違和感の昼餉

*****


 祭りの翌日は、小雨の降る憂鬱な月曜日だった。

 目覚ましの音色は雨音で、夏とは思えないほど冷えた空気にタオルケットで全身をくるみながら時計を見た。


 ――――時刻、午前六時四十分。


 なんとも名残惜しく、起きるにはあまりにいい時間だ。

 だが起きたくない心地よさと高揚感が未だ残る。

 昨日は隣家の婆ちゃんにしごかれ、いつものように村の“お務め”を果たして、祭りを見て回って帰ってきたのは結局夜九時だ。

 結局柳と八塩さんとは合流できず仕舞いで、最後まで……咲耶と二人っきりでいた。

 あの一瞬の風景、空気までも、今ですら思い出せる。


 だけども、胸の中に抱けたのは、そういう感情ばかりでもない。

 “引っかかり”もいくつか、まるで流れ矢のように刺さったままでもある。


 祭囃子を初めて聞いた気がしなかった。

 昨日は……強烈なノスタルジーが何かと刺激された一日だったから、そのせいなのかもしれない。

 日本人が昨日のような日を過ごせば誰しもこうなる、単なる郷愁かもしれない。

 だが……そればかりではないのも確かだ。

 妙に――――ストンと落ちすぎた。


 楼門前の石段で話した咲耶の、あの反応も今思うと少し様子が変だ。


 他にもいくつかはあるが、とりあえず今は起きなきゃならない。

 ただでさえ辛い月曜日の朝、しかもまるで夢から醒ますような窓を叩く雨音。

 寒々しい空気と、今から昼食を支度して髪を洗うだけでもして――――そして雨の中を歩いて、くどいようだが“月曜日の朝に”学校へ行く。


 この面倒くささが分からない人間なんて、いるものか。



*****


 特に何事も無いままに古めかしき校舎へ到着する。

 傘は必要だったが、幸いなことに雨脚はそう強くもなかった。

 雨を考慮して少し早めに出たから、ビニール傘越しに玄関の時計を見ると、まだ八時十分ほどだ。


 傘の水分を払って傘立てに突っ込み、上履きに履き替えようとすると……意外なものが見えた。

 まだ八塩さんの靴も、咲耶の靴もない。

 代わりに――――柳のらしいゴツゴツの安全靴が、無造作に靴箱の最下段、やや感覚が広く取られた部分へ突っ込まれていた。

 あのギリギリに来る男がこの時間にいて、女子二人がまだ来ていないというのは新しかった。

 しかも靴の水滴の流れ具合を見るに、ついさっき到着したという様子でもなかった。

 恐らく八時前にはもう着いている。


 変わった事もあるものだ、と思いながら、階段を上がり、いつものように教室へ向かい、扉を開ける。

 すると――――やはり、来ていた。


「おう、ナナ。早ぇーなお前、相変わらず」


 相変わらずの嫌みがするほど端正で、表情の乏しい顔が出迎える。

 見ると教室後ろの外套掛けにはオリーブ色のレインコートが掛けられていた。

 こいつは、傘を使わない。

 小雨ぐらいなら何も使わずに歩くし、強くなるならレインコート。

 いつも持ち歩くものがものだから、手荷物を増やしたくないと言っていた。

 レインコートの傍らに、その“手荷物”――――柄がやけに長い、さじの部分が薄く長く尖り、側面には鋸刃まで備えたスコップがまるでホウキのように立てかけられていた。

 遠くから見ればほとんど槍にしか見えない物騒なシロモノで、実際こいつは槍のようにして振り回すのだ、これを。


「柳、お前こそ……なんでこんな時間にいるんだ」

「目が早く覚めちまった。仕方ねェからさっさと来る事にしただけだよ。流石に、サワぐらいはいるかと思ったんだけどな」

「そうだ。お前……昨日、どこで何してた?」

「あー……いや、俺も……祭りに合流するハズだったんだけどな。あの射的屋、どうだ。アコギだったろ」

「ああ、まぁ……あれ、明らかに重り入れてたな」

「いや、違ェーよ。画鋲だ、アレ。敷物の下から突っ込んでんだ」

「マジで……?」

「サワが入れば、杭打機方式で押し付けて撃ち落とせた。それからは接射禁止って張り紙がされたからもう無理だったな」


 どうも、話をはぐらかされた感はあるが……そこまで追うほどでもない。

 実際、二人が何故か来なかったから咲耶と二人で回れたのだから、理由までは掘り下げられない。

 正直なところ、感謝もあるといえばあるからだ。

 その後も話し込んで、気がつけばもう登校時刻ギリギリだった。


「――――なぁ、柳。遅くないか」

「あ? ……確かに遅ェな。道にでも迷ってんだろ」

「心配だな。この村でこれは良くないんじゃないか」

「お前が心配性だ。こんな朝っぱらから何か出るかよ」

「だけど……」


 八塩さんはまだしも、咲耶については妙な不安が募る。

 もしかして、俺は昨日……何か不用意な事を言ってしまってやしなかったか、と。

 思い返してもそれらしいものは無かったと思うが……なおも、と口を開いた俺に、柳はどこかうんざりしたように付け加えた。


「サワについて言えばだ。あいつをどうにかできるような奴がいるんなら、是非お目にかかりてェもんだ。リョウも似たようなもんだ。……あいつ、この時期は何かと落ちるからな」

「……え」


 チャイムと時を同じくして、ガラリ、と戸の開く音がする。

 はじかれたように顔を向け、柳はほとんど目だけを向けて確認する。

 いたのは――――“大きい方”ひとりだけ。


「はい遅刻、廊下に立ってろ、ずぶ濡れキリン」

「ひ、酷いですよ柳くん……!」


 たぶん、傘は差してきたはずだ。

 なのに八塩さんは酷く雨に濡れていて、長く伸ばした黒髪の下半分は湿って波打ち、ぽたぽたと木造の床に水滴を落としている。

 濡れたシャツの腹部と背が無防備に貼り付き、肌の色まで透けて見えた。

 目をゆっくり背けると同時に、柳はおもむろにカバンから手ぬぐいを取り出し八塩さんに投げ渡した。

 ほんの一瞬だったけれど、紺色で“神奈工務店かんなこうむてん”などと電話番号と所在地と一緒に染め抜かれた、こいつの服装と妙にマッチする定番の品だったのが見えた。


「拭いとけ。別に返さなくていい。オヤジが作りすぎちまって配るほどあるんだ」

「あ、ありがと……」


 何となく。

 コイツがからかい通しの八塩さんにそれでも嫌われていない理由が分かった気がした。

 八塩さんは小さな声で礼を言うと髪を拭き始める。


「来る時、電話があって。怜ちゃん、今日は休むって言ってました」

「え……風邪?」

「いえ、そういう訳でもないみたいですけど……何でしょう」


 咲耶が学校を休むなんて、初めてだ。

 いや、八塩さんも、柳も、俺も、少なくとも一学期では一度も休んでない。

 入学式から今までずっと、この教室には四人いた。


「……気になるんなら、放課後にでも行ってみたらどうだ。顔ぐらい見せにな」


 柳がそう、ぶっきらぼうに言い放った直後、教室の前扉が開いて――――先生が来た。



*****


 昼飯を食っている間も、なんだか一人いないだけで変な感じだった。

 こういう事はどこにでもある事だが……バランスを欠くと、変な気まずさがいつでも生まれる。

 口数の多い順に並べると、ぶっちぎりで咲耶がまず居て、俺と柳があまり変わらず、そして八塩さん。

 序列一位がいなくなると、それだけで会話が激減する……と思ったが、想定していたほどではなかった。


「ナナ、お前免許取る気はないのか」


 後ろに居た柳がそんな事を訊ねた。

 俺はとりあえず昼飯のおにぎり片手に半身を向け、呆れながらも返す。

 奴の机の上にはランチジャーから取り出した三つの容器があり、振り向いた時にはちょうど味噌汁に口をつけるところだった。


「……来た翌日に首なしライダーに殺されかけた人間によくも訊けるな、お前さ」

「今更トラウマでもねぇだろ。あんなもん」

「まぁ……そうだけど」

「それよりも、お前どうなんだ? この村、何か乗り物が無いと大変だぞ」

「分かってるよ、もううんざりするぐらいな」


 この村は、人口千人強とはいえ、広い。

 農地の面積がその大半だがそれを囲む道まで含めたら何かエンジン付きの乗り物が欲しくなるのは確かだ。

 自転車でも事足りなくもないが、やはり疲れる。


「ただ、乗るなら頑丈なヤツにしろ。カブなんかいいな」

「お前が乗ってるやつか? あれ何年物だ」

「オヤジが若いころ買ったヤツだから……かれこれ三十年かな。まだ二十年は使えんじゃねェか」

「はー……」


 次いで、ちらっと見た八塩さんの弁当箱は妙に小さい。

 ――――といっても、いわゆる“女子の弁当箱”でもなく標準サイズなのに、小さく見えてしまうだけだ。


「……八塩さんは何か乗らないの?」

「え……う、うん。私は……怖いからいいかな……」

「怖い?」

「はい。……自転車なら乗りますけど、車とかはちょっと……怖いです、運転するの」

「それも賢明だ。……ましてお前、小四まで自転車も乗れなかったもんな」

「うっ……! い、今はちゃんと乗れますから!」

「こいつ、当時も既にデカいからママチャリでサドル全上げしなきゃ乗れなくてな。当然補助輪なんかねェんだ。だからもう……ぶっつけ本番」

「……転びすぎてもう大変でした」


 昼になると、もう雨はすっかり弱まり、降っているのかいないのかすら定かじゃなくなった。

 おにぎりを一つ食べ終えて次のに手を伸ばす時、いやでも目に入るのは、机に収まったままの咲耶の席。


 何となく、毎日会うのが当たり前だと思っていた。

 そんな事などあるはずないのに、妙に落ち着かない、というか……抜け落ちたような感覚がある。

 まして昨日はあんなに話せた分、今日は話せないのが歯がゆい。

 除いた俺達三人で今普通に話がはずんでいるのも、それに拍車を掛けた。


「そういえばさ……もう少ししたら、夏休みだな」


――――俺は、この時の空気を一生忘れないだろう。


 ちょっとした雑談の中で発した、この時期の学生お決まりの話題だ。

 なのに――――空気が緊張した。

 昼飯を突っ込んでいた胃袋がきゅっと収縮し、開いていた食道までも搾られる、そんな張り詰めた感じだ。

 何もおかしい事など言っていないのに。

 三週間ほど後に迫ったモノについて触れた、それだけで口の中の米と鮭フレークが灰の味になった。

 “悪魔”が四人ほど通ったような沈黙を経て、ようやく口を開いたのは柳ではなく、八塩さんだった。


「私は……家の手伝いで終わっちゃうかなぁ。それと……色んなお家のお手伝い」

「……まぁ、俺も似たようなモンだ」


 いつにもなく、異様だった。

 口を開いて空気を変えたのが八塩さんで、後に続いて力無く肯定したのが、柳。


 何が起こったのか、分かるべくもない。

 今の話の何がタブーに触れた?

 ただ――――夏休みが近いな、と触れただけじゃないか。


 重圧を感じながらも、俺はもう……それ以上何も聞けなかった。



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