銭湯にて

*****


 その日は咲耶と会わないまま、授業が終わった。

 休む原因が何だとしても、見舞いに行ったりする事はあまりためにならない気がした。

 放課後、帰り際に柳は「明日にはたぶん来る」と言っていたので恐らく体調不良が原因のものではないと思ったから。

 見舞いに行かないもう一つの理由は……きっと、弱っている姿を見たくないと思ったからかもしれない。

 今日はまっすぐに家路を辿った。

 雨は上がってもあちこちに水たまりが出来ているし、いつになくジメジメしているから寄り路をする気にもなれない

 今日は銭湯に行こう。

 せめて風呂に入れば、もう少し気分が上向くかもしれない。


 昼休みのあの空気の変わり方は、今でも腑に落ちない。

 だが今思うと、不自然な点はいくつも浮かび上がる。

 先生……といっても数人しかいないが、誰一人、“夏休み”について触れない。

 職員室前の行事予定表を見れば、夏休みは確かにあった。

 三週間後に終業式、八月ほとんどまるごとだ。


「あるのに――――なんでける」


 歩きながら、思わず口に出してしまった。

 杞憂であればいいとも思う。

 ただ二人とも家の手伝い、村の雑事に忙殺されるから話題にしたくなかった、というだけかもしれない。

 自分で言うのも何だが、俺はずいぶんと気楽な身の上だ。

 手伝わねばいけない何かの義務もなく、せいぜい隣の婆ちゃん他に野良仕事の手伝いをせがまれるぐらいだ。


 一人っきりの家路で、答えの出ない問いを何度も繰り返し、堂々巡りのまま盛り上がりもなく、家には着いた。


 今となってはもう、慣れ親しんだ自分の家に感じた。

 一応裏の勝手口に鍵はついているのに、家を出るとき、俺はいつも鍵をかけない。

 最初こそ不安に感じていたが、盗みに入るような輩はこの村にはいない。

 しかし勝手に上がり込んで茶を飲んだり、誰かが冷蔵庫に勝手に野菜を入れておいてくれたり、玄関先に精米もまだしていない米が二十キロ置いてあったり、そういう面での干渉はあるのは……正直 心臓に悪いからやめてほしいとは思う。

 でもそれはモノを貰っている都合上ちょっと言えないし、言ってもどうせ聞かないのも分かっている。

 あと一つあるメリットは、単純だ。

 “家の鍵”を持ち歩く必要が、ない。

 ただでさえ出入りが多くて、いざ例の符丁放送がかかって何かを狩り出しに行く時に家の鍵など持っていたら、さあ大変。

 村中走り、畦道を駆け抜け、畑を走り抜け、いざ事態が解決しました、そこで気付く。

 ――――あれ? 鍵落とした?

 そんなの、想像するだに顔面蒼白だ。


「ただいまー……」


 別に誰かいる訳でもないのに、言ってしまうのは――――爺ちゃんのしつけがまだ生きているからだろうな。

 「行ってきます」「ただいま」を言え、「いただきます」を言え、口の中にまだ物が入っているのに「ごちそうさま」を言うな。

 反発なんかできるはずもない。

 すっかり乾いた傘を脇の傘立てに突っ込み、さっさと靴を脱ぐ。

 ひとまず、今日は早めに夕飯を摂って……日が沈み切る前に、フロへ行こう。



*****


 最近になって知ったことだが、この村には風呂のついていない家が意外とある。

 だいたい二十件のうち二、三件は風呂がない。

 浴槽に浸かっていると当然他の客と世間話をすることが多く、その中で知った事実だ。

 幸いなことにこの銭湯は年中無休だからいつでも通えるし、料金も二百円、子供は百円と安い。

 風呂上がりのリラックススペースは広くて、横になれる畳張りの座敷も奥にあるから、ここも村民の憩いの場のひとつだ。

 もしかすると……風呂が無いからここに来るんじゃなく、ここがあるから風呂がいらないのかもしれない。

 俺も今になって考えてみると、風呂場の掃除だなんだの手間をかけなくて済むから、実際助かるのだ。


「それじゃ……すみません、これ」

「はいよ、預かっておくわ」


 シャンプーも石鹸も、俺はここに全て預けてある。

 家に風呂がないから、持って帰って家に置いておく意味がない。

 持ってくるのはタオルと着替えだけで済むのが何とも楽でいい。

 いつものように入浴を終えて適当に掴んできたTシャツ姿で男湯の暖簾を出て、いつものように番台のおばさんに石鹸類を預かってもらう。

 奥の小上がりでビールを嗜む大人たちを横目に、全面ガラスの冷蔵庫の前に立つ。

 中には白、茶色、そして薄い黄色の飲み物が詰まったガラス瓶。

 瓶入りのコーラやラムネまであり、横にはアイスの冷凍庫まである。


 今日は、何にしようかと考えていると、膝の裏に軽い衝撃が走り、崩れはしないまでも重心が落とされた。

 思わず振り向けば――――


「よそ者の兄ちゃんじゃん。もう入ってきたのかよ」

「お前な……後ろから蹴るなよ」

「足で押しただけじゃん。ヤワだぞ」


 いつかの“悪童”が、父親に連れられてやってきたところだった。

 このヤンチャ小僧の親とは思えないほど温厚そうな、しかし恰幅の良い、よく日焼けしたフチなし眼鏡の親父さんだ。


「どうも、杏矢くん。……こら、人を蹴るんじゃない」

「あれぐらい蹴るって言わないっての。蹴るってのは、こう――――」


 親父さんに諫められてもまるで反省せず追撃のように脚を振りあげたが、とりあえず下がって逃げる事にする。

 その瞬間、“悪童”は脚を下げて面白くなさそうな顔をした。

 ――――親父さんがいなきゃ、ひっぱたいてやるところだぞ。


「それにしても……おたくは家に風呂あったんじゃないですか?」

「いや、たまにはでかい湯船に浸かりたくて。うちのカミさんは家風呂だけで十分ってんだけどね。なぁ?」

「だってうちの風呂小せーんだもん。泳げねーし」

「風呂は泳ぐ場所じゃねーだろ」

「いや、まあ……中ではちゃんと目を光らせておくからね、うん」


 どうもこの人……子供と一緒になってはしゃぐようなタイプの気がするな。

 いつか聞いた教育に悪そうな様子まではまだ信じ難いけれど。

 それは置いといて、この“悪童”と会った今、どうしても訊きたい事がある。

 この前言いかけてやめた、告白話とやらだ。

 話を振りたいのはヤマヤマなのに、親父さんのいる手前、さすがにできない。

 もしかするとこの少年もすっかり忘れているかもしれないから、タイミングがない。


「なあ父さん。先に風呂入っててくれよ」

「え……どうしたんだ」

「この兄ちゃんとちょっとハナシがあんだよ」

「何だ、父さんはのけ者かー?」

「オトコどーしのハナシなんだって。終わったらすぐ行くからさ。いーだろ?」


 お前の父ちゃんだって“オトコ”なんだぞ……とは、さすがに言わなかった。

 どうやら、話が少し込み入りそうだ。

 この子が、あれから何日も経ったのにまだ打ち明けたがっている。

 しかもあくまで誰にも聞かれまいと……何事かを。


「……そういう事らしいので、ちょっとお預かりしていいですか?」

「ああ……、杏矢くんがそう言うなら」

「何か悪事じゃないんだな? 本当に。もしそうなら俺はお父さんに言うぞ」

「だ、か、ら、悪い事じゃねーってば!!」


 苦笑いしながらも、親父さんは軽く会釈して暖簾をくぐって行った。

 ようやくこの“悪童”と二人になれた。


「それじゃ、向こうで話すか。その前に……」


 冷蔵庫の中から、白い牛乳とコーヒー牛乳をそれぞれ取り出し、番台のおばさんに金を払った。

 何はともあれ、こいつはともかく俺は風呂上がりだから何か飲みたい。


「お前、どっちにする――――」


 と、訊く前に……コーヒー牛乳の方をさっさと奪われてしまった。


「遠慮のねー奴だな……」

「じゃー訊くなよな。ごちそーさん」

「……ったく」


 休憩スペースの端にあるベンチに、ほぼ密着して並んで座る。

 距離が妙に近いのは、可能な限り声を落として話したいからか?

 何だかこの子の、小さな決意と大きな緊張感が伝わってきて、喉が張り付く。

 俺が牛乳を一口飲んでから間もなく、“悪童”は保留していた告白を始めた。


「兄ちゃん。オレさ……見たんだ。この前、怜姉ちゃん……泣いてたんだ」

「え」


 田んぼに落ちた“眼鏡”じゃなく……“咲耶”に関わる話だった。


「――――見間違えとかじゃないのか」

「間違えるかよ。オレは確かに見たんだからな」

「どんな様子だったか覚えてるか」

「……なんか……話しかけれなかった。大声出してたら聞けたんだけどさ」

「表情が変わらない感じで、か?」

「そー、そういう感じな。……変だった。すごく。オレのとこの女子みたいな感じじゃなくってさ。なんっつーのかな……“オトナの泣き方”だった」

「……いや、まぁ分かるよ」


 言わんとするところは分かる。

 わんわんと大声を上げて泣き喚くのではなく、ただ静かに涙を落とす泣き方の事を言いたいんだと思う。

 だが……どうして、咲耶が?


「それ、いつの事だか思い出せるか?」

「ん? んーっと……あ、イシカワさんとこで会っただろ、こないだ」

「ああ」

「その日のオトツイぐらいかな。時間は覚えてないけど、夕方。五時のチャイムは鳴ってからだった」


 子供の時間表現は、分かりづらいが、分かりやすい。

 あの日の二日前なら、確か何も起こらなかったのを憶(おぼ)えている。

 俺は確かまっすぐに帰り、溜まっていた洗濯物を片付けるのに追われた。

 学校が終わってから咲耶に会わなかった日だ。


「……話って、これか?」

「ん。……オレさ、誰かに言いたかったんだよ。でもうちの学校さ、みんなガキだから誰にも言えねーの。言いふらかされそうでさ。父さんにも母ちゃんにも言えねーし」


 ――――お前もガキだろう、という言葉は飲み込み、そして少しだけ恥じた。

 充分にこの“悪童”の判断は、大人のそれだった。

 「優しいお姉ちゃんが泣いてた」という事を誰にも言えなくて、でも一人では抱えられなくて。

 今、こいつは“大人”として振る舞った。

 だから、“大人”として扱わなきゃならないんだ。


「……話してくれて、ありがとな。ツラかったろ、秘密ってさ」

「ん……」


 俯いて口を尖らせ、照れ臭そうに、声をくぐもらせるように返す。


「でも……何で俺に話すんだ? 柳や八塩さんじゃなくて、か?」

「だってイチバン怜姉ちゃんと仲良いの、よそ者の兄ちゃんじゃん」

「俺? 八塩さんだって……」


 八塩さんとだって、仲は良いのに。

 柳だって義理堅いから、決して他言はしない。

 なのにそれでも俺を告白相手に選んだ、その理由は何だ。


「だって……いつも一緒にいるじゃん。いっつも」

「……まぁ、そうか。そうだな、確かにな」


 柳は、“放送”が流れてからはいつも一人でうろつき回るし、そうでない時は家業の手伝いで駆けまわっている。

 八塩さんは“放送”中は村の中心地で他の大人たちと一緒に行動している事が多いし、柳と同様、放課後は忙しい。

 そうなると――――現状、一緒に行動する時間が長いのは必然的に俺になった。


 村の地理に疎くて、そもそもまだ俺はあの怪物たちと事を構えるのに慣れきっているとは言えな い。

 何度かニアミスはあったのに、俺はまだ“ひきこさん”を見た事がない。

 咲耶も咲耶で、そいつらの動きを止める事はできても倒す事はできない。

 だから、結果……いつも一緒に行動する事になる。


「……よし、分かった。話してくれてありがとな。そろそろフロ入ってこいよ、父ちゃん心配するぞ」

「あ、そーだった。そんじゃな、兄ちゃん。コーヒー牛乳どーも、ゴチ」


 それまでの沈痛さは、もう消えた。

 “悪童”そのものに戻って、はじかれたように立ち上がって暖簾まで走り抜けていった。

 ――――あの野郎、せめてビンぐらい戻していけよ。


 少しぬるくなった牛乳を啜って、しばし考え込む。

 これは――――偶然か?


 柳の言っていた、「この時期は咲耶は落ちる」という言葉。

 “悪童”の見た、ひとり泣く咲耶。

 そして、咲耶は今日学校を休んだ。


 ――――夏休みをまるで無いかのように振る舞う、あの態度、凍る空気。


 何にせよ、もう日は沈んでしまって、取れる行動などない。

 できるのは考える事だけだし、その材料にも結び付けられる線が見当たらない。

 小上がりの座敷席から聴こえる談笑を背に、俺も……二人分の牛乳瓶を冷蔵庫脇のケースに入れて、銭湯を出た。





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