動かして叫んだ。


「僕も、頼子さんは変だと思う」


「……へ?」


「だって、すぐ僕をからかうし、妙にほわほわしてやる気ないし、っていうか友達いないんじゃないってくらい僕としか絡まないし」


「あ、あのぅ。ここ、慰めるところでは?」


 頼子さんはぽかんとした顔で僕を見つめている。呆れるのを通り越して、思考が追い付いてない顔だ。


「でも、それは頼子さんが変なのであって、思春期症候群のせいじゃない! 僕は、そんな変な頼子さんが……」


 そこまで叫んで、僕はふと我に返った。顔が、熱くなった。

 頼子さんもまた、気付いたのだろうか。大きな目をさらに見開いて、じっと僕を見つめていた。その頬が、すこし赤らんでいる。


 頼子さんは黙って、僕の言葉を待っているようだった。


 だったら言え。言うべきだ。言うんだろう?


『僕は頼子さんが好きなのだ』


 じゃなかったら、こんな台風を目前に空を眺めることもない。あなたを待って僕がここに居たのは、単なる友達だからじゃない。

 でも、どういうわけか声が出なかった。喉がしまったみたいだった。


 僕は大事なところでどうしようもなく、臆病だった。


「……いいですよ。キミはそれで」


 頼子さんは、へにゃりと笑った。けれど、その笑顔にほんのわずか影が差したことに、僕は気付いてしまった。


「冗談! ぜーんぶ、冗談ですよ! だから、気にしないでください。ね?」


「そう、ですか。はは」


 全部なかったことにしようとしている。そんな声音に、僕は薄い笑みを浮かべることしかできなかった。

 これで、全部元通り。またいつものように、他愛もない世間話に時間を傾けることが出来る。そう考えて、僕は情けない安堵をしたのだ。


 けれど、その時――


 風が吹いた。強い、何もかも吹き飛ばすような突風だ。そいつは、人のバランスを崩すには十分すぎた。

 僕は荒れ狂う風に押されてたたらを踏んだ。


 頼子さんは――


「あ、れ……?」


 手摺にもたれ掛っていた頼子さんの身体が、大きく傾いた。背後には手摺以外に何もない。風を孕んだ長い髪が待って、頼子さんの軽い身体が浮き上がる。背後へと


 ――そこには手摺以外に何もなく、ただ、空があるだけで――


「頼子さん!」


 僕は叫んだけれど、手を伸ばしたけれど。そんなものが届くはずもなく。

 もう一度、風が吹いた。埃が目に入って、僕の視界を奪う。

 涙の溢れる目を両手で覆い、そして、再び視界を取り戻した時。

 

 頼子さんの姿は、影も形もなかった。


* * *


 それから、僕はあちこちを探し回ったのだけど、頼子さんを見つけだすことはできなかった。

 屋上から落ちた? けれど、どこにもそんな痕跡はなかった。


 次の日も、その次の日も、頼子さんは姿を現さなかった。

 頼子さんのクラスの先生に確認もした。彼女はどうやら、登校はしているらしかった。でも、彼女の教室へと会いに行ったとしても、いつもタイミングが悪いのか擦れ違う。


 まるであの強い風が、僕から頼子さんをさらっていったみたいだった……元々、僕のものではなかったけれど。


 そして僕は、今日もここに居る。

 この屋上で、頼子さんが来るのを待っている。


 ひょっとすると、もう二度と会えないのかもしれないと心の中では思っている。それならそれで構わない。きっと彼女がそう望んでいるのだから。


 ――でも、もし会えたなら、僕はもう一度いう事ができるだろうか。今度は本当に。


『強い勢力の台風14号は、柏岬を毎時20キロの速度で北上中。中心の気圧は九百ミリヘクトパスカル。風速は――』


 ラジオからは聞こえるザラついた声は、今日も台風情報を流していた。この時期はいつもの事だから、もうあまり気にしなくなった。

 そして、いつものコッペパンに噛り付いて、そのパサつきにむせた時。


 ふと、ガチャリという音がした。

 搭屋のドアが開く音だとすぐに分かった。

 ドキリとするよりも早く、僕は咄嗟に振り返る。


 そこに、人の姿はなかった。ただ、閉じかけのドアが、ギイと音を立てていた。

 僕は黙って、その何もない宙をじっと見つめた。何でかな、分からないけれど。


『ただ今、市内全域に大雨暴風警報および、思春期警報が発令されました。付近にお住いの皆様はただちに避難してください』


 僕はラジオの電源を切って、空を見上げた。

 風は、まだ止まない。


 まだしばらく、頼子さんには会えそうもない。

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