神居村の洗礼は荒く


「これ、が……!?」

「……杏矢くん。もう……流石に信じるよね?」


 特攻服の下は、サラシ一枚。

 だからこそ、頭部が存在していないのが、嫌なほど確実に分かる。

 その断面からは血の一滴も滴ってはいない。

 注視すれば脊椎や気管食道の断面まで見えるかもしれないが――――そんなもの、見たくもない。

 円柱型のポストにぶつけた背中が、まだ痛む。

 とっさに咲耶を引き寄せられた事に、とりあえずホッとした。

 すぐ真横の路地から出てきたそいつは、確実に当てるつもりで出てきた。

 恐怖は不思議と感じない。

 なめた真似をしやがって――――と。



「あの、杏矢くん。とりあえず離してくれるかな……」

「あ、悪いっ……!」


 握り締めていた彼女のカーディガンの背中を離すと、慌てるように咲耶が前に距離を取った。

 暴走族ゾク姿の首なしライダーは、もし顔があればニヤニヤと粘りつくような笑みでも浮かべているだろうか。

 やかましい下品なマフラーからは何度もスロットルを吹かす音が聴こえる。


「で、この後……どうするんだよ」

「とりあえず、待ってても誰か応援に来ると思うけど……その前に襲ってくるだろうね。逃げるのもちょっと無理かな」

「……じゃあ」

「やるしかないね」


 その時、俺が何となくポケットに突っ込んだ手に、触れるものがある。

 それを、人差し指と中指でつまむようにして、ゆっくりと引きずりだした。

 出てきたのは、柄糸で覆われてもいない、むき出しの太刀のつか、それだけだ。

 柄頭つかがしらの装飾も抜け落ちてかざもなくつばすらもない、握った拳の倍程度の長さしかない、ただの金属の棒。

 これは、俺がこの村へ来ると決めた時にみどりと名乗る女から持たされた、彼女曰く護身具と言っていた。


 見た目こそ朽ち果てた柄なのに、ひとつ、不気味な特徴がある。

 それは――――“重い”のだ。


 ポケットにただ入れていたり、抓んだりして持つ分には変わらない。

 だが、剣をそうするようにこれを握ると、無いはずの刀身の重さを感じる。

 本身ほんみほどの重量はないにせよ、どう考えても刀身があるとしか思えない負担が手にかかった。

 こんなものを持たされた時にはあまりに気持ち悪くて突き返してやろうと思ったのに、固辞された。

 曰く、「それは爺殿の形見を私が預かっていて今返しただけだ」、と。

 そう言われると返せなくなり、ずっと持っていたが……こんなもの、何の役に立つんだ。


「咲耶、期待させて悪いけど……力になれない、こんなんじゃ」


 そう言いつつも、藁にもすがる思いで、とりあえず“柄”を握り締めてみた。

 だが、得体のしれない重みがあるだけで、刀身など相変わらず、ない。

 首なしライダーから目を切る事もできないから、目視で確認する事もできない。

 結局のところ今はまだ八方ふさがりだ。


 焦れたか……首なしライダーが急発進して、俺と咲耶めがけて突進してきた。

 断続的な破裂音が数十メートル先から近づいてきて、だんだんと大きくなる。

 咲耶はポストの陰に隠れてやり過ごし、俺は転がり込むようにして、道の反対側へ思い切って飛び込んだ。

 膨れ上がった悪趣味なカウルが、服をかすめたのが分かる。

 その瞬間、違和感は更に増した。

 ごく至近距離をバイクが走り抜けたというのに、エンジンの熱も、排気ガスの匂いもない。

 ただ爆音と走る質量だけが存在しているかのようだ。


 加えて、違和感はもう一つ。

 転がり込んだ時にも柄は握っていたのだが、刃先に、“手応え”が、あった。

 ないはずの刀身、その切っ先が、走り抜けたヤツのどこかを掻いた――――気がする。


「当たった? ……けど、何が!?」


 俺の思った事とほぼ同じ声を上げたのは咲耶だ。

 ほんの少しだけ首なしライダーは左右によろけながら、更に遠くまで走っていき――――転回、急停車したのが見えた。

 あいつ……どうあっても、俺か咲耶を轢くまで止める気はないらしい。

 だが、変だ。

 首なしライダーというのは……こういうものだったろうか?


「何が見えた?」

「分からない。でも……何かがあれに当たる音がした。キミの持つそれ……剣? の近くで」


 咲耶の視線が、俺が未練がましく握り締めている“柄”に注がれる。

 俺もつられて注視すると、そこには暗がりでようやく見える、ぼやけた何かがある。

 虚空に溶け出したタバコの青白い煙、色はそれが近い。

 長さはおよそ一メートルほどはあるのに、全貌は判然としない。

 もしも長さをそうと仮定しても、今掌中にある重さはそれには及ばないだろう。

 およそ四尺の幽霊刀ゆうれいがたな、そう評するのが精いっぱいだ。


「……杏矢くん。ボクが動きを止めるから、キミは、それでヤツを斬ってみてくれ」

「は?」

「止めるというのも厳密ではないかな。頼んだよ?」


 言って、咲耶がポケットから何かを取り出した。

 それは、昨日貰ったものと同じカタチの、“御守り”だ。

 一瞬ちらりと見えた文字は、“交通安全”。


「お前、そんなので何……御守りなんか持ってても意味ないだろ!? あいつ完全に轢く気なんだぞ!」


 つい叫んでしまったが、俺は間違ってないはずだ。

 こんな危ない轢殺魔れきさつまのような奴に出くわしてからじゃ遅いしそもそも祈願は叶ってない証拠じゃないか、この状況。

 「止める」という言葉の意味も不明だ。

 なのにこの咲耶の落ち着きは、いったいなんだ。


「大丈夫、ボクを信じて。ボクの願いは――――叶うんだ」


 言葉が終わるか終わらないかのうちに、再びそいつは突進してきた。

 咲耶は道の端で、御守りの緒を指にかけてくるくると回しながら、ぶつぶつと何かを唱えている。

 距離と、その声の小ささと早さのせいで、ろくに聞こえない。

 確実に言えることは、それはどこかで聞いたことのある呪文に似ていた。


「……やすくに――――さきわたまえと――――願い――」


 俺は、あえて道の真ん中に立ってヤツの目標になろうとした。

 実際それは成功して……見る限り、ヤツは俺を目指してフルスロットルだ。

 エンジン音が段々と近づき、少しずつ嫌な汗が滲み出てきた。

 ねられたら……まぁ、死ぬだろうな。

 無灯火運転の首なしライダーが俺の目の前に来た時、街灯に照らされた。

 酷くそいつの動きはのろまで――――これが、死の直前に世界が遅くなる、あの現象かと思った。

 エンジン音は間延びして、長く鳴り響く重低音の笛の音かとも間違う。

 そんな世界の中で。


「杏矢くん、早く!」


 咲耶の声はふつうに聴こえ、惚けたように固まっていた俺の身体は、普通の速度で動けている事に気付いた。

 目の前の首なしライダーは停止に近いほどに減速した状態で、俺が横に避けてからもそのままだ。

 何が起こっているのか理解はできない。

 でも……今は、するべき賭けがまだ手の内にある。


「っ!!」


 喉の奥で呻きながら、握りっぱなしの幽霊刀を薙ぎ払う。

 前が見えるかどうか怪しいほど改造したフロントカウル、首なしライダーの胴体、やたらと伸ばしたシートの背もたれまでを、一直線に。

 爺ちゃんに習った動作で……息を止め、腹を絞り、打ち抜くように。


 薙ぐ動きの中で、確かに――――手応えを感じた。

 刃筋はまっすぐに立っていないのに。

 確かに何かを斬り進んで、空に至った。


 不格好な動作で、前につんのめりながら身を躍らせて振り返る。

 そこにはスタンドでも立てたように静止したまま、車体と胴体の断面から蒼白の光を吐き出している、首なしライダーの姿があった。


 やがてそいつは虚空へ溶けるように消えていき……後には、何も残らなかった。

 完全に消えてから数秒。

 ようやく――――村の各所に散っていた人たちの怒号と、ざわめきが近づいてくるのが聴こえた。



*****


 これが、初めて首なしライダーを見た夜。

 俺が初めて、この村の本当の日常を体験した、数奇な夜のことだ。


 もう――――――二ヶ月以上も、前の事。




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