型遅れ銭湯ロマンと夏の風
*****
――――夏休みの中盤、またしてもそんなに
この処は村の人の畑仕事や家庭菜園を手伝うか、
でなきゃいつものように紫ババァや人面犬とじゃれ合うこの村独自の“ボランティア”かだ。
今日はその中ではかなり優しい部類の……とはいっても、朝から夕まできっちり手伝わされるのに変わりない、報酬は昼食と、帰りしなの惣菜のおすそ分けという隣の婆ちゃんのいつもの手伝いだった。
ちなみに今日渡されたのは青唐辛子の醤油漬けに大根の粕漬けだ。
俺はひとまずそれを帰って仕舞ってから、炊飯器のスイッチだけ入れて――――着替えとタオルだけ持ち、さっさと家を出て銭湯へ。
まだ日の暮れない、夕焼けにも変わらない太陽はもう少しだけ山の上に残ったままだ。
恐らく、ここから歩いて銭湯――――屋号“かみの湯”へ到着、一風呂浴びている間に夕暮れがやってくる。
高く開けられた明り取りの窓から差し込む夕日を見ながらの風呂はいつも格別で……俺は、それが見たくていつもこの時間になるよう向かうのだ。
まだ下がり切っていない太陽がじりじりと肌を焼いて、汗として水分を絞り出させてくるが、これから風呂に入れると思えば耐えられる。
帰りの風は涼しいだろうと思えば、今、肌にべたべたまとわりつく汗もつらくない。
蝉の声も段々落ち着いていき、聴こえる歌はカエルのそれにここから交代していくはずだ。
やがて、見えてきたのは銭湯“かみの湯”の長い煙突が吐き出す煙。
*****
「あ――――」
「あれ……?」
そして、もくろみ通り窓から差し込む夕日の赤さへ見とれながらの一番風呂を終え、男湯の暖簾をくぐり出ると――――ちょうど同じく出てきた、女湯側の“一番客”と目が合った。
「キョーヤ君。キミも来てたんだ?」
「咲耶、なんでここに?」
「なんで、って……言ったじゃないか、ボクの家にもお風呂ないからさ。忘れちゃった?」
女湯側から出てきたのは、なんと――――
ゆったりと襟元の広い水色のTシャツをゆるく着こなし、いかにも気を抜いた綿地のショートパンツからすらっと火照った脚を伸ばして見せる姿はいかにも風呂上がりの姿で、首にかけた“柳工務店”と染め抜かれた手ぬぐいもまた気を張らない佇まいに繋がり――――まだ乾ききらない、水気でうねる髪の先が頬にかかり丸まっているのもまた、なんというか、その――――かわいい。
「奇遇だね、キョーヤ君」
「……村に一軒しかない銭湯で、互いに家風呂ないヤツが会うのが?」
「それもそうだ。なら、運命って事にしておこうよ」
「どっちかと言えば“宿命”じゃねーか」
「いいね、ますますいい感じだ。ともあれ、ここで出会うのは変わりない。……とりあえず、何か飲もう?」
「だな」
まだ上気したままの咲耶は、出くわした事に驚いて目を向いたのもつかの間。
もう、とっくにいつも通りの澄まし顔に戻ってしまい……しかしそれでも、まるでこれからおやつを貰う猫みたいな雰囲気のまま番台横の冷蔵庫へ向かっていく。
俺もそれについていき、別に咲耶に合わせた訳じゃないが同じもの――――瓶入りのフルーツ牛乳を一本手に取り、代を支払ってから栓を開けた。
名前の分からないアレで刺して、すぽっ、と開ける――――お馴染みの瓶からは、甘酸っぱくてたまらない香りがもう漂ってきて、ひんやりと冷たい手触りがなんとも気持ちいいぐらいだ。
もう、ここでイッキしてしまいたいぐらいだけど……そうも、いかない。
きょろきょろと瓶片手に見回す咲耶はやがて、奥の宴会場、畳敷きの小上がりの一角へぺたぺたと足音を立てて向かい、振り返って目配せしてきた。
他に誰もいない宴会場はだだっ広いのに、どうしてわざわざそんな隅っこを、と思ったがすぐに意図は分かる。
というのも、招かれるまま近づいたその窓からは――――
小さなテーブルを挟み、差し向かいに腰を落ち着けると……すぐ、咲耶が瓶を掲げて合図を待つ。
「……かんぱい」
「うん、キミの瞳に乾杯」
「それ多分俺の台詞じゃないか?」
「そうなの? じゃあ言ってくれるかな」
「言うわけねーだろ。もう飲むからな」
かちんっ、と瓶を打ち当て――――ぐだぐだと締まりのないトークを打ち切り、お待ちかねのそれに口をつける。
しゃっきりと冷えた厚ぼったい縁が唇に当たり、そして流れてくるのはよく冷えた、優しい果実の甘さを溶かし込んだ牛乳の甘さ。
一日中外で仕事し、そのまま風呂に入った後の体に浸み込んでいくのが分かる。
口を通して血管に直に流れていってるんじゃないかと思えるぐらい沁みわたり――体を内側から冷やし潤してくれるのが分かる。
思わず、一気に飲み干してしまいそうになるが寸でのところで自制する。
向かいを見れば、咲耶は二割ほど飲んだ瓶をいったん置くと――――頬杖をつき、窓の外を覗いた。
「ふふっ……夏、って感じだね」
「そりゃな。咲耶は今日、何してた?」
「ボクかい? 今日は、うちの掃除かな。使ってない部屋結構多くて大変だったよ。汗びっしょり、埃かぶって大騒ぎさ」
「大変だな。それでフロか」
「うん。さすがに水浴びたりお湯で体拭くだけじゃキツいからさ……」
夕暮れに染まる山々から、網戸を抜けて涼しくなりかけていく夏の風が吹き込んできて、ちろりん、と風鈴を踊らせた。
風鈴の短冊に描かれた金魚がゆらゆらと泳いで裏返り、表裏で違う二種の金魚が入れ替わるようにくるくる、くるくると。
プールや大きな風呂がある場所に特有の、“水”の匂いに混じって畳の香り、少し離れて火が灯っている、磁器の蚊遣り豚の放つ芳香とまでがそこに混じる。
もうすっかりとじくじくと鳴いていた蝉の声はなく、気の早いカエルの声が窓の外のどこかから遠く聞こえてきた。
舌で、眼で、肌で、匂いで、音で――――この夏の日の終わりを余さず受け取るひと時に癒されるに任せていた。
そしてそれはきっと咲耶も同じで、ただぼーっと、時折思い出したようにフルーツ牛乳で唇を湿らせつつ、窓の外へじっと視線を向ける。
「いいお湯だったね。大きいお風呂ってやっぱり……どうかしたかい?」
つい、俺も……そんな咲耶に見とれて、しまっていた。
火照って赤い肌、漂ってくる甘いリンスの香りはさらりとしていながら、密で――まだ水分の残る髪がさわさわと扇風機の風に揺れ、無防備な胸元に見える、首にかけたお守り袋。
何より潤んだ目に映る夕焼けの山々は、じかに見るよりも綺麗だったから。
どう答えたものか、悩んでいると――――また、咲耶の表情が何か思い出したように変わる。
「あ、そうだ。キミがいると分かってたら……やってみたかった事があったのに!」
「はぁ、何を?」
たぶん、また――――変な思いつきというか、憧れというべきかが始まる予感だ。
「ほら、お風呂屋さんで……洗い場の壁挟んで。“ごめん、忘れちゃった! 石鹸貸してー!”って叫んで、投げてもらうんだ」
――――出た。
「お前、何歳なんだ……。戦後の漫画かよ」
そんなの、確かに見た覚えがあるけど――――もう最近は漫画にも出てきやしない場面だ。
だいたい銭湯がどんどん減っていってるせいもあってか……正直、ピンとこない人の方が多い。というか実際俺も今なんとなく、うっすらと思い出せたぐらいで。
「でも、なんとなく……憧れない、そういうの?」
「絶対イヤだからな。恥ずかしいし……他に誰かいたらどうすんだ。ずっと言われるんだぞ、俺もお前も、村の爺ちゃん婆ちゃん達からずっとだぞ」
「なら、二人しかいない時ならいい?」
「番台の婆ちゃんに聞かれたら同じだっつーの……」
「それもそうかぁ。まぁでも、諦めないよ? ふたりでさ、同じ石鹸で、体、あら……っ!?」
言葉の途中でぐっ、と詰まり――――見る見る間に、咲耶の顔色が変わる。
かっ、と耳がまず赤く……それが段々と、頬まで達して。
流石にそこまで言われては俺も、言葉の先が分からないはずもなく。
「ゴメン……ナシ。今の無しだ。忘れて」
「イヤだったからか?」
「い、イヤ……じゃ、ない、けど! とにかく忘れて、いいね? わかった?」
さらに誤魔化そうと咲耶は早すぎるペースでフルーツ牛乳をがぶがぶと飲み――――七割はあったはずの中身が、あと一センチほどにまで減っていった。
「……お前さ、ちょくちょく自滅するよな?」
「……言わないで、ってば」
「せっかくだから引っ張るけど、お前……体洗う時、石鹸なのか? ボディソープじゃなくて?」
「え、うん。ふつーの……牛乳石鹸かな」
「……もしかして俺と同じ?」
「あー……番台で売ってる?」
「マジか。……なんで……」
――――同じ石鹸使ってて、どうしてこんないい匂いするんだ、咲耶。
「えっ……?」
心の中で呟いた時、困惑するような声が聴こえる。
いや、どこか――――距離が遠ざかるようにも。
「咲耶……?」
まさか。まさか。
――――――声に出てたか!?
「待って……待て待て、待て、違う、違うんだ!」
思わず顔を上げると――――うつむいたまま、それでも真っ赤だと分かる顔色の咲耶が
まずい、まずい、まずい…………間違いなく聞かれた。
「……嗅ぐ?」
「は――――」
聞かれた、引かれた――――と慌てるのも束の間。
少しこぼしてしまったフルーツ牛乳が下のズボンに浸みるのもいとわず、俺はいかにも間の抜けた声で訊き返す。
目の前には咲耶が、恥ずかしそうに――――ゆったりしたTシャツの襟を広げ、少しずつ、少しずつ、ぐっ、と前かがみにテーブルをはさんで近づいてきていた。
紅潮した薄い皮膚にくっきりと浮き出た細い鎖骨に、汗が浮いているのが見えた。
唇はわずかに波打ち引き結ばれ、吐息が僅かに漏れていた。
そしてゆっくりと、まるで吸血鬼にでも差し出すように――――昨夜はゆっくりと、首筋と鎖骨を俺に差し出してくる。
「……いいよ? キョーヤ君なら、さ」
だからって、そんな――――と冷静に言おうとしても、まるで言葉にならない。
中てられたような空気がほんの一瞬で充満するのが分かる。
とんでもない事を口走ってしまったのも分かるのに……咲耶が差し出してくる肌から、目を離せない。
もはや抗えるはずもなく。
発端は俺が不用意に漏らしてしまった言葉だった事も忘れ――――咲耶の左の鎖骨へ鼻先が近づいていくのが、分かる。
あと、少し。
糸のように細い、甘い香りが、近づいてくる――――その瞬間。
「あーーーーっ! いい湯だったわ! おい、バアさん! ビールもらうぜ!」
「ワシも貰うわ。やっぱフロはええなぁ! 今年こそウチに付けちゃりたいわ!」
と――――好き勝手にわめく、がらっぱちなオッサン達の大声が聞こえた。
がらっ、と更衣室と番台を隔てる引き戸が乱暴に開かれ、閉じて――――。
瞬間、びくんっ! とおどかされた猫のように身を強張らせた咲耶が姿勢を戻し、いそいそと襟元を正し――――また、匂いが遠ざかっていった。
俺も、誘惑に負けてすり寄せかけていた鼻先を引っ込めて――――間をごまかすように、もうほとんど残っていなかった牛乳瓶に口をつけ、すすり込んだ。
「あ、ははははっ――――きょ、キョーヤ君……そ、そろそろ……帰ろっか?」
「う、うん……そう、だなっ……ははっ……」
なんとも気まずい愛想笑いの応酬の後。
俺と、咲耶は宴会場へ缶ビール抱えて上がってきたオッサン連中と入れ替わるようにして、軽い挨拶だけ交わして出る事にした。
ただ、――――ほんの少しだけ、後ろ髪は引かれた、ような気がすると。
空き瓶を回収ケースに差しながら、思ってしまったのだ。
*****
そして、もう沈みかけて彼方にわずかに見えるオレンジの夕日と、紫と、黒の三色の空を望みながら俺と咲耶は帰り道につく。
さっきの一件がどうもまだ後を引いているのか、どちらからも何も言い出せず、無言のままだ。
咲耶の履いているサンダルの、かこかこという音に混じり――――少しずつ、少しずつ盛り上がっていく遠いカエルの声、日が沈んで涼しくなった風に揺れる葉のざわめきしか聞こえてはこない。
それにしても――――さっきのは、何だったんだろう。
考えても答えが出てこないまま、舗装路を並んで歩き……たまにちらりと隣を見ても、今さら正気に返ったのか、咲耶もまたうなだれたまま、ただ歩く。
「……あー…………」
沈黙に耐えきれず、何か言おうと喉を広げてみても……まるで、続きやしない。
ちらっ、と見てくる咲耶の視線もどこか冷ややかにさえ感じるぐらいで――――まずい事に、だんだん、咲耶の家が。
“
さっさと着いてほしいと思ってはいたものの……このまま別れたら、確実に妙なわだかまりが残ってモヤつくに違いない。
しかし、どうすれば――――
「……キョーヤ、君。あの……」
「え、はい……」
思わず、敬語で返事してしまうぐらい――――どうすればいいのか、わからなくなってしまった。
「え、っと……ね……ボクも、その、さ……ふふっ……あは、ははっ。何かヘンな雰囲気だね。ボクは何も気にしてなんかいないよ?」
「引いて……ない?」
「何、今さらさ。ビックリしたけど――――引いてはいないさ。でも、キミが気が済まないんなら……そうだね。その内、ボクのちょっとした憧れにでも付き合ってもらおうかな?」
いきなり、からからと笑い飛ばす咲耶はどこか吹っ切れたようでもあるが――――今一つ、その真意は掴めない。
「憧れ、って……?」
「さぁ。まだ決まってないから。さ――――名残惜しいけど、今日はもうお別れかぁ。そうだ、もし良かったら明日にでも遊びに来てよ。お茶でも淹れるから。
「あ、ああ……分かった、行くよ」
――――――色々と振り切って、家に着いた咲耶と別れ、俺は道を引き返してこちらの帰途を辿る。
*****
――――そして俺は、この時まだ知らなかった。
きたる秋、とある一件から――――咲耶が口にしかけたそれが、思わぬ形で叶ってしまう事に。
今はまだ、家に設置されていないあるモノの中で。
俺と、咲耶が――――同じ石鹸を使う事に、なることを。
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