第二章 夏の日々
あの夏の日の駄菓子屋で
*****
そして俺は今日もまた――――七月初日の炎天下で、ターボババァを待ち伏せして倒す事になった。
それも学校帰り、その足で。
ぎりぎりと泣く蝉の声が、そこかしこから聴こえてくる。
耳がおかしくなったような、遠くに連れて行かれそうな感覚は……半分以上、暑さのせいかもしれない。
抜けるような青空、もくもくと立ち上がる入道雲、頬を撫でる風。
さっきまでは近くの田んぼに引かれた水路から、水が流れる音が聴こえていた。
息を吸い込めば緑の匂いが肺へ満ちて、からりと晴れた青空が口の中にも広がる錯覚のある、清々しい晴天。
村の外まで繋がる見通しの良い国道で、俺と咲耶は目を凝らして、走りくるババァを見つけるべく落ち着きなくきょろきょろとしていた。
「くっそ、暑いな……。あっちの木陰にいていいよ、咲耶」
「ありがとう。でも……もう遅いみたいだ。ほら」
指差した先に、豆粒のような大きさの影が見える。
車と言うには小さく、人と呼ぶにはあまりに、“速い”。
遠すぎるのと、すっかり青く茂った田んぼだけが広がるせいで距離感をうまく掴めない。
だが分かる。
あれは、人が走る速度ではない。
近づけば近づくほど、その姿の異様さはますますハッキリと分かる。
黄ばんでグチャグチャにはだけた病衣、血の気の無いガサガサの肌、鬼の形相、靴すら履かない裸足。
そんなのが時速百キロで向かってくるのだから、もはや異常なんて言葉だけじゃ足りない。
「杏矢くん、どうする? 動きを止めようか?」
「いや、大丈夫。もう目は慣れたから……なくてもいける」
「頼もしいよ。それじゃ……任せるね」
ポケットの中から、あの“柄”を取り出す。
手の内に握るとたちまちに重さが宿り、見えない刀身が地面へ届いたのが伝わる。
ターボババァは更に近づき、気がつけばもう十メートルほど前方。
「……
続きは心の中だけで短くつぶやき、横一閃。
ほとんど、ターボババァの軌道上に“置く”ように斬り込むだけだった。
走り抜けた妖婆が俺の背後でふたつの音を立てて、地面に崩れた……だろう。
振り向けばその身体が、青白い光を散らして虚空へ溶けていくのを見送る事ができた。
そして、消えていくそれからじっと目を逸らさない咲耶の姿も。
「……杏矢くん。せっかくだし……
「? まぁ、いいけど……どうした?」
「買い食いに理由なんてあるかい?」
そう聞かれれば、もう言い返せない。
実際、俺は今も腹は多少空いているし、汗も酷いし、喉も乾いているのだ。
「途中の乾物屋さんで電話を借りよう。村会に連絡しなきゃいけないからね」
*****
石川商店、というのはこの村に一軒ある駄菓子屋の名前だ。
店構えはひどく古びていて、木製の戸は黒ずみ、しかしガラスだけはそれでもきっちり磨かれていて……何だか安心できる風情の店だ。
ほとんど道楽でやっている、と店主のばあちゃんは口癖のように言っているが、それもまぁ、嘘ではないんだと思う。
それは――――店の内装や、戸の外を見ればすぐに分かる。
店の前には水色のベンチが置かれ、軒下にぶら下がった風鈴がささやかな風に揺れている。
店内にはヒモ付き飴、箱にぎっしり詰まったガム、ラムネ菓子、二十円~三十円のスナック菓子に粉末のジュースといった、いかにもなノスタルジーを醸し出す駄菓子が並んでいる。
ほかにも火薬キャップを詰めて遊ぶオモチャの拳銃、指先から煙を出せる“何か”が塗られた、おどろおどろしいお化けの印刷されたカード、……ピロピロ笛に、剣型の振り出しペーパーローリング、ゴムで飛ばすペーパークラフトの飛行機。
アイスの冷凍庫には定番のアイスキャンディやバラ売りのチューペットが詰め込まれているし、二つに分かれるソーダアイスに、メロンシャーベットという懐かしいものも抜かりない。
更に店内の奥を見れば、冷蔵庫の中にはラムネやコーラも冷やされている。
村ではほとんど唯一の――――未成年の、憩いの場だ。
そして店のばあちゃんは、「そんな場所だからこそ守っていきたい」といつも付け加える。
「お、よそ者の兄ちゃんだ!」
「ナナの兄ちゃん、あれ見せてください!」
店の前に
一人は短パンにランニングシャツ、ぼろぼろのスニーカー姿の、よく日焼けした、
もう一人も男の子で、いくぶん落ち着きのあるパーカー姿でメガネもかけていて秀才風にも見えるが……よく見れば、左脚の膝から下が泥にまみれていた。
まるで……ソースにつけた串カツのような状態で乾きかけている。
さすがにそのまま店に入らない分別は見た目通りだが、そうなってしまうようなヤンチャぶりはちゃんと持っているんだろう。
悪童のほうは行儀悪くアイスの棒をがしがしと噛みしだき、眼鏡のほうは、店の前のゴミ箱にさっさと捨てるところだった。
「見せないよ、危ない。……ってか、その脚なんだ?」
「コイツ、さっき田んぼにハマったんだよ」
「ああ、それで……。何で田んぼになんかハマるんだ。何やってたんだお前ら」
「えーと……オケラ探してたら……踏み外して」
「だからよそ見すんなっつったろ、バーカ!」
「お前だってこのあいだヒルにくっつかれて泣いただろ!」
「ほら、喧嘩しないの。お店の裏に蛇口あるから、洗いに行こうか。お婆ちゃんにも言ってあるからさ」
微笑ましい口ゲンカが始まろうとした時、ちょうど俺と二人の間に咲耶が割り込んできて、目線を合わせて小学生コンビを宥めた。
眼鏡の男の子は、それきり顔を伏せて、微かに照れながら手を引かれて店の裏へ回り、二人で消えた。
とりあえず残された俺は、店の中の冷蔵庫の中からラムネを取り出し、奥に持っていく。
「すみません、お婆ちゃん。ラムネ貰います。ふたつ」
店主の婆ちゃんがいたのは小上がりの番台ではなく、その奥……ここからも見える茶の間だった。
つながる戸を開け放してあるから、つけているテレビ番組から古びた箪笥、卓上のお茶まで覗けた。
「あい、二百四十円だよ。店の外で開けとくれな」
「それじゃ、お代入れときますね」
代金を、番台の上にある貯金箱に入れてから外へ戻る。
太陽はもう西の空にだいぶ傾いているが、それでも日差しはまだきつい。
否……これからも、きつくなるに違いない。
七月になったばかりでこれなんだから、まだまだ小手調べというところだろう。
すっかりと日焼けして白っぽくなった、薄雲の空に似た色のベンチへ腰かけた。
軒が続いているから日差しはしのげるが、それでも……暑いものは、暑い。
ラムネの瓶の上部、そこからキャップを外して、座って広げた脚の間に構え……押し込む。
ぶしゅうっ、という爽快な音に続いて、押し込む位置がずれたのか、泡が溢れてぼたぼたと地面に落ち、土の上に泡の海が踊る。
泡が落ち着いた頃、手を離してようやく口をつけた。
「あー……」
思わず、うめき声が漏れた。
「兄ちゃん、オッサンくせーぞ」
田んぼに落ちながらも見つけてきたのか、オケラを手の中に閉じ込めて遊びながら“悪童”が言った。
「うるさい。俺は今働いてきたところなんだ」
「ターボババァかよ。相変わらず好きなんだな、よそ者の兄ちゃん」
「好きでやってる訳ないだろ。出るから仕方ないだろ、俺だってイヤに決まってんだろが」
「……なぁ、そのラムネ貰っていい?」
「ダメ。だいたいさっきアイス食べたばっかりなんじゃないのか? 冷たいものばっか食べるな」
「母ちゃんかよっ!」
「年長者の教育だ。晩飯まで我慢しとけよ。ってかいい加減にその棒捨てろ、行儀悪いな」
すでにアイスの棒は散々に噛みほぐされ、原型をとどめてやしない。
ちなみに、この男児とは初対面じゃない。
この村で一月も過ごしてしまえば、だいたいの住民とは顔見知りになる。
まして小学生なんて全部で三十人程度しかいないんだから、必然だ。
喋った事はなくても、顔や風体は確実に全員見た事ある。
確かこいつは今、小四で……本当に見た目通りの屈託のないクソガキで――――どちらかといえば、俺は好きだ。
思った事はそのまま言って裏が無いし、よそ者呼ばわりも、こいつが言えばイヤミっぽさはない。
「なぁ、兄ちゃん。コイツ見た事あるか?」
「あ? ……って、うわっ!」
再びラムネを一口飲み、仰いだ視線を戻すと――――鼻先に、手の中から突破してきたばかりのオケラを突き付けられた。
見たのはこの村に来てから……この間、誰かに見せてもらったのが初めてで、今回は二度め。
コオロギとザリガニを合体させたようなフォルムは斬新すぎて、思わず魅入ったのを憶えている。
とはいえ、いきなり間近に見せられればギョッとするので……思わず、背を反らすようにして離れ、拍子に板壁に頭をぶつけてしまった。
「何だよ、そんなビックリするかよ兄ちゃん」
痛む頭を押さえ、驚いた拍子にこぼれたラムネでシャツの胸を濡らしながら、どうにか答えようと試みる。
「……いや、こっちに来てから初めて見たよ。少なくとも、俺のいたトコにはいなかった」
「ふーん。おもしれーのになぁ、コイツ。穴掘るし、泳ぐし、飛ぶし、ジャンプするし……」
「それどうするんだ。飼うのか?」
「いや、帰りに戻す。飼い方なんかわかんねーし、ウチ猫いるから」
「で……何で、あんな事訊いた?」
「何でって、ターボババァと同じじゃねーの、これ?」
「同じ?」
「この村しかいない。んで兄ちゃん見た事なかったんだろ。何か違うのか?」
こいつは、もしかすると弁護士が向いているかもしれない。
卑怯な理屈で昆虫と妖怪を一緒にまとめて、しかも……どこか否定しきれない部分もある。
「お前……口裂け女やターボババァとオケラが同じなのか?」
「だって父さんがそう言ってたもん。ビール飲んで爆笑しながら」
「教育に悪いオヤジだな!」
「でさ、兄ちゃん。
「悪くは見えないだろ?」
「質問したのオレだけど? そーいう返し方しちゃいけないんだぜ」
――――――口の減らないムカつくクソガキだ、本当に。
「で、どうなんだよ兄ちゃん」
「……良いよ。多分」
「たぶん、ってなんだよ。オトナのごまかしかよ。……よそ者の兄ちゃん、あのさ……」
「……?」
「あのさ、絶対ナイショにしてくれるよな? オレ言ったって事さ」
「学校のガラスでも割ったのか? それならナイショにできねーからな。一緒に謝りにいってやる。それとも好きな子の話か」
「してねーし! てかオレの事じゃねー!」
「わかったわかった。するよ。それで、何だ?」
さっきまでの悪い弁護士みたいなムカつくしたり顔は形を潜めた。
やがて、少年が決意したような顔で口を開こうとして――――その時。
「お待たせ。靴までは落としきれなかったけど……帰ったらすぐ洗った方がいいね。少し水が沁みるけど、大丈夫かな」
「あ、はい。……あの、ありがとうございました」
裏に行って靴と脚を洗っていた二人が戻ってきた。
その時、また黙り込み――――――
「おせーよバーカ。ボーっとしてるから田んぼに落ちんだからな。オラ、行くぞ」
そんな憎まれ口を叩く“悪童”に早変わりして、濡れた靴を引きずりながら歩く“眼鏡”といっしょに、さっさと行ってしまった。
「――――何なんだ、ありゃ」
「いったいどんな話をしてたの?」
「いや……雑談。ほら」
何か言おうとしていた、それは気になるが――――彼のために、伏せた。
代わりに買っておいたラムネを渡して、労う形で話題を変える。
「わ、ありがとう。でもズルいよ。先に開けちゃってさ」
「悪かった。俺の奢りにしておくから」
「……そこもズルいよ、キミは」
そう言って、咲耶は隣に腰を下ろした。
さっさと上部の被覆を外してキャップを取り、一滴もこぼさずに開けてしまった。
「杏矢くん」
「ん?」
顔を上げると、捧げ持つような形でラムネの瓶をこちらへ向けていた。
一緒に向けている顔は、洗っている時に水がはねたのか、光の粒が滴っていた。
少しだけ彼女の顔と、
掲げている瓶にぶつけるように、俺の持っている瓶を打ち当てる。
そしてようやく咲耶は口をつけ、一気に瓶の半分までを空けた。
滑らかな喉が幾度も波打つ様子を見ていて――――むしろ見ていてはいけない気分になり、目を逸らしてしまった。
「それで、咲耶。何で誘ったんだ?」
「え? いや……理由は無いよ。ただの寄り道さ。別に遠回りでもないじゃないか」
「……まぁ、そうか」
気になるのは、さっきの“悪童”の態度だ。
咲耶が戻ってくる直前まで、あいつは何かを言おうとしていた。
それも何か、何か――――決心の要る何か。
二人が戻ってきた時にいきなり態度を変えたって事は、“眼鏡”か“咲耶”に関係する何かには間違いない。
そして村に関わる何かでもなく――――恐らく、“言ってはまずい”か、“聞かれてはまずい”かのどちらか。
だけど、“悪童”があんな態度をとってさっさと消えてしまったから、今さらもう訊けない。
ここで咲耶に「さっきあいつが何か言おうとして止めた」なんて――――そんな聞き方はフェアじゃない。
俺は、話を結局聞けなかったとはいえ、ナイショにすると約束したからだ。
そのうち捕まえて、聞くしかない。
「そういえばさ、杏矢くん。次の日曜日、夏祭りあるんだけど……聞いてる?」
「あ、ああ……お前ん家だったっけ。商店会じゃないよな」
咲耶の家は、神社の敷地にある。
だが別に神主の娘という訳でもなく、そこで親父さんは社務を補佐しているとか。
そうなると当然咲耶も神社の何かしらを手伝う事になり、主に御守りを作ったり何だりとしているとか。
それもそのはず。
――――――彼女には、“願いを叶える力”がある。
それは、願いを何でも……というようなものじゃない。
祈りを込める、という言い方で合うのか……彼女が作った御守りは、願掛け通りの力を注ぎこまれる。
“交通安全”なら、車につるして運転すれば絶対に事故に遭わない。
“健康祈願”なら、向こう一年絶対に大病をしない。
“身代わり守り”なら、一度だけ、どんなケガや病気もそれに肩代わりしてもらえる。
“家内安全”なら、招かれざる者は絶対に家に入れない。
“学業成就”も、“安産祈願”も、絶対に叶うだろう。
信じ難いが、実際に何度も見た。
首なしライダーや片目の暴走車など、高速で動く怪物を、御守りを放るだけで停止させた。
御守りをひっかけた門の中には、口裂け女は入ってこられなかった。
身代わり守りも俺は一応持ち歩いているがさすがに怖くて、試した事は無い。
咲耶が祈りと願いを込めて作ったものには――――そんな力が、本当に宿ってしまうのだ。
「でさ、……聞いてる、杏矢くん?」
「あ、ああ。で?」
「どうやら、ボクは手伝わなくて済みそうなんだよ。だからみんなと一緒に回っていいってさ。来てくれるよね?」
「ああ、予定も無いしな。行くよ、もちろん」
「そっか。……絶対、だよ」
咲耶はそれだけ言うと、子供っぽくラムネの瓶を揺らした。
中に閉じ込められたビー玉がささやかな音を立て、往復する。
浮いて、沈んで、すっかり飲み干されてしまえば、もうビー玉は用を為さない。
ふたをするためだけに存在する。
なぜか――――瓶に閉じ込められたガラス玉を見る咲耶の顔が、目に焼き付く。
遠くを望むような、それでいて何かの憧憬を孕んだ眼差しが。
どこかのスピーカーから流れる、五時を告げる“遠き山に日は落ちて”の旋律が、咲耶の顔と一緒に耳へと残った。
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