その怪談の名は



「知らないとは言わせない。場所はトイレの開かずの一番奥の個室。呼びかける方法は――――」


 ノックを、三回。

 そして、名を呼ぶ。

 そんな事は――――小学生でも・・・・・知っている


 外は草木も眠る時刻だ。

 なのに、今俺の耳には、聞こえないはずの蝉時雨せみしぐれが鳴り響いて止まない。

 暗く押し包まれた闇の中で、ねっとりとした風が頬を撫でた。

 今しがた眼前の友が殴り飛ばした“あぎょうさん”は、もう消えた。

 チカチカと目の前が明滅して、柳の居ない昼のそこと、柳の居る今のここを交互に映した。

 時が交差し、柳が重く腰を据えている床、まさにそこに子供が立っているのが見える。


 そいつは、ざんばらに切った髪をもつれさせ、草の切れ端までまとった、ひどく生意気そうな女の子だ。

 立っていても今座っている俺とだいたい目線の高さは同じで、よく見れば可愛い服を着ているのに、草の汁と土とでぼろぼろに汚れていた。

 足にも顔にも絆創膏を貼って、どこかにブツけたのか、すねには紫色のアザまである。

 そんな女の子が真昼の廃教室へ立って、“ふふん”という顔でこっちを見ていた。

 誰かに似ているというなら……あのお馴染みの、“悪童”か……。


「……咲耶さくや?」


 呼びかけると、再び夜になった。

 そこにいるのは活発を通りこしてひたすら乱暴そうな女の子じゃなく、俺をここまで連れてきた男だ。


「何か見えたのか?」


 ライトだけが頼りの室内で、柳が呻くように言った。

 それきり――――もう、“昼”は見えない。


「たぶん……咲耶、だったのかもしれない」

「どんな?」

「…………」

「ガキ大将みたいな女か?」


 俺は、こくりと頷いた。


「なら、間違いないぜ。お前が見たそいつは……お前の良く知る、咲耶怜だ」


 正直なところ――――こいつの太鼓判が無ければ、とても結びつかない。

 俺がここへ来たあの日、咲耶はお茶を入れてくれて、俺の脱ぎ散らかした上着とマフラーを音もなく畳み、家に上がる時もまるで良家で教わったような作法を崩さなかった。

 利発な性格、どこまでも穏やかな物腰。

 さっぱりとして隙のない服の着こなし、指先までもピンと伸ばして踊るように歩く身のこなし。

 同一の人物とはとても思えなかったからだ。

 成長に伴って身に着けた分別、だけでは説明がつかない。


「少し歩くぞ。それとももう少しだけ休むか。お前が決めていい。吐きたいんなら吐くといい。……お前が立つなら、俺も立つ」


 俺は、それでも躊躇した。

 ここで起きた事を全て把握した時、自分がどうなっているのか分からない。

 村へ戻り、隣の婆ちゃんを、寄り合い所の面々を、八塩さんを、……咲耶を見た時、俺はどういう顔をするようになるんだろう。

 今からなら――――村へ戻りたい、と言えばきっと柳は頷き、しているのかどうかも曖昧な返事とともに先導してくれるはずだ。

 だから……俺は。


「行こう。俺はまだ、何も知らない。……何も、思い出せてない」


 甘えられない。

 こいつは俺の先輩でも、先生でもない。

 きっと意を決して何かを貫くために、俺をここへ連れてきて話をしたんだ。

 だから――――応える。

 答える。

 たとえこの先に、どんな未来があるとしてもだ。

 その為に俺は今、立ち上がってライトを掴んだ。


「……分かった。行くぜ」


 柳もまた、俺が立ったとほぼ同時に傍らのスコップを掴み、立った。

 俺がそう答える事を、まるで確信していたかのように。



*****


「……“トイレの花子さん”の目撃例は、この村でもたったの三回しかないんだ」


 ゆっくりと廃墟の中を歩き、柳はそんな話を始めた。

 相も変わらずライトなど持っていないのに、転がっているブリキのバケツにつまずく事も、何かにブツかる事もなく、何の感覚を頼りにしているのか不明なほどの確かな足取りで歩いて行く。


「口裂け女の目撃例、保護回数は百回を越える。首なしライダーも、“てけてけ”も、さっきお前が見た“あぎょうさん”も、基本的には三ケタ台だ」


 この村では符丁放送がいくつも流れているが、その理由は大きく分けて二つ。

 一つは、怪異の出現情報と注意報の発令、そして解除。

 慣れているとはいえ、都市伝説で聞くほどの凶暴性はだいぶ失われているとはいえ、基本的に奴らが危険なことには変わりない。

 刃物を手にした不審な女や暴走するバイカーは、普通に警戒対象なのだ。

 だから大人たちは可能な限りの応援を招集し、様々な方法で速やかにそいつらを制圧する。

 この村は誰も彼もが元気で……隣の婆ちゃん、俺をこき使ったあの米寿に近い婆ちゃんでさえ、イザとなれば鍬を手に持ち外へ出る。


 そしてもう一つの理由は、――――この村は別に閉鎖されているわけではない。

 村を貫く国道もあるし、電車も日に二、三本しかないとはいえ運行されている。

来ようと思えば、来れるのだ。

 もし奇特なバックパッカーが来ているとして、「口裂け女が今村にいます」なんて放送を聞かせるわけにはいかない。

 本気にはしないだろうが……そういった情報の露出は可能な限り防ぎたい。


 警戒の発令、解除。

 村外の人間への偽装。

 この二つが、村役場のあの放送がストレートでない理由だ。


「違いが分かるか。口裂け女と、トイレの花子。てけてけと、トイレの花子。奴らとは根本的に違う何かを」

「ああ。トイレの花子さんは、……呼ばないと、現れない」

「そうだ。同類だと“やみ子”や“太郎”もあるし、少し変わるが“怪人アンサー”もだ。だが……」

「“やみ子”も“太郎くん”も、マイナーすぎるし……そもそも実態がよく分からない。呼べば来るのか勝手に出るのか、それすら不明瞭」

「そういう事。“怪人アンサー”はもっと根本的だ。この村は携帯電話が使えない。入手する手段もない。だから……この村には、絶対に出ねェ」


 彼を呼び出すには携帯電話を十台用意しなければならない。

 だがこの村では絶対に不可能、圏外だから繋がらない。

 現代に則した、何かのガジェットを媒介とした都市伝説は……そのせいで、神居村かむおりむらには絶対に来ない。


 そして――――“トイレの花子さん”は、極めて有名な存在だ。

 都市伝説や怪談どころではなく、極まれに、子供向けの妖怪図鑑に載っている事すらもあるのを見た。


「一度目の顕現けんげんは、三十年ちょい前。その時は……ガキが一人行方不明になり、今も見つかってねェ。俺らのオヤジと同世代だ」

「……二回目は?」

「そこから、十年ほど後。村の女子中学生二人が試して……またも行方不明。そうなる前に二人の会話を小耳に挟んだ村人の証言によって、“トイレの花子さん”を試した事が発覚。それから正式に村の大人たちへ“花子さん”の禁止を徹底させた。話題にする事すらもな。“花子さん”は、封印されたんだ」


 だが、三回目が起こった。


「“花子さん”禁止令から一年後。村に夫婦が引っ越してきた。……かつて村に住んでいた人間の、息子夫婦だ。よそ者ではあったがこの村に馴染んで、もう一つの顔にも馴染んで、ずいぶんと上手くやっていた……って聞いたぜ」

「聞いた……?」

「俺はその頃生まれてねェんだよ、バカ野郎。お前もサワも、リョウもだ」

「その、夫婦って」

「……名前は、七支ななつか信一郎しんいちろう。妻の澄香すみか。随分な若夫婦だった……らしい」


 恐らく、その二人は。


「お前の親だよ、七支杏矢。村へ越してきた数年後に、お前が生まれた。俺も、サワも、リョウもだ」


 自分でもまったく意外なことに、驚きはなかった。

 もっと劇的な感情が湧いて出るものかと覚悟していたのに、何も、何もだ。


 ずっとつっかえていたものが取れた、そんな感じだった。

 爺ちゃんの死後、俺はたった一人でこの村へ来る選択肢を提示された。

 人生を左右するような選択だったのに。

 あまりにも……すんなりと結論が出てしまったのを、不思議に思っていた。

 きっと、ここが……“見知らぬ土地”じゃ、なかったからかもしれない。

 この村にある何かを懐かしく思って、再び訪れたくなったからかもしれない。

 俺は――――帰ってきたかった、のか?


「続きを話してくれ」

「…………いや、続きなんかねェよ、ナナ」

「は……?」


 柳の足が止まる。


「俺だって、お前と同い年でしかない。……あの日だって、俺は部外者だった。分かっていれば止めてやれた。だがあの日、俺は三年のバカと大ゲンカしてバツ食らって物置だった。……小一の時なんだよ、ナナ」

「……柳?」

「俺が教えてやれるのは、ここで起こった“事実”だけだ。“真実”はお前が知っているハズだ。……そして、“現実”が、お前を責め苛んだ」


 恐ろしいほどに、この校舎の埃っぽさと、ぎしぎしと軋む床板、噴き込む虎落笛もがりぶえのような風音が、俺のすっかり抜け落ちた“あの日”を呼び戻す。


「最後に“トイレの花子さん”の犠牲者が出たのは、十年前の明日。……いや」


 廊下に放置され、とうに朽ち果てたはずの柱時計が時を告げた。

 先ほど通りがかった時には文字盤は剥がれ落ち、振り子も外れていたのに。

 魔の夜の到来を告げる死んだ鐘楼が、何者かの気まぐれで打ち鳴らされるように、だ。


「今日、だ。……さぁ、拾ってこい」


 意識が――――鐘の一打ちごとに、首を絞められ、落とされるように薄れる。

 首筋に一度だけ、ちくりと何かが突き刺さるような感触がその直前にあった。

 やがて――――どたんっ、と崩れ落ちる音と同時に、左半身と膝に激痛が走り、耳元でザワザワと いくつもの声が錯綜した。

 倒れた拍子の痛みはひどいのに、どうしても起き上がる事ができない。

 目を開けることすら、できない。


 痛みも、謎の声も、音も、すべてが遠くへ去っていき。


 気がつけばそこは真昼、神居村の俺の家。

 その縁側に面した、板の間だった。


 だが。


 ――――――布団が三組、庭の物干しに揺れている。





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