首なしライダー注意報、発令
*****
慣れない布団の寝心地の悪さに目が覚めると、まだ外は薄暗いのが分かった。
外から差し込む光はまだ少なく、それでも夜は越えている。
もう少し寝ていようとも思ったのに、かけ慣れない毛布と弾力の強い布団が寝苦しい。
何度か寝返りをうち、そば
諦めて、一応の使用は可能な、しかし圏外と左上に表示したスマホを手繰り寄せて、時間を見る。
まだ――――朝の五時だ。
あの後、夜九時前におばちゃん方が未成年を帰してくれた。
柳は反対方向に行ったが、俺と咲耶は途中まで一緒になり、俺の家の前で分かれた。
「家まで送る」といちおう提案はしたのに、彼女は「そうしたら君が帰りに迷うから」と言われ……何も、言い返せなかった。
彼女の言っていた事はどうしようもなく正論だったからだ。
寄り合い所から帰る途中にだって、一度通ったはずの道を逆に辿るだけなのにまるで道が分からなかった。
無事に咲耶に送り届けられると、その後は戸締りをしてからさっさと二階に上がって布団を敷いて寝た。
そこからは今に至る。
「寝らんね……」
思い出しながら、もう体を起こす事にした。
干して間もない弾力のある布団が、どうしても体になじまない。
昨日は疲れていたからさっさと寝られたようなもので、それと腹立たしい事に、この布団のせいで疲れは全てなくなってしまったからだ。
起きてその部屋を改めて見まわし、一言で言うなら……旅館の一室から、奥のフローリングと椅子と冷蔵庫、あの空間を取っ払ったようなつくりだ。
ついでに言えば、テレビも座卓もルームサービスの案内もない。
畳と収納、布団と電灯、そして窓。
たったそれだけしかない簡素な和室だった。
寝慣れなくて目が早く覚めてしまう、という点もそれと似ている。
一階に降りて居間のテレビをつけると、十秒ほどしてようやく画面が映った。
何の嫌がらせかリモコンが見当たらないので、“根元”からつけ、チャンネルを変える。
とにかく、この一人きりの家にさっさと何かの音を入れたかった。
画面の下についたスイッチを操作して、ようやく朝の情報番組に辿りついた。
天気予報の声を背中に受けながら座卓を挟んで座布団に腰を据えると、気付く。
おかしい。
この家が、何故なのか――――もう、自分の家のように感じられるのだ。
もう記憶におぼろげながら、俺が住んでいた、爺ちゃんの屋敷に移ったすらかなり慣れるまで時間がかかったと思う。
二、三日過ごしただけではまだ自分の家という感覚は持てないはずだ。
一日、それも正味で二時間ほどしか活動していないこの家では尚の事。
とりあえず、まだ冷えている空気を少しでも緩和したくて、居間に置きっぱなしにして寝たボストンバッグからパーカーを取り出し、着た。
といっても、あまり大したことはなく――――着替えが大半だ。
「俺、本当……どうなるんだろう」
一日寝た事で、この現実がいよいよ冗談ではないのだと思い知る。
俺は今日からこの田舎で、たった一人で暮らしていくのだ。
朝は自分で起きて飯も確保し、学校に通ってそれから帰る。
全てを自立し、自律する。
それは、よくよく考えると――――あまりに難しい事ではないのか。
大人ですらも四苦八苦する、人生の課題だ。
とりあえず俺は、少しでもそれに立ち向かうため……今は朝食を作る。
米を炊いて味噌汁でも作り、そして茶を沸かそう。
新生活というよりも、人生の第一歩、と思う事にして。
*****
幸い炊飯ジャーはあったし、
朝食は白米、大根の味噌汁、そして味付き海苔、以上。
それでも米も味噌も……俺の腕前ではなく、それ自体が美味しいものだったからむしろ贅沢だった。
食後の食器も片付けないまま、お茶を啜っているとやがて情報番組が熱っぽくなった。
時間を見れば、もう六時半。
明け方ではなく朝が始まり、情報番組の本編が始まる、そんな時間。
窓の外を見れば薄明りも柔らかな晴天へと化け、うららかな春の日が今日も始まる。
そう分かってしまうと、昨日から起床までの不安感と非現実感は、日差しを浴びて解け、小さくなっていく。
俺が今この田舎の村に居るのは紛れもない現実で、俺は今日もここで生きていける、希望と期待。
消え切っていない前者と、湧いてきた後者。
混ぜると、きっとそれは“冒険心”という感情に変わる。
当てのない全能感じみたそれを噛み締めていると、ジリジリジリ、とまるで蝉の鳴き声のような電子音が聴こえた。
何となく理解したそれは、たぶん……この家の呼び鈴だ。
不意に鳴る電子音に、種類なんかそう無い。
半ばヤマを張るような心境で――――玄関まで出ると、戸の向こうに人影が見える。
すり切れてバカになった“ねじ鍵”を開けると、外には今日の約束の当人が立っていた。
「おはよう、よく眠れた?」
「……覚悟していたよりも。どうしたんだ、まだ朝早いよ」
訪問者は、咲耶だ。
昨日見たのと同じ服装、恐らくは制服で……今日は薄手のマフラーも巻いていた。
もしかすると、外はまだ冷えているのかもしれない。
「ちょっと上がっていいかな。いくつか近所のおばちゃん達から預かってたものもあるんだ」
「あ、ああ。どうぞ」
咲耶は、昨日もそうしたように……前向きに靴を脱いで、身体を少しだけよじって靴を玄関脇へ寄せたし、もちろん上がる前には「お邪魔します」と言った。
何だか……彼女は、面白いと思った。
会った時には素足を小川に
まるで、田舎の感覚的な少女を見るようでもあるし、どこかの令嬢のようでもある。
かと思えば一人称は少年的でもあり、掴みどころもまるでない。
ひとまず、そんな思考は保留として……俺は、咲耶を導くように居間へと戻った。
「あれ、杏矢くん。朝ごはん食べたんだ」
「ちょっと早く目が覚めたから……なんで?」
「いや、あのね。……実はボク、作ってきちゃったんだ。まだだと思ったからさ」
提げてきたビニール袋から、ラップに包まれた握り飯が二つほど出てきた。
その小ささは咲耶の手を見れば、彼女が作ったものだと一目で分かる。
続いて、タッパーに詰められた惣菜がいくつか、座卓の上に並ぶ。
「こっちのはおばちゃん方から貰ったお裾分け。暖める時はお皿に移してね」
「あ、ありがとう……助かる。あと、それ」
「え?」
さりげなくタッパーの陰にずらした握り飯を指差し、言う。
「作ってきてくれたんだろ、ありがとう。ちょっと物足りなかったんだ」
「……うん、はい」
差し出してくれたそれからラップを外し、頬張る。
まだ米は暖かくて、ふっくらとして柔らかく、握り具合もちょうどよくて……美味しい。
咲耶の視線をちょくちょくと感じるが、顔を上げてそちらを見るのは何か照れ臭くて、かといってテレビを注視するのも失礼だったので、とにかくおにぎりに集中する事しかできない。
さっさとリスのように食べ終えて、米粒を飲み下すとようやく口を
「で……とりあえず、今日は何すりゃいいかな」
「役場に何か提出するものがあるって言ってなかった?」
「いや……それなんだけどさ、帰ってきてからまた電話があって」
今もなお俺の実家に居座る謎の女、
だから今日は丸一日浮いてしまって、明日から始まる学校に備えるだけだ。
「ならちょうどいいね、村を案内するよ。学校の場所、銭湯の場所、あと……公衆電話の場所も知っておいた方がいいし。あと……地形もね」
「……地形?」
「うん。知ってると色々有利だと思うから」
――――何かが変だ。
それは、地形を知っていれば便利かもしれないが……有利、なんて言葉はついぞ使わない。
いったい、何に対して有利なんだ。
何のために、有利になる必要がある?
「とりあえず……着替えて出かける準備をしてくる。適当にくつろいでて」
バッグを掴んで二階へ上がる。
ひとまず、考えても仕方ないし訊きたい事は道すがらにしよう。
*****
昨日着て来たワイシャツの上にパーカーを引っ掛けて、八時前に家を出た。
外の空気は澄んでいて、まだ少しだけ朝露の湿り気と冷えを残す。
玄関の鍵を閉めようと思っても旧式のねじ鍵は外から閉められない事に気付いたが……盗るものもないし、今のところ用心は必要ないとも思ったから、そのまま出た。
ほんの少しだけ歩くと、どうしても、彼女に対して言いたかった事を思い出した。
「……あのさ、咲耶。あんまり、その……人の家に上がり込むなよ」
「え……」
彼女の声が震えた。
「いや、違うんだ。そういう事じゃない。……その、家には俺一人しかいないんだから、あまり上がり込むものじゃないだろ。その、警戒、ってのが……」
「……?」
ここまで言っても、咲耶はまだピンと来ていない様子で、歩きながらも考え込んでいた。
だが俺も正直この先は説明したくない、いくらなんでも。
補足はもうできない。
「ごめんね、よく分からないけれど……ボクには、杏矢くんを警戒する理由はないよ?」
それは……どっちの意味なんだろう。
伝わらなかった事はもういい。
言葉の意図を訊くことにはどうも尻込みして、何とか話題を変えたい。
「それより、見えてきたよ。あそこが神居村役場だ。何かとお世話になる事が多いねから覚えておくといいよ。隣の建物は図書館。意外と暇は潰れるかな」
指差した先に、二階建ての建物がある。
公務を担う箱物建築だというのは、すぐに分かった。
驚きなのは、次いで咲耶が指さした建物だ。
不釣り合いなほどに大きく、同じ二階建てなのに、どう見ても隣の役場よりも広い。
「……逆じゃないよな?」
「うん、大きい方が図書館。学生手帳をもらったら貸出カードを作るといいよ。四十冊借りる毎に特製ブックカバー配布中」
役場の建物は、あれぐらいでいいと思う。
村の人口は千を上回る程度なんだから、そこまで大きな建物はいらないだろう。
だが、隠れ里じみたこの村で、この大きさの図書館はおかしい。
俺がもといた場所の、地域の図書館よりも大きいじゃないか。
「学校は……パスだ。明日の朝、一緒に行こう」
「え?」
役場からまた遠ざかりながら、咲耶は言う。
どうやら、学校は案内してくれないようだ。
「何でだよ。教えてくれた方が……」
「いや、お楽しみにしておいてほしいんだ。きっと驚くよ」
「どっちの意味で」
「それはキミ次第かな、杏矢くん」
*****
その後は、村のあちこちを回った。
畑仕事に勤しむ人たちに挨拶をして、公衆電話の場所を覚えて回った。
村の中心部は舗装道路が多くて、ちょっとした田舎、という感じで……あまり不便そうには感じない。
本当に田園が広がっているのは、少し外側に歩いたところだ。
玄関口が“男湯”と“女湯”の二つに分かれていて……というのも想像したが、流石にそれはない。
だが靴箱の鍵はまるで絵馬のような木板を差し込むタイプで、その部分は期待を叶えてくれた気がする。
日が昇るほどに、昨日のような柔らかな色の空が広がった。
薄雲の切れ間から差す陽は暖かくて、緑に色づいた里山と、畑と、まだ土しかない田んぼを照らした。
「ざっと、こんな感じかな。そろそろお昼を過ぎたけど、お腹は空いてないかな」
めぼしい施設を巡り終わって、今俺達は、とりあえずの休憩を挟む。
日差しを裂けて木陰に入り、近くに自販機でもないか俺は探しつつも座り込んだ。
もう朝露の水気はとんで、座ってもズボンの尻に浸みたりはしない。
「いや、腹はまだ。それよりも……疲れたな、少し」
「そうだね。……ところでさ、杏矢くん。何持ってるの? それ」
「あ……っと」
ポケットに入れっぱなしだった、翠さんから持たされたものを慌てて隠した。
とはいえ、隠せるものでもない。
何故なら、今はみ出たのは……太刀の、柄だったからだ。
その形は――――チラリとしか見えなくても、何かの刃物にしか見えない。
まずい誤解を与えてしまった。
咲耶が何か怖がってやしないかと思って顔を上げ、何か弁解を考えようとした時。
「なんだ、ちゃんと何か持ってるんだね。安心したよ、うん」
「……えっ」
「だって、丸腰に見えてたからさ。ずっと心配だったんだ。でも……もう少し長いものを持った方がいいな」
「え、何、を……」
咲耶のこの反応は、何だ。
俺の持っているこれが刃物だと思って――――それで、安心している?
逆だ。
本当なら……逆のはず、なんだ。
俺が状況を把握できないままいると、近くの電柱に据えられたスピーカーから、チャイムが鳴った。
『神居村の皆さまに、ご案内申し上げます。オートバイを運転の際は、必ずヘルメットの着用をお願い致します。繰り返します。オートバイを――――』
続いて聴こえたのは、何という事の無い注意喚起のアナウンスだ。
どこで聞いてもおかしくない、何て事の無い内容の。
なのに、咲耶は立ち上がった。
――――――何かに耳を澄ますように、して。
「……あっちから、か」
「咲耶? ……何、どうしたんだよ」
「そういえば、初めての
「あ、ああ……オートバイ……って」
「うん。今、手短く説明すると……そうだね」
咲耶はゆっくりと振り返り、俺の目をまっすぐに見て――春の風にマフラーをたなびかせて、ただ一言だけ。
「今から、この村を――――“首なしライダー”が走るよ」
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