Epilogue

神居村へ、初めての夏を


 この村の終業式は、少し変わっていた。

 小、中、高と、神居村の三校の合同で、一番新しい小学校の体育館で行われるらしい。

 だから俺は……いや、俺達は今、三十人ほどの小学生、十数人の中学生の後ろに立って、ありがたく校長の話を聞いていた。


「えー、明日から八月の末まで、我が神居村の三校は夏休みへと入ります。小学生の皆さんは、ケガをしないように。また中学生の皆さんは慎みを持って生活を送るように。そして、高校生の皆さんは……やはり、ケガをしないように」


 高校生――――といっても四人しか、いない。

 工務店のせがれで年中作業ツナギの神奈柳かんな やなぎ

 酒屋の娘で身長二メートル超の、八塩沢子やしお さわこ

 社務の手伝いを務める神職の一人娘、咲耶怜さくや りょう

 そして、俺……七支杏矢ななつか きょうや


 右前方には一応学年ごとに六列に並んだ小学生。

 左前方には同じく学年ごと、三列の中学生。

 そして体育館の後方に何故か横列に並ばされたのが、俺達だった。

 ステージの上で……正直に言ってクソつまらない長話を繰り広げているのは多分、神居中学の校長だ。


 前方にいる小学生がチラチラと振り返って、八塩さんを見ている。

 そりゃ、いつもの体育館に二メートルの女子高生がいたら見るのは当たり前だろうな。

 おかげでずっと、八塩さんは恥ずかしそうに――――多分恥ずかしそうに、身体の前で手を組んでもじもじとしている。

 その手で昨日、“片目の暴走車”を捻り潰したというのに。


 柳はといえば、ポケットに手を入れっぱなしで……たった今、こらえる気配も無かった大アクビを終えた。

 流石に声までは出さなかったにせよ、この空間で二番目に背が高いこいつがやると、やはり目立った。


 右手側に立っている咲耶に目をやると、彼女だけが、校長に目を向けてじっと話を聞いていた。

 いつもの……どこか澄ました、しかし間違いなく口角に微笑みを切れ込ませた、柔らかくて見惚れるような表情で。

 俺の視線に気付いたのか、咲耶が僅かに首を傾げ、目を向けてきて……つい、慌てて逸らす。

 その時、開け放していた体育館から校庭へ通じる引き戸から涼しい風が吹き込んで、おまけに鳳蝶あげはちょうまでが舞い込んできた。


 俺は、この空気がたまらなく好きだ。

 “夏休み”の直前、終業式の体育館に満ちたこの暖かさと、夏の盛りを控えたこの空気が。

 窓から見える空はどこまでも青くて、気持ちのいいフワフワの入道雲が見える。

 どこからか聴こえる蝉の声、耐えれば明日から夏休みだから誰も苦にしない、校長の長話。

 うきうきとした、生徒たちの心の中までも伝わる。

 ましてこの村のそれは格別だった。

 これは卒業式という別れのあとにある、春休み前の終業式では感じられない。

 受験を控え、寒く日が落ちるのが早い冬休み前の終業式でもだ。


 俺が、この瞬間を呼吸できるのは一年後の、あと一度だけしかない。

 桜は、死ぬまでに毎年一回は見られる。

 だがこの瞬間は物心ついてから、たったの十二回しか訪れてくれない。


 “夏”が、始まるんだ。




*****


『わたし、と……あそんで……くれ、るって……』


 空き教室で、俺はトイレの花子さんを三度に渡って斬り込んだ。

 あの水死体のように白く、青色の静脈を不必要なまでに際立たせていた肌、その右肩、首、そして腹部からは青い光の粒が空中へ舞い上がっている。

 その光の昇華を経て、伝説達は、もといた場所。

 実在しないはずの者達のふるさと、……“無”へと還る。


 触れられた時に俺の持っていた“身代わり守り”は弾け飛び、その破片すら、どこを探しても見つからなかった。

 恐らくは俺の代わりに、どこかへ消えてしまったんだろう。


「……ごめんね。ボクは……やっぱり、一緒に行けないんだ」

「…………わたしも、かえれ……る……? かえり、たい。……みんなの……いる、ところ……」


 ほんの少しずつ、青色の光が無色へと変わり始めた。

 この光が何によるものなのか、俺は今もまだ知らない。

 確かなのは……この光の飛散が終わった時、“伝説”は、その何パーセントかだけ、この世界から消える事だ。

 少なくとも、俺の父母をこの世界から消して、咲耶と理不尽な契約を取り交わした“水死体の花子”は、消える。


 だが別の個体がいつしかこの村に顕現し、どれかの学校のトイレを根城にする。

 “防空頭巾の花子”か、“無理心中の花子”か、日本に数多あまたある伝説の謂れの中から、またひとつ。

 六月には、“三姉妹の口裂け女”を、八塩さんと咲耶と一緒に還らせた。

 族車ではないレーサータイプの首なしライダーも、柳の張った罠で倒れるのを見た。

 伝説は――――まだまだ、いくつもの派生を残す。


「……ボクは、行きたい場所があるんだ。どうしても……見たいから」


 消え去った“花子さん”が、その言葉を聞けたのか分からない。

 光の粒が二つ、しばし消えずに俺の周りを飛び交い、俺の両目のそれぞれ前で虚空へと溶けた。

 それは、もしかすると――――父さんと、母さん、だったのかもしれない。


 結局……“トイレの花子さん”を送るその瞬間は、呆気ないものだった。

 一時代を築いた伝説が消えゆくさまは、いつも、哀しいものだった。



*****


 終業式を終えて、俺は、まっすぐに家へ向かう。

 今日もまた昼は無いから、家に帰って何か食べなくてはいけない。

 ちょうど、隣の婆ちゃんにもらった冷や麦があるから……今日は、それで済まそう。


 いよいよ下旬になった七月は文句の言いようもなく夏で、かすかな梅雨の名残りすらもうない。

 このところはずっと晴れっぱなしで、村のスピーカーからは例の放送が減り、代わりに熱中症・熱射病への注意を喚起する放送が一時間に一度は時報代わりに鳴る。

 この村は炎天下で働く人が多いし高齢も多いから、恐らくそれは休憩の目安にされてるんだろう。

 現に――――――


『神居村役場から、正午をお知らせいたします。本日の予想最高気温は三十一度。皆さん、水分補給をお忘れないよう、お願い申し上げます。熱中症には充分、ご注意を――――』


 この放送を聞いた農家の人たちがこぞって腰を上げ、すっかりと背の高くなった田んぼや麦畑、とうきび畑から次々と人影が立ち上がる。

 帽子を脱いで汗を拭い、首に巻いていた手ぬぐいを振って乾かし、少しでも暑気を払おうと試みていたところだ。


「おーい、休憩だ。昼メシにすんぞー!」

「あー……あっちぃな、オイ。母さん、ビール飲んでもえぇか?」

「いー訳ないわ。昼間っから!」

「一本、一本だけ!」

「ダメ! 麦茶!」


 そんなやり取りをあちこちから聞きながら、俺は家に着いた。

 いつものように鍵もかけていない玄関の戸を開けると……またしても、だ。


「……今度はキューリかよ!」


 玄関を開けてすぐ、ビニールの袋にみっちりと詰まったキュウリがある。

 またも村の誰か、たぶん隣の婆ちゃんが勝手に開けて置いて行ったものだろう。

 常識的に考えて不法侵入にもほどがあるのに……いつもこうだ。

 靴を脱いで上がり、そのキュウリの袋を冷蔵庫に放り込んですぐ、電話が鳴る。

 大きくて癪に障る黒電話のベルは、まだ慣れない。

 茶の間まで行って電話を取ると、しばらく話していないあの女の声がした。


『もしもし。私は今、おぬしの家の前に……』

「そういうのいいですから。メリーさんなんてもう出ないでしょう」

『冷めておるなぁ。現代っ子はこれだから困るというものじゃ』


 今もなお爺ちゃんの家に居座る謎の後見人、みどりさんは使い古したマネをしてみせ、そんな一方的な事を好き勝手に言う。

 ともかく、どちらにしても……今日、電話はかけるつもりだった。


「それで……何のご用ですか、そちらから」

『うむ。おぬし……こちらに帰ってくる予定はあるのか? 夏休みじゃろう』

「ええ、そうです。……ですね。村の、畑の手伝いをする予定がいくらか入っているので……八月中には、そっちに行きます」

『あい分かった。……だが、フム。面白いの』

「何がですか?」

『おぬし、今……“行く”と申したぞ。ここは以前、おぬしの家でもあるというのにな』

「…………それより、聞きました。思い出しましたよ。……俺の、父さんと母さんの事も」


 電話の向こうで、息を飲むような間を感じる。


『……そうか。ではその村と、おぬしの爺殿との繋がりについて、聞かせようかの?』

「いえ。……会った時にでも教えてください。こんなの、電話で済ませていい事じゃないですから」

『……うむ、分かった。それでは、待っておるぞ』


 そうして俺は、受話器を置いた。

 爺ちゃんがなぜこの村に俺を送ったか。

 父さんと母さんはなぜこの村に移り住んだか。

 爺ちゃんとの間に、何があったのか。

 尽きせぬ疑問は、間違いなくある。

 でも、俺は……興味はあるけど、どうでもよくもある。


 父さんと母さんは、優しかった。

 俺を育ててくれた爺ちゃんも、お手伝いの浮谷さんも、優しかった。

 それだけで……俺はもう、今はいい。

 今またひとり、大切にしたい人まで増えてくれたのだから。



*****


 夏休み、初日の朝。

 この村から外へ向かう始発は、朝のおよそ八時前。

 駅舎もないアスファルトで固めた台の上に、駅名看板と申し訳程度のベンチ、その背もたれ側にある鉄柵。

 たったそれだけの、無人駅だった。

 なのに殺風景と感じないのは――――その向こうにある、神居村の緑の遠景と、それを麓にいただく山と、空と、そこを彩る白があるからだ。

 この隅々まで生きている村の風景は、それだけで、ひとつの芸術だといつも思う。

 俺は、ひとつの季節を巡らせてさらに色あせて見えたベンチへ座って、待つ。

 まだ朝早く、虫の声は聞こえない。

 鳥のさえずりと、葉のざわめき、近くの田んぼへ流れる水路のせせらぎ、それだけだ。


 やがて、“始発”が、やってきた。

 ブレーキをかけられた車輪が線路を擦る音とともに、これまた色あせた古めかしい一両編成の列車が停まる。

 俺の目前、左側にある運転席からひとりの運転士が下りてきた。

 その人は、しくも……俺をあの日、ここへ連れてきてくれた人と同じだった。


「お? ……この間の兄ちゃんじゃねぇか。生きてたか、大したもんだ」

「どうも。次の発車は……」

「二十三分後だな。乗って待ってたらどうだ? 涼しいぞ」

「いえ、人を待ってるんです。……一緒に行くって、約束しましたから」

「おう、そうだったのか。んじゃ、俺はお邪魔だな。乗り逃すなよ」


 目の前の電車からは、動力からの熱い空気が伝わってくる。

 運転士さんのすすめが、よく分かる。

 彼はもう反対側、つまり村外への運転をするべくそちら側へ入っていくところだった。


 水筒から一口、茶を飲む。

 喉が渇いたからだが……その原因まで言うのなら、“緊張”だろう。

 俺は、こういう風に、こういう日に、人を待つのは初めてだったから。

 あと二十分で電車は出るというのに、まだ来ないのは……遅い。

 せっかちなつもりはないのに、ソワソワした気分が全然収まらない。


 ――――発車、五分前。


 俺は……ホームの端から見えた姿に、思わず心臓が跳ねるのを感じた。


「ごめん、キョーヤくん! お財布、家に忘れちゃって……!」


 息を切らせてホームへ上がってきた彼女を見て、息をすることさえ忘れてしまった。

 ストラップ付きのサンダル、白い袖なしのフリルシャツ、また目のやり場に困る、ショートパンツ。


「あ、ああ。……だけど咲耶、本当にいいのか?」

「え?」

「いや。……この村からじゃ、海は遠いよ。ほとんど、行って戻ってくるだけになるぞ」


 今更ながら……そんな事を言ってしまったのは、照れと、嬉しさを隠したかったからなんだろうな。

 それを見透かしているのか違うのか、咲耶は息を整えてから、にんまりと笑う。


「かまわないさ。……夏休みなら、まだ丸ごとあるんだから。……いつでも、キミと一緒に、どこへでも行けるんだから」


 咲耶の後ろに、どこまでも走る飛行機雲が、線路の向こうまで続いているのが見えた。


 ――――発車、三分前。


 俺と咲耶は、並んで、同時に電車へ乗り込む。

 この村で――――初めての“夏”を、送るために。


 神居村へ、初めての夏を…………贈るために。






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