episode1《視線と視線の間には》

 2016年8月3日。

 今は夏休みの真っ只中だ。炎天下でじりじりと道路が揺れている。その上に立つことすらためらう季節だ。外に出れば、部屋の窓を開ければ、風を求めざるを得ない環境を作り出す。こんな季節は冷蔵庫やクーラーが恋しいもの。しかし、親に『節電しなさい!』と怒鳴られるので体調が崩れそうだ。

 することも無く、ベッドに突っ伏していると不意に自宅のインターフォンが鳴った。きっと親が出るだろうと思っていたが、数回インターフォンが繰り返されても、親や来客者の声が聞こえない。疑問が頭によぎると共に体をベッドから下ろす。部屋のドアを開けようとしてから肝心なことに気付く。今日という日は服装など気にせず、ほぼ下着だった。このまま下の階に下りたり、人前に出たりするのは失礼だ。というか、自分が恥ずかしいだけだ。面倒だと思いながら季節に合った服装を選ぶ。しかし、これほど時間が経っていれば来客者は帰っているだろう。もう一度、耳を澄ませてインターフォンの音を確認する。

 ――ほら、もう鳴ってな……。

 予想とは裏腹に、インターフォンはまだ鳴り続けていた。玄関のドア前に立っている人物は、どれほど気長なのだろう。とりあえず、まだ来客者が居ることが分かったので急いで着替えを続ける。

 いつものように階段を慌ただしく下りて、玄関へ向かう。靴が並ぶ所に親の靴――シニア用のサンダルだが――は無かった。普段は一言、伝えてから家を出るのだが今日は違った。不思議に思ったが、未だインターフォンを押し続けている人物の方が優先だ。ガチャリというドアの重そうな音が鳴り、視界に新しい顔が映る。

「はい、ど――」

 どちら様ですか、と言うつもりだったが先に相手が言葉を早口に発した。そして、相手の顔に見覚えがあった。

「あっ、やっぱり居たんだ! 居るなら早く出て欲しかったよぉ!」

 少ししか開いていない玄関のドアを押し広げて、インターフォンを押し続けた人はズカズカと家に入って来た。

 インターフォンを押し続け玄関に入って来た人物は、同じ高等学校に通う君だった。

君の姿を見ていながらも言葉が出なかった。ただ、口を開けたままにする事しか出来なかった。やっと出た言葉は、この世には存在しないはずの力を秘めた物だった。

『勝手に入らないでよっ!』

 思わず強い口調で言ってしまった。おまけに握り拳まで作っている。特別な力を纏った言葉は、君の行動を制御した。

「あ……、ごめん。ごめん、なさい」

 そう、用の内容も言わずに家に上がり込む君が悪いのだ。特別な力を使った私が悪い訳ではない。思っているのに、罪悪感が消えなかった。

 互いに黙り込んでしまった状況を改める。一つ前の出来事など無かったかのように。

「……で、何の用なの? 黙ってたら分からないでしょ」

 腕を組んで君の答えを待つ。偉そうにしている訳ではなく、こうしないとイメージが崩れてしまうのだ。

 クラスメイトからは〝孤高の女〟と称され、そんな事は無いのに女王様気取りをしなくてはならない。君が家を訪ねてきた今もそうだ。

 眼前に立つ男子生徒の君は言葉を詰まらせている。何を言いたいのか、見当も付かない。

「えっと……。えっと、ね。あの……」

 君の顔をじっと見ていると、君は頭を垂れて手を弄り始めた。呆れて言葉が出なかった。まるで、家の中に入れてと頼み込まれているような気がした。私は君から目線を外して部屋へ戻る仕草をした。すると、君の口から驚愕の言葉が飛び出た。

「僕とやらない!?」

 自分の思考が停止する直前を体感した気分だった。年頃の少年少女がする事など何があるだろう。

 言葉の意味はよく分からなかったが、今すぐこの場から君に離れてもらいたかった。だから私は。

『ごめん、今日は帰ってもらえる?』

 顔も見ずに玄関のドアを閉めた。間際に君の「えっ?」という言葉が聞こえたが構わず閉めた。

 君の言葉を聞いた瞬間、今まで忘れていた記憶が蘇った。十年前の私の事。



 2006年11月6日。

 当時の私は六歳で、小学生にはまだ成っていなかった。

 家族と紅葉を見に行く、と山奥に車を走らせた。シーズン的にはとても良く、ほぼ全ての葉が赤色や黄色に染まっていた。

 それらの色に見とれていると、いつの間にか家族とはぐれていた。親の姿が見えず、当時の私は泣きじゃくった。前後左右を見回しても自分の家族らしい人は見つからなかった。それを見兼ねたのか、一人の男性が私に近づいて来た。

「お嬢ちゃん、どうしたの。迷子かな」

 背後から声を掛けられたので振り向くことが恐怖だった。それでも私は大きく首を縦に振った。すると、男性が言葉を続けた。

「そっか。じゃあ、お嬢ちゃんを迷子にしたパパ達をおじさんとっちゃおう」

 初めて聞いた単語に戸惑いながら、とりあえず首を縦に振った。その行為が罪になるとも解からずに。

 それから家族を探しに探し回った。同じ道を何度も通ったと思ったが、男性に言う訳にはいかなかった。いっそ、嘘をついてやろうとも思ったが、その嘘がばれたら大変なことになると予想が出来た。だからこそ、解決策を考える〝能力〟が身に付いた。

「あの……、おじさん?」

 か細い声で私は男性を呼び止めた。わざと涙目になって男性の気を引いた。この時、ついでに演技力も身に付いた。

「どうした」

 男性は身を屈めて私の背に身長を合わせた。目の前に大きな顔が来て恐怖感が浮かび上がった。

『あそこに、パパとママが居るの。おじさんと私はやるんでしょ……?』

 私は見よう見まねで男性の言葉を思い起こした。指差す方向には全く見たことも無い男女のカップルが居た。男性は振り返って顔ににんまりと笑みを浮かべた。もうその時には男性が何を考えているのか、解っていた。自分がやった罪を私になすりつけようとしている。

 私の言葉を信じ込んでいる様子の男性は再び体を伸ばし、ズボンのポケットに手を入れた。

 そのポケットからはきっとカップルを殺る凶器が出てくるのだろう。ナイフだろうか。それとも、拳銃だろうか。はたまた、スタンガンか。小さな体でも人一人を殺せる物で無いと罪を擦りつけることは出来ない。まず、私は擦りつけられる気は一切無いが。

「お嬢ちゃんはこれを持ってね。持ったら二人に向けて、こうやってやるんだよ」

 そう言って、男性はシミュレーションを見せた。私の手には拳銃。片手では重過ぎるので、両手で支える。

 握られた拳銃は注目度が高かった。しかし、狙われているカップルは気付いていなかった。男性にとっては好都合だろう。

 私がカップルに拳銃を向けるフリをすると、タイミングが良いのか悪いのか、本当の家族が来た。

「どこ行ってたの! ずっと探してたんだからぁ! さぁ、手にある物を落として帰るわよ」

 私が拳銃を地面に落とすとガシャっと音が鳴った。最後に一瞬だけ男性の表情を見たが、怒り狂っていてこのまま追いかけて来るのでは、と思わせる物だった。

 帰りの車の中では、何も聞かれなかった。何故知らない人と話したのか、何故あんな物を持っていたのか。全てを聞かれると思っていたが、何も聞かれなかった。逆に私から聞きたかった。何故何も聞かないのか、と。



 自室に戻っても君の声は頭の中に残ったままだ。意味はよく分からないが、嫌な過去を思い出す材料になったことは確かだ。謝ってもらいたいが、顔を見ただけでまた思い出してしまうだろう。

 気分転換に冷蔵庫からお気に入りのジュースを出し、コップに注ぐ。しかし、それが罪の多さを表しているように思えて咄嗟にガラスのコップを床に落としてしまう。甲高い音がキッチンの大半を占める。

 幸い、親が居なかっただけあって叱られることはないが、処理が困難だ。下手をすれば指を切ってしまう。それが親の目に留まれば話すほか、無いだろう。誤魔化そうとしてもいつかはばれてしまう。それ以前に、誤魔化すなどの悪手には染まりたくない。

 仕方なくコップの処理を始めると、再び家のインターフォンが鳴った。音を聞いた途端、私の脳内には二つの選択肢が現れた。

 玄関でインターフォンを押したのは、君か。それとも君では無い誰かか。気になるところだが、そんなものを選んでいる場合ではない。

 キッチンの扉を素早く開け、玄関へ向かう。扉越しに黒い影が映る。そして私の心に一瞬の躊躇い。

 君だったらどうしよう。また嫌な過去を思い出してしまう。

 君ではない誰かならいいだろうか。笑顔で接することが出来るだろうか。

 どちらでも心配に変わりは無い。しかし、現実はどちらかしか存在しない。……君は他の誰かと一緒には来ないはずだ。そこだけは信じている。

 私は恐る恐る玄関の扉をゆっくり開ける。そして瞬きで閉じた目をゆっくり開ける。脳に映ったのは――女性だった。

 思わず溜め息のような息を吐き出した。安心がどっと押し寄せたのだ。一気に肩の力が軽くなり、声のトーンも上がる。

「お待たせしてすいません」

 きっと今の私は笑顔で接することが出来ている。ガチガチに固まった笑顔ではないはず。そのはず。なのに……。


 何処からか君の視線を感じる。


 悪寒さえ感じさせる真っ直ぐな視線。視界には入ってないのに、姿は見えないのに、感じる。

 分からない。君が何処で私を見ているのか、分からない。

 もしかしたら……、と心の奥底で思う。もしかしたら、この女性からなのではないか。君が女性の服を着て、化粧をして、私の目の前に立っているのではないか。

 私の表情に変化があり過ぎたのか、女性――君かもしれないが――が困った顔をして口を開いた。それを見て私はより一層怖い表情になっただろう。

「……あの、どうかしましたか? 話を進めても……」

 女性の声は至って普通だった。男性のように低いわけでもない。しかし、君の声は低かったか? 周りの男子は低いが、君はそこまで低くは無い。むしろ、男子にしては高い声だったと思う。

 君かもしれない女性はまだ困った表情をしている。疑ってしまうが、先程あんな事があったのだから、仕方の無いことだろう。

「あっ、ごめんなさい。……どうぞ、外は暑いので中へ」

 広い玄関に女性を通す。その時、ちらりとズボンの裾から脚が見えた。彼女を疑っているので私は見てしまう。

 靴はヒールだった。そして、男性のような体毛は無かった。

 この短時間で剃るわけにもいかない。しかし、それを言ったら服など調達できる訳が無い。

 ほとんどの手掛かりは今の瞬間で無くなってしまった。靴を脱ぐ仕草も大雑把ではない。では、君の視線を感じたのは気のせいだったのだろうか。

 女性が玄関に入り、扉を閉めると気になっていた視線は感じなくなった。ということは、外から見られていたのだろうか。

 そんなことを考えながら、女性との会話に入っていった。

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