ダイヤル式黒電話はいつの香り



*****


 咲耶の言った通り、俺の当座の家には日が沈む前に到着できた。

 だがそれでもかなりの距離を歩いたのには違いない。

 駅から真っ直ぐ徒歩なら、一時間はくだらないだろう。

 そして着いた、初めて見る「我が家」はというと。


「……え、ここ?」

「うん、間違いないよ。確か……みどりさんの持ってた家だ」


 唐突に、あの“ハイカラさん”の名前が出てきた。

 この村から来たというなら、確かに顔見知りでもおかしくない。

 だが、そんな事よりも……この家は、でかい。

 外観は木造の二階建て瓦屋根、確実に築三十年は経っているに違いない。

 庭までついているのは何より驚きだった。

 しかも家の周りは生垣に囲まれている、ときている。


「この家、あの女が住んでたのか?」

「いや、住んではいなかったよ。家主ではあるんだけど、翠さんは別の場所に住んでる。でも管理はしてたよ。ところで今、『あの女』って……」


 咲耶が俺の物言いに気付いて、そこを訊ねようとした時。

 不意に、家の目の前にある電柱、そこに据え付けられたスピーカーからチャイムが鳴る。

 ぴん、ぽん、ぱん、ぽん、という……例のあれだ。


『神居村役場よりご案内いたします。先ほど、村崎さんのお婆ちゃんは無事に保護されました。村民の皆さまのご協力に感謝いたします。繰り返し、ご案内いたします――――』


 繰り返してから、もう一度チャイム。

 それだけ告げて、“役場”からの放送は終わった。

 恐らく、徘徊老人の保護だろう。

 たぶん、老人の多いだろうこの村では、珍しくない事なんだと思う。

 現に咲耶は物珍しくもないように――――しかし、ほっと胸を撫で下ろしている。


「良かった、これで安心できるよ。ヘタをしたら、日が暮れても探さなきゃいけないところだったよ。たぶん、着いたばかりの杏矢くんまで」

「村崎さん、って……知らないぞ、俺は」

「え? いや、出くわせばすぐ分かると思うよ。それよりさ、荷物下ろしたら?」

「うん。そういえば、これ鍵って――――」


 玄関の引き戸を横へ滑らせると、何の抵抗もなくガラリと開いた。

 鍵は、最初からかかっていなかったようだ。

 玄関に進んで、靴を脱いで上がる。

 靴箱の上には造花の一輪挿しが飾られており、その更に上には竹久夢二が額に飾られていたが作品名まではとっさには出てこない。

 さすがに現物ではなく模写だろうとは思うが、入ってからのインパクトは間違いない。


 玄関から一直線に台所まで伸びる廊下があり、その脇に二階に上がるための階段がある。

 薄暗く、少し急なのが気になるが、落ちるほどの勾配じゃない。

 一見するだけで、掃除は行き届いているようだ。


 ひとまず、玄関から上がって少し歩くと、左手側に茶の間があるのが見えた。

 畳敷きの和室で、そこにあるのがまた何とも懐かしい、樫製のちゃぶ台だった。

 同じ部屋の中にはテレビと箪笥、そしてテレビ台の横の台に電話機がある。

 だがその電話が、またしてもクセモノだった。


「ふざけてんのか、あの大正女」


 ボタンが、ついていないのだ。

 でかい受話器が上に掛けられるようになっていて、テカテカに光る黒いボディに、ついているのはダイヤルだけ。

 0から9までの数字がそれぞれ十個、レンコンみたいに穴が空いてる中に見える。

 ――――“黒電話”だ。


 さすがに使い方は分かる。

 だがそれは使っていたからという訳では無く、寝しなにいじっていたスマホで何気なく見かけた、懐古的な情報サイトで拾った情報ものだ。

 実物を見るのは初めてだし、今さら見かける事も無いと思っていた。

 思って、いたかった。

 電車を降りてからずっと掛けていた大型カバンを投げおろすと、改めて部屋の中を見回す。

 緑色の座布団、しゃれ気のないちゃぶ台、黒電話、分厚いブラウン管テレビ。

 どれも、わざと演出したとしか思えない昭和の遺物だ。

 途方にくれていると、玄関側に先ほど聞き覚えのあるエンジン音が止まった。


「あれ、柳? どうしたのさ、ここで?」

「キチっと着けたかどうか見にな。中にいんのか?」


 続けて会話が聴こえ、内見もそこそこに俺は玄関の外へ戻る。

 靴に爪先だけ突っ込んで出ると、柳、咲耶の二人が話し込んでいた。


「よぅ、ナナ。無事に着いたか?」

「……“ナナ”って誰だ?」

「お前だよ。七支ななつかだから」

「……? お前、何だその傷」


 二回目の対面ですでにつけられたあだ名よりも、カブにまたがったままの柳の左頬に、切り傷がついて血が固まりかけているのが気にかかった。

 転んでついたものとも、木の枝にひっかけたとも思えない。

 一筋だけだが、妙にハッキリとしすぎている。


「あー……ババァが暴れやがってな」

「ひょっとして、さっきの放送のか? 保護したのお前だったのか」

「まぁな。久々だったからな……油断した。んで、ナナ。お前……ここ住むのか?」

「そうみたい……だけど」

「ここ、フロ付いてねぇぞ」

「え、風呂ない!?」

「ついてないの?」

「ああ、何度か修繕に入ったからな。まぁ、五分も歩けば銭湯がある。気にするほどでもねェだろ、こんなの」

「いやいやいや、待て、待てよ……風呂無しって……」

「ボクの家にもないよ?」

「え!?」


 咲耶までもが、そう言った。

 風呂が無い家が、今わかっただけでも二軒もある。

 咲耶と、柳と話し、ただ見て回るだけでも時代がどんどん下る。

 どこまで下りれば、底があるというんだ?

 誰も答えてくれないまま――――もう、気付けば太陽は山間に消えかけていた。


「言っとくが、俺の家にはあるからな。まきのヤツ」

「薪、って……割るのか?」

「割るかよ。買うに決まってんだろ、流石にそれはよ。……それでお前ら何してんだ、荷物は置いたし場所も分かったんだろ。急げよ」


 急げ、って……いったい、何の話だ?

 問おうと思ったが先に俺の顔色を見て取ったのか、すぐに柳が付け足す。


「寄り合い所でお前の歓迎会をやろうってんだよ。まぁ、ただお前囲んで騒ぐだけだろうが。もう準備中だぜ」

「え……いや、聞いてないぞ何も」

「そりゃそうだろ。俺がババァを片付けて報告の電話を入れた時に、ついでに言ったんだ。新入りが村に着いたって。……で、ついさっき急に決まったってワケだ」

「ありがたいけどさ……そんな急に決められるもんか?」

「年寄りってのはヒマなんだよ。ついでに言えば騒ぎたいだけ」

「……覚悟しなよ、杏矢くん。もうここまで話がついちゃってるんなら、君が行かなきゃたぶん収まらない」


 ……もう、分かった。

 与り知らないところの話とはいえ、火がついてしまったのなら俺が顔を出さないわけにはいかない。

 イヤという訳じゃないし、挨拶の場が持てるのならそれに越した事は無く、むしろ助かる。

 行かない手はないのだ。

 ただ……まさか、着いたその日、まさに今とは思わなかっただけで。


「分かった、行く」

「そうこなくっちゃな。場所は……」

「ちょっと待ってよ、柳」


 場所を伝えようとした柳を制して、咲耶がきりっと言い放つ。


「杏矢くん、さっきついたばっかりなんだ。ちょっとだけ休憩した方がいいだろ? 連絡の電話もしなくちゃいけないし。……その、杏矢くんの実家の方へさ」

「……それもそうだな。すぐには始まらねェだろうから、茶でも飲んで一息つけとけ。とりあえず俺も一旦帰る。また後でな」

「うん、また。ボクが杏矢くんを連れて行くよ、ちゃんとね」


 柳が走り去って、少しの後。

 確かに咲耶の言う通り、生家へ連絡をしなくちゃいけないと気付いた。

 もう日は暮れかけている。

 翠さんはともかく、お手伝いの浮谷さんには心配をかけたくない。


「お邪魔します。ほら、杏矢くん。早くしなよ」

「早く、って……咲耶、何で?」


 俺よりも先に家に上がって、咲耶が急かす。

 実のところまだ俺の家という意識は無いから、微妙な気分だ。

 つられて俺までお邪魔します、と言ってしまいそうだし、かといって何も言わずに上がるのもそれはそれでモヤモヤする。

 いずれは慣れるに違いないが……。


「台所借りるね。ボクがお茶淹れるから、杏矢くんは電話するといいよ」


 さっさと廊下を歩いて行った咲耶の背を追うように、俺も上がり、先ほど荷物を置いた茶の間へ分かれて入る。


 入ってすぐの壁際にあるスイッチをいじると、二、三度の明滅の後に二重の蛍光灯が光を放った。

 その明るさの下で窓の外を見ると、確かに暗くなっていたのだと改めて思った。

 暖かくなってきたとはいえまだ四月、日が沈むのは早く、上るのもまだ遅い。

 ぽかぽかとした小春日和の一日だったが、夜になればそうはいかない。

 ひとまず律儀に着て来た前の学校のブレザーを脱いでその座布団の上に置き、マフラーも同様に。

 時計を見れば、夕方五時を少し過ぎた。

 さっそく、初体験の“黒電話”に向かう。


 ずしりと重たい受話器を耳に当てると、平坦な音が流れているのが聴こえた。

 続けて、見た通りにダイヤルを回して発信する。

 まず市外局番、一つ目の数字の穴へ指を入れて、「針」の部分まで持っていく。

 ダイヤルが戻ったら指を離して、次の数字を持っていく。

 戻ったら、また次。

 じー、ころころ、じー、ころころ。

 三つ入力する間に、ボタンならとっくに押し終わるに違いない。


 十秒ほどかけて電話番号を入れて、発信する。

 待つこと七コールほどで繋がって、聞き慣れた声が聞こえたので、つい溜め息をついてしまう。


『はい、もしもし。七支でございます』

「もしもし。俺です、杏矢」

『杏矢くんですか。ご無事に到着いたしましたか?』

「はい、村に着いたのは三時間ぐらい前ですが、その……遠くて」

『あらまぁ。お疲れでしょうね。そちらのお住まいはどのような?』

「一戸建てです。少し古いですけど良いカンジですよ。……ところで、アイツいますか」

『アイツ、なんて……。替わりましょうか?』

「お願いします。あとでもう一度、浮谷さん」


 十二時間近く前に聴いた浮谷さんの声が、どこまでも懐かしく感じたのは、生家を離れた郷愁のせいかもしれない。

 今俺はたった一人で、このどことも知れない田舎の村にいる。

 明日は役場に行って色々と提出するものがあるし、その場所も俺は知らない。

 この心細さは情けないのかもしれないが、それを叱ってくれる爺ちゃんも、もういない。

 叱られないようにちゃんとしなければ、とも思う反面、どちらかと言えば、少しぐらい情けなくなりたい気持ちの方が強い。


『……何じゃぁ、孫殿。私の声が聞きたいとな?』


 ――――そして今、そんなホームシックも消え去って瞬時に沸騰、言いたい言葉がボコボコと沸いて出た。


「どういう事なんですか翠さん!」

『わひゃっ……いきなり大声を上げるでない!』

「この家ですよ、この家! フロついてないんですよ!?」

『ああ、それか。庭付き風呂付き一戸建て等生意気ぞ。若いのだから水でも浴びよ。温水器ならつけてやった故、感謝せい、軟弱者』


 悪びれもせず、またしても翠さんはこう言った。


「あんた、本当に詐欺師じゃないよな?」

『人聞きの悪い。詐術であればお主の住み家など世話せぬ。現に、お主の遺産は手つかずじゃ。留守も守ってやっておるじゃろ』

「……それとこの村、携帯が使えないんですけど」

『ああ、あの機械か。使っておるのは見た事ないの。まぁ、死にはせんじゃろ。電話なら別に持って歩く必要もないではないか。そんな一秒を争う用がそこらの若造にそうそうあるとは思えんぞ、私には』

「あんたは全く……」

『それで、今日はこれから何かあるのか?』

「村の人たちが俺の歓迎会をしてくれるそうです。その前に、今……電話を入れておこうと思ったんですよ。到着したって」

『殊勝ぞ。とはいえ無事に着くだろう事は信じていたから、心配はしておらんかったがな。村の感想……と言ってもまだ分からんじゃろうから、訊かん。それより、家の中は見てみたかの?』

「? いえ、まだ茶の間ぐらいしか見てません」

『そうか。……ところで、アレはちゃんと持っておろうな?』

「はい。ずっとポケットの中に」


 言われて、ポケットの中身を探る。

 財布でも携帯でも、家の鍵でもない。

 そこにあるのは、十五センチほどの金属の棒だ。


『ならよい。二階の押し入れに布団は入っておるし、必要と思われるものは大体揃うておる。何か訊きたい事があれば、すぐに電話せよ』

「はい。……あ、もう一度浮谷さんに替わってくれますか?」

『何ぞ?』

「……携帯、解約するんですよ。持ってても意味ないから」


 ――――――やがて、十分ほどして電話が終わる。

 当面の事はあらかた話して、ひとまず携帯は解約する事にして、受話器を置いた。

 そのまま一呼吸程つくと、咲耶が湯のみを二つ漆の盆に載せてやってきた。


「お疲れ様、杏矢くん。はい、お茶だよ」

「あ、ありがとう……。茶葉なんてあったか?」

「うん、お米とかお茶とか……結構あるよ。さ、冷めないうちにどうぞ」


 置いてくれた湯のみの中には、深い琥珀色の液体が湯気をたてていた。

 上の方を持ち、もう片手で底を支えて啜り込むと――――疲れが溶けていくのが分かる。

 香ばしくゆっくりと沁み込むこの味は、ほうじ茶だ。

 とても嬉しい暖かさが、胃の中から体を暖めてくれるようだ。


「随分慌ててなかった? 杏矢くん」

「いや……色々とこみ上げてきてさ」


 ちゃぶ台を挟んで向かい合った咲耶が、背筋を正して正座する。

 足を折りたたむ仕草はとても綺麗で、まるで……猫がその場へ座り込むように、衣擦れの音ひとつ立てなかった。

 それと、もう一つ気付いた事がある。

 俺が先ほど脱いだブレザーとマフラーが、きちんと折り畳まれて、畳の上に重ねて置かれている。

 これも、まさか……彼女が?


「……悪い」

「え?」

「畳んでくれたんだろ、それ」

「気にしなくていいよ、お湯沸かしている間の手慰みだったからさ。ボクこそ、……勝手に触ってゴメンね」


 本当に、余計な事をしてしまった――――というような顔で、咲耶が目を伏せた。

 謝るのは、こっちのほうだ。

 立つ瀬がないんだ、これじゃ。


「翠さん、何か言ってた?」

「何かあれば電話してこい、とだけ。俺はむしろ、翠さんよりお手伝いの人と話したかったんだ」

「お手伝いさんなんているんだ!?」


 初めて、咲耶が大声で驚いた。


「実は俺、爺ちゃんと一緒に暮らしてて……家の事はお手伝いさんと俺でやってたんだ」

「へー、凄いね。あれ? こう、手をぱんぱん、って叩いたらすぐ来るの?」

「絶対カン違いしてるだろ、咲耶……」

「……あれ、お爺ちゃんと一緒に暮らしてる、って……お爺ちゃんとは話さないの?」

「あ……実はさ、二カ月ぐらい前に死んだんだ。今は、翠さんが俺ん家の管理してる」

「えっ……。ごめん、なさい。ボク……」

「いや、俺も言うの遅かったな。でも、あんまり気にしてないんだ、もう今は」


 哀しかったし目の前が真っ暗だったのも、今はもう昔の話だ。

 四十九日法要を終えてからは、思い出す事がだんだんと少なくなった。

 哀しみの周期はもうだいぶ遅くなってしまったから、大丈夫だ。

 空気を変えるため、話題を出す。


「ところで、歓迎会って……どこでやるって?」

「寄り合い所だよ。ここから歩いて十分ぐらいかな?」

「なら……お茶を飲んだらすぐ行こう。人が集まりきった所に入るのは苦手なんだよ」

「そっか。分かったよ。冷えるからちゃんと上着を着てね?」


 肯定の代わりに、一口。

 すっかりと日が沈んで暗くなった田舎の夜に目をやり、少しだけぬるまったお茶を啜った。



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