Summer days

咲耶の願い、リョウ姉の思い出


 電車に揺られる事、実に三時間。

 向かい合わせの二人用ボックス席で、俺は――――“夏”の最初の一日を、噛み締めていた。

 対面に座っているのは、他の誰でも無い。

 記憶の底に封じ込めていた幼なじみで、越してきた俺が出会って、そして……“再会”にようやく気付けた人。

 咲耶怜さくや りょう

 山間の隠れ里、神居村の神職の一人娘で、四人しかいない高校生の一人だ。

 雲のように真っ白なフリル付きのノースリーブからは、村の陽射しで少しだけ焼けてはいても、それでもまだ充分に白い腕が伸びて、ショートパンツから伸びる腿の上で軽く手を組んでいる。

 俺が一度も見た事の無い、星型の花の細工を入れた金色の髪留めで顔の左側に分け目を作って、その顔は、さっきからずっと窓の外を向いていた。


 咲耶は振動とともに過ぎ去る風景を、時おり口を半開きにしてまでずっと目で追っていた。

 まるで、初めて水族館に連れてこられた子供のように目を離さない。

 それは、無理もなかった。

 だって、咲耶は…………今まで一度も、村を出た事がなかったのだから。


「あ、キョーヤくん! あれ何?」

「? ……“あれ”ってどれの事だ?」

「ほら、あそこ、赤くて大きい――――あれ、もう見えなくなっちゃった……ゴメン」


 こんな、調子だった。

 一事が万事。

 窓の外を流れていく風景の全て……とまではいかなくても、咲耶には初めて見る事ばかりなのが分かっている。

 だから、俺も答えてやりたいのに……多すぎて、追い付かないのだ。

 村にいた時の、咲耶の隙のない落ち着いた様子はまるで面影がない。

 ――――そこで、俺は気付いた……というか、思い出した事があった。


「……咲耶、お前さ」

「え……? キョーヤくん、今何か言った? あ、ほらあれ……さっきの」

「だから、どれだって……!」


 そんな調子で乗り継ぎを挟み、県をまたいで隣県へ行き、流れる風景の隙間にようやく見えた海も一瞬で、すぐにトンネルに入る。

 咲耶は一瞬しか見えなかった事に少なからずがっくりと肩を落としていたが、すぐに立ち直った。

 だって――――今から、間近に見る事ができるから。

 トンネルを通る間に、さっき訊きそびれた質問を再び口にする。


「咲耶、お前……」

「ん……?」

「……お前さ、俺に……ドロドロに溶けたキャラメルくれた事あっただろ。あれって何だったんだ?」

「えっ!?」

「いや、昔だよ。昔だけど……」


 そう。

 俺は、この村にいた頃の事を少しずつ思い出してきた。

 当時の咲耶はガキ大将そのもので、付き合わされる“のび太”が俺だった。

 手は挙げてこないもののとにかく押しが強くて、危険な遊びにばかり付き合わされていた。

 田んぼですくったヒルを投げつけてきたり、危ないって何度も言ってるのに水路に入ってザリガニ手掴みで獲ったり、クワガタを捕まえるため樹を登った時には、俺は踏み台をやらされたし、落ちてきたムカデが背中に入って、Tシャツの裾から出てくるまで発狂したように俺は叫んだ。その感触は、十年ぐらい前の事なのに、妙にリアルに今の俺に蘇って、今でもぞわぞわする。

 …………思い出すたびにトラウマが増えていくのが、何とも言えない。

 そして増えていくたびに、目の前にいるこいつがその“当人”だというのが、とても信じられない。

 どこか遠くを見ているような優しくて柔らかい眼差し、華奢で折れそうな、絆創膏の一枚も貼っていない手足、その爪もよく手入れされていて、割れもなければささくれもない。

 雪解け水がちろちろと流れ出る春の小川のような、穏やかで澄んだ“咲耶怜”と、あのギラギラした陽射しのような“リョウねぇ”は、全然結びつかない。

 まるで、別人。

 いや、別人でもここまで人格が違わないだろう。


 ――――ともかく、俺は……リョウ姉に一度、キャラメルをもらった事があった。

 それも、ドロッドロに溶けて包み紙にひっついた、生暖かい奴だ。

 覚えているのは、俺がどこかを見ていたら後ろから握らされて、気付いて振り向けば、“また明日ね!”と叫んで一目散に駆けていく、リョウ姉の後ろ姿だ。

 残された俺は、ひとまず手の中のそれを見た。

 あったのは、握り潰したように変形して生暖かいさっき言った通りのブツだ。

 包み紙と一緒に舐めるようにして、ほとんど“ヌガー”と言っていいそれを、帰り道をたどりながら食べた。

 表面の刻み目は残っていたから、食いさし・・・・をよこしたという事はないと思うが……。


「そんな事……あった、かな?」

「いや、憶えてないならいい。あれ……どういう状況だったのか気になってさ。変な事言って悪い」

「ボクも……思い出したら言うね。なんだろ……」


 互いに考え込む、変な空気のまま――――電車は、トンネルを抜けて目的の駅についた。



*****


 道中で一しきり驚き終えたのか、駅から少し歩く間の咲耶はおとなしかった。

 俺がふった話をまだ考えているのかもしれない。

 しかし、民家の切れ間から海が見えるたびに、視線は必ずそちらへ向いた。

 漂ってくる潮の香りも、きっと咲耶を惹きつけてやまないはずだ。

 軒先に飾られた網入りのビン玉に陽射しが映り、海のかけらの澄んだ輝きが咲耶を見つめる。

 今度は、それが“何”かを訊ねられる事はなかった。

 風に混じる潮の香りと、徐々に大きくなる波の音、山間では見えない、どこまでも限りない空。

 咲耶はそれを余すところなく感じ取りたいかのように、すっかり……村にいた時と同じ、落ち着いた佇まいに戻っていた。

 多分彼女がそうしていたのは、自分が“花子さん”に連れて行かれる日を分かっていたから、せめて狭い世界の中でも、そこにあるものを余すことなく感じ、覚えるためだったんだ。

 まだ冷たい小川に脚を浸し、風の匂いを吸い込み、蝶が舞えば目で追い、近所の野良ネコの毛並みを観察して、カエルや虫、鳥の声も聴き逃さない。

 終末期の患者のような、残された一日一日を味わおうという、気持ちで。

 そんな彼女は、もう何にも縛られていない。

 俺が、“花子さん”との約束を踏み倒し――――切り離したからだ。

 だから、咲耶は十七歳の誕生日を迎え、十年の約束を越えて、そして――――今、村の外へ出る事ができた。

 世界のどこにでも続く、もうひとつの“青”を見たいと言って。


 やがて、到着した。

 ここはれっきとした海水浴場だが、まだ人はまばらだ。

 まだ夏休みの一日目だし、何より平日。

 パラソルの陰でビールを飲み、炭火を起こしてバーベキューしたり、そういった人たちはまだいない。

 海の盛りは、八月からだ。


「海――――だ」


 さらさらとした頼りない砂の感触を味わうよりも先に、咲耶はつぶやいた。

 俺がスニーカーと靴下を脱ぎ、ひとまとめに片手に提げている間……ずっと、彼女は微動だにせず釘付けだった。


 目の前にあるのは、どこまでも続く水平線と、トンボのように行き交う船。

 上にある“青”との境が分からなくなるよう晴天の下、広い世界のふたつの入り口が交差していた。

 空にそれがあるように、下の入り口にも“白”がある。

 純白に洗われた砂が、初めて訪れた彼女を迎える。

 

 咲耶怜は、――――“海”を見ていた。

 いつこぼれてしまうか分からない、輝きを増した目で。

 俺は、彼女の手を取り、前に出た。

 まだ――――咲耶を、“海”へ触れさせていない。

 ほのかに汗ばんだ掌は、震えていた。

 しゃわしゃわと泡立つような波の音が、だんだんと近づく。

 ばしゃっ、と跳ねる高めの波の音は、咲耶を出迎える。

 さくっ、さくっ、と踏み締める細かな砂は、神居村にはない。

 海に照り返った日差しは目がくらむほど眩しくて、熱い。

 もう数歩で、“海”に届く。

 その時咲耶はサンダルを脱いで、そこに残した。

 まるで浄めに臨む巫女のような面持おももちで、しかし、俺の手に加わる力を感じた。


 そして、届いた。

 咲耶が手首にかけていた、“青”の願いが、足を撫でる。



*****


 そうしていられたのは……ほんの、一時間にも満たなかった。

 村へ帰れる電車は、少ない。

 まだ昼を越えたばかりなのに、もう――――だ。


「……楽しかったね、キョーヤくん。また来たいね。今度は、二人も一緒に」

「ああ。でもさ……八塩さんはともかく、柳……あいつ、来るかな?」

「お願いすれば断れないさ。特に、沢子がお願いすれば」

「……なら、次は水着も持ってこような」


 早めの帰り道、電車を待つ間、そんな話をした。

 気恥ずかしさの中でなんとなく発したそんな言葉に、咲耶は――――見ると、顔を真っ赤にしている。


「み、水着……って、だめだよ、そんな!」

「……ひょっとして、持ってない、とか?」

「わ、悪いかい!? しょうがないじゃないか、村には泳げる所なんてないんだから!」

「あー……」


 そういえば……そうだ。

 あの村には池も湖もなく、泳げる深さの河もない。

 昔はそれでも身長は足りていたものの、高校生が身を浸せる水深は、銭湯にしかないのだ。


「いや、ごめんな。そういえば俺も持ってなかった。帰る途中で買い物ぐらいは挟めそうだけど……」

「……買いに行く時は、沢子と行く事にしたよ」

「え……?」

「だって……キミに見せたいものを、キミと一緒に買いに行くのは変だよ」


 しばし、考え込む。

 やがて意味を掴みかけて――――今度は、俺の顔が熱くなった。

 思わず間を埋めようと適当に変える話題を探すが――――アナウンスに救われた。

 もう間もなく、電車が入ってくるからだ。


「……あんまり変な事、考えないでよ。恥ずかしいじゃない……」


 そう絞り出す咲耶に、俺はただ……無言で頷くのが、限界だった。



*****


『神居村役場より、ご案内します。本日十六時より故障しておりました踏切の修理が完了いたしました。皆さまにご不便をおかけし、大変申し訳ありませんでした』


 そんな、ありもしない“踏切”の修理完了を告げる村内放送が村へ帰ってきた俺と咲耶を出迎えてくれた。


「ったく。いきなり日常だ」

「これが日常って……よく考えると、すごいんだね……この村」


 すっかりと日は落ちて、まばらな街灯と曇りない月明りの下、ひとつきりの駅から俺達は歩く。

 さっきの放送は、もう訊かなくても中身が分かる。

 “踏切”は――――“てけてけ”の符丁だ。

 村の誰が退治したのかは、分からない。

 柳かもしれないし、八塩さんかもしれない。

 西地区のマサトシさんかもしれないし、役員の吉住さんがまた・・轢き倒したのかもしれないし、それともラーメン屋の不良娘か。

 誰一人……そんなものに臆する人が、思い付かない。


 日は落ちていても、今俺の歩く道は、あの日と同じだった。

 水路のせせらぎが聴こえて、ざわめく葉の音も聴こえる。

 あの日、神居村へ来た俺は……またここへ、帰って来られた。

 そして今はもう、一人じゃない。

 あの日に再会できた“幼なじみ”が横にいる。

 もう、心細さはない。

 ここには、俺の居場所がある。


 俺は何も言わず、咲耶を家まで送った。

 日が落ちた神社の石段を、躓かないように慎重に登って、第一鳥居をくぐって、神居神宮の敷地内へ入った。

 石段を登り切ったところで、咲耶は急に――――立ち止まった。

 もう、あとは……すぐそこに見えている家に、入るだけのところで。


「……帰りたく、ないなぁ」


 うつむいた咲耶が呟いた声は、はっきりと拾えた。

 俺と、咲耶の……どっちが発したのか、一瞬わからなかったほど。


「……俺もだ。明日……また、な」

「うん。……ごめんね、それと……ありがとう、キョーヤくん。あの、お願いあるんだけど……いい?」

「何……?」

「一段だけ、下りてくれないかな? 足元に気をつけて、ちゃんと見てさ」


 何が何だか、わからないまま……俺は、そうした。

 一応すすめられた通り、いったん後ろを向いて、“一段だけ”下りる。


「キョーヤ」

「ん?」


 振り向いた瞬間――――何が起きたか、分からない。

 間近に感じた気配、それと――――服に残った、潮の香り。

 そしてそれらより先に、ほほに……柔らかくて暖かい、震えるものが当たっているのがわかって、頭よりも先に、除く全身がそれを理解した。

 永遠にも感じる一瞬の後、“それ”がゆっくりと離れ、咲耶の顔が少しずつ遠くなる。


「じゃ、じゃぁ……また明日ね、キョーヤくん! き、気をつけてね!」


 それきり、言って――――もう、あの頃とずっと歩幅の違う彼女は、転がり込むように玄関へ消えていった。

 頬に残った感触が……まるで何かのスイッチのように、俺の心臓を高鳴らせてしまった。

 鼓動で……周りの音が、すべて消える。


 ――――思い出した。

 あの時受け取ったドロドロのキャラメル。

 あれ……ずっと、遊んでいる間に“リョウ姉”が握り締めていたやつだったんだ。

 ずっと片手がグーのままで、変だと思ってたら……日が沈む帰り際に、“後ろを向け”と言われて……押し付けるように握らされて、今と同じように。


 あのずっと握られてたキャラメルの甘さが、今口の中で思い出せた。


「…………何も、変わってないんだな」


 あの時の思い出と、今増えた“それ”。

 二つを胸の中で混ぜ合わせて……俺は、ゆっくりと来た道を辿り、石段を下りていった。








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