夏祭り、口裂け女を見送って
翌日の土曜日は、七月の第一週だから……“登校日”だった。
奇妙に聞こえるかもしれないが、本当だ。
何かの補習でも無ければ部活でもなく、予備登校日でもなく、普通に学校がある。
第一・第三・第五の土曜日は、昼前に三時限目で授業が終わる、“半ドン授業”の日だ。
かつての日本の名残りで、今となってはこの村でしか施されていないシステムだ。
とはいえ、嫌いでもない。
何故なのか、不思議と登校日の土曜の午後はよく晴れる。
事実今日もその通りで、朝からカラっと晴れて、歩きたくなるような夏の日だった。
五月から六月にかけては比較的雨も多かった分、それもひとしおだ。
いつものように朝食を腹に入れて、いつものように通学路を辿る。
朝の務めに出る農家のお爺ちゃん、家庭菜園をやっているお婆ちゃん、見回るようにのしのしと歩いているボス猫に挨拶をしながら、約三十分の道のりだ。
やがて、朝のまだ冷たい空気の中でも汗ばんで、シャツの袖を折り返した頃に……ようやく、学校へ到着した。
裏山を背負った、廃校かと間違うような二階建ての木造校舎だ。
最初の登校日には本当にここかと疑ったような古びた建物で、門柱にかけられていた“
入ると全校生徒数“四人”に見合わないほど広い校庭がある。
奥には広い石段があり、その上に校舎がある。
外壁の木目は黒く浮き上がり、窓の
玄関へと続く
真っ青に晴れた空を頂き、緑に染まった裏山を背負う校舎はまるで絵葉書だ。
この校舎は見ていても毎日通っても、違う表情を見せてくれるから飽きない。
雨に降られても、曇り空でも、真夏の日でも、恐らくは紅葉の秋も雪降る冬の日も。
雪解けを迎えて緑が芽吹き、裏山がまた緑に還るその日も、きっとだ。
石段を上がって玄関へ入ると、すぐ左手の壁面の靴箱を見た。
女物のローファー、靴箱一段では収まりきらないのか左右で二つ使っている。
……察するまでも無く、これは
彼女の名誉のために言えば、いくら長身でも女物の靴ぐらい普通は靴箱に収まる。
ただ、ここの靴箱が少し小さいだけで、俺の靴だってかかとが少しはみ出す。
そして咲耶がいつも履いている赤いキャンバス地のスニーカーがある。
上履きに履き替えて吹き抜けの階段を上がり、おそろしくギシギシと軋む床板に神経を巡らせながら、教室へ向かった。
建てつけの悪い横開きの扉を開けて入ると、二人がいるかと思ったが――――いたのは、八塩さんだけだ。
窓辺で外を見ていたのか、彼女はドアの開いた音に少し驚きながら振り返った。
「お、おはようございます……七支くん」
「おはよう。あれ、咲耶は」
「さっきまではいましたけど……。職員室?」
もう、俺は驚かなくなった。
教室に入ったら、二メートルの顔すら見えない長髪の女の子がいる、それでも。
八塩さんは同級生としてもう馴染んだ……少なくとも、俺は。
八塩さんの着こなしを見ると、涙ぐましさもある。
ブラウスの合わせ目を見ると男物の半袖シャツを着て、しかし腕も長いから袖も半袖どころか一分丈だ。
脚が長すぎて普通に穿いているプリーツスカートも膝小僧が出るぐらいで、ハイソックスの長さも中途半端になってしまって。
全体として――――とにかく、規格外を無理に制服の姿にまとめている、そんな様子だ。
四脚しかない机の、左側前列へカバンを置いて、座った。
開け放した窓からは、風はほとんど入ってこないが暑くはない。
「八塩さんは、明日の祭りは?」
「え、うん……行きますよ。その前にお酒の配達が今日あるんですけど……はぁ、イヤだなぁ……」
明日は、
納める神酒よりも――――出店に卸す酒類は、桁違いの量だろう。
ろくに行事も無い村だから、住民のほとんどが集まる。
しかもこの村の大人は呆れるほど酒に強いときている。
八塩さんの家業は、激務だ。
「しかも、去年は……酔ってすごい喧嘩が起きちゃって。大変だったんですよ」
垂れさがった前髪の
とにかく温厚で優しい八塩さんの性格上、そんな事があった場へ酒を配達するのは苦痛なのだろう。
憂いが満ちた空間にチャイムが鳴る。
それとほぼ同じくして、最後の男子が一人、ようやく登校してきた。
「うす。……何だお前ら、ずいぶん早ェな」
「おはよう、柳くん。でも……」
「お前がギリなんだ、柳。一般的にはほぼ遅刻だぞ」
「イイじゃねぇかよ、少しぐらい。また寄り合い所の窓がメチャメチャになってやがったんだ。交換してきたんだよ」
「ケンカかよ、また」
うんざりしながら訊くと八塩さんが小さく溜め息をついたのが、髪と肩の揺れで分かった。
「麻雀だよ。初手で役満直撃されたとかで、卓をひっくり返して窓枠ごと吹っ飛ばしたんだとよ。何でアイツら、揉めるって分かってて打つんだ。理解できねェ」
「まぁ……気持ちは分かるけどさ」
柳の家は、工務店だ。
造園、配管はもちろん、軽い電気工事や建物の修繕などを請け負い、柳もそれを手伝っている。
田舎でろくに人手もないから、何でもやらされて……時には車や原付、トラクターや何やらの整備まで行い、自転車修理もお手の物。
とにかくこいつは器用な男で、“できない”という言葉を聞いたことがない。
冗談のつもりで「鍵開けもできるのか」と訊いてみたら、「ここらの連中は家のカギを閉めないから必要ない」と、何となく怖い答えが返ってきたことがある。
ともかく、何でもこなせて「イヤだ」「面倒くさい」という言葉を言わない男だ。
「……で、座ったらどうだ、電柱」
「電柱じゃないですよ!」
いつものように柳は、二言目に八塩さんをからかった。
八塩さんは抗議しながらも、後列右側の席に腰を下ろした。
二人は、いつもこの調子だ。
最初はとっつき辛そうな仏頂面の男だと思ったが、柳は実際には罪の無い冗談を好む奴で、軽口が多い。
表情自体は乏しいものの、冷たくはない。
八塩さんは身長をネタにからかわれる事が多いが、それほど気にしているようにも見えない。
「一限目から数学か? つまんねぇな」
言って、柳は机に入れっぱなしの教科書類を取り出して、ツナギの胸ポケットに差していたシャープペン、ボールペンを置いた。
咲耶が教室に入ってきて着席したのはその直後、先生が入ってくる直前、そのわずかな間だった。
*****
三時限目が終わると、すぐに八塩さんと柳は家に帰った。
これから二人とも家で昼を食べたら、明日の準備にかかりっきりになる。
だが、俺には手伝う家業は無い。
帰っても特にする事もなくて、たまに隣の婆ちゃんに手伝わされて畑仕事をさせられるぐらいだ。
数学、英語、そして古典。
終わった時間は正午の少し前。
テスト期間でもないのにこんな時間に授業が終わって、昼からはぽっかり空く。
土曜の昼の空は雲すらなく晴れ渡っていて、日差しがきつかった。
玄関を出て、校舎を一回りして裏にあるささやかな花壇に着く。
そこには、“夏”が詰め込まれている。
レンガで縁取られた地植えの小さな花畑には、色鮮やかな花が咲いている。
実際、小さなといってもちょっとした広さがあり、一人で水をやり切るには少し骨が折れるだろう。
俺はとりあえず、玄関から持ってきたブリキの如雨露に水道から水を注いでいく。
咲耶も青いビニールホースを解いて、別の水道へと繋げる準備をする。
「本当に良かったの? 杏矢くん。手伝ってくれるのは嬉しいけど……」
「ああ、どうせやる事ないしさ。それに、別にイヤじゃない」
この花壇は、咲耶が一人で世話をしていたらしい。
造る時には柳と八塩さんが手伝ったらしいが、管理はほとんど咲耶だけ。
すっかりと背の高くなったヒマワリも、色とりどりのパンジーも、オシロイバナも、アスターも、全てだ。
「実はボク、明日は何も手伝わなくていいって父さんが言ってくれたんだ。みんなと回っていいって」
「へぇ。……珍しいのか?」
「うん、いつも、何かと手伝わされるから。……杏矢くんが来て賑やかになったから、気を遣ってくれたみたいだ。楽しみだね」
まだ閉じたオシロイバナに如雨露で水をやりながら、明日の祭りについて話す。
時刻は明日の夕方、場所は神社の境内。
流石に鳥居の内側、神域に出てくる怪物などいない。
「杏矢くんは、お祭りはよく行くの?」
「昔は。でも中二ごろからは行ってない。人混みが嫌……というか、行くと必ず体調崩すんだ」
「相性の悪い神様だったんじゃない? 誰だってあるよ、そういうの」
「それで……出店とか出るのか?」
「綿飴とか、たこ焼き、焼きそば、お面屋さんと……あとヨーヨー釣りとかかな」
「金魚は?」
「それは無いんだ、ゴメンね。一応神社の中だからさ、生き物を扱いたくないって父さんが言うんだよ。商店会のお祭りならあるけど」
「ああ……成程ね」
「あとは焼き鳥に射的、ボク達には関係ないけど、お酒の屋台がいっぱい出るね」
「そういえば、咲耶は……浴衣、着るのか?」
なんとなく、興味で訊いてみる。
夏祭りといえば、やはりそれだ。
見たいという気持ちが半分、そして咲耶が着るのかという疑問が半分。
そんな問いかけを浴びせられて、少しだけ、戸惑っているように見えた。
「……買っちゃった、けど。実はまだ迷ってるんだよね。……照れるしさ」
青いビニールホースの先を指で潰してヒマワリに水をやりながら、咲耶は照れ臭そうに微笑んだ。
土曜日に学校に来て、昼前に終わって、この水やりが終わったら帰る。
この感覚もまた、どこかエキゾチックなものがある。
例えばテスト明けの放課後は、縛めからの解放だった。
だが、今日は――――そもそも、苦しさが存在していなかった。
広大な原っぱに放牧され、いつまでだってそこにいていい自由がある。
「……腹、減ったなぁ」
空になった、へこんだブリキの如雨露を片手に、腹をさする。
朝飯を食って、もう四時間にもなる。
帰って昼飯を食ったら、何をしようか。
まぁ、……選べるほどの選択肢も、この村には無い、けど。
*****
翌日、日曜日の昼。
障子を開け放して、居間でなんとなくウトウトしていた。
何気なく座卓の下から、バインダーを取り出して、ひんやりとした板張りの床に寝転がりながら開いた。
これは村内の各家庭に配布されているもので、様々な怪異の目撃情報が毎週投函されるものを閉じてある。
他には出没地点を記した地図、怪異を「保護」した村民の名前と「総スコア」など。
例えば、「
さすがにスコアはいらないと正直思うが、この情報量があるからこそ、村民はふつうに生活できている。
だいたい都市伝説には回避方法がセットだし、出現する地点もたいていはお決まりだ。
四つ辻、人気のない道の街灯下、薄暗いあぜ道、自宅の寝室。
避けるか、あえて向かうかは人による。
「おーーい! 七支くーーーん!」
「? はーい!」
と、玄関口から大声で呼ぶ声がした。立ち上がって玄関まで出ると、俺が開ける前に、隣の婆ちゃんがガラリと引き戸を開けた。
何か仕事の合間なのか、手ぬぐいを頭に巻いてゴム長靴、軍手、野良仕事の正装だ。
「どうかしたんですか?」
「元気だったが、七支くん。昼飯は?」
「いえ……まだですけど」
「んなら、丁度ええな。うちで昼飯食わしたるよ」
「そんな、悪いですよ」
「誰がタダで食わすが。畑手伝えっつってんべ」
「……あ、そういう事」
この婆ちゃん――――いつも、こうなんだ。
俺が暇そうにしてる気配を見つけると、昼飯や晩飯、ときには煮物だなんだのお裾分けと引き換えに手伝わす。
どうやって嗅ぎつけるのか、本当に予定がなくてヒマな時を確実に狙ってくるから断れない。
「……わかりました、でも」
「あ、分がってる。夕方までだがら」
「ありがとうございます。で、今日は何するんです」
「何でもだ。メシ食わすし祭りにも行かしたるがら」
*****
時刻はもう夕方に差し掛かって、空が紫がかり始めていた。
結局、昼飯の代償にきっちり五時間も働かされてしまった。
確かに隣の婆ちゃんの作るメシは美味い。
今日のメニューはシソの握り飯に冷や汁、そして夕べの煮物の残りだと言ってた。
麦の混じった握り飯はシソの葉の酸味が堪らなかったし、冷や汁も擦りたての
冷えて味がしみた煮物も、「田舎の婆ちゃん」にしか出せない優しく馴染んだ味がした。
だがその代わり、きっちりとコキ使われて――――カロリーはむしろマイナスだ。
「そ、れじゃ……俺は、これで」
「んあ。今日はありがどな。祭りさ楽しんでげ。……ところでな、七支くん」
「はい?」
借り物の軍手を脱いで、婆ちゃん宅の上がり框に足を下ろした時、呼び止められた。
「
「……は?」
田舎の現象、ベスト1。
それは――――ゴシップ大好きな勘ぐり老人。
都会の井戸端会議とはレベルも密度も行動力も違う、油断ならないものだ。
「あのね、婆ちゃん。そういうんじゃないですよ」
「本当け?」
「本当ですよ。今日だって『四人で』回る約束したんですから」
四人で、と強調すると、婆ちゃんは一度唸って……それから、俺を送り出してくれた。
たぶん納得はいってない、確実にまだ疑っている。
こういうお年寄りはエゲツない。
とにかく話題に乗らないようにしなきゃいけないし、あからさまに逸らしたらそれはそれでまた疑われる。
そして図星を突かれても、決して慌ててはいけない。
人生に裏打ちされた老人の眼は、とにかく侮れないからだ。
――――ああもう、汗でびしょびしょだ。
軽く身体を拭いて、着替えてから行こう。
*****
夕焼けに染まる住宅地からは、もう人の気配がしない。
おそらく住人のほとんどがもう夏祭りに向かってしまったんだろう。
さっきから、人ひとり見かけない。
気の早い街灯はもう点き始めて、対して夕焼けは段々と明かりを落とす。
すでに東の空は夜に近づいて、闇が濃い。
神居神宮まで続く道、その街灯そばを何事もなく通り過ぎる。
直後だ。
「――――私、キレイ?」
誰もいなかったはずの街灯下に――――キツネのような甲高い声が響く。
ズボンのポケットの中にしまい込んだ、「柄」を握り締めて振り返る。
そこには八塩さんほどではないが長身の、黒髪を襤褸切れのように垂らした女がこちらを向いていた。
服装は赤いコートに白いパンタロン、そしてブーツ。
鼻をつくのは強い錆びと血の臭い。
背筋にじわりと汗が滲んで、気圧される。
今、俺の目の前にいるのは――――紛れもなく、本物だからだ。
かつて日本中の子供を恐怖に陥れた怪異、“口裂け女”そのもの。
悪趣味なコスプレなんかじゃない。
何かの撮影のためにそうした役者でもない。
本物の都市伝説が、目の前にいる。
数度めの遭遇であっても、慣れるには……まだまだ、至れない。
膝が震えない程度には慣れてきたが、それでも、だ。
「ねぇ、私――きれい? ねぇ、きれい?」
かたかたと身体を震わせて、再度訊ねる。
壊れた人形、という陳腐な例えが……哀しいほどに似合う、その姿で。
「……はい、キレイです」
「う、ふふふふふ……こ、これでも……キレイ?」
ささやかれていた当時の噂そのままに、返す。
俺は、最後にもう一度だけ……この怪異に、付き合ってやりたかったからだ。
そして、流れのままに「伝説」はマスクを外し、ぼとりと落とした。
現れ、俺の背負った夕焼けに照らされたのは――――耳まで裂け、ぱりぱりに凝固した血の砂を振るい落とす、異形の口。
開かれた口は常人の三倍ほどまで開いて、その内側には野犬のような獰猛な歯列がぬらぬらと輝く。
「ねぇ、これでも? ここここれれでででももももきれええええ」
「いや、全然だな。全然」
もう――――哀しいだけだ。
否定の言葉を投げかけてやると、口裂け女は、妙に長い裁ちバサミをポケットから取り出した。
その刃は恐ろしくぼろぼろに錆びて、じゃきん、じゃきんと刃を動かすたびに錆びの粉がはらはらと舞い落ちる。
――――口からこぼれ落ちる乾いた血も、きっと、「錆び」だ。
この村へ来る怪異の共通点は、「忘れ去られたもの」。
かつては恐れられたが誰もが信じなくなり、忘れられた、前時代の怪異たちだ。
「口裂け女」避けの呪文を本気で信じる者は、もうどこにもいない。
ネットを席巻した「くねくね」の伝説も、今となっては眉唾でしかない。
二宮金次郎は銅像自体がすでに全国の学校から姿を消しつつある。
首なしライダーの存在を信じるドライバーなど笑いものだ。
朽ち果て、風化した怪異はさながら死に場所を求めてここへ来る。
死期を悟った猫が、いつしか姿を消し、どこかで人知れず息を引き取るかのように。
――――思いを巡らす間にも、軋る鋏の音高く、口裂け女は迫り来る。
俺も、口を裂かれに来たわけじゃない。
ポケットから取り出した瞬間、“柄”に、重量が宿る。
四尺の幽霊刀が伸び、口裂け女の鋏を正面から受け止める。
その二つの刃先はもう俺の目の前、いや口の前にまで達していた。
「これでも? これでも? これれれでもももももも」
押し込むハサミに力を入れながら、狂ったように繰り返す口裂け女。
俺の剣を挟み切るために力を込めているに違いないが、霊体の刃が切れる訳がない。
それどころか……裁ちバサミの刃元、ネジまで、もはや食い込んで自壊している有様だ。
「もう――――終わったんだ! お前の、時代は!」
身体を低め、破壊後の鋏の軌道から体を外す。
そして、一気に腕に力を入れ、渾身に斬り込む。
伝わったのはハサミを破壊した硬質の感触。
続いて腕を深々と真っ二つに割り、胴体深くまで薙いだと思うには、あまりにも薄い手応え。
「だから……もう、出なくていい」
背後の空間にハサミの破片が落ちる音を聞いてから、静かに後ずさり、口裂け女から距離を取る。
割れた腕、斬り込まれた胸の断面からは蛍のような光が舞って、青白い炎が迸る。
「過去の伝説」達が消滅する時の、最後の輝きだ。
消える直前に、口裂け女はまっすぐに俺を見て、口角を少しだけ上げた気がした。
もしかすると口裂け女は微笑んだかもしれない。
こいつはきっと、忘れられる前に。
もう一度だけ――――“口裂け女”をしたかったんだ。
*****
すっかりと日は落ちてしまっていた。
時計にしかならないスマホに目を落とせば、咲耶たちと約束した時間は少しオーバーしてしまった。
途中、タバコ屋の公衆電話で村会に報告を入れたのもまずい。
参道を小走りで駆けていくと、近づくほどにざわめきが大きくなっていく。
渡された提灯や電飾がひときわ明るくなり、子供の声や酔っ払いの歌も増える。
やがて、境内へと辿り着くと――――目印になりそうな、八塩さんの姿をまず探す。
我ながら失礼にもほどがあるが……実際、探しやすいのだからしょうがない。
さまざまな屋台が並び、村民たちでごった返す中、それでも一発で探し当てられるはずなのに、八塩さんの姿が見えない。
しゃがんでいてさえ目立つ、のに。
「杏矢くん」
喧騒の中、目を凝らしていると――後ろから、声を投げかけられる。
ゆっくりと振り返れば、咲耶が立っていた。
ただし――――淡く期待したような浴衣姿じゃない。
涼しそうなオフショルダーに、目の覚めるようなスラっとした脚を露わにするショートパンツの軽装の普段着だった。
ショートヘアの前髪は左側に分け目を入れて、白金色のヘアピンで留めていた。
「迷ったんだけどさ……自分ちの敷地でやるお祭りに、浴衣って……やっぱりちょっと照れるよ」
それでも目を奪われていると、咲耶はくすりと笑って言った。
裸電球と提灯の乱雑な灯りに照らされる咲耶の姿は、ラフな軽装でも……それでも十分に、目を離せなかった。
「あ、ああ……ごめん、遅れた。柳と、八塩さんは?」
「柳はもう少し遅れるって。沢子も」
「ふーん……」
「……ボク、ちょっと待ったんだよ? 酷いなぁ。皆でボクを待たせてさ」
「ごめん」
くっくっと微笑む、屈託のない咲耶の顔が今目に焼き付いた。
咲耶の口数が緩んで多いのは、ひょっとして――誰も来ないんじゃないか、という不安が、崩れたからかもしれない。
俺は、待たせてしまったんだ。
「……それはともかく、先に見て回らないか?」
「え?」
「どうせ、二人ともまだ来ないんだろ。来てもすぐ分かるだろ。先に回ってよう」
「…………うん、行こっか」
咲耶は、ふだんとは違って、おずおずと答えてくれた。
胸が、ほんの少し高鳴った気がするが、それはきっと気のせいだ。
――――今、咲耶を見てから、ずっとだったから。
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