第四章 あの夏を思い出して

失われた夏の始まり


 その村は、間違いなく神居村だった。

 その家は、間違いなく俺の家だった。

 頬を撫でる涼しい風と、高くから照る陽射しも間違いなくこの村のものだった。

 庭に渡された物干し竿には、小さな布団が一枚と、大きな布団が二枚。

 大きな洗濯ばさみで止められて、鯉のぼりのように三つ、風にはためいていた。


 ――――まるで、何かの追体験のようだった。

  どこかの誰かの身体の中に潜り込んで、意識だけそのままで――――でも、まるでアトラクションにでも乗っているようで、操作は不可能、指すらも俺の意思では動かない。


 無力な憑依の中で見えた茶の間の座卓には、今しがた食べ終えた素麺そうめんのガラス皿と、つゆを入れる小鉢がひとつずつ。

 俺はネギがどうしても嫌いだったから、薬味も何も入れていなかった。

 冷蔵庫に用意してくれていた昼食を食べ終えて、片付けもせずに放りだし、縁側で転がっていた。


 ひんやりとした板の感触がすぐに体温でぬるくなり、ころん、と場所を変えてまた微睡まどろむ。

 食べてすぐ横になるのは良くないと言い聞かされていたのに、誰もいないから……平気でそうしてしまう。

 成長した俺の身体なら窮屈な場所でも、子供の時なら、まだ広い。

 茶の間の畳が、干されたような香りを漂わせる。

 外には遠い蝉の声と葉のざわめき、布団のはためく音があり、暖かくて透き通った午後の陽射しが差し込んでくる。

 その境界に寝転がっていると……遠い世界に連れて行かれそうな心地よさが全身を包む。


「なに寝てんの? キョーヤ」


 庭側に背を向けて眠りに落ちかけた時、その背へ向けて何の遠慮もない声が投げかけられた。

 慌てて起きながら振り向いた俺が見たのは、人の家の庭に仁王立ちするいかにも勝ち気そうな女の子だった。

 ――――昔の、あの時の“咲耶怜さくやりょう”。


 前結びの意匠のTシャツを着て、青いスパッツからは微かに日焼けした脚が伸びて、絆創膏を三枚も貼っているのが、女子の脚とは思えない。

 淡い白とピンクだったと思われる靴は土に汚れて、もう見る影すらなくボロボロだ。

 幼いのに加え、表情も俺の知る今の彼女とは違って、自信を通りこしてもはや粗暴だ。

 確かに顔の造作だけを見れば間違いないのに、まるで違う。

 その普通にしていれば可愛いはずの顔にも絆創膏が貼られ、隙のないガキ大将の風貌になってしまった。

 髪の毛もあまり梳かしていないのか乱れていて、顔から伝った汗がもみあげを湿らせ、滴り落ちている。

 呆気に取られた“俺”が眺めていると、やがて不満を募らせ、子供らしいキーキー声で喚き始めた。


「お昼食べたんなら遊びにいくって言った! ボクの言う事ちゃんと聞いてなかったの!?」

「で、でも……たべたばっかりだったから……ちょっと休んで……」

「うるさい!」


 咲耶、お前はこんなんだったのか。

 そして“俺”。お前も随分と弱々しかったんだな。


「……いつまで」

「え」

「いつまで休むの」

「え? え、えっと……十分じゅっぷん、ぐらい……?」

「ながい!」

「じゃ、ご、五分」


 圧されて半分を提示すると、ようやく納得できたのか……咲耶は黙って、靴を脱いで縁側から上がり込んだ。

 もちろん、“お邪魔します”の一言もなくだ。


 ひとまず、俺は少しでも時間を稼ぐべく、食べた素麺の器を片付け、踏み台に乗りながらシンクへ置く。

 よく見れば、冷蔵庫も今あるのと同じだったな。

 シンクに水を流して、更に時間を稼いでから茶の間へ戻ると咲耶が不満げにどっかりと座っていた。

 座布団もあるのに畳の上にじか、女の子だという事を微塵みじんも意識しない胡坐あぐら姿で、だ。


「えっと、リョウちゃん」

「リョウねぇ、って言ったでしょ」

「……リョウ、ねぇ」


 いくらなんでも……尻に敷かれ過ぎだ。

 同い年だというのに、どこまで増長するクソガキなんだ、こいつは。


「ま、いいや。で……これ、何?」

「え?」


 ひどく古びたムック本だった。

 “今”の俺の意識なら、それが何だったのかよく分かる。

 夏によく出回りがちな、怪談や恐怖都市伝説の事を扱った、どこぞの出版社が千円あたりで出している低俗なサブカル系のムックだ。

 拍子には青ざめたメイクの女性の顔が大写しで配置され、わざとらしい恐怖を煽る冗句ばかりが書き並べられており、一番目立つ場所には“恐怖映像二十連発”などとも書かれている。

 もしかすると、付録としてDVDか何かがついていたのかもしれない。


 だが――――何故、そんなものがここにある?


「リョウねぇ、それどこにあったの!?」


 俺の意識を辿ったわけではないだろうが、“俺”がそのまま疑問を口にした。

 だが、この語調は……いくらなんでも、荒くないか。


「さっき奥の部屋で見つけたー。一緒に読むよ」

「え、でも……」

「いいから。ボクの言うこときけないの? キョーヤ」

「……うん、わかった」


 そろりと近づいて、表紙を握り締めるように広げた咲耶の後ろから覗き込むように、俺もその中に目を落とした。

 中身は子供向けとは言い難く、漢字に振り仮名も振られてはいない。

 不気味な写真、恐ろしげなフォント、背景もまるで血が流れたようなもので……今なら小馬鹿にできるが、小学生にはややキツいだろうな。

 なのに咲耶はページをめくっていき、読めない漢字にイライラしているのか、だんだんと動作が荒くなる。

 ――――お前、それヒトの本なんだぞ。


 途中で何度か挟まれた怖い挿絵にビクっと震えた事が、何度か。

 しかしそれは咲耶だけでなく“俺”もで……体の揺れが、それを語る。

 やがて、モノクロのページを通り過ぎてカラーページに戻る。

 書かれていたのは、“学校の七不思議”についてだ。

 読者投票形式だったのか、「あなたの学校にあった七不思議は?」というような見出しが載っている。

 そこから七不思議の名前が挙げられて、横に得票数が書き加えられている。

 読めば読むほど低俗で、たとえ今の俺でも読み流すだけで終わり、結局は買わないに違いない。

 またしてもバラバラとページをめくり、やがて……咲耶が手を止めた。


「……トイレの、はなこさん」


 陳腐な怪談コンテスト、堂々一位を飾ったのはお決まりの“あいつ”だったようだ。

 そして、恐らく――――俺には因縁の。


「え、なに……? はなこ、さん?」

「……読めない。読んでよ」

「え、オレ……」

「読んでっていってるの」


 そのページを開いた本を渡され、おもむろに命令された。


「トイレのはなこさん。あか、いスカート……しろいふく。ばしょは……」


 途中で何度もつっかかりながら、読めない漢字を挟みながら、“俺”は読みあげる。

 名前、そのいわれ、どのような姿か、いつから語られている怪談か。

 そして……彼女の居場所と、呼び出す方法。

 咲耶はずっと聞き入っていた。

 その理由も今なら、分かる。


 この村では――――“トイレの花子さん”は、いない事にされていたからだ。

 初めて聞く話、だったからだ。


「――――やってみよ」

「え?」

「これさ、やってみようよ。それに、ボク……いいトコ見つけたんだ」



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