眠気と退屈


 先輩である部長の教室に向かうのはなかなかに心臓がざわつく。廊下はさまざまな上級生の声で喧騒立っていて、下級生である僕が歩くのは、やはり落ち着かないものであるのだ。


 張り詰めた心臓をどうにか落ち着かせながら目的のクラスに歩いていく。ちょろちょろと上級生が、異物に対して気になるように僕に視線を向けてくるわけだけれど、

 まあ、そもそも異物だから仕方がない。

 

 どうには肺に蔓延る息をどうにか吐き出さないように気をつけて、というよりもため息を出さないように気をつけながら歩く。ここでは礼儀が重んじられるだろうから。


 部長がいるであろうクラスの前までたどり着いて、引き戸の窓を通して部長を探す。こういってはなんだが、部長は割と悪目立ちするタイプだから、そんなに見つけることに苦はない。どちらかといえば、見つけたあと、彼女に対してどのような態度で接すればいいのかがよくわからなくなるので、そこが困り様なのだ。


 窓際の席。


 頬杖をついて、あからさまに退屈さを主張している部長の姿、カガミ先輩の姿が見える。顔はこちらからは見えないが、特徴のある天然パーマから海草のように伸ばした髪が目につくので、すぐに先輩だということが分かる。


 彼女の周囲には誰もよってこない。もともと人を寄せ付けるタイプでもないから、おそらく孤立しているのだろうと、そう思った。しかも、孤立させられているのではなく、自分から孤立をしている。カガミ先輩はそういうタイプの人間である。


 小声で、失礼します、と一言声を誰にかけるでもなくつぶやいて、教室にそっと忍び込む。あまり怪しまれないようにすたすたと忍者のように静かに歩くが、そのさまこそが怪しいのか、やはりちょろちょろと僕に対して視線を向ける。少し、視線がこそばゆい。


 「部長、おはようございます」


 先輩の席にまでたどり着いて、一言声をかける。先輩に対しての礼儀として、こちらから挨拶をするのが当然だろう。……そんな礼儀、あんまりこの人に対して気にしたことはないが。


 「……んあ?」


 カガミ先輩はようやく僕という存在に気づいたのか、頬杖をしたまま顔を傾けて僕の方に視線を向ける。その視線には眠気が孕んでいて、どうやら退屈そうというよりも、眠たそうにしか見えないような印象を受ける。


 「……おー、アキくんではないか」


 「…そうです、あなたの後輩のアキです」


 「……うん」


 「……はい」


 ダメだ、彼女の空気に飲まれてはいけない。このまどろんでいるような、それでいてどこか気だるいこの空気に飲まれてしまえば、会話なんていうものがおぼつかなくなり、ここに来た目的さえも忘れてしまう。


 きゅっと肺をしめて息を吐く。体に力を入れて。


 「今日の部活についてのお話なのですが」


 「……うん」


 「えっとですね」


 「…………うん」


 「委員会に出るので、今日は出られないんですよ」


 「……………‥‥‥・・・ん」


 返事をしてくれたのかと思ったけれど、よくよく彼女の顔を見れば、目をつむっている。今の「ん」は聞いたとか、肯定の意を含んだものではなく、単純に寝てしまった時にふと漏れた声でしかないんだろう。


 「部長」


 「・・・・・・」


 「部長っ」


 「‥‥‥」


 「部長!」


 「……んあ?」


 本当に気だるさと眠気しかないのだろうか、この人には。カガミ先輩は寝ぼけ眼をこすりながら、「……おー、アキくんではないか」と、先ほどと寸分違わない言葉を吐く。


 「おはようございます、部長」


 「……うん、おはよう」


 「今日、部活、休みます」


 「……うん?」


 「いやだから、今日、部活、休みます」


 「……美術部、嫌になっちゃったの…?」


 寝ぼけ眼の瞳から一筋の涙が流れる。声も少しばかり震えている。


 周囲の上級生からは、なぜか後輩が上級生をいじめているような図になっているだろうが、違う。もう全部違う。声が震えているのは眠気からだし、涙を流しているのはただあくびをした時に流れ出ただけだろう。


 カガミ先輩が泣いているというのも、僕が彼女を泣かしているというのも、全て違う。でも誤解を解く術を僕は知らない。誤解を解く必要があるのかもわからない。単純に理由を説明するほか、彼女を説得することでしか、この場を取り繕うことはできないだろう。


 「委員会に出るんですよ、放課後の」


 「……委員会入ってたっけ…?」


 当然の疑問である。もともと入っていたならば、今日のように委員会で休む旨を伝える必要もない。なんなら過去に、僕が委員会に所属していないことも表明していたような気がする。


 「代理です」


 「ほんとうに?」


 念押しするように彼女は僕の顔を覗き見ながら、首をかしげる。まるで姉が弟に対して優しく問いただすような、そんな感じ。


 まあ、姉なんていないから、感覚的なものでしかないのだけれど。


 「本当ですよ」


 僕がそう言うと、彼女はようやく納得したようで「……なら、いいかなぁ」、と息をついてくれた。


 先程までちらちらと僕のことを見ていた上級生たちも、いつの間にか分散していて、まるでさっきまで見ていたこともなかったことにしているかのよう。


 まあ、それでいい。


 納得したらしい先輩は、その後僕が教室に入る前のようにまた頬杖をついて寝る体勢に入っている。いや、もしかしたらもう意識は睡眠の中に浸っているのかもしれない。


 これで起こすのは、野暮だ。


 用事は済んだことだし、さっさと上級生の教室を足早に出ていく、放課後にある委員会が憂鬱だな、とかそう感じながら。


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歪曲する街 でぃすさん @Nick3648

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