あの子のスカートの中の管狐
あの子は私より偏差値が十は上の学校の制服で、いつもどこか遠くを見ていた。
あの子を見かけるのは、毎朝の通学電車の中だった。話したことはない。同じ中学だったわけでもない。ただ時々、同じ車両に乗り合わせるだけだ。
あの子のスカートの中にいる「何か」に気付いたのは、二学期も半ばを過ぎたころだった。
田舎とはいってもそれなりに混み合う朝の電車の中、その日も私は暇つぶしにスマホを見ていた。
「痛っ」聞こえたのは、低い悲鳴。それなりに気になる近さの人々の視線を集めたのは、おじさんとお兄さんの中間地点にいるような男の人だった。右手をぎゅっと押さえ、気恥ずかしげに俯いている。何かに引っ掛けたのか、指の間から赤いものが垂れていた。
集まった視線は、しばらくしてそぞろに散っていく。それぞれがそれぞれ、何かに納得したらしき気配。でも私はどうしても目が離せずにいた。
男の人からではない。その人の前に立つ姿。長い黒髪が頰にかかる、ミステリアスな横顔。あの子だ。いつもなんとなく気になってしまう、知らないあの子。
私は見ていた。誰かの面白げな日常を、手のひらの中で追いながら、時折そっと視線を上げて。あの子が今日も電車の中で遠くを見ているのを。
私は見てしまった。男の人の悲鳴の直後、ほんの僅かにひだを揺らし、あの子のスカートの中にするりと消えたもの。細長い、モフモフを。
脳裏をよぎったのは、小学生の頃の記憶。同級生が飼っていた、ひょろ長い生き物。
フェレットだ。
あの子のスカートの中に、フェレットがいる。
または、ヨーロッパケナガイタチ。
その翌日から、私はあの子を、正確にはあの子とスカートの中のフェレットを、観察するようになった。
いつも同じ車両に乗る私とは違い、あの子の乗る車両はランダムのようだった。私は乗り込む車両を変え、毎朝混み合う車内を先頭から後ろに向けてあの子を探して歩くことになった。
あの子は電車の中でいつも立っていた。みんながスマホや参考書を開いたり、居眠りしたりしている中、いつだって窓の外を見ている。その横顔は、ぼんやりしているように見えて、とても大事なことを考えているように見える。
あの子のスカートは、何の変哲も無い制服に見えた。でも、よく見るとわかる。ブレザーの裾がかかる、腰のあたり。僅かに不自然な膨らみがある。スカートを短くするために折るとできるような、微かな厚み。私がじっと見ていると、それは時折もぞりと動いてるように見えた。
あの子のスカートの中のフェレットは、あの子の後ろに立つ人に噛み付くようだった。私が観察を初めてから一週間の通学のうち、三度噛んでいた。あの子の真後ろに立つ男の人は、いつも手を押さえて電車から降りることになる。女の人が立った時は、そんなことにはならなかった。
あの子のスカートの中のフェレットは、素早い。涼しい顔で遠くを見るあの子のスカートが、ほんの少し揺れただけで、男の人は右手を(時々左手を)抑えて悲鳴をあげることになる。まさに電光石火の早業。私の大好きなモフモフは、いつもほんの少ししか見られない。
それならば。
その日、私はスカートのポケットを意識しながら電車へ乗り込んだ。
幸運なことに、私が乗り込んだ先頭車両にあの子はいた。いつも通り、つり革に右手を掛け、窓の外へ顔を向けている。混み合い始めた車内、あの子の後ろには誰もいない。私はさりげなく、あの子の後ろに滑り込む。
あの子の向こうの景色が、ゆっくりと流れ始める。次第に加速する世界の中、私は十五分間の勝負に出る。
電車の中では、人々はみんなそれぞれの世界に閉じこもっている。肩が触れるほど近くても、見えない壁で周りを囲って、意識は自分自身にだけ向けている。
だから私が制服のスカートに手を入れても、そこからジャッキーカルパスを引っ張り出しても、誰も気にしない。指摘しない。
でもこのそれぞれの壁はしゃぼん玉のように薄くて、大きな音や動きで割れてしまうことがある。だから私は慎重に行動する。
パリパリとした触感の包み紙(ビニール? これはなんという素材なんだろう)を、片手でこっそり開く。落とさないように。音を立てないように。
結構匂いが強いと思っていたけれど、今の所この匂いに気付いた人はいないようだ。ちょっとだけ周りを気にして、いざ。私は手のひらの中に隠すようにしたジャッキーカルパスを、さらに自分の体で隠しながら、目の前のあの子のスカートの下に差し出した。
私は今、揺れる電車の中で中腰になり、目の前の女の子のスカートへ手を差し出している。どう見ても、怪しい。けれど車内の人々は、私の行動に気付いていない。女の子が、女の子のスカートの中を気にするなんて、思いもしない。
中腰で電車の揺れに耐え始めて、どのくらい経っただろうか。私が注視する、真っ黒で分厚い生地のスカートが、もぞりと動いた。
あ、と思った瞬間。スカートの下から現れた、鼻先。ピンク色で、小さな鼻の穴が二つ付いた、クリーム色の毛並み。
きた。声を上げそうになって、堪える。動物は、こちらが想像している以上に私たちの感情を見抜いている。ここは気付いていないふりをしなければ。
スカートから覗く鼻先は、私が差し出したカルパスの匂いを嗅いでいた。ピンク色の、つやつやの鼻先が、ひくひくと細かに動いている。興味を持ってくれている。かわいい。胸がぎゅっとなる。
スカートの中の子は、思ったよりも大胆だった。白い歯をちらりと見せ、私の手の中のカルパスに噛み付いた。ちょうだい、とでも言うように、カルパスをぐいぐい引っ張ってくる。白くて綺麗な歯。その歯で、何人に噛み付いて来たのだろうか。もう少し、見ていたかったけど、私はカルパスを手放す。
ばいばい、お父さんのおつまみとフェレット。
素早くスカートの中に消えたフェレットは、どういうわけだかスカートの奥に消えることなく、あの子のお尻のあたりにとどまっているようだった。フェレットの形に膨らんだスカートの生地。もそもそと動くそれを私は見ている。その下のモフモフを想像しながら。
と、もう用事はなくなってしまっただろうに、あのピンクの鼻先がちらりとスカートの裾から現れた。おかわりを要求しているのだろうか。ぴくぴくと可愛らしい鼻を動かして、あちらこちらを嗅いでいる。ごめんね、次はもっと持ってくるから。私は「もうないよ」を教えるために、空の指先を差し出す。
「わ」
思わず声が出てしまった。指先に触れた温かな感触。柔らかで、湿った。鼻先と同じピンク色の、舌。
スカートの中のフェレットは、私の指先をぺろりと舐めて、あの子のスカートの中に消えていった。
「ありがとう」とでも言いたかったのだろうか。ぎゅっ、としていた胸がさらにきゅううう、と締め付けられる。
「フェレット、かわいい……」
「きつね」
万感の思いをつぶやいてしまった私。それに答えたのは、目の前の。
「えっ?」
かわいげでモフモフだけど、肉食の小動物に似た真っ黒な瞳が、私を射抜いている。
「くだぎつね。フェレットじゃないよ」
それが、あの子と交わした初めての言葉だった。
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