過去はよみがえる

三津凛

第1話

色に突かれるようにして、麻美は倒れた。視線の先には色鮮やかなインコが3羽鳥籠の中に飛んでいた。

ガラスの向こう側では、店員が驚いて目を見開く。

「ちょっと、麻美…大丈夫?」

私は関節の抜けたようになっている肩に手をかけた。なんとか立たせて、ペットショップの出口にあったベンチに座らせる。

「…どうしたの?貧血?」

麻美は血の気の引いた乾いた頰を見せている。唇が微かに震えて、目を頑なに閉じていた。

私はこんな人間をどこかで見たような気がした。でも思い出せない。

何人かの無関心な脚が、私たちの前を通り過ぎていく。雑音はどこか鉢の唸り声に似ている。麻美の背中をさすりながら、視線の先にあったインコを振り返る。何も特別なところはない、緑と青の醒めるような色があるだけだった。

麻美はしばらくして調子を戻したのか、ようやく口を開いた。

「…私ね、昔檻の中にいたの。あの鳥籠を見て、思い出しちゃった」

麻美の目は何かを見ているようで、何も映していないようだった。誰にも推し量ることのできない、自分の内面の底を覗いているようで不気味だった。

「どういう意味?」

「…子どもの頃に、檻の中にいれられたことがあるの。今思い出したわ」

麻美はゆっくりインコを振り返る。見ていたのは鳥の方ではなく、それを囲う鳥籠の方だった。

「それって、本当にあったこと?」

「…冗談で倒れたりなんか、できないわ」

麻美は怒ったように言った。唇はまだ震えている。

合わない唇を眺めていて、私は記憶が解けていくのを感じた。

私も昔、これとよく似た仕草をしたことがあるような気がした。目の奥が痛む。

麻美は昔、子どもの頃に檻の中に入れられた。

「犬を入れておく檻だった気がする」

麻美は疲れたように小さく呟いた。

檻、という言葉に虐待の単語が思い浮かぶ。

麻美とは大学時代に知り合った。下宿先が近いこともあってよくお互いの家を行き来していた。別々の企業に就職して3年ほど経つけれど、今でもこうしてたまに会っていた。

私はいきなり突きつけられた麻美の重い過去にどんな顔をしていいか分からず黙ったままでいた。

「なんか、ごめん。私も今さらになってこんなこと思い出すなんて…」

こちらの心中を察したのか、麻美は弱く言った。

「ううん、私はいいんだけど…」

私も俯いて首を振る。重い雰囲気だった。

麻美は青白い顔をしながら、ぼんやりとした視線を漂わせている。

周りの雑踏が冷たく無関心な膜のように私たちを覆っているようで無性に心細くなる。

「…どこかでお茶でもゆっくり飲む?歩けそう?」

しばらく麻美と同じようにぼんやりとしてみてから、私は言ってみる。

「うん…」

麻美はようやくこちらを見ると微笑んだ。


私と麻美は少し歩いて目についた喫茶店をくぐった。落ち着いてから、麻美は口を開く。

「ねぇ、ガスの炎を見た途端に倒れた人の話って知ってる?」

幾分血の気の戻って来た麻美が明るい声色で私に言う。

私はどこか、ひび割れてしまったガラス板を目の当たりにした時のような心地で、ううん、と首を振る。

「フラッシュバックって言うじゃない。そういうの…そのガスの炎を見て倒れちゃった人はね、9.11のテロで旦那さんだったと思うけど…亡くしてるの。テロから何年か経って、元気になった時に、急にそんなことになったのよ」

「そんなことあるんだ」

私は動かない麻美の視線を、少し気味悪く思いながら眺める。

「嫌なこと、思い出しちゃった…」

「…私は聞くことしかできないけど、なんでも言える時に話してね」

「うん、ありがとう」

麻美は言ったきり、琥珀色の紅茶に目を落として黙った。

亀裂は深い、と私は思った。

その日はそれ以上、麻美の過去については話さなかった。



麻美は私に定期的に連絡をして来た。内容はいつも同じだった。日常のなんでもない物が過去の引き金になって、倒れてしまうのだ。

目の前に暗幕が降りるようになって、意識が途切れる。それは時間と場所を選ばずにやって来る。麻美は間を置かずに休職をした。

「…真衣、少しの間だけ家に泊まってくれない?」

電話口の向こうの声は掠れていた。

「病院に行った方がいいんじゃないの?…泊まりに行くのはいいけど」

「それはわかってるけど…」

麻美はそれ以上何も言えないようだった。私もそれ以上言わず、

「じゃあ行くね」

とだけ返した。



げっそりと痩せた麻美は、そのまま過去に精気を削り取られたようだった。

「ご飯、食べれてないみたいね」

「…なんか食べる気しないの」

「つるっと食べられそうなのだけ持って来たけど…冷蔵庫に入れてもいい?」

「ありがとう」

麻美は薄く笑って、そのまま敷いてあった布団に横になる。

「ねぇ、こっち来て」

手招きされるまま、布団まで膝行する。麻美は重そうに頭を持ち上げて私の太腿に頭を乗せる。子供っぽい態度に少しだけ戸惑ったけれど、思い直して軽く麻美の頭を撫でてみる。

「…私って、子供みたい?」

麻美は目を開けずに言う。

「少しだけ」

「じゃあ、真衣は少しだけお母さんみたいね」

くすっと麻美が笑う。

「そうかなぁ」

私はお母さん、という単語に自然と背筋が硬くなる。

麻美の方でもそれを察して恐る恐る傷口を覗くようにして、話し始めた。



「気がつくと、父がいなくなっていたの。母は今思えば子供っぽい人だったのね。誰かに依存せずにはいられない、依存しないでは生きていけない人なのよ。子どもや男なんかに…。でも、私は憎まれたわ。そのうち母は再婚したけれど、義理の父にもほとんど無視されたし母は気分次第でご飯もくれなくなったし、暴力も振るってきたわ。母が再婚したのは中学の頃だったと思うけど…私が大人になっていくのが気に入らなかったのか、歳を重ねればその分酷くなっていったわ。だから、大学は家を出たのよ。でも、それは躾だって思ってたの…愛情だって。おかしいわよね。どうして、私が犬を入れておく檻に閉じ込められてなきゃいけなかったのかしら…あのインコの鳥籠を見た瞬間に、なぜか凄い怒りが湧いてきたの……本当、いまさらよ」



私は次第に、麻美の過去から視点が離れていくのを感じた。その隙間私の忘れていた過去が頬を撫でる。

真冬で裸足で家の外に出されたことがある。

いきなり頬を叩かれたりもした。

決まって、父のいない時に母は暴君になった。

物心ついた時から、高校に上がるまで思い出したように、突発的に母は暴君になった。


お前が悪い。お前が悪い。


呪われた護符を後生大事に抱え込むようにして、私はその言葉を信じていたのだ。

今さらこんなことを思い出させた麻美が、麻美の過去が理不尽なことだと分かっていても鬱陶しく、憎たらしく感じた。

どうして今になって、こんなことを思い出さなければならないのだろう。麻美のあの怯えた顔と震える唇は、そのまま過去の私の姿だったのだ。忘れかけていた、半分捨てられかけていた過去の残骸だったのだ。

麻美の声が次第に戻ってくる。

私は真冬に裸足で外に出された時のことを思い出す。足裏の刺されるような冷たさが蘇ってくる。

あの惨めな思い、叫びたくなるような思いが再びやって来る。


あぁ、あれは虐待だったのだ。


麻美の横顔を眺めながら、私は今ようやく、自分の過去の正体と向き合えたのだ。

小さな過去の自分の背中が見えてくるような気がする。

「大人にならないと分からないことだって、たくさんあるってことよ…多分ね」

私は疲れて小さく言った。

ふと視線をあげると、流しの上に包丁がそのまま置いてあった。

「…包丁、危ないよ」

「あぁ…ごめん」

私は麻美の頭を布団に置いてから立ち上がる。出しっ放しの包丁を片付けようと手に取った時、母の顔が刃に映ったような気がした。

柄を持つ手が自然と震えた。段々と酸素が薄くなる。視界に靄がかかって、世界の輪郭が曖昧になっていく。

私はそのまま座り込んで、気持ち悪さが通り過ぎて行くのを待った。


あぁ、また一つ思い出した。


落ち着いてから、麻美の方を振り返る。

大人にならないと、分からないことだってたくさんある。過去にされたことの名前、その古傷。

でも知ったところで何をどうしろというのだろう。


過去は消えない、傷はまだここにある。

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