咲耶怜との出会い
*****
――――やがて、春が来た。
俺は電車の振動を背で感じながら、流れてゆく風景を目で追った。
四人掛けのボックス席には、俺一人だけ。
すっかり暖かくなった日差しが窓から差して、頬が熱く感じて日除けを下ろした。
もう、建物はまばらだ。
かれこれ一時間も乗っているのに、人里の気配もない野山が続く。
すっかり凝り固まった体をほぐそうと立ち上がり、通路で大きく伸びをした。
体をひねり、右、そして左と、車内を見渡す。
途中のどこかで切り離されて一両編成になり、乗っているのも俺一人だけだ。
レールの継ぎ目を越える音しか聞こえない車内は、むしろ不気味だ。
元々電車通学じゃないから頻繁に乗っていた訳じゃないが、それでもごった返す電車に乗る方がずっと多かったから、余計に。
やがて、トンネルに入ったのを見て席に戻る。
『次は終点、
トンネルを抜けると――――世界が、色づいた。
「わ……っ」
思わず声が漏れてしまった。
左側の車窓から見えたのは、「日本」の風景そのものだったからだ。
しばし見とれて、日除けのブラインドを上げる事も、すぐには思い至らなかった。
高いビルも無く、見ているだけで苦しくなるようなぎゅう詰めの車列もない。
食い荒らすアブラムシみたいに密集して建つ家もなく、見渡す限りに緑が広がり、ねずみ色の舗装道はまるでこの村に走る葉脈でしかない。
そう、葉っぱに栄養を行き渡らせるための、単なる脇役の葉脈だ。
この村は――――生きている。
葉の隅々まで、生き渡っている。
かなたに見える山々は、裾野の広がりまでもきっちりと見て取れる。
高層建築が遮らないから、春の青空は広くて、そして深い。
早く降りたい。
ここを歩きたい。
興奮しながら、窓にかじりついて風景を眺めているとやがて車両は減速した。
「終点、神居村でございます。お足元にご注意してお降りくださいませ――――」
ぷしゅう、という空気の抜ける音とともに、ドアは開いた。
当座の荷物を詰め込んだ大型のボストンバッグを肩に掛けて、運転席側の乗車口へ向かう。
「神居村」駅は、駅舎すらない無人駅だった。
路線は一つしかなく、一応待合室らしきものがある他は、駅名看板の横にベンチが二つだけ。
そのベンチも日に焼けた青色で、利用者の少なさが如実に分かるような有様だ。
ホームの端っこにある階段だけが、唯一のアクセス。
単なるコンクリート製のタラップだと言ってもいい。
「兄ちゃん、どこまで行くんだ?」
降りてすぐに見まわしていると、同じく降りてきた運転手さんが声を掛けてきた。
「あ、えーと……ココ、神居村で間違いないんですよね?」
「ああ、そうだよ。ここは終点、神居村。折り返しの運行は三十二分後だよ」
運転手さんはベンチの一つに座ると、手下げ袋から弁当箱を取り出し、広げた。
「で、どこに行きたいんだ? バスに乗りたいなら降りてまっすぐ、道なりに五分。今はこの時間だから……えっと、次は四十分後だな」
「この住所なんですけど、分かりますか?」
なんとなく着てきたブレザーのポケットから、紙片を取り出して運転手さんに見せる。
神居村神社前通十九番地○○××……なんて、見ても分かるわけがない。
「どうせ分からないじゃろうから、最初に出会った奴に道を聞け」なんて送り出されて持たされた、ひどすぎるお使いメモだった。
「フーム……いや、オレは番地までは知らねぇわ。ただ、神社前通りってのはここからすぐ見える、あの通りだな」
「すぐ?」
「ホラ見ろ、あの辺だよ。桜が一本だけニョキっと咲いてるだろ?」
弁当箱を置いて立ち上がり、柵の後ろへ向けて腰を捻って箸箱で指したのはなるほど、すぐに見える場所だ。
だが、問題は――――
「どう見ても直線で数キロありますよね?」
「ウソはついてねぇだろ。歩きな、兄ちゃん。熱射病にはならねぇと思うぞ」
件の通りは、見渡す限りの畑を隔てて数キロ先と思しい。
その間、農家がポツポツ立っているだけで他には何もない。
駅からすぐ見えるって表現は、こんな使い方をしちゃいけないに決まってる。
まぁ、他に手段が無いのなら……歩こう。
仕方なく、意を決してホーム端の階段を目指す。
「つーか兄ちゃん、何しに来たんだ? 春休みだろ? 親戚でもいんのか」
「いえ。転校してきたんですよ、この村に」
「へぇ、そうかよ。……頑張れよな。また無事に会えるといいな」
無事、という妙な言い回しに気付いたのは――――恥ずかしながら、ホームを降りてから六~七分歩いてしまってから、だった。
*****
陽気が思ったより暖かいので、マフラーを緩めた。
運転手が指し示した通りへ向けて、ゆっくりと、舗装された道を歩く。
道の両脇は今のところ左側が畑で右側が草むら、たまに未舗装の砂利道や畑の合間を縫う畦道と交差する。
息を吸えば埃っぽい土の匂いと、青臭さが満ちる。
本日四月二日、ほとんど始発の電車で俺はここへ来た。
乗り換えに乗り換え、電車に揺られること、起きてからずっと。
首都圏から離れるごとに人は減っていき、最終的にこの村まで来たのは俺一人。
――――そういえば、今は何時だ?
「はぁっ!?」
スマホを取り出し、確認すると……時刻は、昼の二時少し前。
だが、時間なんかもうどうでもいい。
何故なら。
「圏外? ウソだろ!?」
圏外。
もうこの機械はお荷物でしかない。
ネットブラウザ使用不可、メール・SNSアプリ使用不可、通話不可。
ナビも使用不可、歩くのに使える機能は電子コンパスだけ。
振ってみても、高く掲げてみても何も変わりはしない。
まずい、まずい。
見渡す限りの畑と田んぼ、視界の端では、乗ってきた電車が折り返して走り去るのが見えた。
コレは……ヘタをしたら詰むんじゃ、ないか。
こんな場所で、誰とも連絡をつけられないなんて。
「……おい、何してんだお前」
放心しつつも、とにかく歩き出そうとしたら――――声をかけられた。
振り返ると、俺より十センチほど背の高い細身の男が、年季の入ったカブの傍らに立っていた。
半ヘルからはみ出す髪は右側だけが長く、顔の半分どころか胸元まで伸びている。
薄汚れた作業ツナギはまるで工員のようなのに、見れば、歳はもしかしたら俺とそう変わらないかもしれない。
作業着と古そうなスーパーカブの印象とは違い、実際その顔は端正で鋭い眼をしていた。
そのまましばらく、何も言えずにいると。
「見ないな、お前。誰だ?」
「あの、……俺、この村に引っ越して……来たん、ですが」
「あ? ひょっとしてお前が転校してくるってヤツか? こんなトコ歩いてヒマだなお前。俺は
ずけずけと言ってくる様は、まるで……あの日に現れたハイカラ女を思い出す。
悪意は無いに違いないのが、また腹が立つのだ。
……敬語を使う気が失せたし、たぶん必要もない分、あの人よりは気楽だ。
「
「そうだ、見りゃ分かるだろ。で、お前何してたんだ、突っ立って」
「コレだよ、使えないんだ」
スマホの画面を差し出してやると、柳と名乗る同級生が――先ほどとはうって変わり、目を丸くしているのが分かった。
だが、その理由はあまりに斜め上だった。
「はー……。スゲぇな」
「スゲえ、って……何が?」
「これがスマホってやつだろ? 初めてナマで見た。意外とデケェな、おい」
「は? いや今何て言った……」
「ちょっと触らせてくれ。コレ、指で画面なぞんだろ? テレビで見たぜ」
言うが早いか――――柳はスマホをかすめ取り、タッチパネルをつついたり、なぞったり、ピンチ拡大の仕草を試みている。
「お、何か出てきた。カメラ、ってこれか? 確か……こう……」
シャッター音。
俺の困惑など置いてけぼりにして、センタースタンドを立てたカブへ、数枚シャッターを切っている。
まるで、未開の文明にふれたかのように興奮冷めやらぬ様子だ。
やがてひととおり触って満足したのか、一気にテンションを戻して俺にスマホを返した。
「へぇ、便利なモンだ。……で、コイツがどうかしたのか?」
「圏外なんだよ。電話もネットもメールもできないんだ。使える場所は……」
「ねェよ」
「は?」
「この村は多分どこ行っても、その“圏外”だな。携帯なんか持ってる奴いねぇぞ、この村」
「マジか……」
今、時代が軽く三つは遡っただろう。
文明はかくも脆弱に、寄る辺とするものがまず一つここで消えた。
「何死にそうな顔してんだ? 腹減ってんのか?」
「いや……何でも。それより、この住所知らないか? 俺の家になるらしいんだ」
「見せろ。……とりあえず神社目指せ。そこから道なりに辿ればいい。多分この時間なら、リョウの奴が村のどっかにいる。もし会えたらそいつに案内頼め。乗せてってやりてェのはヤマヤマだが、反対側に用事があってな。悪い」
「“リョウ”?」
「会えば分かるよ。……そんじゃな、期待してんぞ」
そう言うと、枝垂れ髪の男は二度、三度と始動させてようやくエンジンがかかったカブに跨り、さっさと言ってしまった。
今にもまた止まりそうな怪しい音が、少しずつ遠ざかる。
*****
「最初の村人」と分かれてから、俺はとりあえず神社を目指して歩いた。
翠さんから渡されたメモに書いてある住所は、ひとまずの俺の住所らしい。
誰かの家に住み込みなのか、寮でもあるのか、それすら訊けず仕舞いだった。
駅から遠ざかり、「村」へと近づくうちに、少しずつ民家は増えてきた。
だがそれでも相変わらず主役は緑で、増え方も決して早いと言えない。
歩けば歩くほど、奇妙な場所だ。
先ほどは、なんと「オート三輪」が畑の向こうを走っていくのが見えた。
国民的映画でしかもう見られない機械仕掛けの三輪車が、見たところ普通に走れている。
詳しい事は分からないがあれはもう生産なんかしていないと思うのに、それでもだ。
どの家も築数十年は下らないに違いなく、外壁の木板も黒ずんでいた。
「本当に……化かされてんじゃないだろうな、俺」
一抹の心細さを打ち消すように、あえて一人ごちた。
もしかして俺は、あのトンネルでどこか別の世界へ飛んだんじゃないか。
そんな発想さえ出てくる。
ポケットの中にある使えもしない文明の残り香、往時の名前はスマートフォン、をつい握り締める。
誰かと話したい。せめて今日の日付を聞きたい。
そんな事を考え、いや願いながら歩いていくと、水の音が聴こえた。
幻聴と思ったが、それは違った。
畑の切れ間に小川が流れているのが見えた。
それと――――人が、いる気配が。
せせらぎに混じって、ぱしゃぱしゃと跳ねるような音が聴こえる。
魚が住むような川には見えない。
近づいて行くと、音がもうひとつ加わる。
それは間違いなくヒトの鼻歌、そして一度は誰でも聞いたことのある旋律だった。
この季節と流れる水を歌い上げる懐かしい唱歌の。
惹かれるようにして道路からも外れて、幅にして一メートルもない小川の縁に立った。
対岸に――――その子がいた。
靴も何もかも脱ぎ捨てて、草の茂った土手に座り、魚の腹みたいに白い素足を、小川に晒していた。
俯いて
見たところ髪は短く、肩にはつかないくらいだ。
ブラウスの上には雲のように真っ白いカーディガンを羽織って、スカートは腿の半ばまでしか隠していない。
全体として、彼女はとても細身だった。
ほっそりとした足首は、たぶん中指と親指でつくる環に収まってしまうだろう。
軽く袖を折り返した腕も細くて、左の手首には濃い青色のミサンガが見えるが……妙に太くて、とてもかけられた願いは叶わなそうなものだった。
じっと見つめていると……やがて、彼女は顔を上げた。
照らされた猫みたいに、目を剥いて軽く身体を硬直させたのが分かる。
すっと通った鼻筋、
しかしそれも一瞬の事で……やがて、女の子はゆっくりと笑った。
その微笑みはとても柔らかくて、堅く締まった雪が、やさしく
「こんにちは。さっき着いたのかな?」
「え?」
じろじろと見ていた相手に対して、彼女はにべもなくそう言った。
もしかして……俺の事を知っている?
「あ、ああ……さっきの電車で来たんだ。何で俺の事?」
「ごめん、この村に同級生が増えるって聞いてたから。向こうから来たなら、柳とすれ違わなかったかい?」
「あのツナギの……」
「うん、それ。とりあえず、こっち側に来ない? 遠いでしょ」
確かに、話すには遠い。
この川幅なら、と……思いきって、飛び越える事にした。
白状すると立ち状態からの一メートル、それも斜面になっている場所への着地、加えて大型のカバンをかけた状態ではかなりキツかった。
倒れはしないし濡れずには済んだものの、バランスはかなり崩して彼女に見られてしまった。
間の悪さを誤魔化すようにして、とりあえずカバンを下ろして、左側に座った。
「七支……杏矢です」
「初めまして。ボクは、
「怜? って……ひょっとしてあいつの言ってた『リョウ』って」
「男の子だと思った?」
「まぁ……」
「リョウ」という名前だけ聞けば、誰だって男を思い浮かべるはずだ。
気まずくなりかけた空気をどうにか制しようと、こちらから問う事にした。
「咲耶……さんは、何してた?」
「さんはいらないよ、杏矢くん。春の小川に触れたいと思うのに、理由なんかないさ」
先ほど諳んじていた鼻歌を呼び、咲耶はただそれだけ告げた。
「で、キミはこんな所で何してるの。さっき着いたのなら、早く荷物を下ろしたいんじゃない?」
「そうだ……俺の家らしいんだけど、住所がどこかわからないんだ。一応メモだけ貰ったんだけど……」
例の住所メモを渡して、彼女を見やる。
柳は咲耶に案内してもらえ、と言っていたが初対面の相手にはなかなか言えない言葉だ。
もっとも……柳の態度自体もまた、初対面にするそれでもなかったか。
「あ、ここって……ボクの家の近くだね。よし、連れてってあげるよ。日も暮れちゃうしさ。それと、キミに渡しておくね。……役に立たない事を祈ってるよ、これが」
「御守り?」
立ち上がるより先に渡されたそれは、何の変哲もない“御守り”だった。
書かれているのは、“健康祈願”。
「なくしちゃダメだよ、危ないからね? さ、行こう。大丈夫、ここからそう遠くないよ」
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