火花その2

 私は吉田さんの隠れ家に来ていた。隠れ家と言っても普通のワンルームのアパートの一室だ。お昼ごはんを買いに行こうと出かけたスーパーでたまたま顔を合わせ、ここに誘われたのだ。吉田さんは和真くんによく似ていて(順序が逆?)、立ち居振る舞いも物腰もスマートだ。


「隠れ家なんて、夏芽さんは知っているんですか?」

「いや、夏芽も和真も知らないと思うよ。隠しているわけではないけど、言ってないからね。この部屋は、まあ、私の息抜き用の部屋といったところかな」


 部屋の真ん中にはダイニングテーブルに椅子が4つ。その他には本棚とノートPCが1台あるだけだった。とても現役の国会議員さんの部屋には見えない。


「あの、吉田さん、今日はどういう……」

「うん。察してはいると思うけど、和真の事でね。まあ、とりあえず先にお昼にしようか。小由美こゆみさんはニンニク大丈夫かい?」

「あっ、はい。大丈夫です。なんでも食べます」


 吉田さんは、それはいい、と頷いて、となりのキッチンへと向かった。


「あ、あの、私が何か作りましょうか?」

「いや、いいんだよ。私が作るよ。というよりね、この部屋は元々、その為に借りているような物だからね。ここで料理を作るのが、私の楽しみなんだ」

「でも……」

「気を使うかい? ははは。そうだなあ、じゃあ作るのを見ていてくれるかい? 手伝えることがあれば、手伝ってくれ」

「はあ」


 私がキッチンへと向かうと、吉田さんは既に食材を調理台の上に並べていた。そして、にっこりと笑って調理を開始した。


 まず、マジシャンが観客にカードを確認させるときのようにマヨネーズの表や裏を私に見せる。そして、ハンドミキサーで手作りした物でもなければ、カロリーハーフでもないそれを、フライパンへとぶちゅっと絞り出す。


 その上、というかその中に潰したにんにくをガスコンロの火を点ける。マヨネーズがふつふつと泡立ち、にんにくがその中を泳ぎはじめた。


 吉田さんはひくひくと鼻をうごめかせ、嬉しそうに頷くと、輪切りにしたソーセージをどかんと入れ、卵を2つ割り入れる。そのまま菜箸をぐるぐると動かし、スクランブルエッグみたいになったところでご飯を投入した。


 そして私の方を振り返ると、手にしたお醤油を見せる。私は反射的に頷く。ひょっとしたら口元は綻んでいたかもしれない。


 躊躇なくお醤油が投入されたフライパンからは、じゃあああっとお醤油が焦げる音が聞こえてくる。吉田さんはフライパンを返す事はせずに菜箸でぐるぐるとかき混ぜると、火を止めてレタスをどんどん投入し、またしばらくぐるぐるしていた。


「はい、おまたせしたね。レタスチャーハンだよ」


 平皿の上には、お世辞にもパラパラとは言えない、むしろべちゃっとしたチャーハンが乗っている。そのチャーハンのところどころから、マヨネーズの脂をまとったレタスが、しんなりと、しかし、つやつやと光を放って顔を出す。


「うわあ、美味しそうです!」

「よし、じゃあこれを運んでおいてくれるかい?」


 ダイニングテーブルに着いて待っていると、吉田さんは、もうひとつのお皿を目の前にでんと置いた。


 そのお皿には、なんの飾りっけもない黒々としたチョコアイスが丸く盛られている。その脇には2本のウエハースまで添えられていた。


「チャーハンは熱いからね。このアイスと交互に食べるんだよ」

「はい! いただきます」


 私はパチンと手を合わせて、れんげに山盛りにチャーハンを乗せて口に運ぶ。そのとたん、目の前に火花が散った。しょっぱくて、おおざっぱで、へにゃへにゃなご飯のそれは、しかし、背中がぞくぞくする程おいしかった。


「おいし~……です!」


 思わず口から出た言葉に、慌てて「です」を付け加えて吉田さんを見ると、うんうんと頷いている。


「だろう? さ、次はこっちだよ」


 私は勧められるままチョコアイスを頬張る。甘い。とにかく甘い。上品さの欠片も無い甘くて冷たい馬鹿みたいな氷菓が、再び私の頭の中に火花を散らす。


「最高じゃないですかこれ」

「だろう?」


 吉田さんは自分も口いっぱいにチョコアイスを頬張ると、嬉しそうに笑った。そして食べながら話し始めた。


「私はね、人間は自分が思っている以上に、慣れて、変わる事の出来る生き物だと思っているんだ」

「え?」


 戸惑いつつもチャーハンを頬張る私に向かい、吉田さんはなおも続ける。


「実は、私はね、小さな魚屋の産まれなんだよ」


 今はもう、店は畳んでしまったんだけどね。そう言ってにこりと笑った。


「知っているかもしれないが、夏芽のお父さんも国会議員でね、ここだけの話、夏芽は政略結婚みたいな物だったんだよ。初めて会ったのはお見合いの席でね。その時にはもう、結婚することがほぼ決められていたんだ。そして私は婿に入ったんだよ」


 初めて聞く話だった。私はなんと言っていいかわからずに、頷いてアイスに手を伸ばす。


「これでも小さい頃には結婚生活に夢を持っていてね。でも、そんな形での結婚だから、半ば諦めていたんだよ。きっと夏芽とは仲良くできない、余所余所しい生活になっていくんだろう。そもそも、私のような魚屋と、深窓のお嬢様とでは合うはずもない。それでも、仕事を全うすれば良いか、とね」


 吉田さんはウエハースをぱりっと齧って満足そうに頷く。


「ところが、君も知っての通り、夏芽はとてもでね。すぐに打ち解けて、好きになったよ。夏芽の方も私を気に入ってくれたようでね。思った以上にうまくいった。和真と夏奈かなも授かって、私は私の思っていた以上の家族に恵まれたんだ」


 私は、和真くんに妹の香奈ちゃん、そして夏芽さんに目の前の吉田さんの事を考える。どのひとりをとっても、とても素敵だと思う。


「そして、不安だった価値観やふるまいの差もね、すぐに慣れてしまったんだよ。始めは夏芽の行動や、料理や生活の仕方に違和感を感じることもあったんだけどね、人間というのは、変われる生き物なんだよ。好きな人のためなら、猶更さ」

「吉田さん……」


 そこまで聞いて、私は吉田さんの意図がわかった。吉田さんは、私が和真くんに、そして吉田家に、気後れしているところがあるのではないかと気を使ってくれているのだ。確かに、そういう面は大いにあった。果たして私で大丈夫なんだろうか、そして、私で追いつけるのだろうかという不安が。


「ひょっとしたら君も、あの時の僕と同じような不安を持っているのかもしれないと思ってね、今日は、その不安を解消してあげようと思ったわけなんだ。それと――」

「それと?」


 吉田さんは、そこでアイスのお椀をすっと持ち上げて見せた。


「人間は変われるけど、変われない部分もあってね。例えば、私などはパエリアとビシソワーズだけだと物足りなく感じる時もあるんだ。――上品すぎてね」


 いたずらっぽく片方の眉だけを上げると、ニッと微笑む。


「私、それわかっちゃいます。お醤油チャーハンとアイス、わかっちゃうんです!」


 私は、身を乗り出して頷いてしまった。そうなのだ。わかってしまうのだ。どこの、誰に紹介しても「素敵だね」と行って貰える和真くんやその家族。でも、その素敵さが、私にとっては少しひっかかっていたのだ。でも、そのひっかかりは悪い事で、言ってはいけない事なんだと、なんとなく思っていた。そんな私に、吉田さんの告白は、凄く響いてしまった。


「だろう? きっと小由美さんはだと思ったんだよ。夏芽や和真の普通と、私達の普通は少し違う。私達の家庭料理はなんというか、なんだ。もちろん、どっちが良い悪いの問題じゃない。ただ、違う事もあるんだ」

「はい」


 私は力強くウエハースを握りしめて頷く。


「そんなわけで私は、このアパートを借りて、たまにこうやってレタスチャーハンを食べているわけさ。ねえ、小由美さん、もし、君が和真に対して、何か気後れを感じているとしたら、それは普通の事だ。そして、大丈夫。きっと君は変われる」


 曖昧に頷く私に、さらに吉田さんは続ける。


「そして、ここからはエクストラだ。もし、君が変われない部分に疲れてしまったら、……いや、違うな。君が昔の君を懐かしく思うような事があれば、その時は、私と一緒にレタスチャーハンを食べて欲しいんだ。私にとって、家族にそういう人がいるのは、とても心強い。諸手を挙げて歓迎するよ」

「吉田さん……」


 私は、あらためて和真の家族の素敵さに浸る。よい家族だな。いいなあ、と思う。


「ありがとうございます。吉田さん。でも……」

「でも?」

「レタスチャーハンだけでなく、アイスもご一緒していいですか?」


 私の提案に、吉田さんは嬉しそうに頷いた。

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