episode6《目線を伏せたその季節》
2016年12月25日。
2001年2月7日、午後5時29分、私が母の胎内から産まれた。体重は2906グラム、身長は48センチメートルだった。
長女として生まれてきたため、家族にはとても大切にされたという。
しかし、この情報は誰から得たもの? 視界が暗転している中で考える。親戚?
悔しくなってきて、暗闇で包まれた脳内で大声を上げる。すると、体がゆさゆさ揺すられ地震が来たのかと錯覚させるものが、私の目を覚まさせる。私の視界に入ったのは、よく分からない女性の顔だった。
「ん……?」
何だが見覚えがあるような顔だった。女性は静かに優しい笑みを浮かべた。それは安堵と言うほか、無かった。
女性が顔を上げると部屋の照明と思われる光が、私の虹彩を刺激した。反射的に光の量を調節する。
照明に目を細めていると、女性が言葉を発した。
「あんた、大丈夫なの? 凍え死にそうだったから、家に連れて来ちゃったよ」
親しげに話し掛けて来たので、私は女性の目を見つめたまま固まってしまった。それこそ、体が凍ってしまったように。
初対面のようにも感じ、親戚のようにも感じる。親戚だとしたら、いつ会った事があるだろうか。記憶を辿っても思い出せない。
よく分からないまま体を起こすと、視界に君の姿が入った。
君は毛布に包まれ、眠っているようだった。あのまま外に居たら、間違いなく私と君は命を落としていただろう。こうして生きていられるのは、眼前にいる女性のおかげだ。
しかし、ここに居て君が生きているということは、私が計画した作戦は実行出来なかったという事実と同じだ。そう思うと、途端に悔しさが込み上げた。無意識に爪を噛んでいると、キッチンから女性が再び私に話しかけてきた。
「でも、何であんな所に居たの? しかもあんたはアウターも着ないで、男の子に被せて……。話せることがあったら話して欲しい」
温かいココアを二つ持ってきて、女性はソファに座った。コト、という音はなぜかココアよりも温かく感じられた。そしてそれよりも、女性の口から出た言葉が温かかった。
カップを両手で持つと、冷え切った体がどんどん温かくなっていった。
熱いココアを冷ます時間を、私は女性の質問に答える時間にした。ちびちびと女性がココアを飲んでいるのを見ながら、私と君の関係から話し始める。
「……私とあの男の子は、クラスメイトなんです。昨日、一緒に居たのはイルミネーションを見ようって、約束してたからなんですよ」
敬語になってしまった事に女性は不満だったらしい。少し眉間に皺を寄せている。しかし、私は記憶の中に女性の残像が無い。もし初対面でタメ口を使ってしまったら、失礼だと思ったので、今は敬語を使う。
女性の反応は曖昧だった。ソファに座りながら足を組んで、ただ鼻歌のように『ふぅん』とだけ答えてくる。それも、私が彼女よりも年齢が下だからだろう。
続けて私が君についての話をする。しかし、次に話す事実は私の罪になる。言葉に詰まりながら、話を進める。
「で……、あんな所に居たのは……。男の子に『来て』って言われたからなんです」
「――嘘」
スムーズに言葉が出なかった私は、一生分の脳を使った気分になった。しかし、それも女性のたった二文字の言葉で無駄になった。
聞き返そうと思ったが、その言葉に何が続くのか予想が出来た。出来ないはずが無かった。そして、私の心には後悔。
自分の〝能力〟を使えば、女性から反論を受けることは無かっただろう。なのに、私はただ単に嘘を吐いた。そう、彼女の言う通り私は嘘を吐いた。
「あんたは嘘、吐いてる。男の子に『来て』なんて言われて無いでしょ。ちゃんと事実を話して。怒ったりしないから、ね?」
女性は持っていたカップを机に置いて、足を組み直した。すると、君の体がもぞもぞと動き出した。起きるだろうか。起きるなら、これからの話は出来ない。
そして、動いた末にむくっと体を起こした。目が合ったのは、私だけだった。
「おはよう。もう、大丈夫?」
私が声を掛けると、君は小さく肯いた。安心したが、女性の方はまだ私から話を聞き出そうとしている。しかし、それも諦めたのか君のココアを作りに、キッチンへ向かって入った。
君の笑みは弱々しく、見ていて哀れむほか無かった。まだ体調が万全では無いのだろう。そう思ったが、私は君に話を聞きたかった。しかし、次々と質問をされたら君も困るだろう。私だって、君と同じような状況で質問をされたら困る。親から聞いた言葉を思い出しながら、私は物欲で満たされていた心を静めた。
ココアを作り終えた女性は、君にカップを渡すと再びソファに座り、足を組んだ。目を見ると、『で?』という顔をしていた。つまり、私の話の続きを聞きたいのだろう。
君の目線を感じる中で、私は切れ切れに話を進めていった。
「……本当は、急に私が男の子を呼び出したんです。イルミネーションを見に行こうなんて、ただの意味付けなんです。元は私から話があったんですよ。でも、勇気が無くて……。話そうにも話せなくなってしまって……」
私は言葉の語尾を濁した。そして、女性がその語尾を付け足した。
「だから、あんな所に居たってこと?」
女性の言葉に私は肯いた。まるで、刑務所で罪を吐いているようだった。私の心は罪悪感で溢れかえり、今すぐにでもここを飛び出して行きたいと思った。
目を泳がせていると、君の声が聞こえた。床に目線を落としていたので、ふっと君に向ける。すると、君はもう私の目の前に居て、身を乗り出していた。
「話って何だったの?」
君はデリカシーの無い人だ、と君の一言で思ってしまった。私が「勇気が無い」と言ったばかりなのに、率直に聞いてくる。しかし、君の目は純粋で、どこか憎めなかった。その目を見つめると本当に勇気が無くなって、ついには自分で決めたことすら億劫になってしまった。
「ううん、何でもない。話したい時に話すから、気にしないで」
私の頭の中では、善と悪がまたもや競争を始めた。今、話すべき。好きな時に話せばいい。二つの意見が混ざり合って、私としての言葉が出た。
ココアが入ったカップを君は、体を温めるように両手で握っていた。しかし、私のカップはもう冷め切っていた。君のように握っても、体は温まらない。諦めて私はテーブルにカップを置いた。
話に区切りが付いたところで、私から女性に質問をする。彼女のココアはまだ残っているようだ。ほんの少し、湯気が昇っている。
「あの……。つかぬ事をお聞きしますが、あなたは一体……?」
先程よりも真剣な目つきで、私は女性を見つめた。私の質問を聞いていた君も、女性に視線を向ける。二人からの視線を受けて、女性は笑った。
「あんた、まだ思い出せないの?」
私の脳内は、女性の言葉で真っ白になった。きっと彼女に、私の顔は間抜けだと思われているだろう。しかし、そんなことはどうだっていい。
女性からの言葉を聞く限り、私は一回以上、彼女に会っている。確実に会っていると言うのだ。そして、私の記憶にも残っているかもしれない。
一生懸命、探そうと思うのだが、思い出せない。女性の顔には誰かの面影がある。しかし、それも分からない。ついに頭を抱えてしまった私を見て、女性はより一層笑みを深くした。
「無理して思い出さなくてもいいわ。私、あんたのお母さんの妹よ。どことなく、似てると思わなかった?」
頭から手を離し、私は女性の顔をまじまじと見る。それでもよく、思い出せない。見つめたままの視線を離せずに居ると、横側から君の声が聞こえた。
「他の話にしよう。難しい話なんて聞きたくないし」
一気にココアを飲み干し、カップをテーブルに置く。君の表情は「ね?」と言っていた。そんな考えが君にあるとは思っていなかった。君がそんな事を考える人だとも思っていなかった。
話が改められると、どんどん進んでいった。飲み干したカップに、何度もココアが注がれた。
話を続けていると、時刻はもう午前3時を過ぎていた。君は今にも眠ってしまいそうな目を擦こすって、一生懸命起きていた。が、それも2時30分までしか持たなかった。起きているのは、私と母の妹の女性だけとなった。
君の寝顔を見て笑みを浮かべていた女性は、急に改まった表情になった。
「ねぇ、男の子に話って何だったの? どうせ、この子には絶対に言えない事なんでしょ。教えてよ」
声量を小さくして、女性は体を私に近付けた。隣で囁くように話す私達は、君に気付かれないように別室へ向かった。
冷えた空気を暖め始めたストーブを女性が独占をした。先取りされた、と思いいじけた表情を露わにした。そんな私に気付き、女性は近くの椅子に腰を掛けた。それを見て、私は女性の質問に答える。
「話なんて、嘘ですよ。話さなくちゃいけない事なんて、ありません」
真剣な話のはずなのに、私の顔には笑みが浮かんでいた。それは自分でも分かった。理由など、考えたくは無い。きっと君には不利な理由なのだから。
私の顔は見ずに、女性はただ床だけを見ていた。内心、少しほっとしていた。今の笑みを見られていたら、警戒心を露にされてしまう。
何かの切り替えなのか、女性は椅子に深く座り直した。ギッという音が鳴り、体を震えさせたが話に支障は出なかった。
「……やっぱりね。血が繋がってるからかもしれないけど、なんとなく分かってたよ」
小さな沈黙を破り、女性が口を開いた。そして、あんたの考えもお見通しという感想を言葉にされた。
女性の言葉に驚きは無かったが、やっぱりという感情も無かった。自分が今、何を思っているのか分からなくなった。
この女性には私の計画を話してもいいか、と一瞬だけ思ったが内容が人間誰もが怯んでしまうものなので、話せなかった。心が落胆の気持ちでいっぱいになった。
一人で考え込んで、一人で溜め息を吐いたので女性は私の行動を不思議に思ったのだろう。電気も点けずに居た部屋の中で、私の顔を覗き込んだ。暗闇の中なので、よくは見えないが、虹彩が広がっているので見えない事は無い。私も女性の顔を見ると、不意に女性の目から水滴が漏れた。それには私も驚いた。
「えっ、えっ……? 何で、泣いて――」
私の口から出た言葉は、行き先を見失い空気中に消えて行った。女性も自分がなぜ泣いているのか分からないという様子だった。どれだけ拭っても出てくるようで、ついには膝を抱えてしまった。
ここまでの大人が涙するなど、どれだけの大きな物を背負ったのだろう。もしかして、その原因は私なのだろうか。
そこまで自分を追い詰めて、私は床に目線を移した。
「ごめん。泣くつもりは無かったんだけど……。何でだろう……?」
小さな嗚咽を漏らしながら、女性は私に謝った。途端に心がぎしっと軋み、私まで目から涙を落としそうになった。それを必死に堪え、女性の嗚咽が止むまで待った。
「大丈夫です。大きな物を背負ったとしても、一緒に分け合える人が居ますから。安心してください」
私は女性に声を掛けた。しかし、この言葉は自分に宛てた言葉でもあった。そして、君に宛てた言葉でもあった。
今までの人生を独りで生きて来た人に向けてのメッセージ。
そう思った瞬間、必死に堪えた涙が私の頬を伝った。
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