1-3とある日曜日の首都にて②

「それにしてもねーさま。あの彼女、泣きだすような目に遭ってたのですか?」

「ああ、緊張が解けたんだろう。余程怖かったのだろうな、可哀想に」


 ヴィルヘルミナが名乗った直後えぐえぐ泣きだした彼女のことを思いつつ、路電のタラップに脚を乗せる。「大丈夫です」とだけ言って逃げるように走り去ってしまったが、本当に大丈夫なのだろうか。せめて何事もなく家に帰り着いていることを願うばかりだ。


 車内にはそこそこ乗客がいたが、座れないほどではない。通路側で眠りこける男性がひとりいるだけのボックス席を見つけてエーリカと向かいあわせに座る。と同時にベルが響き、ゆるゆると車体が動きだした。

 窓枠に頬杖をついて外を眺める。灯りと闇で作られた夜の景色は加速度を増し、水滴の散る窓の外で糸を引きながらがたごとと流れていった。


「そうだエーリカ、映画のほうはどうだった。感想か何かあれば教えてほしい」

「感想ですか。ふむぅ……」


 きょとんと猫目を見開いたのち、悩ましげに頭をひねるエーリカ。元はといえば今日はふたりで映画を見に来たのだ。ヴィルヘルミナにとってはリバイバル上映のたび脚を運んでいた映画だったが、誰かと共に見るのは初めてとなる。他者にはどう感じられるのか、良いにしろ悪いにしろ感想を聞いてみたかった。


「えと、面白かったです。主人公が天真爛漫で、お話も起伏がしっかりしてて、その……」

「ああ、無理はするな。つまらなかったなら正直に言っていい」

「いえ、正直に言っております!」


 勢いよく即答したあたり、どうやら嘘ではないらしい。しかし次の瞬間には眉を顰め、むむむと言葉を選びはじめた。


「ただ、なんと申しますか……すごく普通のお話、で。改めて思いだすと取り立ててお話することもないというか。でも退屈だったわけではなくて、むしろ見ているあいだはとても楽しめて、ええと」


 尻すぼみに声が消えていく。それからもしばらく考え込んでいたようだったが、やがて後ろめたそうに身を縮めた。


「すみません、ねーさま。どう言えばいいのか分かりません」

「いや、構わないさ。思えば意地の悪い質問だった。こちらこそすまない」


 不思議そうに小首を傾げるエーリカ。ころころ変わる表情が見ていて微笑ましい。指を二本立てて示してやれば、分かりやすく視線がそちらを向いた。


「あの映画――『乙女の名は花』が国際的に評価された理由はふたつあってな」


 ひとつに分かりやすいあらすじがある。この国で声入りトーキー映画産業が発達したのは経済復興が進んでからだから、ここ5年10年ほどだ。その流れについていけなかった映画の初心者にも理解しやすいよう、ストーリーは単純を極めていた。

 少女が恋をし、一波乱を超えて幸せになる……エーリカの言葉を借りるなら取り立てて話すこともない、至極普通の話だった。


「ただ、これだけだと映画慣れした人間にはつまらない。そこでもうひとつ押さえているのが卓越した演技と演出だ。名のある監督に、新進気鋭のキャストや実力派演出家の起用。つまりストーリー以外のところも楽しめるようになっているわけだな」


 ふんふんと興味深げに頷くエーリカの姿は実に講釈しがいがある。この映画の話になると長くなってしまうのは悪い癖だと思っていたが、これではもっと調子に乗ってしまいそうだった。


「総評すると初心者と玄人、双方の鑑賞に耐えうるよう作られている――というのが、雑誌の評論に載っていてな。その点、ここ一年で映画に触れたエーリカは中間にあたる。こうした特色をどう受け止めていいか分からなかったのかもしれない」


 受け売りの身で偉そうなことは言えないが、と苦笑する。ヴィルヘルミナ自身読んではじめて意識したことだった。


 車体が停止する。揺れのためだろうか、隣の男性が目を覚まし、停留場の名前を見て飛びだしていった。いつの間にか郊外に差し掛かっている。

 外にはもう街灯は見えず、明かりのついた家々も疎らだ。車内に残る乗客もずいぶん少なくなっている。数度目の発車からしばらくして、エーリカがまた口を開いた。


「ならねーさま。ねーさまはどちらだったのでしょう」

「ん?」

「ねーさまは初心者の観点と玄人の観点、どちらからあの映画をご覧になったのですか?」


 言外に後者だろうと告げる期待の眼には悪いが、難しい質問だった。ヴィルヘルミナもあまり映画は見ないのだ。映画慣れという意味ではエーリカと同等か、むしろ後れを取っているかもしれない。

 ただし単純にストーリーだけを追っていたと言えば、それは嘘になった。


「そうだな。敢えて言えばエーリカとは真逆で、両方からだったよ。映画は初心者だし、入り組んだ話は苦手だから有り難かった。ただ……」


 鼓膜の奥で響き続ける、可憐な歌声。まぶたの裏に浮かびでる、清楚に笑顔をふりまく姿。

 太陽に照らされる麦の穂のような金髪が豊かに波うつ。長い睫毛の合間からは空と海とを重ねあわせた碧がのぞいている。桜色の唇は開くたびにスクリーンを越え、そこにいるすべてを魅了した。


 おかしなものだ。映像は白黒だったはずなのに、頭の中では勝手に色づけられていた。おそらくヴィルヘルミナは彼女を生涯忘れない。彼女のなにもかもを覚えている。 


「主演の女優が、好きでな。彼女を目当てに見たようなものだ」


 知らず感嘆の息をついていた。向かいのエーリカは上目遣いぎみにヴィルヘルミナを見つめ、なるほどとでも言いたげに数度ばかり頷く。


「確かに凄まじい演技力でしたね。あの方が女優をやってらしたなんて、エーリカ、初めて知りました。もう演劇は止められたんですよね。残念です」

「……ああ。だが理由が理由だ、仕方ないさ」


 言葉少なに言い切る。自分で出した話題だが、あまりこの話を続けたくはなかった。「彼女」の姿はときに眩しく美しく、ときに狂おしいほどに胸を衝く。今は後者だった。


 次の駅を知らせる車掌の声が届いてくる。ヴィルヘルミナたちの最寄駅だ。窓を見れば、ただ車内の景色を映しだす暗闇の中、ガラスを打つ雨の筋だけが外の様子を教えてくれた。荷物を確かめ席を立つ。


「さ、降りるぞ。まだ雨が降っているみたいだからな、足もとに気をつけろ」

「はい、ねーさま」


 車体が完全に止まったことを確認し、戸を開ける。傘を広げながら降りるとエーリカの軽い足取りが続いた。

 停留場を下れば未舗装の広い道に出て、ここからは少し歩く。ほんの10分足らずの道のりだが、街灯も疎らなので少しばかり危ない。


「エーリカ」

「はい! ……あ、そうでしたね。今日もよろしくお願いします、ねーさま」

「ああ。よろしく頼まれた」


 差し出されたエーリカの手を握る。万が一にもはぐれないようにする恒例行事だ。

 回を重ねるごと、はじめは上等の絹のようだった肌の手ざわりが変化していくのが分かる。徐々に芯が通って逞しくなってきている。こうしたところで改めて成長と努力を感じると嬉しくなった。何気ない会話を交わしながら、都心よりはるかに暗く静かな雨を歩く。


 しばらく直線方向に進むと厳めしい鉄条網つきの塀が出現する。先には煌々と明るい常夜灯があり、近づくほど目に眩しい。傘で遮りながら歩いて光にも慣れてきたころ、前方で塀がいったん途切れているのがやっと分かるのだ。

 営門。近づいてくるヴィルヘルミナたちを、守衛所の目が追っている。


「ご苦労さま。特別措置小隊所属ヴィルヘルミナ・シュテルンブルク軍曹、ならびにエーリカ・S・フォン・シュロスブルク伍長、一三〇〇より外出しただいま帰営した。門を開けていただきたい」


 雨に気をつけながら、身分証明書を兼ねた俸給手帳を見せて敬礼する。受付の守衛が手元の外出記録を確かめたのち、敬礼を返しながらもうひとりを促した。椅子に座っていた守衛が守衛所を出て、がちゃがちゃと難儀そうに門を開ける。


「ありがとう」


 礼を言って足を踏みだす間際、門の傍らに設えられた銘板がちらりと見えた。濡れた金属板が明かりを反射し、刻まれた文字の端々で光っている。


 ――国首親衛軍 首都近郊第二補助駐屯地――


 今の自分の居場所であり、かつて目指した憧れの場。ここであるべき自分になることを求め、そして現在、少しずつだが理想へ近づきつつあると信じている。


 けれど今の自分は、「彼女」に胸を張って向き合うことができるのだろうか――そんなことをぼんやり思っていると、ふいにカーディガンの袖を引かれた。


「ねーさま? どうかしましたか、体調でも?」


 傍らに視線をやり、こちらを不思議そうに見上げるエーリカに気がつく。ヴィルヘルミナがいきなり足を止めたので不審に思ったらしい。


「いや、すまないな。何でもないし何も悪くないよ。

 帰ろう。私たちの兵舎いえに」


 そう言えば、エーリカは嬉しいのか安心したのか「はいっ!」と弾けるように笑った。


 ふたり揃って歩き出し、営門を境に多少増えた照明の中を行く。雨で湿っぽい大気とは裏腹に、並んだ兵舎からはむせ返るような活気が漏れてきて、なんだか妙に人心地ついた気分になった。

 ヴィルヘルミナたちの兵舎はまだ先だが、今ごろこんな空気で暖まっているのだろうか。あまり羽目を外していないといいのだが。


 背後で門の閉じる気配。何ともなしに振り向くと、もう外の暗闇は見えなかった。次に外出できるのはいつになるだろう。きっと任務や演習になるのだろうが、それでもふと願わずにはいられなかった。


 次に門をくぐるその時は、彼女の映画が見られる休日であればいいと。

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