雨の人魚は陸に上がれない

 図書館から借りた本に、気付けば夢中になっていた。ページをめくる手に感じる熱が、いつのまにか和らぎ。日差しよけにかぶったバスタオルの中、頰を撫でる風の冷たさにふと顔を上げてみれば、空の半分はすでに黒い雲に覆われていた。

「サンゴ! 雨降るよ!」

 着替えやタオルの入ったサンゴのリュックと、タオルと本を押し込んだ自分の鞄をひとまず更衣室に放り込み、私はサンゴを呼ぶ。足の裏に張り付くプールサイドのタイルは、まだ熱い。

「サンゴってば!」

 私の声が聞こえていないのか、聞こえていてふざけているのか。

 朱い鱗は、揺れる水面の下を優雅に泳ぎ回っている。ひらり、と流れる鰭の長さが、今は恨めしい。


 サンゴは、というか人魚は、魚の下半身を乾かすと人の脚になる。人の脚を濡らせば、魚の鰭になる。つまり、乾かなければ陸上を歩けないのだ。人の足で多少雨に濡れるくらいならば、鱗が浮き出るだけで済む。けれど、魚のままだと。雨が止むか、雨宿りできるところまで私が引きずっていくかしなければ、家に帰れない。

 これから降る雨が、通り雨なのかずっと降る雨なのか、私にはわからない。(天気予報を見るのを忘れたのだ。あまりにも良い天気だったから!)


 すでにあの刺すような日差しの面影は無く。低く唸る黒雲が、私の頭上に迫っている。

「サンゴ!」

 ちゃぷん、と軽やかな水音とともに、いたずらな瞳が覗く。息継ぎしなくても良いのだろうか。鼻から下はまだ水の下だ。

 私はプールサイドに膝をついて手を伸ばす。

「ほら! 上がって!」

「まだ泳ぎたいなー」と、サンゴの丸い目は雄弁に語っている。目だけを出したままこちらへ泳いでくる、ゆっくりとした行動も。

 でも濡れた人魚はほんとうに、ほんとうに重いのだ。できれば立って歩いて家まで帰ってほしい。

 だから私は、目一杯手を伸ばし、ちょっと掲げただけの気乗りしないだろうサンゴの手を掴む。

 掴んで、引き上げる。そのために立ち上がる。

 いつもなら、サンゴの魚の尾が水を掻き、水上に身体を持ち上げる確かな感覚があった。


 ああ、でも今日は。


「うわおもっ?!」

 右腕に、右肩に、人ひとり(いや人魚ひとり)分の重さが襲いかかる。

 これで終わりだと思っていた階段が、あと一段あった時の。中身が空だと思っていた、まだ半分は入っている缶を持ち上げた時の。

 あの感じ。思いがけない負荷。

 それは私の体幹をたやすく崩す。運動部である私の弟ならば、耐えたかもしれない。でもバベルの塔よりもあっさりと、私は揺らぐ。


 風が吹く。真夏の湿気をたっぷりと含んだ、水の匂いがする風が。

 強い風に草木が震える音がする。ざ、という、胸騒ぎと同じ音。音は連続して、向こうからこちらへと走り寄る。

 私の背後から雨がやってくる。気配が私の髪を揺らし、さらい、頰を撫でる。

 私の身体は宙に投げ出されている。地面と空の間で、ほんの束の間、私はどちらにも属さない。

 落下。その感覚は、いつだって私の心臓を竦みあがらせる。近付くのは衝撃の予感と青い水。

 呆然と四肢を投げ出して落ちて行く私を、追い越してゆくものがある。遥か彼方の空の向こう、海の向こうからきたのだろう、雨。目の前に広がる青と同じ属性のそれ。

 雨滴は軽やかに落下して、水面へいくつもの波紋を広げる。青い水へ、溶けてゆく。


 元々は同じものだから、そうもあっさりと落下して溶けてゆけるのだろうか。戸惑いも、恐れもなく。

 私は、水に溶けることのできない私は、混乱と共に落ちて行く。


 目を閉じる。それは反射だ。衝撃に備えるための。

 冷たい、と予想していた水は、存外な温かさでもって私を包み込んだ。耳に届くのは泡が登る音。息は止まっている。

 私は泳げるけれど、それは泳ぐという確固たる意志があるからこそだ。こんな唐突に水へ落とされて、そこからまともに泳げるわけがない。弟ならば、いざ知らず。

 だから私はまず息をするために、水上を目指す。水を掻く。

 その手を取られる。手首に、柔らかく絡みつくものがある。水と同じ温度。

「誰?」か「なに?」か、ともかく、私はそれを認識するために、目を開く。水の中の歪んだ視界。

 ゆらゆらと揺れる、長い髪。いたずらな瞳。笑みの形をとる唇。

 サンゴ。私のつぶやきは泡になり、溶ける。きらめきと共に、天へのぼる。

 こつ、と額に淡い衝撃。夏の日差しと同じサンゴの表情が、近い。


 人魚の忍び笑いは、細かな泡を生むのだと、私は初めて知った。


 くぐもった水下の世界に比べて、水上は万雷の拍手もかくや、という騒がしさだった。ぷは、と息を吐く私に、激しい雨が襲いかかる。

「びっくりした?」

 遅れて浮かび上がったサンゴが問う。通り雨に負けない、大きな声で。

 私の耳は、サンゴの声ならばどんな大きさでも拾ってしまうのに。

「何にびっくりしたらいいのかわからない!」

 拭っても拭っても目に口に入ってくる雨の中、私は叫ぶ。前髪が顔に張り付いて気持ち悪い。濡れて張り付いた制服が重い。私は水辺に縛り付けられる。

 あはは、と笑うサンゴ。声を上げ、楽しそうに私の手を取り泳ぎだす。

 ラッコのような、仰向けの泳ぎ。引かれるがまま、私は水面を滑り出す。ばた足で、苦労して。雨の中、25メートルプールの真ん中を、ぐるぐる回っている。

 彼女と共に、私は雨が上がるまで、プールの真ん中でこうして浮いているのだろう。遥か彼方の水滴に打たれながら。

 スマートフォンをカバンにしまっておいて良かった、と思いながら。

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あの子と私とSF(すこしふしぎ) こばやしぺれこ @cova84peleco

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