1-5とある日曜日の郊外にて②
茶色い革張りの後部座席に乗りこみ、軽く息をつく。
次いで夫――アルバートが隣に座り、扉を閉めた運転手が最後に乗りこんだ。たった3人しかいないのにその人口密度にげんなりする。
自家用車など、今話したような労働者たちには手の届かない贅沢品だと分かっている。分かってはいるが、どうもこの手狭な空間には慣れることができなかった。プライベートだの高級感だのが欠片もない列車やバスのほうがむしろ好ましい。
オープンカーなのでいつもはまだ開放感があるが、今日は朝から降りつづける雨のせいでルーフを広げているから余計にだった。布を打つ雫の音と震える車体がいやに癇に障る。
いや、そもそもこの不機嫌はそんな理屈がなかろうと――そう隣へ視線を移すと、気づいたアルバートが夜闇のなか、柔和に微笑んだ。おなじように笑みを返す。
そっぽを向いてしまいたいという衝動は、息をするように抑えこんで。
「今日もご苦労だったね、シャルロッテ。これじゃ帰りはずいぶん遅くなってしまうな。疲れてはいないかい?」
「平気よアル。今回も私、ちゃんとできていたかしら」
頬に手を当て目を伏せて、いかにも不安がっているという表情をしてみせる。そのタイミングでエンジンがかかったらしく、車体が前にがくんと動いた。アルバートは支えるようにシャルロッテの背へ触れ、甘いバリトンの声で語りかける。
「満点だよ。シャルはいつも彼らに親身でいてくれるからね、僕としても鼻が高い。むしろ君がいないと、彼らだってここまで打ち解けてはくれないさ」
服越しに感じる体温が気持ち悪い。それでも甘えて夫の胸へしなだれかかるのが、「愛らしい妻」として理想的な姿なのだろう。ならばシャルロッテはその皮を被るまでだ。
安堵の微笑みを浮かべて身をあずけたシャルロッテの肩を抱き、アルバートは妻の前髪を横に流す。手つきは壊れ物を扱うように優しく、だがシャルロッテは知っている。この仕草が、決まってシャルロッテの眼を窺う直前にするものであることを。
「君のような思いやりと理解のある妻がいてくれて、僕は本当に幸せだ。心から笑顔を浮かべる生活が送れるというものだよ」
その言葉に、ぞわりと全身の肌が粟だった。
案の定だった。悪寒に震えそうになるをのなんとか堪える。戦慄で見開いてしまった瞳を驚きの色に変え、慌てたようにアルバートの顔を見つめた。
透きとおった黒曜の眼は、慈しみさえ帯びてシャルロッテの一挙一動を見守っている。
「やだ――聞いてたの? 恥ずかしい」
「聞いていたとも。心底からの笑顔がないと真に幸福とは言えない。いい言葉じゃないか」
そうね、ともどの口で、とも言えなかった。ただ恥じ入りつつも夫の賛同を嬉しく思う妻の顔をして、そう成りきって、アルバートの言葉に耳を貸す。
肩を抱いていた手が髪を滑り、軽く頭を撫でていった。賛辞のように。褒美のように。
「君がそう言ってくれたからには、僕も頑張らないといけないな。義理も恩義も抜きで彼らに信じてもらうために。君の力添えを無駄にしないためにも、ね」
ぐっと頭が抱き寄せられた。それに心地よさ気に身を任せて、シャルロッテは目を閉じる。耳元で愛おしげに囁かれる声にも、おなじく愛おしげに応じるのも、もう反吐が出そうなくらいに慣れてしまった。
「愛しているよ、シャル」
「愛しているわ、アル」
――ああ、忌々しい。
すべてが茶番だ。すべてが嘘だ。今の自分の何もかもが、幾度となく繰りかえされる舞台の演目にすぎない。幸せでか弱い女に成りきり、
なんて情けない。悔しいし涙が出そうだ。なのに身体はもはや自動的にアルバートの妻を演じつづけ、涙腺はぴくりとも動かない。それこそ縛られている何よりの証で、肺のあたりが痛いほど締めつけられた。
今の自分では、「彼女」に向きあうことなんて――
「……」
閉じた視界の中、雨の音とエンジンの響きと生ぬるい体温だけを感じながら、シャルロッテはすべての思考を閉ざしていく。
嫌悪を忘れ、憂鬱を捨て、遠い日の思い出だけを宝箱にしまいこむ。そして最後の安らぎたる眠りをじっと待つのだ。これから先も、きっと無限に。
偽りの笑顔を浮かべ、偽りの言葉を並べて生きる。こんな自分の幸せは、きっともう訪れないから。
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