一章・2
一か月ぶりに入る教室の前で、俺は深呼吸をしていた。
めちゃくちゃ緊張していた。
いや違うんだ、クラスメイトに避けられたりクラス内で孤立することには慣れている。決してそういうのが怖いわけじゃない。
――教室内が異様に騒がしかったのだ。
うちの高校は、別に超進学校ってわけじゃないが、かと言って不真面目な奴が大多数の不良校ってわけでもなく、誤解を恐れずに言うと「自称進学校」の部類に入る、比較的静かな奴が多い学校である。とりわけ俺のクラスは大人しい奴が多く、いくら夏休み明けだからといってこんなにクラスが賑やかなのはおかしかった。
その異常事態に、長い間人を避け、引きこもりを極めてきた俺の体が拒絶反応を示したのか、すっかりパニックに陥ってしまったのである。
一体この教室の中で何が起こっているのだろうか。
・・・ええい、考えていても仕方がない。
頼もう、と。もちろん実際に声など出してはいないが、思わず口をついて出そうな勢いで威勢よく扉を開けた。すると、
「・・・」
先程の賑やかさはどこへやら、俺以外が皆着席している中まるで示し合わせたかのように全員が無言のままこちらを向いていた。
わずかな沈黙の後、気だるそうに教卓に肘をついていた担任の吉井が、俺に着席するよう指示を出す。
――ゆっくりと自分の頬が紅潮していくのを感じた。
ああ神様、と声にならない声をあげる。なにも祝福してくれと言ってるんじゃない。せめて慈悲くらいは恵んでくれてもいいのではないだろうか。今年に入ってから人と話すのをやめ、なるべく目立たないように人の目を避けて平穏に暮らしていた俺にとって、この出来事は公開処刑にも等しかった。
あんたが遅刻したせいでしょ。自業自得よ、と妹は一蹴したが、第一俺は遅刻などしていない。ホームルーム開始の十分前には間違いなく教室の前に到着していた。にも関わらず、なぜ他の生徒が全員そろいもそろってあんな早くから着席していたのであろうか。
理由はこうだ。
極度の緊張で半分放心状態になったまま席へ座った俺は、着席と同時にその異変に気付き、すぐに正気を取り戻した。
・・・なんか席一つ、増えてない?
黒板を正面にして一番右の列、つまり廊下側の列の最後尾に、新品の机が一つとこれまた新品の椅子がセットになって無造作に置かれていたのである。これはもしや――
「では続けます。前々から告知していた通り、二学期からこのクラスに転校生が来ます。まあお前ら、穏便にやってくれ」
吉井が俺の予想と全く同じ回答をしてくれたところで、教室内は再び騒がしい雑踏へと戻る。
ははあ、なるほど。納得した。普段は借りてきた猫のこいつらも、夏休み明けのクラスに転校生が現れたとなればそりゃあ盛りのついた野良になるわけだ。せいぜい新しい出会いとやらに浮かれていやがれ。
吉井が前々から告知していたとか言っていたから、おそらく夏休み中、クラス全員で共有している連絡先に情報を飛ばしていたようだ。「夏休み明けに転校生が来る。色々準備があるのでお前ら早めに登校しとけ」とでも送ったんだろう。
当然、今俺の携帯は手元に無いため、俺はその情報を知り得ないわけだ。これでつじつまが合った。
それにしても、転校生、か。
もしこれが一年前の俺だったら、転校生という言葉の響きだけで胸躍り、そいつがどんな奴であろうと何とか関係を持とうと奮闘したはずだ。
しかし俺は既に色々と諦めてしまった。開き直ってすらいる。
仮に転校生のことを事前に知っていたとして、今後関わり合いにならない奴のことなんて忘れてしまっていただろう。今の俺にとって、転校生なんて他の大多数のクラスメイトと変わらない。どうせお互いに避けあうだけの、無意味な存在でしかないのだ――とまあこんな感じに、斜に構えていたわけだ。
――ガラガラ。
ついさっき俺が開けて大恥かいたその扉が再び開いた。ついに登場か、と教室中の視線がそこに注がれる。そんな中一人だけ明後日の方向を向いているのもおかしいので、皆の動きに合わせて俺もそちらを見やる。
入ってきたのは、白髪の少女であった。長髪をオールバックにしてカチューシャで留め、いかにも品のある動きで教卓の方へ歩いていく。丁度吉井の隣に来たところで彼女がこちらへ向き直ると、野郎どもから「おぉー・・・」と感嘆の声があがる。
「じゃあカトウさん、自己紹介よろしく」
「はい。このたび北高から転校して参りました、花(か)冬(とう)月見(つきみ)です。中途半端な時期からですが、これからよろしくお願いします」
俺にはいたって普通の自己紹介に聞こえたのだが、彼女がそれを言い終わると、再び野郎どもから「おぉーっ!」と今度はかなり大きな歓声があがった。こいつらいくら何でも興奮しすぎじゃないか?
いや、考えれば無理もない話である。うちは中高一貫制とかいう、出会いに飢えた男子高校生にとっての地獄のような制度を採用していて、端的に言うと中高合わせて六年間ずっと同じ面子で生活を送らなければならないのだ。そんな学校に入学して早四年、一切の友達を作らずに一人で生きてゆける俺の精神力には我ながら脱帽だが、とにかく他の連中にとってマンネリ化した学校生活に再び青春を取り戻してくれるであろう彼女の存在がこの上なくうれしいに違いない。
降ったばかりの新雪のように白い肌、ハーフなのか知らないが白い長髪に赤眼、おまけに低身長の美少女転校生とあらば、盛った男子高校生のハートはもう釘付けである。
でも、正直俺は・・・そんなこと、心底どうでもよかった。
色恋沙汰なんてそっちで勝手にやってくれ。ただ、こいつの転入をきっかけにして教室内が多少賑やかになり、俺にとって過ごしやすい環境が崩壊してしまうことだけが唯一心配された。まあその時はその時で、勇気を振り絞って生徒指導の教師に相談すればいいか。
そこまで考えを巡らせたところで、吉井が口を開いた。
「そんじゃまあ、親睦を深めるという意味も込めて、花冬さんのことを皆に知ってもらうための質問タイムを設けようと思います。皆どんどん質問してくれー」
耳を疑った。この馬鹿教師、プライバシーという概念がないのか!?
ここから歩いて五分で行ける北高からわざわざこの高校に転校してきたというだけでも色々とありそうなのに、こんな見た目ほぼ外国人の転校生に初対面の生徒からの質問に答えさせようとするなんて無神経極まりない。
ここは場の空気を悪くしてでも、その質問タイムとやらをやめさせるべきだ。
そう思って口を開きかけたのもつかの間、待ってましたと言わんばかりに前方の男子が「もしかしてその髪って自前っすか?」と自分の関心事をそのまま口にした。
なんなんだ、こいつら――そろいもそろって無遠慮すぎる。
俺が馬鹿二人の言葉に呆れかえって何も言えずにいると、あろうことか彼女、花冬月見は質問に答え始めた。
「はい。生まれつき髪は白くて、目も赤かったらしいです。アルビノとかって言うらしいんですけど、要するに色素が落ちちゃってるみたいで、ずっとこのままなんだそうです」
そう言い終わると、彼女は何事もなかったかのように次の質問を催促し始めた。その様子を見て、俺と同じ考えに至り遠慮気味だった生徒達が次々に質問を投げかけていく。順番に彼女が答えていく。これが何度か繰り返された。そして、
「――これで全部ですね」
彼女は投げられた質問を全て、失礼なものから遠慮のないものまで、嫌な顔一つせずに答えきったのである。
これには驚いた。もし俺が彼女の立場だったら、半分も答えきらないうちに間違いなくギブアップするという確信があったからである。自分の聞かれたくもない身の上話を延々とほじくり返されるなんてとてもじゃないが耐えきれない。こいつ、何者かは知らないが相当メンタルが強いみたいだ。
そうやって感心していると、一人目の馬鹿が性懲りもなく口を開いた。
「はいじゃあ質問タイム終わりでーす。皆花冬さんのことに興味深々だったようですね。これからもこの調子で仲良くやってくれ。じゃあホームルームは締め――」
てっきりこんな生徒のプライバシーも考えられないような悪徳教師がいる学校は消滅したものとばかり思っていたが、まさか自分の高校がそうだったとは。思いっきり騙されていた気分だ。朝から憂鬱である。
今日はのっけから恥をかいたり憂鬱になったりと散々な一日だ。しかし、ホームルームが終わり授業が始まればこっちのものである。昨日寝れなかった分も合わせて、リフレッシュの睡眠時間が俺を待っているのだ。この時間ほど自分が生きていると実感できる瞬間はない。
授業開始までもう少しの辛抱だ、と自分に言い聞かせている、まさにその時であった。
「ちょっと待ってください。最後に私からも一つ、言いたいことがあります」
花冬月見が、ホームルームを締めようとする吉井の声を遮った。
これ以上何の問答をしようってんだ。もうすっかりその気になっていた俺は、徐々に増していく睡眠欲を抑えるので必死になって少しうとうとしていた。
「先程の、なぜわざわざ北高を退学してこの高校に転入したのか、という質問に対して、私は『非常に個人的な理由があったため』と回答しましたが、あれは正確じゃないです。私には転入する目的があるんです」
それ一番しちゃいけない質問じゃあないか。途中めんどくさくなって聞いていなかったあの問答の中にそんな愚問があったとは。人というのはやっぱり、そういう類の黒い話が好きな傾向があるのだろうか。嫌だねえ。
それはともかく、目的があるということは、「北高じゃなきゃどこでもいい」という選択ではなくて、「この高校でなくてはだめだ」という選択だったわけか。つまり北高で問題があったというよりもうちの高校に特別な「何か」があるということだろう。
・・・「何か」ってなんだよ。うちは北高に比べて設備は古いわ立地は悪いわ、おまけにプライバシーガン無視の馬鹿教師はいるわで学校法人としては完全に敗北している。後考えられるものとしては、生徒くらいなものだが・・・ひょっとしてこいつ、初恋の王子様でも探しに来たのか?小学校の時の初恋が忘れられなくて、自分とは違う中学に入ったその男子をずっと追い続けていたら、この高校にたどり着いて――
ゆっくりと、妄想と夢とが交わっていくのを感じる。
ああ、だめだ。まだ寝るな。今はまだホームルーム中で、寝たら確実に吉井に起こされてしまう。俺は途中で起こされるとしばらくは眠れなくなってしまう体質で、おまけに今日は徹夜明けなのだ。今日、睡眠を誰かに妨げられるということは、それすなわち死を意味していた。
必死に彼女の話に意識を集中させ、眠気に耐える。
「私がこの高校へ来た目的。それは・・・」
教室中が生唾を飲み込んだ様子で静まり返った。知らないうちにどうやら話は核心へと向かっているようだ。とりあえず退屈はしなさそうだな、と軽くあくびをしたところで――
目が合った。
彼女、花冬月見は、その美しい赤眼をこちらに向けていた。
一瞬、いや俺のことなんか一瞥もするはずないだろ、自惚れるな童貞と思わず自分を罵倒してしまったが、続けて彼女の人差し指が俺の席をまっすぐに指差したところで確信した。今こいつは、間違いなく俺を見ている。
そして、おそらく教室中の誰もが予想だにしなかったことを口にしたのである。
「私は、あなたに会いに来たんです――」
結局、その日も眠れなかった。
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