あの子と私とSF(すこしふしぎ)

こばやしぺれこ

白い炭酸と人魚

 頭上には底抜けの青空が、眼前には水深二メートルの水面が広がっていた。


 水泳部が合宿中で、野球部が練習試合に出ている今、夏休みの校内に人の気配は薄い。それでも私はぐるりとプールの外を見やる。薄緑色をした金網越しの、日に焼けて乾いた色をした校庭。午前十時の日差しを全身に受ける校舎。人影は見当たらない。あるのは通り雨の密度で降り注ぐ蝉の声だけだ。

「そんなに警戒しなくたって」

 許可はあるんでしょう? と濡れた髪を掻き上げながら、サンゴは言った。

 プールへ入るため、きちんとシャワーを浴びてきたようだ。彼女は転入初日の大騒ぎを忘れてしまったのだろうか。

「確認」それだけを言って私は彼女から目をそらす。焼けるような足の裏を意識しながら、「1」と書かれた飛び込み台の隣に立つ。水面で踊る光が眩しい。

「足がーくっついちゃうー」奇妙な節をつけながら、サンゴは小走りに「2」の隣へ。

 上半身に張り付くキャミソールタイプの水着と、透けるような白い肌。肩を越す程度に伸ばされた髪。ヘソのくぼみとなだらかな下腹部のカーブ。それにうっすらと鱗が浮き出し始めた彼女の脚は、同性の私にとっても目の毒だ。


 サンゴは、人魚の国からの交換留学生だ。水泳部のエースにして我が校からの交換留学生に選ばれた弟に代わって、私の家にホームステイしている。


「それじゃ」いってきます、といたずらに笑い、サンゴは「3」と書かれた飛び込み台から飛んだ。すでに膝上のあたりまで鰭へと変化している足の先だけで台を蹴り、自由落下につま先から身をまかせるような飛び込み。上がる水しぶきは少ない。私は「2」の飛び込み台に立ち、ゆらゆらと揺れる水面の下を覗いている。一度、二度、サンゴの揃えられたつま先が水を蹴る。そのあとは縁日の金魚を思わせる長い尾鰭が、揺れる水面の下に広がった。

 人魚の泳ぎはとても静かだ。時折息継ぎのために水上に顔を出す以外は、波を立たせることはない。弟の手足が作り出す白波を思いながら、私は「2」の飛び込み台に腰を下ろした。


 弟はあんな騒がしい泳ぎで、人魚たちとうまくやれているのだろうか。弟のことだから、人魚の泳ぎから何か良い影響を受けているだろうが。サンゴを見れば、人魚がとても気の良い性格であることはわかる。でも私とは真逆で、いつも一言多い弟のことだ。とんでもない無礼を働いて、沖縄の南の先から長野の山奥まで、泳いで帰らされたりしなければ良い。


 プールへ投げ出した素足は、気化熱からか涼しい。夏服とはいっても黒い制服のスカートは、容赦無く降り注ぐ太陽光を吸って熱い。私は傍らに置いた通学カバンから、行きがけの自販機で買ったペットボトルを引っ張り出す。ぱし、という軽快な破裂音。密閉された空間から漏れ出た炭酸が、わずかに白く煙る。口の中をくすぐるそれは、白くて甘い。

「ひとくちちょーだい」

 ふくらはぎを突かれる。濡れてなお指通りの良さそうな髪を、サンゴは耳にかけている。

「こぼさないでね」

 どうやってか、サンゴは器用に水の上へ上半身を出している。私から、両手で捧げるようにペットボトルを受け取る。喉を晒し、飲み下す。白くて、細い喉。汗かプールの水なのか、一筋の水滴が流れ落ちる。


 人魚の肌は、日に焼けないのだろうか。


「うまーい!」

 ありがとー、と屈託無く笑いながら、サンゴは私へペットボトルを差し出した。人魚の国には無いものらしい、この白い乳酸菌飲料をサンゴは好んでいる。こちらへ来て初めて飲んだ時の喜び様は、まだ記憶に新しい。私へペットボトルを返す笑顔は、いつだってあの時と同じだ。

「あ」

「もうちょっと泳ぐね!」

 受け取ったペットボトルの軽さに私が声を上げるのと、サンゴがとぷんと青い水の中へ消えたのは、ほとんど同時だった。

「自分の買ったじゃん!」

 思わず叫ぶ私の二十五メートル先で、

「あたしのも一口あげるから!」

 笑い声と共に、ひるがえる長い尾鰭の先から水しぶきが舞った。

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