氷旗の純喫茶


*****


 クッキリとした雲の出ない日々が続く、ある登校日の朝、前を歩いて行く咲耶に追いつき声をかける。


「……あ、杏矢くん。おはよう。今日もいい朝だね」


 振り向いた咲耶の顔は、いつもと同じ。

 どこか深くに向けているような微笑みは、どこまでも薄く伸びる雲のように透き通っていた。

 相変わらず下着が透けて見えるのも気にしていないような、サマーセーターすら着ないよく皺の伸ばされたブラウス姿。

 大量の御守りをぶら下げた肩掛けのスクールバッグを後ろ手に組んだ手に提げ、朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、背筋を伸ばして凛然(りんぜん)と歩く。

 いつもと同じだ。

 いつもと同じだから――――変なのだ。


 あの雨の日の翌日、咲耶はあっさりと学校へ来た。

 理由はとうとう訊かず仕舞いだ。

 柳も八塩さんも訊かなかったから、俺も訊かない、訊けなかった。


 あの“悪童”の言った事は、本当だ。

 子供が見てしまって、大人の苦悩を経てそれでもなお俺に打ち明けてくれた事を、疑うことなどするものか。

 だが、どうしても、どうしても……咲耶が涙を流す姿も、理由も想像できない。

 人間なのだから喜怒哀楽きどあいらく誰だってある、それは当たり前だ。

 だが“悪童”が見たという日の前日、二日前まで思い出しても、全然思い当たらない。

 強いて言えば前日に“走る二宮金次郎像”が現れて、それを西地区の自称“神居村のN”ことマサトシおじさんが金属バットで思いっきり打ち抜いて退治したが……まぁ、関係ない。


「杏矢くん、どうしたの? 何かニヤついてるけど」

「え? あ、ああ……いや、何でも」

「ふーん……?」


 顔を下から覗き込まれて、思わず声がうわずった。

 偶然場面に出くわした、あのおじさんのスイングのキレっぷりと絵面のシュールさをつい思い出して……顔がほころんでしまっていたようだ。


「咲耶。今日の放課後空いてるか」

「え? ……うん、大丈夫だけどどうしたの?」

「役場から少し行った所にさ、なんか気になるトコあるんだよ。昔ながらの……喫茶店、って感じのさ」

「あ、ユキさんの店だね。いいお店だよ。そういえば入った事なかったよね」

「ああ。氷旗が出てんの見かけたんだ。もしよかったら……だけどさ、行かないか」

「うん、いいね。それじゃ、放課後まっすぐ行こう」


 分からない事があるんなら、本人と話せばいい。

 柳に訊いたり、八塩さんにカマをかけたり、そんな外堀を埋めて外道から攻める前に普通にあたってみる。

 そもそも、夏休みの話題に触れない空気がある、というのも俺の思い違いかもしれない。

 咲耶だってあの時、目にゴミが入っただけかもしれない。


 ともかく……話す。

 話してみなければ、何も始まりはしないのだ。



*****


 五時限目を終えると、教室の掃除もそこそこにくだんの店へ直行した。


 役場近くにあるこの店は“カフェ”ではなく、“喫茶店”と言った方がいいような造りで、十数枚の擦りガラスを埋め込んだ重たそうなドアが目印の、こぢんまりとした店だ。

 看板には妖精さんの木靴のようなフォントで“珈琲コーヒー”と書かれているところが何とも味わい深い……んだと、思う。

 今は軒先に荒波の上に赤く染め抜かれた氷旗を下げていて、それにつられて村の人たちがいつも何人かは常駐しているのを見かける。

 そんな神居村の名店……らしい、「純喫茶じゅんきっさ マヨヒ」に入ると――――冷房の程よい涼しさが、すぐに体を包んでくれる。

 ドアに据え付けてある鈴の音で、すぐに店員が声をかけてきてくれた。


「いらっしゃい、怜ちゃん。それから七支くんも来てくれたの。お好きな席にかけてね」

「ありがとう。それじゃ……あの窓際の席がいいかな?」

「俺はどこでもいい」


 店内には四人掛けのテーブル席が二つと、奥にはソファ席が三つ。

 客は、誰もいない。


「咲耶は?」

「抹茶金時。朝からずっと決めてたんだ」


 話しながら席に着くと、出迎えてくれた女性がすぐにおしぼりと水を持ってきてくれた。

 姿は一言で言えば、“女給さん”としか言い表せない。

 紺色の和装に白足袋、雪駄、その上から真っ白い雲のようなエプロンの女給じょきゅう姿。

 ゆるく巻いた明るい色の髪が特徴的な、微笑みをたたえた美人だ。

 道すがらに咲耶と話したが、村人はみんな、彼女を「ユキ」だとか、「ユキノ」と呼ぶが、本名なのかどうかも分からないらしい。

 それ以外はまるで知れない、“謎の女給さん”だ。

 特に夏は外を出歩く事がなく、この店以外で出くわす事は一度もないとか。


「ご注文はお決まり?」

「あ、えーと……抹茶金時一つ。と、俺は……レモンで」

「あら、お一つずつで良いのかしら?」

「は? どういう事で……」

「一つだけで食べさせ合いっこ、とかしないのかしら? ふふっ」

「っ!? ちょっと、ユキさん? 何言ってるの?」


 俺より一瞬早く咲耶がツッコミを入れ、タイミングを逃した俺はとりあえず聞こえなかったフリをしておしぼりで手を拭った。

 だが、確実に顔は赤くなって――――“ユキ”さんの視線を感じて、非常にバツが悪い。

 『赤くなっちゃって』という無言の視線とからかいが俺と咲耶へ向けられ、ユキさんの一人勝ちの場だ。

 さっさと行ってくれ――という願いが通じたのか、数秒してからようやく去ってくれた。

 ただし、くすくすと笑い、肩を揺らしながらのそれは、まだ何かやらかしてくれそうな気配がして堪らない。

 幸いなことに、引っ込んでいってからは何も起こらず、有線から流れるアコースティックギターのBGMに耳を傾け、ひとまず汗を引かせようと試みる。


「なんか……いい店だな」


 落ち着いた濃い茶色の光沢を放つテーブル。

 椅子のひとつひとつに結んである、一枚一枚が違う柄のクッション。

 天井から下がっているのは、まるで大正時代の洋館から取ってきたような優しい色の光を放つシャンデリア。

 カウンターの中には手回しのミルやコーヒー豆を収めた瓶が棚に収まり、今か今か、と挽かれる時を待っているようだった。

 さすがに今日は暑くて飲めないが……涼しくなってから、君たちに挨拶しようと思う。


「でしょ? ここね、何頼んでもおいしいよ。何だっけ、ほらあれ……コーヒーに絵を描くの」

「ラテアート? そんなのあるのか」

「うん、それだ。前はあれ描いてもらったんだ。富嶽三十六景ふがくさんじゅうろっけい

「なんでそんなの頼むんだ」

「……ボクも冗談のつもりだったんだよ。でもまさか、本当にできるなんてさ」

「私もビックリしたわよ。自分でも出来ると思わなくてね」


 乱入された言葉に捻った体を戻せば、テーブルにかき氷が二つ置かれていた。

 咲耶のほうには、濃い緑色に染まって小豆をふもとに添えたかき氷。

 俺の前には、パッと見無色で、凍らせた薄切りのレモンが添えられたもの。

 それが涼しげな切子硝子きりこがらすの器にたっぷりと盛られて、窓から差し込む光を受けてキラキラと光っていた。


 スプーンを雪山の斜面へ刺すと、細かな氷の粒をかき分ける手応えが小気味良い。

 思えば、そうだな……かき氷を食べるのも、久々だ。

 ひと匙、まずは掬い取って口へと運ぶ――――と、覚悟していたような例の“キーン”はない。

 代わりに口へ運ばれた氷は、強めの酸味と確かな甘さを持って、真夏の道を引き返した体に沁みた。

 何もかかっていないように見える、のに……間違いなく、レモンの味がした。


「果汁と砂糖を合わせてあるのよ、それ。自作のレモンシロップなの」



*****


 かき氷をすっかり平らげ、色々な話をした。

 核心に触れるような話題は、まだ何も触れていない。

 器に残ったレモンスライスを口に頬張り、噛み締める。

 溶けた氷水に浸ったそれはほどよく酸味が薄まって、喉を潤してくれた。


 何気なく、窓の外へ目を移すと――――少しずつ日が傾いて行っているのが分かる。

 畑の脇の悪路から舗装道へ乗りあげて行きかう軽トラと原付、そしてたまにオート三輪を何となく見つめる。

 いつかの国民的アニメ映画でしかお目にかかれないようなものが、この村ではまだ現役だ。

 実際こいつはやなぎの工務店にもまだ現役で残っているし、載せてもらった事もある――――もちろん、荷台に。

 ひとが聞いたら羨しがりそうだが……あいにく、その時は楽しむ余裕もかった。

 吐き気とともに思い知ったのは、あの牧歌的な冒頭シーンは半分ウソだという事。

  ガタガタの悪路を荷台で飛ばして、平気でいられる訳ない。

 尻の痛みと放り出される恐怖、振動で容赦なく上下左右に振られる三半規管。

 あれは悪夢だ。


「……あの、ユキさん。村会のチャンネルでは何も出てないですか?」

「んー? 何も発令されてないわよ、杏矢くん。もう今日は出ないんじゃないかしらね」


 カウンターでグラスを磨いていたユキさんは、視線も返さずに手元の小型ラジオをいじる。

 村のあちこちについた放送用のスピーカーと同じく、この村でだけ拾える村会所有の周波数でのラジオ番組がある。

 そいつで発令中の怪異警報の聞き逃しもチェックできるし、“解除”も同じく。

 何もない日はムード歌謡が流れるだけで、すぐに変えたくなる。


「それにしても、暇ー。お年寄り数人と高校生二人だけなんて閑古鳥よ。折角だしおかわりしていく? サービスしないけど」

「……一杯でいいですよ」

「うん、ボクも……いいや。お腹壊しちゃうよね」


『――――さて次の曲は村会役員のある方よりのリクエスト。歌手は美空ひばり、“リンゴ追分”をお送りいたします』


――――――帰るか。



*****


 すっかり夕焼けに染まった村を、咲耶と一緒に家路を辿る。

 あの祭りの日もそうだったが、こういう時間は、危ない。

 古い呼び方“黄昏時”たそがれどきとは、つまり“誰そ彼時”。

 昼と夜との間にある魔の時間、道の向こうから来る何者かに注意を払わねばならない時間。

 沈む日を背負いこちらを見る者があらば、注意しつつも誰何すいかしなければならない時間。

 いつか見た交通安全キャンペーンの映像でも、この時間帯は人間の知覚が低下し、事故がもっとも起きやすいと言っていた。

 だから、今日は……差し掛かった俺の家を通り過ぎ、咲耶を家まで送ってからまた引き返す事にした。


「んー……美味しかったね、杏矢くん。やっぱり夏は氷だよね、うん」

「ああ、久しぶりに食べたけど……すごいな、あの店。この村にあんな所があるなんてさ」


 思いっきり伸びをしながら言う咲耶に、ちらちらと出来るだけ周りを意識しながら同意する。

 今のところ、何もなし。


「でさ、杏矢くん……今日はどうして誘ってくれたの?」

「特に理由なんかいらないだろ。これぐらい。強いて言えば暑かったからだ」

「ははっ……。でも、嬉しいよ。だって……杏矢くんがボクを誘ってくれたのは初めてじゃないか」

「……そうだったか?」


 確かに、思えば俺から何かに誘った事はなかった……気がする。

 祭りでは二人で歩こうと提案したが、祭り自体は咲耶に誘われたものだ。

 どこへ行くにも、基本的には咲耶の方から誘ってくれている。

 別に、受け身なつもりはないのに……何故か、咲耶の方が常に早いのだ。


「……もしかしてさ、ボクがしつこいだけで……嫌われてたりとかしてないかな、って」

「いや、そんな訳ないって!」


 さくっと否定するつもりだったのに、自分でも驚くほど声が張った。

 咲耶は驚いたのかびくっと身を震わせて、目を丸くして……やがて、また緩む。


「あはは……。よかった。……それと、送ってくれてありがとね」


 気付けばもう咲耶の家のある、神居神宮かむおりじんぐうの敷地だった。

 石段を少し上がった所、参道の脇に咲耶の家はある。

 鳥居の中なら、もう何も怪異は出現しない。

 第一鳥居をくぐってから、咲耶は振り返り、立ち止まった。。


「ここまででいいよ、ありがとう。……それと、訊いてもいいかな?」

「ん……何」

「杏矢くんは、さ――――」


 その質問は、予想を覆してしまった。


「夏休みはどうするの?」


 それは。

 俺が――――訊きたくて、タブー視して、今日はとうとう訊けずに終わりかけた質問だった。


「え、何だ急に……。まぁ……ちょっと実家に帰ろうかなと思う。あの女に色々白状させたい事とか……」


 おぼろげに立てていた予定を話す。

 あの家は俺の爺ちゃんの家だったんだから、あのハイカラ女の許可なんかいらないはずだ。

 そんな恨み言まで続けようかと思って、気付く。

 咲耶の顔から、笑いが、消えた。

 眉は下がり、視線は下方を行ったり来たりして震え、わずかに開き波打つ唇からは白い前歯が覗いた。

 左手は……スカートの後ろに隠された。


「……咲耶? どうした……」

「――――会えるよね?」

「え……?」

「また、会える? もう……どこにも……」

「そりゃ……二学期前には戻ってくるけど」


 様子がおかしい。

 まるで、今捨てられる猫がこちらを見るともなく見てか細く鳴くみたいだ。

 そわそわとした脚も、まるで行き場所をなくしたみたいに。

 妙な緊張が俺にも伝わり、ぎゅっとズボンを握り締めた。


「約束するよ、この村には戻ってくる」

「……あ、ご、ゴメンね。ボク……なんでもないから。うん。なんでもない、からさ」

「本当に大丈夫か?」

「うん。……それじゃ、もう暗くなっちゃうから。それ、じゃ……ね」

「ああ。それじゃ」


 念のため、咲耶が振り返って家まで歩いて行くのを見届けてから、俺も踵を返し、帰った。


 あれは、どういう意味だ。

 「また会えるか」という質問じゃない。

 問題はそのあとに続いた一語だ。


 「もう、どこにも……」何だ。


 まるで俺が咲耶を置いて去った事が、ある、みたいな。

 そんな事……ただの一度も無かったじゃないか。

 なのに、咲耶のあの動揺はいったい何だったんだ。


 ひとつだけ、仮説が浮かんだ。


 もしや……この村にきたあの日の、出会いは。


 “再会”だったのか?





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