2-19ケストナー夫人とフリッツ少年の賭け

 シャルロッテがその作戦を口にしたとき、隣室から届いたのは吐き捨てるような言葉だった。


「そんなの、信じろっていうのか?」


 少年の警戒心がありありと伝わってくる。ヴィルヘルミナが鎮圧を決定した時から噴き上がっていた憤りは、今や最高潮に達していた。


「バカじゃねえの。おまえがウソついてない証拠はあんのかよ。そうやって俺もあいつらも憲兵警察に突き出すつもりなんじゃないのかよ、違うって証明できんのかよ!」

「できないわ。それに、私を信じられなくてもいい」


 壁越しにかすかな戸惑い。目的の半分は不意打ちで少年の警戒を緩めることだったから、ある程度は成功しているといえた。

 しかしもう半分はただの本音だ。信じてもらえなくても構わない、ただ手を貸してほしい。それは彼の視点から見るなら、きっとこういうことだった。


「私に賭けるの。そして賭けるかどうかは、あなたが決めるの。あなたにしかできないことだもの、決断するのはあなたよ」


 酷なことを言っているとは思う。まだ十歳かそこらの子どもに、多くの人の命運を握らせるのだ。

 だがこれまで「公平」を謳った以上、彼を子どもとして決断の権利を奪う不公平は通せなかった。その欺瞞を悟られた瞬間に今までの説得が嘘になる。彼は対等な交渉相手であり、シャルロッテは真摯に向き合っている――この姿勢だけは崩してはならない。


 だからシャルロッテに許されるのは、その重みをほんの少し軽くすることだけだった。


「もちろん、あなたひとりのせいにはしない。提案をしたのは私よ。あなたが何を選んでも、責任はあなたと私の――」

「それから、私のものだ」


 少し掠れた声が、包みこむように遮った。


 隣のヴィルヘルミナを振り仰ぐ。背筋を伸ばした立ち姿は凛と揺らがず、そのくせまっすぐな視線はどこまでも優しい。シャルロッテの肩に触れると力強く頷いてくる。


「約束しただろう? 私はロッテと共に戦う。ならば戦果もリスクも分け合うのが道理だよ」


 微笑む。ただそれだけの表情で迷いが溶け、万能感に酔ってしまう。ヴィルヘルミナの全肯定は心地よかった。ともすれば泣いてしまいそうなくらいに。


 ――本当、ミーナには敵わない。


 熱を帯びた目頭をごまかすように、少しだけうつむく。肩の手に指を絡め、彼女のぬくもりを貪った。


「これじゃ、戦友どころか共犯者ね」

「嫌か?」

「いいえ、最高だわ」


 旧友で、戦友で、共犯者。ふたりの関係にいくつの肩書がついても、その本質は変わらない。

 ヴィルヘルミナはいつだって、シャルロッテに勇気をくれる。


 だからその手をきゅ、と握ったのを最後にシャルロッテは立ちあがる。ヴィルヘルミナがついてきてくれるのを感じながらゆっくりと深呼吸。そして、隣室に足を踏み入れた。


 軍用犬がじっと視線を向ける部屋の隅、少年は手錠で繋がれていた。思っていたよりもあどけない顔立ちだ。信じられないものでも見るように目を見開いているからかもしれない。

 素知らぬ顔で髪をかきあげ、微笑んでみせる。背後にいる彼女を真似て。


「さあ、答えを聞かせて少年さん。あなたは私に賭けられる?」



* * *



「みんなー! 聞いてくれー!!」


 バルコニーから身を乗り出す背中を、シャルロッテは室内で見守っている。少年の傍にはヴィルヘルミナが佇み、油断のない姿勢で眼下を見回していた。にわかに外の気配がざわつく。


「フリッツ……」

「いや、軍人もいるぞ」

「離れろクソ軍人、フリッツを解放しろー!」

「俺なら大丈夫だ! いまは堪えてくれ、このまま聞いてほしい」


 すう、と息を吸う音が届く。ここから続く言葉は少年にとっても不本意そのものだろう。しかしそれでも、彼は血を吐くように言い切った。


「みんな、軍人どもに従ってくれ。これ以上暴れたらまずいんだ。俺も、ホントは絶対、死んでも嫌だけど……でもいまはそれしかないんだ!」


 ざわめきが凍った。

 静寂は一瞬だけだ。戸惑いの囁きが広がっていくなか、憤懣そのものの声がまっすぐに投げつけられる。


「お前ら……フリッツを脅しやがったな、この卑怯者が!」

「違う! 俺が、俺が……」


 即座に否定する少年。ここが正念場だ。言い淀みながらも、その背はすでに決意を固めている。


 そして彼は、状況を一変させる波紋となった。


「俺が、告げ口したんだ! ここにみんなが来るって!」


 午後の青空に叫びが響く。今度こそ唖然としたらしい仲間を前に、少年は半ばうつむきながら、しかし懇々と続けた。


「こいつらに見つかって、それで俺、もうダメだって思って。直接話してなんとかしようって思ったんだ。だから軍人に頼んで、あの女のとこに連れてってもらって、説得しようとして。だけど、間に合わなくて」


 不安からか罪悪感からか、少しずつ言葉が弱々しくなっていく。この嘘八百はむろんシャルロッテからの指示に他ならない。


 ここまで暴走してしまった難民たちを鎮めために、仲間の一員である少年――フリッツに呼びかけてもらう。さらに「父を捕らえられたフリッツが、シャルロッテとの協調を望んだ」という前提をつけて。このやり方が一番効果的だと、それがシャルロッテとヴィルヘルミナの判断だった。

 少年も結果的には応じてくれた。第一段階は成功だ。


「心配させてごめん。けど俺、これしか思いつかなかったから……」

「さて、お前たち。これでもまだ抵抗を続けるつもりか?」


 少年の傍らでヴィルヘルミナが口を開く。ことさら張り上げるわけでもないのに、その声は凛と芯が通っていた。


「この少年はやれることをやった。お前たちのためにな。彼への敬意を表して、お前たちの処遇は約束してやる――ただし、このまま大人しくしているならばの話だ」


 一瞬、大気がひりつく。後ろからでは分かるはずもないのに、シャルロッテには彼女の鋭い眼光が見えた気がした。


「全員、黙って縛につけ。これが本当の最後通牒だ」


 その威圧に逆らう者はいなかった。反駁の声はひとつもあがらず、敵意は無言のうちに押しこめられていく。

 少しでも突つけば火を吹きそうだった空気が、なんとか制御可能な領域にまで安定した。それを確かめたのか、ヴィルヘルミナも手を下ろす。


「さて、お前たちもいったん銃を降ろせ。無力化した相手を脅かす必要はない」

「はっ!」


 グレーテルと呼ばれていた副分隊長の声。武装を解除したようだが、暴徒らが再び暴れ出す様子はない。第二段階――穏当な鎮圧も無事成功だ。


 ヴィルヘルミナの視線がこちらを向く。それに頷いてみせて、シャルロッテはゆっくりとバルコニーに足を踏み出した。

 柵の向こうでは30人ほどの男性が座らされた状態でこちらを見上げている。大人しくしてこそいるが、その目にはやはり鬱屈の色が強い。下手に刺激しないよう語りかける。


「皆さん。ごめんなさい、いま夫はいません。だからせめて、私の言葉を夫の言葉と思って聞いてください」


 内心で小さく舌を出す。アルバートを巻き込む形になるが、そもそもの元凶は彼だ。連帯責任くらいは負ってもらう。


「皆さんのお怒りはごもっともです。それだけ理不尽な目に遭われたのだとも思います。その理不尽を私たちが煽ってしまったのであれば、謝罪をするべきでしょう。大変申し訳ありません」


 深く頭を下げる。皆が呆気に取られる中でも、ヴィルヘルミナが警戒を巡らせているのが分かった。

 シャルロッテが表に出て、ヴィルヘルミナを困らせることは理解していた。敵に狙撃のチャンスを与えるようなものだ。だが、フリッツ少年に仲間を裏切るような真似をさせた以上、こちらもある程度の覚悟は見せなければならない。


 なにより、この第三段階はシャルロッテにしかできないことだ。ならば最小限の時間で最大の結果を出してみせる。


「この件、私はできることをするつもりです。あなた方の要求については、真剣に取り組むことをお約束します」


 頭を上げる。周囲はしんと静まりかえっていた。混乱と警戒。仇敵の身内が隙のない誠意を見せている。どう応じたものか分からなくなるのも当たり前だ。

 その中にほのかな期待が生まれつつあるのを確信して、シャルロッテは賭けに出た。


「ここはどうか矛を収めてください。には、私にも思うところがありました。あなた方の労働条件について、改めて会話の場を設けさせてください」


 戸惑いが再び暴徒たちの表情を染める。

 彼らの目的は捕らわれた仲間の釈放だ、労働争議の話など一度として出ていない。どうしてそんなことに焦点が当たったのか不思議でならないだろう。だがシャルロッテにとっては、憲兵警察が絡む案件でなければなんでもいいのだ。


「お前、一体何を」

「安心してください。「あなたたちの望み」はきちんと理解しています」


 暗に嘘に乗れと告げる。彼らが違うと言ってしまえば、この作戦は破綻する。


「この「デモ」はあなた方の日々の不満の爆発です。装備が少し荒々しいのは賛成できませんが……結果的にそれを持ち出すことになったのも、フリッツくんが私に連れ込まれたと思ったからでしょう?」


 口を挟ませないよう言い切って、眼下をまた一瞥。意図を読んだ人間は半数ほどか。このまま話が進むことを祈るしかない。


 第三段階の目的は、暴徒らの行動の非政治化――つまり、政治犯を扱う憲兵警察への引き渡しを阻止すること。暴徒の鎮圧だけならば第二段階までで十分だったが、フリッツの協力への返礼としてこの行動は外せない。

 何よりシャルロッテも意地がある。ここまできたら引き下がれないし、そうしたくもなかった。早々に話をまとめにかかる。


「まあこのデモは許可を得ていない……というか、得られなかったはずです。そこは問題なので、代表者の方、私と一緒に普通警察に出頭してください。細かな話はそこで」

「お願いだ、みんな分かってくれ! お願いだから……」


 フリッツの懇願が重なる。示し合わせたわけでもなかったが、これが決定打だった。

 しばらくの沈黙ののち、大柄な男がすっと手を挙げる。顔に迷いの色はなかった。行進する兵のような目つきで、毅然とこちらを見上げている。


「……分かった。無許可デモについて普通警察に出頭する。ただし、俺たちの要求を改めて聞いてからにしてもらおう」

「ええ、もちろんです。門番さん、その方を通してください」


 言うと、衛兵隊の門番ふたりがあからさまに困惑の表情を浮かべる。責任問題になることを恐れているのだろう。衛兵隊側から制止が入る前に「責任は私が負おう」とヴィルヘルミナが言い含めると、渋々と鉄製の門が開いた。

 男が警戒しながらも敷地に脚を踏み入れる。マルガがその後ろについた。ふたりが通りすぎた途端、門は音を立てて閉じる。


 第三段階もほとんど成功。これ以上外に姿を晒す理由はない。


「それでは皆さん。ここで少しお待ちください」


 有無を言わせぬ笑顔で一礼し、室内に去る。続いたフリッツ少年がぼそりと呟く前に、ヴィルヘルミナがバルコニーへの窓を閉めた。


「……これでいいんだろ」

「ええ、あとは私に任せて。あなたのお父さんの身柄については全力を尽くすわ」

「約束だぞ。これで父ちゃんたちが戻ってこなかったら、今度こそ俺たちはやってやる」


 きつく睨みつける視線は、それが本気だと物語っている。利害が一致したから協力したが馴れ合うつもりはない。はっきりした意思表示はむしろ好ましかった。


「分かってる。ありがとう、フリッツくん」


 そう応じるとフリッツは小さく鼻を鳴らし、駆け足で部屋を出ていく。仲間の元へ戻るのだろう。

 フリッツに約束したことは嘘ではない。憲兵警察からの事情聴取がまだなのだ。憲兵警察に押しかけて「犯人たちにシャルロッテの顔を確認した様子はなかった」と証言すれば――つまり高官の身内を狙った犯行ではないことにすれば――少なくとも政治犯の扱いからは外れるだろう。いくら憲兵警察が勢力を広げつつあるとはいえ、そうなれば管轄は普通警察に移るはずだった。

 ようやく一息つける。そう重荷を下ろしたばかりの肩が、軽く叩かれた。


「ロッテ、お疲れ様」

「ミーナ……」


 振り向くとヴィルヘルミナが小さく笑んでいる。こちらもどこか安堵した様子なのは、ずっと気を張っていたからだろう。迷惑をかけた自覚が罪悪感を刺激し、思わず小さくうなだれた。


「ありがとうねミーナ。それにごめんなさい、わがままを言ったわ。あなたの仕事の邪魔をしてばかりね、私」

「まあ、ずいぶん無茶をしてくれるものだとは思うが……これが君の信じる道なのだろう?」


 軽く肩を竦めるヴィルヘルミナ。俯いたこちらの顔を覗き込んでくる。


「ロッテ、君は正しい。なら私のことなど気に病まないでくれ」


 その瞳はまっすぐにシャルロッテを捉え、嘘などひとつもないことを告げていた。

 無意識に頬が緩む。ここまで言われてしまうと、変に悩む方が失礼な気さえした。起伏の薄い胸にもたれかかり、悪戯っぽく語りかける。


「そんなこと言われると、また困らせても許されると思っちゃうじゃない」

「許すよ。君の思う正しさは、私の信じるそれでもある」

「そっか。ならこれからもよろしくね、戦友さん」

「心得たよ、我が戦友」


 肩を抱かれ、互いにくすくす笑いながら睦み合う。その穏やかな眼差しに、シャルロッテを蝕んでいた焦りがゆっくりと薄れていった。


 ――ねえミーナ、私、少しでもあなたに近づけたかしら?


 その問いかけをするのは今ではない。ヴィルヘルミナが駆けつづけてきた9年間に、そう簡単に追いつけるとも思っていない。だが彼女が信じ続けてくれるなら、シャルロッテは諦めずに前へ進めるから。

 ただこうして傍にいられれば、今はそれで構わなかった。

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