1-2とある日曜日の首都にて①

 首都ライヒスケルンのパン屋に下宿する女性・ライサの運勢は、この一日地の底を這っていた。


 せっかくの日曜日だというのに仕事の予定が入っていたのがまずひとつ。朝からしつこく降りつづける雨の鬱陶しさがふたつめに。早く屋根の下に入ろうと石畳を走っていたら滑って転んで膝をすりむいたのがみっつめだ。

 そして肝心の仕事相手との打ち合わせも、互いの状況確認だけで実りはなかった。労苦に見合わない成果ということで四つめにカウントする。

 憂さ晴らしに足を運んだ繁華街のカフェではたいして美味くもない料理にパン20個分の金を払わされて、なんだかもう、踏んだり蹴ったりだった。


 そして今、彼女の本日の運の悪さは頂点にさしかかっている。


「ちょっと、あの。やめてくれませんか」


 雨だか汗だかにぬめった男の五指が手首をつかんで放さない。芋虫じみて肌を撫でまわす親指に背筋がぞわぞわ粟立った。思わず半歩後ずさり、石畳がぴちゃりと鳴る。


 午後7時の繁華街は闇の中、きらきらしい光と降りやまぬ雨に濡れていた。煌びやかに浮かびあがるのはネオンに彩られた店の名と明かりこぼれる窓だけだ。軌道の刻まれた道路に光が反射し、雨粒に叩かれては揺れている。


 長引く雨脚も人々の足を鈍らせることはない。山高帽の紳士が誘蛾灯のようなキャバレーに傘を閉じ、毛皮を巻いた上品そうな老女が映画館から吐きだされ、軍服を着た若者が停留場で退屈げに路電トラムを待つ。

 そしてライサはといえば、ロマンあふれる危なげなギャングでも軟派男でもなく、いかにも労働者といった風体の薄汚れた中年男に絡まれていた。


(どうしてこんなんなっちゃったかなあ……)


 どうもこうもない。寂しくなった財布を後悔しながらカフェを出て数歩も進むとこうなっていた。

 傘で半分塞がった視界に怪しい千鳥足が踏みいったときには遅く、酒くさい息で「ねえちゃん若いなァ」だとか「一杯付きあってくれよォ」だとか、まあそんなことを言ってきた気がする。いつその口から嘔吐してくるかこちらは気が気ではないのだが。というか褒めるポイントが若さってどうなのだろう。嘘でもいいから可愛いとか言ってほしい。


 とりあえず、どうしよう。言って通じるようには見えないし、かといって力で振り払える気もしない。大人しくついて行くのは論外だが、大っぴらに助けを求めて人目を集めるのも避けたかった。


(こういうとき心強い用心棒でもいればなあ……)


 とは思うが、今の状況ではないものねだりだ。ここは自力で切り抜けて――と目を逸らして熟考しかけて途端、手首から芋虫の感触がふっと消えた。


「酒に酔うのは勝手だが、女性に酔うのは場所と相手を弁えたほうがいい。もっとも、悪酔いしている男に花の香りが分かるとも思えんが」


 え、と目を瞬かせ、涼しげな声から一拍遅れて視線をもどす。労働者の荒く節くれだった腕が、格段に細い指に掴みあげられていた。


 声と指の主は青い傘を差した青年だ。年のころ20代半ばほどだろうか、男性にしては長い茶髪が軽やかに頬の輪郭を撫でている。アーモンド型の瞳にすっきりした鼻梁、線も細く少年じみた顔立ちなのに、精悍な表情に彩られて険が強い。

 その冷ややかな軽蔑を向けられて、虚をつかれていたらしい男の顔面がさらに紅潮した。


「こ、ンの、邪魔すんなヒョロ野郎!」


 労働者が腕を振りかぶる。体格では青年の分が悪い。制止に入ろうとするライサも待たず拳が放たれ、青い傘が舞いあがる。そして数メートル離れた道路に着地したとき、既に決着はついていた。


 青年が、労働者の男を組み敷いている。ようやくざわめきはじめた往来にはこの結果しか見えていないだろうが、ライサはそこに至るまでの一部始終を目撃していた。


 傘を投げ捨て、拳を避けた端から太い腕を取り、捻りあげながら背後に回る。そして男の左肩を圧迫し、膝の裏を踏みつけながら押し倒したのだ。無駄のない、流れるような動作で。

 もはや力量差は歴然だった。濡れる石畳に叩きつけられた男はしばらく身悶えし、やがて掠れかけた声を吐く。


「ぐぇ……テメ、この、放しやがれ……」

「このまま酔いを醒ましに行くならな。最近は治安維持の強化も功を奏しているし、憲兵警察のノルマには物足りないとも聞いている。ただの迷惑な泥酔者が強姦魔に仕立て上げられるのは、私としても忍びない」


 男の顔色がさらに変わった。今度は赤ではなく青色にだ。


 憲兵警察。軍人でありながら政治警察でもあり、国の害悪たる重犯罪者の人権を紙屑同然にあつかう恐怖の権化。

 話には聞いていたがよほど恐れられているらしい。事実、労働者もそれだけで酔いが醒めたと見え、青年の腕と膝から解放されると脇目もふらずに人波の中へ消えていった。


 集まりかけていた野次馬が散り、呆然としていたライサもようやく我に返る。慌てて青年へ向きなおり頭を下げた。


「あ、あの、ありがとうございます。わざわざ助けていただいて」

「礼には及ばないさ。せっかくの休日を後味悪く終えたくなかっただけだ」


 立ちあがり微笑む姿は、先までの威圧感も匂わせず優しかった。声音も柔らかくなり変声期前の少年の響きすら帯びている。

 身長はライサより10センチほど高いのだろうか、少しこちらが見上げるかたちになった。濡れた髪を掻き上げる仕草が色っぽく、こうしてみると格好いいと言うより端整と評したほうがいいのかもしれない。


 というかこれは、チャンスなのでは。

 ライサの脳に電撃が走る。酔漢から颯爽と助けてくれた清潔感ある好青年、いかにもラブロマンスがはじまりそうなシチュエーションだ。

 拳を握る。ようやく運がめぐってきた。今日一日の不運はすべてこのためにあったのだ。青年をさりげなく自分の傘に入れながら、愛くるしい表情を作ってみせる。


「あのぉ……これも何かのご縁ですし、よろしければお名前をお聞きしても?」

「ああ、私は……」


 そして唇が名を刻もうとした矢先、少女の声が人波を突き抜け響きわたった。


「あー! いたいた、ねーさまー!」


 ん? と一瞬だけ嫌な予感はしたのだ。明らかにこちらへ向けて発せられた呼びかけに。

 だがライサには覚えのない声だし、そもそもライサも彼も姉さまなんて呼ばれるような人間ではないはずだし。無視して彼の答えを待ち続けるライサをよそに、青年は背後へ視線をやる。その先には、今まさに向かいの歩道から駆けてくる影があった。


 オレンジの傘を差した小柄な姿は、一見高校生かそこらに見える少女のものだ。膝下丈のワンピースとクリーム色のまとめ髪が街灯にちらちら照らしあげられている。道ゆく車の合間を通ろうと脚を早め、ようやっと車道から転び出た。ライサたちの傍に。もっと言えば、好青年の目の前に。


 頭に警報が鳴りはじめる。これは、これはその、まさか。


「ようやく見つけましたよねーさま。急に走りだしたと思えば、なぜこんなところにいらっしゃるのですか……ところで彼女は?」

「ああ、色々あってな。すまない、迷惑をかけた」

「エーリカのことならお気遣いはご無用です。それよりねーさまずぶ濡れですよ! 傘、傘!」


 肩に垂らした髪を揺らし、路上に放置された青い傘を拾って青年(仮)に手渡す少女。何度聞いても姉さまと呼んでいるし、好青年(?)も反応している。それを認識してはいるのだが、ライサの心が目前の光景を処理しきれない。

 いや確かに成人男性にしては線が細いし声が高いし髪も長い気もする。気もするが、気のせいで片づけられる範囲だ。それより注目すべきなのは170センチはあるだろう身の丈だとか、妙に手慣れた身のこなしだとか、極めて紳士的な振る舞いだとか。


 あとはそう、そもそも女性にはあり得ない、ズボンを穿いていることだとか。


 細かな違和感よりそういう事実のほうが重要ではないのか。少女の言う「ねーさま」が姉の意とは限らないわけだし。それに女性にしては声が低めだし髪も短めだし背も高めだし化粧っ気もない。湧きあがる疑念は全部杞憂だ。

 縋るように見あげた視線が好青年(重要)のそれとかちあう。彼(希望的観測)はライサを安心させるように柔らかく笑み、褐色の瞳がわずか目尻を緩めた。


「ああすまない、名乗るのが遅れてしまった」


 居住まいを正して胸を張る青年(であってほしい)。右前にボタンの留められたカーディガンしんしふくを目にして安堵しかけたライサの息は、厚い生地の下、濡れて張りついたシャツのラインを辿ると同時にその根を止められた。


 その。ほんのわずか、見間違いかと疑うレベルだが。

 胸のあたりに、なにかそれらしい膨らみが――


「私はヴィルヘルミナ・シュテルンブルクという。貴女もどうか、いい日曜日を」


 ああ――厄日だ。

 本日の不運の総決算を叩きだされ、ライサが考えられるのは最早これだけだった。

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