君想い高跳び

 理科室の椅子は学校にある椅子の中でも特に座りにくい。生徒をサボらせないためなのか、背もたれがないのだ。ほかの教室と少し違うにおいもするし、排水口の形も特殊で気に食わない。理科室は嫌いだ。

 そんな理科室の椅子に座って足の爪を切っている。背もたれがないからバランスが大変だ。

 机を挟んで向かいには、白衣を羽織った先輩が何かの白い粉をアルコールランプにかけたビーカーに入れて水とかき混ぜている。


「最近爪を切る度に思うんですよ。爪は伸びるのに、前に爪を切ってから俺はまるで成長してないなって、爪が伸びるってことはそれだけ俺の体は時間を浪費していて、その時間の分成長していないといけないのに……、時間を無駄にしてる。まるで俺は爪や髪や垢を生産しているだけの家畜みたいだ」


 俺は先輩にそう言った。ここ最近高跳びの記録が伸びてなかった。もう三ヶ月も同じ高さを跳ぶことが出来ない。俺は停滞している。今日だって、思うように跳べないのを足の爪のせいにして、先輩に爪切りを借りて陸上部の練習をサボっている。


 少し前までは時間が経てば自然と記録は伸びていった。跳ぶのが気持ちよかったし、走り込んだり筋トレをするのも、それだけ成果に繋がるからやりがいを感じた。でも最近はどんなにトレーニングしても記録は伸びない。跳んだことのない高さを跳んだ時のあの景色が見えない。


「君は真面目だね。人間は誰だってそうだよ。食べ物を食べて、それに見合うだけの意義を生み出す人間なんてほとんどいないさ」


 先輩はビーカーを撹拌する手を止め、長い髪を結び直しながら言った。


「でも、時間をかけたらその分成長していかないと、生きてる意味がないと思います」


「夏目漱石みたいなことを言うね」


 俺の言葉に先輩は目を丸くして言った。その後少し笑った。笑うと真面目な先輩には似合わない八重歯が覗く。夏目漱石はそんなことを言ったのだろうか。


「人間が生きることに価値があるなんて思うのは、我々人間の傲慢だよ」


「生きてることに意味はないって言うんですか?」


「そうだねぇ、主観か客観かによるかな」


 いつもの自信満々の先輩の瞳だ。言葉は冷たいが、その表情はどこか楽しげにこちらを見ている。なんだか馬鹿にされてるような気がして気に食わない。言ってる内容も曖昧で少しむかついた。


「どういう意味ですか?」


「客観的にみたとしたら、生きることに意味なんてないね」


「客観的って他の人から見たらってことですか?でも、俺はそんなことないと思います」


「そう?」


「こうやって先輩が俺と話してることだって意味があると思いますし、ほかの何かをしてる時にだって、何かの意味があって……」


 先輩の意見を否定したくて言葉を並べてみる。それでも先輩は余裕のある視線を俺からそらさない。


「まぁ、それについて押し問答する気はないんだけどね。そう言えば、こないだ我が科学部の備品からプリズムををどっかに持っていったのも、そんなこと言うくらいだから何か意味のあることだったのかな?」


「それは……。」


 急に聞き返されて答えに困った。


 先輩に見せてもらったプリズムがとにかく綺麗で、なんだか無性に香椎〈かしい〉に見せたくなってしまったのだ。

 香椎はいつものぼーっとしたような顔で、キョトンとしてそれを受け取っていた。昔はもっとおしゃべりなやつだったのに、高校生になってからすっかり変わってしまった。


「ま、それについても、深く問いただす気はないんだけどね」


「バレてたんですね」


「そりゃね。備品の管理も部長の仕事だから」


「すみませんでした。あれ、いくらですか?」


「金額を聞くということは返す気はないんだね。いいよ、そんなに高いものでもないし。その代わりお願いは聞いてもらおうかな」


 先輩がいたずらっぽく笑う。


「なんですか?」


「科学部にも籍を置いてくれればいいさ」


「うちの高校、兼部って出来るんでしたっけ?」


「もちろん。まぁ、陸上部と科学部の両方に毎日来るのは無理だろうから、こっちの参加頻度は今まで通りでいいし」


「べつにいいですけど。科学部ってそんなに部員いないんでしたっけ?」


「先週二年生が一人やめちゃったからね、廃部にはならないけど、ちょっと体裁が悪くてさ。助かるよ」


 先輩は嬉しそうに笑った。先輩はその後、攪拌していたビーカーを使って何か実験をして、細かく説明もしてくれたが、内容はいまいち理解はできなかった。ただ、この実験を進めると水の中に出来上がるはずと見せてくれた結晶は綺麗で、また香椎にも教えてやりたいと思ってしまった。


 この感情はなんなんだろう。煮え切らない。モヤモヤする。自分のやりたいことがよく分からない。高跳び?実験?


 もう一度見たいのは記録を更新した時の空の色。その色も香椎に見せたい。どんな反応するのだろうか。


 その日は入部届けだけ書いて出して、陸上部には戻らないで帰った。


――――――――――――


 理科室の椅子は薬品を零したり、火災になったりした時にも直ぐに逃げられるように、背もたれのない簡素な黒い丸椅子が採用されている。


 可愛い後輩が座りにくそうに椅子に座って爪を切っている。運動部らしく均整の取れた身体はまだ若く、出来上がってはいないが、萌芽するような熱を感じる。日焼けした肌に短髪が映える。


「最近爪を切る度に思うんですよ。爪は伸びるのに、前に爪を切ってから俺はまるで成長してないなって、爪が伸びるってことはそれだけ俺の体は時間を浪費していて、その時間の分成長していないといけないのに……、時間を無駄にしてる。まるで俺は爪や髪や垢を生産しているだけの家畜みたいだ」


 ビーカーの水を温めながらミョウバンの粉末を溶かしていると、可愛い後輩がボヤいた。


「君は真面目だね。人間誰だってそうだよ。食物を食べて、それに見合うだけの意義を生み出す人間なんてほとんどいないさ」


 私にとって今更な疑問を真剣に悩んでいる所も可愛い。


「でも、時間をかけたらその分成長していかないと、生きてる意味がないと思います」


 驚いた。真面目で真っ直ぐな向上心。彼はきっと今、大人になろうとしてるんだ。最近彼がやっている高跳びの記録が伸びていないのは知ってる。そんな壁にぶつかって、思春期も相俟あいまって、くすぶってる。


「夏目漱石みたいなことを言うね」


 彼が文豪みたいなことを言い出したのは少し面白い。


「人間が生きることに価値があるなんて思うのは、我々人間の傲慢だよ」


 伸びない記録とか、色々なことから逃げたくなった時に彼がここに来るのを知ってる。彼が逃げ場に私のところを選んでくれるのは嬉しいけど、単純に優しい言葉をかけてあげられないのが私の性格だ。


「生きてることに意味はないって言うんですか?」


「そうだねぇ、主観か客観かによるかな」


「どういう意味ですか?」


「客観的にみたとしたら、生きることに意味なんてないね」


「客観的って他の人から見たらってことですか?でも、俺はそんなことないと思います」


「そう?」


 私の言ったことが気に食わないのだろう。不機嫌そうに目をそらされた。


「こうやって先輩が俺と話してることだって意味があると思いますし、ほかの何かをしてる時にだって、何かの意味があって……」


 一生懸命に言葉を探してる。私といることにも意味があると思ってくれるのは嬉しい。でも、彼が好きなのは別の子だって知ってる。だからかな、意地悪してしまうのは。


「まぁ、それについて押し問答する気はないんだけどね。そう言えば、こないだ我が科学部の備品からプリズムをどっかに持っていったのも、そんなこと言うくらいだから何か意味のあることだったのかな?」


 度々遊びに来る彼に私の好きな物に興味を持って欲しくて、色々な実験をやってみせた。ひどいじゃないか、その中の一つ、プリズムを気に入ってくれたのはいいけど、他の子のところに持っていくなんて。……なんて、やきもちなんて、……妬いてないけれど。


「それは……。」


「ま、それについても、深く問いただす気はないんだけどね」


「バレてたんですね」


「そりゃね。備品の管理も部長の仕事だから」


「すみませんでした。あれ、いくらですか?」


「金額を聞くということは返す気はないんだね。いいよ、そんなに高いものでもないし。その代わりお願いは聞いてもらおうかな」


「なんですか?」


「科学部にも籍を置いてくれればいいさ」


「うちの高校、兼部って出来るんでしたっけ?」


「もちろん。まぁ、陸上部と科学部の両方に毎日来るのは無理だろうから、こっちの参加頻度は今まで通りでいいし」


「べつにいいですけど。科学部ってそんなに部員いないんでしたっけ?」


「先週二年生が一人やめちゃったからね、廃部にはならないけど、ちょっと体裁ていさいが悪くてさ。助かるよ」


 少しでも一緒に居られる理由を無理やり作って、私は卑怯だろうか。それも彼の恋心を利用して……。


 この後はミョウバンの結晶を育てようと思ってるけど、興味を持ってくれるかな。今日すぐに結晶化はしないから、興味を持ってもらうには出来上がった結晶を先に見せておいた方がいいかもしれない。


――――――――――――


 私がミョウバンを育てるビーカーを用意しているのを、彼はただ見ていた。最後にこんな結晶が出来るよ、と大きな結晶を見せると、案の定目を輝かせた。プリズムの綺麗な色とか結晶とか、そんなものを彼は気に入ってくれる。本当に純粋だなぁと思う。


「来週くらいには結晶が大きく育っているから、その頃に見に来るといいよ」


 次に会うための理由を作って、私は私の心を落ち着かせている。


「途中経過も見てみたいです」


 彼は言った。純粋に見てみたいだけの言葉のはずなのに、何故か私に会いたいと言ってくれているように聞こえてしまう。ここまで来ると、この感情は一種のごうだ。


 今日は最後に入部届けという契約書を交わして帰った。私はそれを少しの罪悪感とともに顧問に提出したのだった。

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スコーンと紅茶と雨の庭のアジサイと 尚田糖化 @naotatouka

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