1-4とある日曜日の郊外にて①

 大陸の西寄りに存在するエーレンフェルト軍国の現在は、決して悲観的なものではない。


 もとより不毛の地というわけでもなかった。むしろ耕作が豊かで森林も広がっていることから、この地域は長らく大陸発展の一翼を担ってきたと言ってもいい。しかし数世紀にもわたる周辺諸国の隆盛と軍事対立、張りつめた緊張関係がこの近年でエスカレートし、そして22年前、ついに臨界を迎えた。


 「大陸大戦」。

 軍国の東側にある隣国、ポモルスカ共和国の内戦に端を発し、諸国を巻きこみながら5年にもわたった大戦争。


 特に軍国は西からポモルスカの内戦に介入して火種を広げたこともあり、同盟国においては主導的立場を保ちつつ、長期総力戦の展開によって莫大な負担を強いられていた。そしてポモルスカのさらに東隣から内戦に介入した巨大連邦国家と激戦を繰り広げた末、最終的には同盟国にも裏切られほぼ一人負けのかたちで休戦協定が結ばれたのだった。


 その条件は全植民地ならびに一部国土の割譲と、重い経済制裁だ。大戦末期に大半の都市が破壊しつくされ、一部に至っては汚染され立ち入り禁止区域にすら指定されたポモルスカ共和国への賠償は特に大きなものだった。支配圏の7割を奪われた国家に払いきれるようなものではとてもなく、エーレンフェルト軍国は未曽有の不況へと陥った。


 その直後の情勢はといえばひどいもので、帰還兵と難民と失業者であふれた国内には生活苦にあえぐ人々が絶えなかった。国家元首――国首の政策の失敗もあり、無理やり立て直した経済の裏では多くの国民が貧窮の道を転がり落ちていく。

 その下り坂が一気に上向いたのは10年ほど前のことで、以来、軍国は国家を挙げて軍国民の雇用に心血を注いでいた。


 そして近年、そうした活動家の代表的存在はといえば……


「――親愛なる戦友諸君。君たちが日々国家に貢献してくれていることに、まずは軍政府を代表して感謝を述べたい」


 工事にあたっての作業員宿舎は、臨時のものにしてはやけに立派だった。食堂は集会所も兼ねているらしく、住まう人間が一堂に会せるであろう広さだ。最奥にささやかな壇と演台が設えてある。


 そこで場の視線を一身に浴びるのは、スマートな印象のあるスーツ姿の男だった。

 頬に残る痛々しい火傷の痕を朗らかな笑みで上書きし、常に聴衆へ視線を配っている。手慣れた様子の演説は朗々と響き、食堂の外で控えるこちらにまで届いてきた。


「戦乱の時代からあと数年で20年、≪雇用革命≫から10年。激動の時代を支えた、いや今も支えてくれている君たちがいてこそ、今の軍国はある。この高速道路建設にしてもそうだ。この事業に君たちが応じてくれるから、車の駆ける近代国家としての歩みを進めることができている」


 軍国への貢献に感謝すること、市民の献身あってこその発展だと強調すること。いつもの彼の金科玉条だ。

 「戦友」という言葉も好んで使う。もとよりこの国では徴兵を終えた男性は互いに戦友と呼びあう風習があるが、彼のそれはすこし意味合いが違った。軍政府の人間と市民との平等を意識してほしいのだという。


 それが功を奏しているかどうかは、扉の隙間から覗いている分にはよく分からない。ただ経験上は好まれていることが多かったし、薄い扉一枚を挟んだ空気も概ねそのようなものだった。


「エーレンフェルト軍国の友たちよ、どうか引き続き、軍国の豊かな未来のため力を貸してくれ。栄光は闘争にありエーレ・ミット・カンプフ!」


 ひときわ声をあげれば、「栄光は闘争にあり!」と唱和する声が扉の向こう側に満ちた。そして拍手。しばらく続いたそれが収まったころ、こほんとおどけたような咳ばらいが聞こえた。


「……さてと。堅苦しい話はこれくらいにしよう。戦友たる君たちとはこうして壇上から呼びかけるのではなく、ともに語り合うことこそが正道だと信じる。そのための手土産も用意した。今夜は大いに飲み、語り明かそうじゃないか」


 このフレーズが合図だ。扉から身を離してハンドルへ駆けより、薄っぺらい観音扉めがけて力いっぱいに押す。

 そして彼女――シャルロッテ・ケストナーは、木箱を満載した台車とともに、涼しい顔で食堂へ足を踏みいれた。


「お疲れ様です、みなさん。お酒の差し入れをお持ちしました。どうぞ、よろしければ召し上がってください」


 わ、と湧き上がる野太い声。演説を終えたときにも増して勢いがある。

 最低限の福利厚生は整っているとはいえ、郊外も郊外にあるこの作業場近辺ではそもそもの娯楽が少ないはずだ。終業後に街へ出ていっても帰りの交通手段に困るし、酒も都会のようには楽しめない。そんな事情を考えればこの喜びようも納得だった。

 もっともその何割かは、酒を運んできたのが容姿端麗な女性たるシャルロッテだから、という理由も占めているのだろうが。


 食堂に集っていた作業員たちがこぞってシャルロッテのもとに寄ってくる。自由参加という名目でこそあったが、実際は食堂の全席が埋まり、中には立っている者もいた。上からの圧力なのか、はたまた彼ら自身の意思なのか、シャルロッテの与かり知るところではない。


「はい、どうぞ。いつもありがとうございます。これを飲んで英気を養ってくださいね」


 ひとりひとりにそんなことを言いながら酒を手渡す。緊張したのかまともに言葉も返せない者もいれば、感激らしきもので表情を歪める者もいる。

 そして大半の酒瓶がさばけると、瓶の蓋を開けた作業員の何人かがシャルロッテのもとに集まってきた。好奇心7割酒の勢い3割といったところだろうか。他愛ない会話でも楽しそうに笑う作業員たちはいかにも朴訥で、話しやすい相手だった。


「おいおい邪魔だお前ェら。こちとらまだ有り難い酒にありつけてねえんだ。先を譲ってやったこっちの身にもなれ」


 おやっさん、と半ば悲鳴のような声で人波が左右に割れる。その入り口にはいかにもリーダー格らしい屈強な男が仁王立ちし、じろりと作業員たちを睨めつけていた。


 筋肉の張った脚を進ませる彼。やってきた彼に酒を渡すシャルロッテ。男は瓶を受けとるとふん、と息をつき……厳つい髭面に人の好さそうな笑みを浮かべ、深々と頭を下げてきた。


「ありがとうございます、ケストナー大佐の奥方。大佐殿はああ言ってましたがね、この仕事は俺らが職にあぶれないようするためのものだって、俺たちゃみんな肝に銘じて知ってますぜ。本当に、感謝してもし足りない」


 おら、お前ェらもだ。そうどやされると、シャルロッテの周りを囲んでいた作業員たちが皆いっせいに頭を下げた。タイミングまできれいに一致していて、兵役を終えるとこういう癖がつくのだろうかと思う。

 ともかく、シャルロッテの返す答えとしてはひとつだった。


「頭を上げてください。失業問題の根絶は国の義務ですし、就職はあなたがたに許された当然の権利です。その当然が行われているだけですよ。

 それにこの事業を取りまとめたのは夫で、私はただのお手伝いです。お礼を言うにしても、どうか夫のほうに」


 言って食堂の奥の席へ目を移す。壇を降り、シャルロッテとおなじように作業員の男らに取り囲まれて言葉を交わしているスーツの男性。

 国首親衛軍名誉大佐、市民の同胞、そして彼女の夫――アルバート・ケストナー。


「もっとも、夫も私とおなじことを言うと思いますけど」


 肩をすくめながらその様子を見つめる。話しこんでいるためか、彼がこちらの視線に気づいた気配はなかった。乾杯、と動く唇が見えたかと思えば、乾杯!と何重もの厳つい声が続く。それを眺めてくすくす笑ってみせた。


 30代に入ってからもう数年経つが、若々しい容姿は健在だ。すらりと引き締まったシルエット、髭の剃り残しひとつない白皙の肌。亜麻色の髪を後ろに流した姿ははいかにも優男めいていて、一見しただけでは名誉職とはいえ軍属と思えない。しかし頬からこめかみにかけて走る大きな火傷はただの優男以上のなにかを伝え、どこか異質な存在感をかもしだしていた。

 軍服ではなくスーツなのはこれが公式の査察ではないからだ。作業員に不満はないか、非公式だからこそ意見できることがあるのでは――そうした意図のもと行われた私的な慰安であって、つまりは気遣いの賜物と言ってよい。そうした細やかな献身が彼の売りだった。


「戦争が終わったと思えばポモルスカの連中がドブネズミみてえに仕事取っていきやがって、国首も俺たち国民そっちのけで……あん時はどうなることかと思ったが、捨てる何とかありゃ拾う何とかありってんですかね。まったく、大佐殿たちが神さまに見える」


 その言葉にまわりの作業員たちもうんうんと追従する。領土破壊の影響で流れてきたポモルスカ難民たちへの敵意は、こうした労働者たちの間では特に色濃かった。当時は難民流入によってもっとも割を食った層である。

 無事に職を得ることのできた今でもその記憶は忘れがたいのだろう。彼らによるアルバートたちへの傾倒も、こうした背景が反動になっている節があった。


「ここの奴ら全員、次の選挙ではケストナー大佐に票を入れるでしょうよ。それでも受けたご恩に見合うかどうかは分かりゃしませんが」

「駄目ですよ」


 は? と訝しげに振り向くリーダー格の男。それに合わせて一歩をつめ、彼の口元に触れるか触れないかのところに人さし指を突きつけた。ことさら真剣な顔でじっと男の顔を見つめる。半径数メートルの粗野なざわめきが、しんと静まった。

 無言が一帯を支配する。男の視線は意図を計りかねたようにシャルロッテの指と目のあいだを行き来する。それを数秒見届けたころ、シャルロッテはふ、と笑って指を引っこめた。


「『将軍選挙』は、貴方がた軍国男性が国の行く末を決めることのできる大切な機会です。義理や恩義などで票を投じてはいけません。国を本当に良くしてくれる、そう思った候補の方に入れてください」


 もちろん、その上で夫を選んでくだるのならば嬉しい限りですけどね。悪戯っぽく言って肩をすくめれば、周りの喧騒がだんだんと蘇ってきた。ただし、多分に戸惑いを含ませて。

 仮にも中央将校議員候補の妻がこんなことを言うなど予想もしていなかったのだろう。リーダー格の男もどう応じればいいのか分からない様子で、歯切れの悪い言葉を連ねてくる。


「いやあ、けど奥方。そうでもなきゃ、こんな恩どうお返しすりゃいいか……」


 そう聞かれると思っていた。だからシャルロッテも答えは用意している。電球にちらちら輝く金の髪を揺らして、周囲の作業員たちの顔をひとつひとつ見つめ、最上のタイミングで笑みを投げかけるのだ。


 そう、舞台の上でするように。


「でしたら、笑ってください。

 たまに見かけるんです。豊かな生活をしていても、その笑顔を見たことのない方々が。もちろん、笑えばすべての気苦労がなくなるだなんて言いませんけれど……少なくとも、心底からの笑顔がないと本当の幸せは訪れないと思います」


 笑みを穏やかなものに切りかえる。そしてリーダー格の男の手を酒瓶ごと包み、祈るようにして額を近づけた。頭を下げる姿勢。目上の者にこれをされると、生真面目な人間は弱い。

 いや、けれどこの国じゃ目上も何も、そもそも女である時点で――その続きを考える前に顔をあげた。


「皆さんが少しでも良い生活を送れるよう、尽力するのが夫の仕事です。あなたがたはいざという時それを活用できるようにしていてください」


 リーダー格の男はしばしぽかんとしていたが、我に返ると力強くうなずいた。心なしかすこし涙ぐんでいる気さえする。周りの作業員も何人かそれにつられていた。次の週末は街の映画館にでも行くといいのだ。

 木箱に残っていた栓抜きを大きな手に握らせて、ずいぶん軽くなった台車を押す。そろそろ潮時だった。


「さ、毎日の力仕事でお疲れでしょう。日曜日くらい、ゆっくりなさってくださいね」

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