第3話
ふりかえると小茂田がいた。足音をしのばせてきたらしい。陰険な目を光らせ、頬をぴくぴく痙攣させている。
「これはいったいなんだ、説明しろ」
「・・・・・・」
「誰がきた。こたえんかっ」
秘密にしてください、といわれた。
「夕べのでは、やられたりんか」
またなぐられるのはいやだった。ターバン男への忠義立ては、たわいもなくくずれ、俺は一部始終を吐きだした。
「アラブ人みたいなやつだ? そんなおとぎ話を俺が信じるか。でまかせいうな」
おとぎ話で思いだした。そうだ、『千夜一夜物語(アラビヤンナイト)』だ――さっき自分で経験したことのように錯覚したのは、本で読んだためだったのだ。若い漁師が、み知らぬ男に湖へつきおとしてくれとたのまれる物語があった。題名はたしか『ジュダルとその兄』。あの話と似たできごとが現実におこるとは、どういうことだ。
「おい卯井、きいてるのかっ」
物語では、湖にほうりこんでくれとたのむ男は三人あらわれる。毎日ひとりずつ、三日連続で。いずれも朝だ。明朝も、ふたたび同じことがおこる可能性は無ではない――。
俺は賭けにでた。
「自分は今の話がほんとうだと証明できます」
「なんだと」
「明朝ここへ、今日きた男の兄がくるはずであります。弟と同様のことを自分にたのみ、食糧をくれるでしょう」
小茂田は疑わしそうに俺をにらんだ。
「貴様の腹はわかっている。明朝までに誰かに芝居をうたせようというのだろう。バカ野郎」
右手がふりあげられた瞬間、
「待て、待て」声がとんできた。
どこに隠れていたのか、長田があらわれた。佐伯におんぶさせている。
「もういいぞ、おろして。今度は腕をかしてくれ」
朝鮮やくざのようなみかけのくせして女のように佐伯によりかかって立ち、
「卯井二等兵の話はなかなか面白いではないか」
煙草をすぱすぱ吸った。
「なあ小茂田、そう思わんか」
「ですが・・・・・・」
「どうだ、いっちょうのってみたら」
「しかし・・・・・・」
「真偽がわかるのは明朝でも別に遅くはなかろう。うまいものが、もっと手に入るかもしれん」
「敵の罠の可能性が高くあります」
「もちろん戦闘態勢はしく」
翌日あけ方、俺は前日ターバン男に出会った木の下に立った。
長田たちは後方で支援という名のもと、二十メートル背後の塹壕からようすをうかがっていた。
湖に朝もやがかかったころ、二人めのターバン男がやってきた。驚きと安堵と喜びがいちどきにおしよせた。その男も濃い顔だちで、皮袋のついた馬にまたがっていたが、昨日の男よりさらに豪華な衣装をまとっていた。
「こんにちは、ウツイヒコタロさん」また日本語だ。
「こんにちは」こいつらはなぜみな俺の名を知っているんだろう。
「私と似た人、昨日ここをとおりましたか」
会話のやりとりまで物語と同じだ。
「とおりましたよ」
「どこいきました」
「いわれたとおり湖に投げこむと、おぼれました」
ジュダルもたしかそうこたえたはずだ。
「かわいそうに。実はあれ、私の弟です」
男は案の定、馬をおりて縄を俺に渡し、いった。
「ヒコタロさん、私も弟と同じに両手をうしろでしばって、湖に投げこんでくさい。そして三十分のあと、私が弟のようになったら、皮袋の食糧あげます。しかし、もし両手をさきにだしたら、そこの網で私をひきあげてくさいね」
相手が両手を背中にまわしたので俺はくくりあげ、湖のなかへつきおとした。物語と同じなら、二人めも往生するはずだった。
だが三十分後、男は両手を水の上につきだして大声をあげた。
「おおい! 網、アミ」
俺は湖に投げたが、力が足りなかった。やむをえずうしろに合図すると、小茂田と佐伯がでできたので、三人でようやくひきあげることができた。
みればターバン男は、両腕に珊瑚のように真っ赤な箱をかかえていた。
「ありがとございます」俺が勝手に仲間を呼んだことをせめるどころか、礼をいった。
「あなたたちが私を網にかけてひっぱりあげなかったなら、この箱をにぎったまま、しずんで死んでいたとこです。ひとりでは、とても岸へあがれませんから」
小茂田と佐伯は慎重を期してか、黙っていた。
「あのう・・・・・・」
物語では二人めではなく三人めで成功する。それに湖で得るのは箱ではなく二匹の魚だった。どうも展開がよめなくなったと思いつつも、俺はジュダル同様にいった。
「お願いです。この箱や、昨日おぼれたあなたの弟さんの身の上や、私の名前を知っているわけについて、ほんとうのことを教えてくれませんか」
「いいですとも」
男はうなずくと、うってかわって巧みな日本語で話しだした。
「実は彦太郎さん、われわれの父親は鎮元大仙と名のった仙人でして、私は清風(チンフォン)と申します。弟の名は明月(ミンユエ)でした。われわれは父から仙術を学び、一生懸命身につけたのです」
「仙人だあ? ふざけやがって」
小茂田がつぶやいたが、男は真顔でつづけた。
「そうこうしているうちに父は亡くなり、一冊の手記を残しました。この手記には大地の隠れた秘宝のことが書かれてありました。それによると、ある宝のありかを知る手立てが、碧緑湖、すなわちこの湖の底の箱にある。この箱を手に入れるには、卯井彦太郎と名づけられた日本人を使わなくてはならない。
卯井彦太郎に会うには、西暦一九四五年の以下の日時に碧緑湖のほとりにいくこと。この日本人が宝を探す人間の両手を背にいましめて湖に投げこまなくては、湖の底へはいけない。それから首尾をとげる運命をになったものが湖の底に沈んだ箱をとることができる。さもない運命の者は落命して、足のほうがさきに水面にあらわれるはず。首尾よく成功した者は、まず両手がさきに水面にでるから、卯井彦太郎に網をうってもらって、岸へひきあげてもらわなくてはならない、とのことでした」
「バカバカしい」
小茂田は頭から否定したが、俺は物語の主人公と自分が同じ立場におかれたことでのぼせあがった。魔術が仙術だったり、湖中でのターバン男と魔人との戦いが省かれるなど細部はだいぶちがっていたが、そのときは気にもとめず、身をのりだしていった。
「ある宝って、なんですか?」
「人参果(にんじんか)です。それは別名草還丹(くさかんたん)といい、『西遊記』にもでてきた霊性をおびたふしぎな植物で、三千年に一回だけ花が咲き、三千年に一回だけ実をつけ、その実は三千年たってからやっと熟します。ほぼ一万年に一回しかできない果物ですが、生まれたての赤んぼうそっくりで、体の一部が枝にくっついているとか」
「ああ、ああ」小茂田が口をはさんだ。
「その匂いをちらとでも嗅ぐことができれば、その人は三百六十歳まで生きられ、まる一個食べれば不老長寿を達成することができるというんだろう。俺は小学六年で『西遊記』を読破した。原文をぬきがきしたようにだらだら説明されんでも知っている。しかしあれは架空の産物だ」
「いいえ、現実に存在します」
「南米原産のやつのことか。別名ペピーノ。支那では甘粛あたりで栽培され、味はきゅうりに似ている。かたちも瓜に近い。要するにただの野菜だ。霊性などありはしない」
「たしかに人参果は昔から世界各地にありました。ヨーロッパではマンドラゴラ――」
「ああ知ってる知ってる。マンドラゴラはペルシャ原産のナス科の根菜だが、根っこが人間の脚のように二股にわかれていることから、その実は地中で生まれた人間とみなされ、声をだすといわれた。いわゆるマンドラゴラ伝説」
「『西遊記』の人参果は、ただの伝説ではありません。一万年にいちどしか実らないために存在しないも同様にみなされているだけです。事実、今年一万年目を迎える人参果の木が、世界に二つ存在します。ひとつはここ中国ですが、もうひとつは別の国に」
「どこだ」長田がわりこんだ。宝ときいて塹壕からでたらしい。
「もうひとつはどこの国だ」
「日本です」
「日本!」
「はい。唐代中国に伝わったワクワク島の木伝説をごぞんじでしょうか」
「当然知っている」小茂田はいった。
「それも小学生時代本で読んだ。ワクワク島というのは倭国すなわち日本のことだ」
「そのとおり。あなたの知識は仙人も顔負けです」
俺には皮肉にしかきこえなかったが、小茂田は鼻をうごめかした。
男はつづけた。
「中世アラブの本『ムハンマド・イブン・バービシャードがワクワクに入国したことのある者の話として語ってくれた話』に、『そこには長丸い葉をした大木が生えていますが、この木は瓢箪に似た、それより大きい実を結びます。その実は人間の形をしています』と書かれてあります。昔から倭国には人間がなる木が生えているという伝説が存在しました。しかし単なる伝説ではなかったのです。日本と中国には実際に人参果があり、しかもそれぞれが一万年に一回の収穫の年を迎えています」
「日本のどこ、支那のどこにある?」
「それを知る手立てがこの箱にあります。さて卯井彦太郎さん、この箱をあけるのにも、あなたの力をかりなければなりません。私ではあけられないのです」
俺は箱のふたを難なくひらいた。誰でもあけられそうだったが、そのときは疑う気がしなかった。
「ふふ、ありがとうございます。これで中国の地図が手にはいりました。これには人参果の場所と、人参果をえるのに必要なカギ二つのありかが示されています。かなり奥地のようですが、仙人の私ならいけるでしょう」
長田は地図をのぞきこみ、
「日本のはないのか」佐伯に箱をあさらせた。
「日本の人参果のありかをかいた地図はありませんね。しかし私は中国のをみつければよいのです。むしろ、さきに発見する使命を感じています。中国と日本、それぞれの大地に一本ずつある人参果の木は、まるで根っこでつながっているかのように、一方の木の実が収穫されたとたん、他方の木の実はたちまちだめになってしまうそうです。しぼんで皮だけになるのです。つまりさきに発見された方の実しか生きないのです。とはいえ日本では人参果があること自体知られていないようですから、さきを越される心配はなさそうですが」
いったとたん、男は頭からどさっとくずれおちた。うしろには、長髪ブルドッグ――。
「ウダエモン!」
那須右太衛門は助走をつけてターバン男を湖にけりおとし、
「小兵では候えども、手はきいてェェェ候」
歌舞伎役者のように見得を切ると、那須与一よろしく弓矢をかまえるポーズをとったが、凶器は石だった。ターバン男は背後からいきなり後頭部を殴打されたあげくに、けりおとされたというわけだ。
「よっ、いよっ!」
長田たちがはやしたてた。
「それにしてもウダエモン、なぜここに?」
那須は長い前髪をかきあげ、英語でこたえた。ぜんぶはききとれなかったが、およそこういうことらしい。那須は長田に金を前借りにきた。だが長田はターバン男といた。話がおわるまで待とうと立ちぎきしていうるち、こいつは殺した方がてっとり早いと判断し、実行した。
つくづく勝手な野郎だ。長田もさすがに怒るかと思いきや、
「ウダエモンにはあとで謝礼をいたそう」きどった声をつくってほめだした。
「実に賢明な判断であった。おかげで難なく秘宝の地図を得られた。われわれは支那の人参果を手に入れたも同然ではないか。のう伍長」
「中隊長殿は、あの支那人の話を真にうけるのでありますか」
「おまえは、あくまで人参果が架空の産物だといいたいのだな」
「罠としか考えられません。あの男の話したことはまったく荒唐無稽であります。第一この世に仙人など存在するわけがありません」
小茂田は軍隊言葉をはぶいた。興奮すると長田への軽侮の念がおもてにでる。
「だがやつは湖底にあったこの箱をとった。三十分ももぐっていたのだ。その事実をどう説明する?」
「こんな軽い箱が湖底にあったはずがありません。からくりがあったと思われます。仙人のわけがありません。簡単に死んだのがその証拠です」
湖面にうきあがった体は、二度と顔をあげなかった。
「Huh――」
那須が英語でなにかつぶやいた。
「『やつが仙人かどうかは問題ではない。自分なら人参果の存在をたしかめにいく』と那須殿はいっておるぞ」
「tired」という言葉がききとれたように、那須が実際に話したのはぜんぜん別の内容だった。長田が都合のいい「通訳」をしただけと俺にはわかったが、小茂田は、
「那須殿がそうおっしゃったでありますか・・・・・・」
案の定、気勢をそがれたようだ。画家になれず喫茶店主として芸術家を常連客にすることで自尊心を満足させていた人間だけに、有名なチェロひき那須に弱かった。
長田はそこにつけこんだ。
「そうだとも。せっかくの機会を逃しては、那須殿に凡人だと笑われるぞ。おまえはそれでいいのか」
「いえ」
小茂田は気をかえたようだったが、地図をみるとまた顔をくもらせた。
「しかし中隊長殿、最終目的地は内地とはまったく反対の北西方向であります」
なんだと。これ以上内地から遠ざかるなど論外だ。誰も今まで口にこそしなかったが、われわれ逃亡兵の最終目標は祖国に帰ることではなかったか。
「そうだ」長田は小茂田から地図を奪いとり、
「たしかに内地からはなれる。しかも人参果にたどりつくには急流を下り、『塩の大湖』を渡らねばならんのみならず、二つのカギを手に入れるために『髪縫いの洞窟』だの、『彼岸の村』だのに入らねばならん。越えられるかもわからん」
「『髪縫いの洞窟』・・・・・・? 『彼岸の村』・・・・・・?」
「村の名はこれだ」
長田は小茂田にだけみせた。
「・・・・・・! こんな村は、きいたことがないであります。実在するかもわかりません。そもそもさっきの男は十分うさんくさかったです。やはり罠の可能性が高く・・・・・・」
「まだわからんのか。われわれは選ばれたのだ。これはわれわれに与えられた使命なのだ。罠であろうとなかろうと、われわれがたしかめねばならん。考えてみろ、もしやつの話が真実であったら、どうなる。もし支那人が人参果をさきに手に入れたらどうなるか? あの男がいったように、日本にあるはずの人参果が枯れるかもしれん」
中隊長お得意の弁舌をふるいだした。
「それよりおそるべきことは支那人が不老長寿を手に入れることだ。こっちがいくら弾丸を命中させようが、刀で切りこもうが、死ななくなってしまう。そんな支那兵は絶対に出現させてはならん。われわれが未然に防がねばならん。つまり支那人よりさきに発見し、やつらにうばわれぬようわれわれの手で守らねばならん。どうせいちどは捨てた命ではないか。わしはけっして個人の利益のために人参果をみつけようとしているのではない。すべてはお国のためだ」
殺し文句を口にした。お国の軍隊から逃げた将校のくせに。
「なあウダエモン、そう思うな?」
那須は煙草をえんとつのようにたて、なん個目かの煙の輪をふきだすと、目でうなずいた。
「小茂田、おまえも人参果を探しにいくな」
「しかし、あまりに遠くあります。第一、補給はどうするのでありますか」
「なんとかなる。現地調達すればいい」
また長田はてきとうだ。現地調達とは徴発、すなわち略奪のことだ。だれがやるっていうんだ。みな苦手じゃないか。殺すのも殺されるのもおそろしいからだが、もともと汚れ仕事が嫌いな人間の集まりだ。
「ウダエモンが協力するだろう」
「しかし、那須殿の所属部隊は北西方面には移動しないはずであります。それに問題は補給だけではありません。奥地においては敵勢の予測がつかないであります」
小茂田から視線をはずし、長田は英語をぺらぺらしゃべった。那須がぼそぼそなにかこたえた。
「人参果のためなら脱走して、われわれの援護にまわってもいい、とのことだ。これで問題解決。右太衛門は一騎当千だ。射撃の名人でもある」
大いに疑わしい。俺は那須が銃をもったのさえみたことがない。そもそもやつをたよりにするなど論外だ。
「しかし、脱走が成功するかは――」
「小茂田、おまえは『しかし』しかいえんのか。そういうのを、否定のための否定というんだぞ。いいか、われわれはなんとしてもいかねばならん。佐伯と卯井は進んで人参果をとりにいきたいという顔をしておるぞ」
いやな予感がした。
「どうだ佐伯、小茂田がその気になるよう、なにかひと言いってくれんか。おまえには作家先生としての意見があるな?」
「はい・・・・・・自分の作家としての意見としましては、人参果を探しに支那の果てにいくことはすばらしい冒険であります。一流の芸術家はめずらしい知識と経験を追い求めるものでありますから、この機会を逃すことはないであります」
調子のいいやつ。作家先生にしてはつまらんご意見だったが。
「さすが佐伯、よいことをいう。小茂田伍長、おまえもいちどは一流の芸術家をめざした身だろう。凡人といわれたいのか?」
「いいえ。ただ――」
「ええい卯井、おまえもなにかいってやれ。芸術家でもなんでもないおまえにも、意見ぐらいあるだろう」
「自分も人参果の存在は否定しないであります」
ほんとうはまったく信じていなかったが、思いつく理由を口にした。
「なぜなら支那が『聊斎志異』や『山海経』の本場であるからであります。現に多くの兵たちがこの国で夜、怪奇現象に遭遇しておるのはよく知られたことであります。路上に支那人の首をさらしながら、まじめに幽霊を信じ、おそれる兵隊は実にたくさんいるであります」
「そうだそうだ。おい小茂田、おまえは卯井よりも劣るのか」
「いえ。自分は人参果をみつけにいくことに異議はないであります」
「賛成だな」
「しかし――」
「まだ『しかし』か」
「人参果を得るにはなにか資格がいるようでありますが――」
地図とは別の紙を箱からとりだした。
「資格? そんなのはあとから現地で解決すればいいだろう。今から知っても面倒なだけだ。よし小茂田、きまりだ。われわれは明日から人参果探しの旅にでる。よいな」
「はい」小茂田はしぶしぶ応じた。
「よおしよし」長田は上機嫌で、
「みな喜べ。もう人参果はみつかったも同然だ。われわれは米英にも負けん。なにせ不死身になるのだ。それもこれも、このわしのおかげだぞ。わしが『うまいものを食いたい』といわなければ卯井がこの湖岸でひと晩すごすこともなく、ターバン男に発見されることもなく、この箱が手に入ることもなかった。わしはすべてはじめからおみとおしだったのだよ。なにせ深謀遠慮の長田といわれた男だからな」
そんなあだ名、きいたこともない。
「ということで具体的な計画はすべておまえにまかせたぞ、小茂田伍長」
「はい?」
「おまえが計画をたてろ。佐伯と卯井が実行する。右太衛門は補助。それでよいな」
「中隊長殿は――」
「おまえたちならきっとなしとげられる。わしは――」
長田はターバン男が残した酒の瓶をぬきとると、
「敵情偵察だ」そういって塹壕にひっこんだ。
自分はらくしてほしいものを得ようって魂胆か。長田は面倒なことはぜんぶ人におしつけ、うまいところだけもっていく。結局は自分の利益のため。人参果を自分のものにしたいだけなんだ。ほんとうにあるかどうかもわからないのに。たしかに不老長寿は魅力的だが・・・・・・弾丸にいくらあたっても死なないなら安心だが・・・・・・内地に帰れなくなったら困る。
どのみち二等兵に選択肢はない。現時点でひとりになるのは危険である以上、ついていくしかない。それに長田、小茂田、佐伯、那須の全員に復讐するという目的があった。
このときもしも、やつらのはかりごとに気づいていれば、俺は復讐などは放棄し、その場からぬけだしていただろう。そして幸せを手に入れられたかもしれない。
その夜、翌日からのことを考えて眠れず外にいると、
「やあやあご苦労さん、ご苦労さん」ポマードのにおいがぷんと鼻をついた。
「きこえてんのかあ? 卯井」
佐伯悦人だ。三流スターのような濃い顔に月光がさしている。
「こないだは、けったりして悪かったな。伍長殿の命令でさあ、しかたなしだったんだよ。わかってくれるだろ」
「・・・・・・はい」
「下っぱはつらいよなあ、おたがいにさ」
なにが、おたがいだ。仲間づらしときゃ恨まれないとでも思ってるのか。
「でもうまく切りぬけないとな。卯井はまじめすぎるんだよ。もっと直感をいかさないと」
なにをいってる。
「だって那須殿が時間どおりにきたためしないだろ。俺だったら夜までどっか安全な場所を探して休んでたなあ。なにごとも要領だよ」
「でも、古兵殿は――」
十歳も年下の若造を、俺より一年早く兵隊になったというだけで古兵殿呼ばわりしなければならない。
「おお、卯井がしゃべった。なに、なんだって」
「伍長殿を尊敬しておられるとききました」
「当然さ。小茂田伍長殿は真っさきに敵のふところへとびこんでいったんだ」
あの与太話を疑わないとは、さすがエセ小説家だけある。
「要領よりも、軍人精神を重んじていなければ、できんことであります」
皮肉をいったつもりだったが、佐伯はかるくうけながした。
「僕に軍人精神で生きろったって無理だよ。だってただの兵隊だから。伍長殿は下士官。戦争のプロじゃん? 僕は小説のプロだからなあ。執筆には要領ってものがいるんだよ」
ぎとぎと光った頭。いつもしっかりオールバック。鏡がお友だちのナルシストが。
「人には、むきふむきがあるんだ。らくに人を殺せるのが軍隊では出世するし、らくに小説を書けるのが大作家になる。らくにできることがむいてるってことじゃん」
女みたいにくどくど繰り言をいいやがって。
「そういえば卯井の嫁さんは作家志望だったな。小説を書きはじめてもうどれくらい?」
「十年」つい正直にこたえた。
「十年かあ。それでまだ芽がでないの。僕が嫁さんの小説読んであげられたらいいのになあ。そしたらいろいろいってあげられるのに」
「自分が読んでましたので・・・・・・」
「でも卯井はプロじゃないだろ。記事は書いてたかもしれないけどさあ、小説じゃないし、出版社にいたといっても名もないところじゃあ。その点、僕は小説探偵賞を受賞してる」
慶大在学中だったから話題になったが、受賞後一作も世にだしてないだろうが。
「批評も得意だよ。本なら死ぬほど読んでるから。嫁さんはどんな本が好き?」
こバカにした口調。うそをいってやれ。
「『痴人の愛』が好きであります」
「ちじんの愛? なにそれ、あ、エロ小説? もしかして嫁さん、官能系?」
このバカ、谷崎潤一郎の作品も知らないのか。
「そっかあ。ってことは嫁さん当然あっちも好きだろ。今ごろ孤閨に耐えられなくて、ほかに男つくってたりして」
俺の沈黙は肯定と解釈された。
「だからおまえ嫁さんの話するといつも暗い顔するのか。よそでたねもらってきたら困るもんな」
「・・・・・・」
「でもそうなったら、おまえの子どもにしちゃえよ。子なしで一生終えるよりましだろ?」
「・・・・・・」
「子どもはいいぞ。視野が広がるから。僕にも三才の息子がいるけどさ」
それは前にもきいた。慶大時代ナイトクラブのツバメをしていて、こしらえたってな。女は未婚のまま、息子は隠し子だ。
「じゃおやすみ」
佐伯は痰を吐きおとして去った。ジゴロ野郎めが。女という女から金をまきあげて遊び暮らしてた、あんな外道にさえ子どもがいるという現実。くそ、俺だってほんとうは・・・・・。
俺のところへ赤紙がきた夏も、妻は毎日朝から屋根裏にこもり切り、小説を書いていた――いやほんとうに書いていたかどうかは不明だ。
妻はどんなに気温があがっても部屋をしめ切っていた。よその奥さんたちが暑いとぼやく声が外からきこえると、江戸っ子でもないのにべらんめえ口調で、
「こちとら厚手のじゅうたんに座って、むしぶろ同然の屋根裏で窓もあけずに頭を全速回転させてるんでえ。暑けりゃ暑いほど汗かいて服がぬれて涼しくなるんでえ」
とうそぶいていた。
じゅうたんは本人も内心では片づけたいと思っていたらしかったが、面倒でやらないのだった。注意するとうるさいから、ほうっておいた。それでも、あまり暑いと体にさわるから窓をあけたらどうかとなん度か提案したが、
「窓をあけると、外がうるさくていらいらする。暑い方がうるさいよりまし」
といってきかなかった。
「それに暑いと、暑さに負けまいと発奮して集中するから、鉛筆が早く進む」
ともいっていた。
一日のおわりに原稿用紙に力のこもった文字が並んだのをみて、よろこんでいた。書道とかんちがいしていたらしい。本人もどんな小説を書いているのかよくわかっていなかった。頭の奥では、夜なにを食べよう、といったたぐいのことばかり考えていたのだろう。
実際えらぶっていたわりに、熱射病予防には人一倍気を使っていた。こまめに塩をなめ、氷をひっきりなしに額にあて、ほんの少しのどがかわいいただけで梅ジュースをがぶ飲みし、ご不浄にばかりいっていた。
なに、受賞したら、酷暑の屋根裏で窓をしめ切って書いたと自慢したかっただけにちがいない。肝心の作品は、入賞どころか、なん年たっても箸にも棒にもひっかからなかった。
いや真面目な話、すべてはみせかけだった気がする。
俺は過去になん度も疑った。
彼女の創作活動はかたちだけではないか。俺は徹頭徹尾だまされているのではないか。
疑問は、戦線にでてからもつきまとった。
妻には裏の顔があったのではないか?
少なくともこれだけは断言できる。
彼女は俺に隠れて、なにかをしていた。なにかは、わからない。俺はあえて知ろうとはしなかった。
自分には知る権利がなかったからだ。
俺たちは、ふつうの夫婦ではなかった。
*
「おう、おうおう」
老人が叫ぶたび、昼でも暗い山奥から反響があるようだった。それは木々のざわめきとも、狼のうなりとも、敵の気配ともとれた。なんの音かはっきりしないだけに、ぶきみだった。
「おい、いいかげんやめんか」
小茂田がいくら叱ろうがむだだった。佐伯が通訳しても、老人はいうことをきかない。
「なぜこんなやつを道案内にした」
老人は支那語はできても黒人で、尻までしかない着物はぼろぼろだった。
「この近辺にいたのが、そいつだけだったのであります」佐伯がこたえた。
「あれはいったいなんだ」
老人のやせ細ったふくらはぎには、たくさんの小さな箱が留め金でとめてあった。
「シラミが、入っているのであります。ひとつの箱あたり五百匹おると、本人はいいました」
佐伯は息をきらしきらし言葉をついだ。俺とふたりで重い砲弾をはこばされていた。那須がこの前もってきた用途もない砲弾をだ。おまけに個人装備を入れた四十キロ近い背嚢を背負って坂道をのぼっていると、心臓がしめつけられ倒れそうだった。
那須のトラックがあったら・・・・・・いや、この山道ではむりか。どっちにしろ那須はここにはいない。脱走できしだいわれわれのあとを追うとのことで、いったん中隊に帰った。うまいこといってあのブルドッグ、人参果をさきにうばうつもりでは――。
長田はひとりで馬にのってらくそうだし、小茂田は徒歩だが自分の荷物しかもっていないので多弁だ。
「気色の悪い黒人だ。俺だったら道案内にこんな男は断じて選ばんかったぞ。昔からバカは嫌いだ。使えるかどうかはひと目でわかる。俺は地方では名だたる珈琲店のマスターだからな。みぬくのは得意だ。客だって選んでた。店に入ってきた瞬間に判断し、がさつな客は二度とこないようしむけ、俺の店にふさわしい客にだけていねいに接した。まだ未熟でも素質があるとみた客は俺が教育し、文明人にしてやったもんだ。こんな野蛮人は視界にいれる価値すらない」
道案内を使うときめたのは、おまえだろうが。
昨日小茂田は、自分は今回の冒険のいわば小隊長に命じられたのだから出発の準備に関しても自分が指揮する、と演説をぶったが、ぎりぎりまでなにをしていたかといえば風景のスケッチと、煙草または石ころを吸うこと、飯に睡眠をとることだけだった。
「冒険といえば旅行記だから出発地の風景を記録しておく必要がある」などといっていたが、いいわけにすぎない。
ろくにいき方も調べないで目的地につけたら奇跡というものだ。
「こいつ、ほんとうに洞窟への道を知っているのか?」
今さらのように小茂田はあわてだした。
坂道はしだいにせまくけわしくなっていった。右の谷側は闇につつまれてみえず、底知れぬ奈落の底のようだ。
「おい、どうした。年寄りがとまったぞ」
黒人は支那語で早口になにかいった。
「道に迷ったとのことであります」
「なにい」
黒人はいきなり地面をはいずりだし、着物からはみでた真っ黒い尻を上下させながら、今まで以上の声で叫んだ。
「おう! おうお!」
「なんだなんだ」
「今、山の神にうかがいをたてている、吠えると反響がかえってくる。邪魔するとこたえがきこえぬ、といいましたです」
「山の神、だとお」
一陣の風が木々の葉をゆらした。老人は右方向をさした。
「あっちだ。あっちへ進めば川がある、といっています」
薄あかりに馬のがいこつがみえた。
「ほ、ほんとうか。まちがったら承知せんぞっ」
「大丈夫だ、あっちからいけばまちがいなく洞窟にたどりつける、といっています」
最初から道案内などたよらず、川にすればよかったんだ。地図があるのだから、川ぞいにいけば迷わないはずなのに、小茂田は山道にこだわった。
もっとも川は敵に狙われやすいが、このあたりにその気配はなかった。
老黒人はみすぼらしい体格ににあわず、右の道を軽快にのぼっていく。
「やつが支那兵の仲間だったらどうする。擬装したのもむだになるだろうが」
われわれは日本軍とわからぬよう現地農民の服を着、油紙や牛皮で兵器をつつんでいた。帯剣に布をまいたのは防音もかねている。小茂田が今回のためにわざわざ考えたわけではなく、移動の際はいつもこうしていた。
「おまえら急がんか。俺は登山で鍛えた体だから、こんなコル(峠)はどうってことないぞ」
こっちは砲弾があるんだぞ。
すいすいと岩をわたり、はるかさきをいく小茂田を目で追っていると、
「ああ、頭ががんがんする」佐伯がいった。
「今ならわかんないから、ちょっと下におこうぜ」
俺はしたがった。腕がちぎれそうだった。
「いっそのこと、砲弾をここにおいていきましょうか」
佐伯にそんな度胸はないとわかっていたが、あえていった。
「しっ、大尉殿にきこえたらどうする」
「今は近くにいません。大尉といえば、あの馬に砲弾をはこばせることはできないのでしょうか」
「なにをいう。できるわけがないだろう。砲弾に震動をくわえれば爆発の危険がある、と伍長殿がいっておられた」
爆発はしないはずだ。小茂田はきっとまちがっている。俺はある理由によって、爆発の可能性はきわめて低いと考えていた。だがまだ確信はなかったので、うかつなことはいえない。
「さ、もうくだらん話はやめにして運ぼう。ばれたらことだ」
佐伯は砲弾をもちあげかけたが、
「う。みてくれ、このまめを。おまえがしっかりもってくれよな」
まめなら、俺にもある。しかも血まめだ。佐伯はすこし手をそえるだけで、重量をほとんど俺にあずけてきやがった。体がだるく、吐き気がしてきた。高山病の症状だ。
とがった山だけに勾配がはげしい。せまい道はいまや岩がちとなった。二つめの馬のがいこつがみえたとき、小茂田がふりかえった。
「中隊長殿は、中隊長殿はどこにおられる。おうい!」
「こっちだぞー!」
声は後方から返ってきた。
長田はおよそ十五メートル下でとまっていた。馬が動かなくなったようだ。
とみるや道案内の黒人がかけおりてきて、いきなり馬の目と鼻のまんなかをナイフでぶっさした。血が大量にほとばしった。
「なにをする」
長田は反射的に道案内を射殺した。だが馬は出血しつつ動きだした。
「どうなっておる」長田をのせた馬はあっというまにこっちまでのぼってきた。
「血をぬくと高地での動物の呼吸はずっとらくになると読んだことがあります」
俺は西域の探検記で得た知識を口にした。
「チベットあたりでは、ある程度の高さまでくると馬に鉄ぐしをさしたまま山をのぼらせるそうであります」
「そうか、それも知らんで道案内をやったが悪く思うな、小茂田」
「はあ、まあ・・・・・・渓流の音もきこえてきましたし、川にさえたどりつけば大丈夫でしょう。しかしあの黒人はなぜ足にシラミの箱などをつけていたのでしょうか?」
長田は大儀そうに首をふった。だがやつらは知っていたのだ。あの箱にほんとうに入っていたものはシラミなどではなく、あるものだということを――。
渓流には日があるうちたどりついた。
並行して竹やぶがつづいていたが、敵の気配はまだ感じられなかった。対岸は明るくいろんな花があり目標になりやすそうではあったが、朝から上空に飛行機が一台も飛来しなかったことからしても、思い切って川下りをしたほうが得策と考えられた。
ちょうどおあつらえむきに小舟が数隻、河岸に繋留してあった。
「あれにのっていかない手はない。現地民のだろうが、日が沈む前には相当移動できるだろう」
「しかし中隊長殿、敵が穴をあけた舟をわざと残し、日本軍を沈ませることはよくあることであります」
「だったら事前にたしかめればよい」
「穴はみぬけないようにあけられていることもあります。川をくだってからわかるのでは遅いであります」
「杞憂ではないのか」
「だとしても砲弾はどうしますか。舟につめば震動で爆発するおそれがあります。陸路の方が無難であります」
「わかった、わかった」長田は面倒になったらしい。
「目的地につきさえすればよい。わしも馬の方がなれてるしな。ま、あとはおまえにまかせる」
「ではひと晩考えてから、水路と陸路、どちらをとるか判断します」
なに? ひと晩だと。俺なら即座に川を選ぶ。小茂田は砲弾が爆発すると懸念しているが、おそらくは思いこみだ。根拠もない思いこみのために遠回りするなどバカげている。
「ああ伍長、じっくり考えてくれ」
長田は佐伯に天幕をつくらせ、なかにこもった。
たちまち小茂田は命令した。
「おい、卯井と佐伯、竹の筏をつくれ」
水路にきめたのか。
「念のためだ」
陸路になったら筏づくりはまったくのむだになるじゃないか。どっちにするかさきにきめてくれよ、優柔不断野郎め。
苦労して筏をつくったあげくにやっぱりいらない、などといわれるのはごめんだ。俺の体力はむだに使えるほどあまっちゃいない。むしろ限界に近い。やっぱり、いってみなくては。いわないで後悔するよりも、いって後悔するほうがいい。俺は思い切って申しでた。
「伍長殿。砲弾はどれも、信管がぬかれているようでありますが・・・・・・」
「なんだと。確認しろ」
解体してみたところ、やはり三つの砲弾とも信管はぬかれていた。信管がなければ、爆発したくてもできない。那須がくれたのは完全に無用の長物だった。それを俺と佐伯は後生大事に運ばされていたわけだ。
「そうか、これなら暴発はせんか。しかし問題が消えたわけではない。筏でいくとしたら、どう固定するか。できれば濡らしたくないからな・・・・・・」
小茂田はふたたび考えこんだ。いったいそこまでして無用の長物をはこぶ必要があるのか。那須がくれたからすてられないというのでは、バカバカしくてやり切れない。
「とにかくおまえたちは頑丈な筏を二隻つくれ。明朝までにだぞ」
寝ないでやれってか。
小茂田は両手を腰にあて、声をはりあげた。
「今夜はここにツェルト(天幕)をはり、ビバーク(不時の露営)する」
日が暮れるまえに俺は懸命に竹を刈り、縄で固定していった。朝からの山登りでへとへとになっているところに佐伯が小茂田の目をかすめてさぼるので負担がなん倍にもなった。それでもろうそくの光をたよりに夜あけまでにはどうにかおわらせ、自分用の携帯天幕に入ったが俺のは穴があいていたので、寒くてとても眠れたものではなかった。敵襲警戒のため、火はたけなかった。
まったく大陸は昼夜の寒暖差がはげしい。将校のような防寒具をもたない俺は、あたたまるには体を動かすしかなく、やむをえず外にでたが、いっそう冷たい夜気に肌をつきさされただけだった。
満天の星空。
日の出までまだ一時間以上はある。やがて雲が渦巻き、夜空をおおった。耳が凍りつく。頭の芯から内臓までふるえた。天幕に戻ると暖かく感じられたので身を横たえ、いくらかうとうとしたが、耳の異常は意識から去らなかった。三日前、小茂田になぐられたせいだろう。耳鳴りがまた、はじまっていた。
その音のなかから声が、きこえた。変にこもった感じだが、女のようだ。ききおぼえのある、妻の声だ・・・・・・。
祖母は、とても元気だった。
もう八十をすぎていたけど、まだ死ぬはずじゃなかった。
あれが、殺した。
私にはそうとしか思えない。あれが、追いつめた。
祖母を失った私は心に大きな穴があいたようで、なにをするにもやる気がでなかった。両親はずっと前に亡くなったが、祖母は私が生まれてからずっと身近にいた。でもこれからは祖母のいない人生を歩まねばならない。
仏壇にむかう気はしなかった。お供えものなどすれば、もう姿のない存在となったことを認めることになる。いちど「おばあちゃん、みかんだよ」と仏さんの前においてみたが、「あらあ。いっしょに食べよう。はんぶんこにして」という声もきこえなければ、みかんの白い皮をむいて私の手にのせるぬくもりも感じられなかった。ただ冷たい空気と沈黙があるだけで、腹だたしかった。
それもこれも隣のせいだ。隣の老婆は、祖母の家のなにかを狙っていた。そういうそぶりがあると生前の祖母はいっていた。なにを狙われているのかは、教えてくれなかった。
私は、つきとめることにした。
だから今は祖母宅で寝起きしている。夫のいない家を留守にすることに躊躇はなかった。近所には田舎へ疎開するといってきた。
私がここにいることは祖父だけが知っている。隣の老婆には絶対にさとられてはならなかった。
老婆が狙っているものについて、祖父はなにも知らぬげだ。いちどためしにきいてみたが、こたえてくれなかった。知っていても私に教えたくないのか、あるいは興味がないのか。
祖父はよくもわるくも人にかまわない。祖母が死ぬ前と同じ日課をくりかえしている。慶応生まれにしては達者で、隣組の用事や配給のうけとりなどで外出することも多く、家ではひまをみては趣味の習字や読書に没頭している。私が家のどこでなにをしようが、祖母のものをどんなにあさろうが口をださない。私がここに隠れて住みたいといったときには、なにもきかずに黙ってうけいれてくれた。それからずっと私がいることをばれないように気を使ってくれ、私のぶんまで文句もいわずに炊事洗濯までしてくれている。
この家は二階建てで、小さいが庭もある。一階に四部屋と、二階に二部屋と物干し台。せまくはないが、隣家が非常に近く音がつつぬけだ。
私は二階にこもるようにしていたが、それでも存在を知られないようにすることがいかに難しいかを実感しつつある。
敵はひとの家の監視が趣味だけに、祖父の一日の活動をよく把握しているらしい。だからたとえば祖父が洋間で読書しているはずの時間に、私が一階の居間でガタガタ音をたてるわけにはいかなかった。うちから、ふだんとはちがう音がきこえたら、老婆は不審に思うにきまっている。
たがいの音はつつぬけだ。居間の壁のたった五センチむこうに隣の家の台所の窓があるのだから当然だった。
老婆は家を改築した際、ひとことの断りもなしに台所をうちの外壁ぎりぎりまで近づけた。
狙われているものは、一階の居間にある可能性がいちばん高い。「ものがなにかは教えないけどね、おまえならみた瞬間にピンとくるよ」と祖母はいっていた。
私は隣が留守の時間にしらべることにした。
老婆は毎日午後一時十分に買い物にでかける。今日の午後一時十五分、私は二階からおりて居間に入った。板張りなので床がきしんだが、気にしなかった。
居間にはしらべるところがたくさんあった。鏡台、衣装だんす、茶だんす、食器だなのひきだし。書類だなにつみ重なった箱。まずは鏡台のひきだしをひいた。一見ピンとくるものはなかったが、みおとしがあるといけないので、一個ずつとりだして台の上においていった。
ふいにドン、とまな板をおくような音がした。心臓がはねあがった。つづけてカサカサと紙袋をあけるような音。
ああ、老婆はさっきから台所にいたのだ。音がしなかったから、今日もこの時間はいつもどおりいないと勘ちがいしていた。すると老婆は私が居間に入ったときからの音をぜんぶきいていたのか。二階からおりた足音も? 祖父の足音とちがうのに気づいたかもしれない。祖父は一階の洋間で読書している時間だから、おかしいと感じたにちがいない・・・・・・この家に祖父以外の人間がいる証拠をつかんでしまった? 手足がふるえてきた。
老婆がいる以上、捜索は中断するしかない。しかしだしたものを放置するのはまずかった。祖父が私の伝言をよむ前に、これを片づける可能性がないとはいい切れなかった。祖父は平気で音をたてるから、老婆にヒントを与えることになる。
私は台にだしたお白粉やヘアピンを、ひきだしに戻していった。なかの板は厚くかたいので、気をぬけば音がでる。慎重に、そっとそうっと、ひとつひとつ時間をかけておいていった。すきまはやがてうまった。空間にたいしてものが多いので、重ねないと入りきらない。ぶつかれば音がでるから、それこそトランプの塔をたてるみたいに神経を使う。
緊張の連続から背中が痛みだした。汗が流れた。気になって手もとが狂いそうになったので、汗をぬぐった。ひと息ついたのもつかのま、鼻がむずむずしだした。ほこりを吸ったらしい。くしゃみがでそうだ。こらえなくては。でたら、それこそすべてがおじゃんだ。唾液をのみこみ、息をとめる。すると鼻水がでただけで、おさまった。ふたたび気合をいれて腕時計をつかみ、ヘアピンと缶のすきまにおき、どうにか静かにひきだしをしまうことができた。
台所の音はやんでいた。だが肌で感じた。老婆が息を殺し、こっちのようすをうかがっているのを。ここから早くでなくては。
出口のふすままでほんの二歩の距離だが、床がきしむのがこわかった。
私は腹ばいになった。脚をのばし、全体重を腕にかけた。体勢はととのった。
ふすまにむかって匍匐前進した。死にもの狂いで進んだかいあって音をたてずに無事出口に到達した。
その瞬間、ものを激しくたたきつける音が耳をうった。
・・・・・・わざと気配を消して、あげくのはてに無遠慮に音をたてやがって。
こっちは命がけで音を消しているのに。そっちのせいでくしゃみもできず、歩くこともできないというのに。
怒りで我を忘れ、夢中でふすまをあけた。
音がたったことに気づき、頭がまっ白になった。
今の音は確実に伝わった。
叫びだしそうになったのを、あやうくこらえた。
語りはそこでとぎれた。電話越しのようにくぐもった声ではあったが、妻にちがいなかった。
夢をみたのか? いや俺の意識は途中からはっきりしていた。目をあけようとしてもあけられず、全身金縛りにあったようだったが。
なぜ耳の奥から声が・・・・・・。幻聴にしては、あまりに真に迫っていた。
声は十三時台のできごとを語っていた。しかし今はもう夜明け前だ。日本は支那より一時間ほど進んでいるから五時前後。約十六時間のひらきがある。では半日以上前の彼女の思いが今ごろになってとどいたのか? あるいは今、前日のできごとを日記につけていて、その言葉が俺にきこえたのか。文語調だったのはそのためなのか。
いや、ありえない。そんなテレパシーじみたことは。そもそもわれわれの関係は・・・・・・だったらなぜ。
俺が妻からの手紙を最後にうけとったのはまだ部隊にいた三カ月前だった。そのときは差出人住所は自宅だったし、妻の祖母が亡くなったとも書いてなかった。彼女は今祖母宅にいるという。
もしそれが事実なら、彼女の秘密に関係がありそうだ。声によれば、彼女の祖母はなにか貴重なものを家に隠していた。それを隣の老婆が狙っていた。そのために祖母は追いつめられ、死期を早めた。
その貴重なものとは、なにか。彼女は探っているらしい。隣の老婆におびやかされながら・・・・・・考えながら俺はいつのまにか眠ってしまった。
轟音で目がさめた。時計は五時半前をさしている。爆撃かと思って外をのぞくと、天幕の目の前に川が迫っていた。夜のうちに水位が上昇したらしく、昨日の位置から少なくとも二十メートルは近づき、激流と化していた。川は谷を走りながら吠え声をあげていた。
馬がおし流されている。俺は天幕をとびだした。昨日の小舟が一隻、近くに移動してきた。
すると小茂田が、まっさきにのった。俺たちに作らせた筏にではなく、昨日あれほど拒否した小舟に。長田もつづいた。
水面がふくれあがり、のみこまれそうだ。とびのろうとする俺と佐伯に、小茂田はどなりつけた。
「二人でいっぱいだ」あと五人はのれそうにもかかわらず、
「貴様らは筏にのれ」
「ですが伍長殿」
筏はもはやどこにもみえない。小舟は流れにのってはなれつつある。佐伯は背嚢から袋をとりだした。
「自分は食糧をもっているであります」
みそと米だ。今まで隠しもっていたらしい。長田が目の色をかえた。
「よおし。小茂田、のせてやれ」
「自分は発火用反射鏡をもってます」
生活必需品だが、三人はなくしたのを俺は知っていた。
「いいだろう。卯井も早くのれ、快々的(カイカイデ:早く)」
「砲弾はよいのでありますか」
小茂田はあれほど大事に運ばせた砲弾を探そうともしなかった。
奔流は谷底をかけおりていた。両端には山がのこぎりの刃のようにたちならび、下流から風がふきあげてくる。手鏡をとりだし髪型を直す佐伯は、伍長に首から水をかけられた。
「こらっ、おまえらがこがんで誰がこぐ」
小茂田は俺にもかいを投げつけ、
「しっかり動かせ」
自分は比較的安全なうしろにたった。
「転覆しないだろうな。流れをつかまえろ。一、二、一、二」
前方は波だち、白く泡だっていた。起伏のはげしい道をいく自動車以上に、小舟は上下にゆれた。この激流で、漕舟訓練で鍛えた工兵隊じゃあるまいし、そううまくこげるわけがない。前かがみになって、もうおちそうだった。
「おい、岩にぶつかる!」
小茂田は俺のかいをうばい、めちゃくちゃにかきまわした。岩はどうにか避けられたが、今度は岸に極端に近づいていった。そのうえ長田が俺のうしろにきて煙草を吸いだしたので、重みでへりが下がり、川におとされそうだ。
「佐伯、左じゃない、右だ。めちゃくちゃに動かすな」
おまえもだろう。
「ワニでも刺激したらどうする。水もれはないか。卯井、確認しろ」
熱帯雨林じゃあるまいし、ワニがでるわけがない。ふだんえらぶっているが、根が臆病なのがよくわかる。
「今のところ異状なしであります」
小舟は岸をはなれ、なんとか沈まずに下っていった。
「よし。なにをつったっとる卯井。かいはもうひとつあるだろうが」
三人でこいでなんとかいけそうと思ったところに、川面が水煙をふきあげた。むかい側の崖から岩が次々落下している。自然におちたのか、誰かがおとしたのか。
ふいに矢がとんできた。目の前の水面にプスプスとつきささる。
崖上に弓をかまえた男が十人近くならんでいた。
「共産軍か・・・・・・」伍長はすでに色を失っていた。
「いや、いくら共産軍でもあそこまで原始的ではないだろう」長田がこたえた。
「どうやらさっきの道案内の仲間のようだ」
全員、下半身むきだしで肌が真っ黒だった。
「おー、おうおう!」
「おー、おうおう!」
雄叫びだ。矢はまだ舟にはとどかないが、いつ命中してもおかしくない。
「よし、応戦する」長田が命じた。
「小銃をかまえろ」
「しかし、この早瀬では・・・・・・」
小茂田の顔は恐怖にゆがんでいた。今やあちこちに渦や小さな滝があった。
「第一、射程距離外では・・・・・・」
「なんとかなる」そういいつつ長田自身は銃をかまえなかった。
われわれ三人は命令にしたがって、かいを手ばなした。たちまち小舟は横ざまにおし流され、渦につっこんだ。船体がはねあがり、体がういた。後尾が水中に沈んで大きく傾いた。
「おちつけっ、おちつけえ!」わめく伍長の膝はがくがくふるえていた。
俺は無意識に浮き輪を探した。すると小茂田は、
「これは俺のだ」そなえつけの浮き輪をうばった。
長田も佐伯もいつのまにか身につけていた。俺のぶんはどこにも残っていなかった。
「おまえには救命具があるだろ」佐伯が冷笑した。
軍支給の救命具は、竹筒を十本、麻縄でつないだだけという滑稽なしろものだった。前に五本、うしろに五本、まんなかに頭をとおすのだ。
「くれぐれも銃をすてるなよ」
浮き輪をした三人はさっさと川にとびこんだ。もはや応戦もなにもなかった。
舟は半分以上沈み、俺はいやおうなしに川におとされた。水中に深くとられ、渦にまきこまれた。
命より大事と教えこまれた銃を捨て、背嚢を捨て、下着だけになり少しでも浮こうとしたが、体は右回転をやめなかった。なにもみえず、なにもきこえなかった。体がだんだん冷たくなっていき、もうだめだと思ったとき、渦の外に吐きだされた。そのまま水面にはいあがり、必死で岸へとたどりついた。
*
「『人参果をもぎとるには、カギが二種類必要だ。カギは『髪縫いの洞窟』と『彼岸の村』にひとつずつある。カギを手に入れるには、それぞれの地にまつわる問題をとかねばならない。問題は、その地の伝説に関するものとする』」
佐伯が翻訳した。
「伝説?」
長田は佐伯に渡した紙をのぞきこむ。人参果の地図とともに箱に入っていたもので、全文中国語だ。
「内容は、この段落にあります」
「ふうむ・・・・・・お、そろそろ『髪縫いの洞窟』がある場所に入りそうだ。それでこの地の伝説とは?」
「はい。ええと」
俺ならもっと早く訳せる。なのに俺だけみせてもらえなかった。
「『髪縫いの洞窟の伝説』」佐伯はやっとのことで日本語にした。
「『その女は敵に追われ、この山に逃げこんだ。いよいよ追いつかれたとき、山にむかってハンカチをふった。すると洞窟がひらいて彼女を迎えいれた。直後、洞窟はとじたが、彼女の背にたらした髪が扉にはさみこまれた。その末端は、今日でも心ある人間の目にはみえるといわれている。
その女の子孫の髪の毛が、第一のカギである。手に入れるには、次の問題のこたえを知らねばならない。
問題・・・洞窟にはさまった髪の毛がみえるという伝説は、ある目的のために語りつがれているが、その目的とはなにか?
注意事項・・・こたえがわかるまでは、目の前に髪の毛があっても、つかむことはできない」
「つかめない? バカな」小茂田が口をはさんだ。
「村人をつかまえて伝説の女の子孫の居所をききだせば、あとはこっちのものです」
「それにしても、腹がへった」長田はいった。
あたりには食べられそうなものもなく、人家もない。
木々の葉が風にゆれ、潮騒のような音をたてる谷底を、われわれは幽鬼のように歩いていた。
地図の入った箱が無事だったのは奇跡だ。武器はもちろん食糧も川に流された。長田の銀貨も、俺の発火用反射鏡も、佐伯のみそも米も、命綱はすべて失った。
俺の場合、空腹に寒さがくわわった。現地民の着物をひろって着たが、穴だらけで冷たい空気がじかにあたる。ちらちらさす木漏れ日のぬくもりだけが救いだ。
褌姿で河岸にたどりついたとき、俺をみすてた連中にその場で復讐したかったが、手段はおろか体力もなかった。ついていけば、このさき機会は必ずめぐってくるだろう。
それにしてもどこまで歩けばいいのか。洞窟は川をくだればあると中隊長はいっていたが。
「伝説にならってハンカチでもふるか。洞窟がどっかでひらくかもしれん」
佐伯にもたれかかって歩いている長田には、よゆうがあった。
「しかしハンカチは、ないであります」
「布ならなんでもかまわんだろう」
長田は虚空にむかって布をふった。
するとむこうの方で白煙がたちのぼった。そしてさっと消えた。みわたすかぎり人っ子ひとりいないにもかかわらず。
長田はどうだというように俺たちの顔をみた。佐伯は前髪をなでつけ、小茂田は手で望遠鏡のかたちをつくり、バカみたいに目にあてた。
「今のはなんでありますか」
「いかにも謎の煙であった。どこもひらかんがのう。さすがカギの地だけあって奇異のことがおこる」
「自分は炊煙とみたであります」俺はいった。
「炊煙? にしては一瞬だったが」
と、いい匂いがただよってきた。食欲をそそる。腹が鳴り、生唾があふれた。われわれは目をぎらつかせた。匂いは煙がみえたのと同じ方向からただよっていた。
煙はふたたび生じていた。白いすじの下にあるのは、岩壁だ。草木が生い茂り、いばらがからみついている。その一部が赤くそまっていた。
壁だと思ったところに穴があり、火影がもれていた。
「洞窟だ、洞窟だぞ」
小茂田がまっさきにかけ寄った。長田もひきずられていく。俺と佐伯もさきを争ってなかをのぞいた。
いばらのむこうで鍋が火にかけられていた。スープがぐつぐつ煮えている。太い指が薪をくべ、陰影をつくっていた。男が虎の毛皮に座っていた。その顔が白い湯気からのぞいた。
たれた頬、細い陰険そうな目。われわれに気づいても驚いたようすはなかった。
那須右太衛門だった。やつが救世主にみえた。
長田が英語で話しかけ、こたえを通訳した。
それによると、那須は隊を脱走し、記憶にある地図をたよりにこの洞窟へたどりついた。途中までトラックにのって二日前に到着し、食糧を現地調達し、自炊している。ちなみに脱走のさい、支那の人参果のことは知られないよう細心の注意をはらった。
どこまでほんとうの話か疑わしかったが、この時点では飢えを満たすことで頭がいっぱいだった。
「そのスープ、わけてくれるか」長田がわれわれの欲求を代表した。
「悪いけど、ただではあげられない」英語でぼそっといった。
「わかってる。ただ今すぐは金を払えん」
「いいよ。私にも人参果をわけるって約束するなら」
「人参果? あれは支那人から守るためであって、われわれがもらうつもりは――」
「アサゾーの腹はわかってる。私のわけ前は一個でいいから、ね?」
「いっておくが、わしは自分の利益は考えとらん。だが、ウダエモンが今後われわれに食糧を供給するならば、人参果をみつけたあかつきには一個捕獲することを許可しよう」
「約束だよ」
「ああ約束する」
「けっこう。それじゃ君たちに私の料理を提供しましょう。ただし厳密には私が君たちに供給するのは、できあがった料理です。食材ではありません。私が食糧を購入する以上、調理するのは私です。だから君たちが食材を勝手にもちだすことも、料理に口だしすることも許しません。そこのところいいですね。納得して頂けますね?」
「わかったわかった。だから早くスープをくれ」
鍋に顔をつっこまんばかりのわれわれを那須は制し、
「待って! これはやれない」
日本語で叫んだ。なんだこいつ、やっぱりしゃべれるんじゃないか。
「なぜだ」長田も日本語に切りかえた。
「これは、村人にあげるから」
「村人?」
「そう。この近くにいる村人。そいつにスープをやってききだすんですよ」
「なにを」
「奥の扉のあけ方」
「扉?」
「この洞窟の奥に岩の扉があるの、わかりません?」
「ああみえたみえた。奥の岩に扉のかたちに亀裂が走ってる」
「あれ、例の扉らしいですよ。はさまった女の髪の毛がみえるという伝説の。私もこの前、自称仙人がくれた紙を読んだから知ってるんですよ。支那語は得意ですからね。問題のこたえを解くには、あの扉をあけないと」
「ほんとうに伝説の扉なのか」
「扉の近くから泉がわきでているって、紙に書いてあったよね」
「書いてあったのか? 佐伯」
「はあ・・・・・・翻訳しそびれたようであります」
「バカ。慶応がきいてあきれるぞ」
小茂田がここぞとばかりに叱ったが、那須は眉をしかめて、
「いいからみて。あそこから水がでてるでしょ」
巨大な岩の左側から歩いて三歩ほどのところに水が、ちょろちょろと流れていた。
「ね。だからあの岩が伝説の扉。でもあの扉、カギ穴みたいのがあって、なにかさしこまなければあかないみたい」
「伝説のカギをにぎる扉をあけるのに、またカギが必要なのか」
「それもふつうのカギ穴じゃないんですよ。だから村人にききだす必要があるの。そのためにはこの特製スープがいる。私のスープは極上の味って昨日教えてやったから、あげればきっと教えてくれる。だから君たちには、あげられない」
「しかし、われわれは非常に空腹だ」
那須はばふっとブルドッグみたいな息をもらし、
「空腹なんて戦闘中ならなん日もがまんしたでしょう」
「それはそうだが」
「今はもう予備の食材ないんです。一日待ってくれます? 明日の午後また食糧調達にいくから。そしたらスープと得意の肉料理をつくってあげてもいいけど?」
「・・・・・・わかった、明日必ずうまいものを食わしてくれ」
「もちろんですよ。私の腕は一流なんだから。もったいないぐらい」
那須は鍋を荷台にのせると、逃げるように洞窟の外にでた。ほんとうに村人のところにいくんだろうか。
「今はこれをあげるから、待っててくださいよ」
去りぎわ、那須はわれわれに四角いものを投げつけた。一個のかびくさいパンだった。それを四等分してわれわれはむしゃぶりついた。かたくて、かめばかむほど口のなかがパサついた。
翌朝、那須はいった。
「扉の穴にはめこむのは、カギじゃなくて石だって。村人によると、伝説にはつづきがあるんです。『岩の扉から泉がわきでているが、その水は赤い小さな石をともなっている。この石は女の涙が化したもので、なめると塩からい』」
短い足をくみ、洞窟の主人然としている。
「つまり赤くて塩味がする石を、あの水のところでみつけて、扉の穴にはめこめば、あくってことですよ」
石好きの小茂田は率先して探したが、なかなかみつからなかった。
那須がひろった石が、一発で穴にはまった。
扉のなかには、なにもなかった。
「どういうことだ右太衛門。問題のこたえがどこにある。髪の毛もみえんぞ」
「そりゃ伝説ですから」ひらきなおったように那須はいった。
「われわれが手に入れなければならんのは、伝説の子孫の髪の毛ですよね。その子孫をみつけなきゃ。市場にいって情報を集めますか」
そのとき、どこからか、しゃんしゃんしゃんという鈴の音がきこえ、那須がいった。
「きたきた」
洞窟の外に四頭立て幌つき馬車がとまっていた。
「私が呼んだの。市場をいききするのに便利でしょう。昨日から食糧調達に使ってんですよ。馬のくつわに鈴がついてるのも気に入ってね。貸切だと値がはるけど、こわれたトラックを売ったら、けっこうお金になったんで。君たちもくる?」
食糧ときいて、誰も反射的にうなずいた。
「ほんとうなら乗車賃を頂きたいとこだけど、ま、今回は特別」
のり心地は悪くなかった。むしろかなり快適だった。長田などは厚い絨毯がよほど気に入ったとみえ、その上で眠りだしたほどだ。
山をでると平地がひろがり、町があった。道ゆく人は大半がインド人のようななりをしていた。男はゆるいシャツにズボンといった民族衣装を、女はサリーをまきつけている。それでいて顔はインド人ではなかった。多少肌の色は濃かったが、支那人に近かった。清風と明月の故郷かもしれないと思ったが、ここの男たちは頭にターバンをまいてはいなかった。
市場は大きな石づくりのかまぼこ型屋根の下につらなっていた。はじめはどこに入口があるのかわからなかった。太陽がまぶしすぎた。馬車をおり、なかに入って驚いた。
これが市場なのだろうか。あまりに静かだった。人がいないわけではない。薄暗いが、アーチ型天井の穴からもれる光で、商人たちが自分の店のじゅうたんにごろ寝しているのがみえた。
「気楽でしょう」那須はいった。
「匂いは上海や日本の市場と同じだけども。どちらかというとこっちの方が羊肉の脂や生乾きの革、麝香がぷんぷんしてきついけど。それでも店の人間があちこちから声をかけてこないのがすばらしい」
「同感です。自分も知らない人間になれなれしくされるのは嫌いであります」
小茂田が同調し、佐伯も尻馬にのっていった。
「自分も市場で知らないおやじに、少しとおっただけで『にいちゃーん、ちょっと寄ってってよー、安いよ、食べてみな、おいしいから』などと声をかけられると、わずらわしかったであります。それにくらべると、ここは――」
異常だった。いったいものを売る気があるのか。あおむけで枯れ木のような手を虚空にのばした者、横むきでじゅうたんの端にしがみつき体を小刻みにふるわす者、まばたきするだけの者、口をぱくぱくさせる者・・・・・・。
どの商人もやせこけ、血の気がなく、まるで死を前にした病人のようだった。この薄暗い場所で人生の大半を過ごしているために、白い地下動物のようになってしまったのか。通路をとおるのは、低いうめきに似た声ばかりだった。
「みかけにだまされないでください。あれで目の奥ではいつでも獲物にとびかかろうと狙ってるんですよ。でも私が知りあった店主たちは、妥当な値段で売ってくれますから。まず、あの八百屋」
「おーほほ」
ひげを赤くそめた年配の男が、野菜の横に寝ころがり変なせきをしていた。
「おーほ、おーほっほ」
那須は注文しにいき、戻ってきた。品物は馬車まで小僧に運んでもらうという。われわれはついでに擬装のための民族衣装を購入。この方は各自が包みをせおって歩いた。
「女の髪の毛のことは、どこできく」
「あそこですよ」水墨画を売っている店だった。
「うえーうえー」
白髪のしわだらけの老婆が、あおむけで両手をにぎりあわせ、怪鳥のような声をだしつづけている。
「あのばあさんが知ってるのか」
「ばあさんが売ってるのは、ただの絵じゃありません。髪綉(ファシュウ)って知らない? 日本語でいうと、髪縫い」
「ああ、あれがそうなのか」緊張が走った。
「髪の毛の刺繍。筆にみえるのは、髪の毛。縫いつけてあるんです」
「毛で、あんな濃淡がでるのか」
「色んな種類を使いわけてますから。髪綉の職人は髪の毛の蒐集家でもあるんですよ。だからあのばあさんから伝説の女の子孫へとつながる可能性はきわめて高いと思いますね。あの店には昨日目をつけたんですけど、君たちをだしぬいたら悪い気がして私、遠慮してたんですよ」
「それは礼をいわんといけんな」
「ばあさん」
上海育ちの那須は支那語で、山に逃げた女の伝説を知っているかときいた。老婆はおかしな声をだすのをやめ、うなずいた。
「じゃあ、伝説の女の子孫がどこにいるかもわかる?」
老婆は唐突に指さした。
「あの女ですよ」
三十代ぐらいの女が通路を歩いていた。みたとたん、俺の目は吸いついたようになった。
豊満な体、しなやかな足どり、知的な顔だち・・・・・・鼓動が激しくなった。
妻がここに・・・・・・? ありえない。だが、あんなに似た女がいるだろうか。ちがいはサリーを着ていることと、髪が異様に長いことだけ。
女は店にむかって近づいてきた。
目があいそうになった。とたんに女は顔をそむけ、急ぎ足で遠ざかっていった。
「つかまえろ!」小茂田が叫んだ。
俺は全力で追いかけた。
女は姿を消した。
通行人にまぎれたようだ。手わけして探したがみつからなかった。
さっきの老婆をわれわれは質問ぜめにした。
「あの女はこの店の関係者か」
「いいえ」
「あの女の髪をぬいつけた絵がないか」
「ありません。ほんとうですとも。ここにはないです」
「どこかべつの場所にあるのか」
「えーえー、わかりません」
「あの女はどこに住んでいる。名前は?」
「うえーえっ、わかりません」
「このババア、はぐらかすと承知せんぞ」
「まあまあ小茂田。ここで脅してもなんにもならん」
那須がばふっと息をもらし、
「それはいえてます。こんな市場こそありますが、遅れた連中でね、日本軍のことも戦争のこともなにも知らないんだから」
「まさか」
「ためしにきいてみようか。――ばあさん、日本と支那は戦争している?」
「はて。日本というと倭国のことかい。倭人たちは、その昔武神さまが海や火を噴く地面の穴に追い払ってくださいましたよ」
「ね。武神ってのは関羽のことですが、まったくお話にならんでしょう。このばあさんが特別ってわけじゃありません。日本の兵隊といっても誰もこわがらない」
「未開人だな。それじゃ伝説も頭から信じてるだろう」
「きいてみようか。――ねえばあさん、心ある者があの洞窟にいけば伝説の女の髪はみえる?」
「もちろんですとも」
「・・・・・・こやつらにきいてもむだでしょう」小茂田がいった。
「伝説がどんな目的で語りつがれているかという高等なことを、野蛮人が知るはずはない」
「ばあさん、扉にはさまった毛がみえるという伝説が、どうして残っているか知ってる?」
「うえっ、髪はほんとうにみえますよ」
「やっぱり話にならんな。こりゃ前途多難だ」
われわれはそのあとも市場を歩きまわり、女を探し、伝説のことをきいてまわったが、収穫はなかった。
那須はあちこちで買い物をし、断りもなくひとりで馬車にのって帰った。すきっ腹を抱えたまま徒歩で戻ったわれわれは、洞窟に入るとほとんど動けなくなった。市場で買った服に着がえるのがやっとというありさまだ。
「食糧はどこにある? 馬車で運んだんだろう」
「岩の扉のなかにしまいました。カギの石は私がもつことにします。調理はこれから泉の奥の穴でやります。この洞窟は奥が深いんで、部屋になる場所がいくつもあるんですよ」
「飯はいつできる?」
今は夕食どきの十八時だ。
「そうねえ、今から寝ないでしこみして、明日の朝にはできるかな」
「明日の朝だと? 今日つくるといったではないか」
「そっちこそ、約束しましたよね? 人の料理に口だししないって。私はこれでも一流なんです。手早くなどプライドが許しません」
那須は髪をかきあげた。
「そうはいってもな・・・・・・そもそも一流料理をつくるための調理道具があるのか? ないだろう」
「いいえ、ぜんぶそろえました」
「とにかくわしは、腹がへって死にそうなんだ」
「話にならんですよ、大尉ともあろう人が。伍長の小茂田の方が美食家だけに理解してますよ。一流店では即席料理をなんと呼ぶか、いってやって」
小茂田も空腹は隠せないようだったが、ほめられてまんざらでもないらしく、
「エサであります」即答した。
「そのとおり。エサをくうのは家畜です。家畜ってのは食って寝るだけの人生。君は家畜なんですか、長田大尉」
「ちがうにきまっとる」
「そうでしょう、一流の人間なら、おとなしく待ってください」
長田がいいくるめられれば、俺などはどうしようもできなかった。ひと晩、飯ができるのを待った。奥からいい匂いがただよってくるので寝たくても寝られなかった。
ところが朝になっても完成しなかった。
「このミートローフの味がどうしても納得いかない。こうなったら実験です。今から三種類つくります。そのなかからひとつ、いいのを選ぶしかありません」
「なんだって。いったいいつ完成する」
「そうね、早くてお昼、遅くて夕方」
「右太衛門よ、ひと口でいい。今あるミートローフをくれんか」
「いいかげんにして! こっちはねえ、意識もうろうとしながらやってんですよ。早くしなきゃしなきゃとあせって。一睡もせずふらふらして。待つことぐらい簡単じゃないの! それができないってんなら、私荒れるよ。そしたら君たち夕方になっても食べるどこじゃないですからね!」
仕上がったのは日没後だった。那須が「会心のでき」と自画自賛した料理の数々は、ぜんぜん期待どおりでなかった。まずいわけではないが、けっしてうまくはなかった。しかもひとつずつがちまちまして、なかなか腹がいっぱいにならない。
ところが小茂田は大絶賛した。
「那須殿の料理は絶品であります。自分は一流店で修行した経験から、よきものは時間をかけねばできぬことをわかっておるつもりであります」
「ありがとう。凡人どもには理解できませんが、一流の味はわかる人にはわかるんですよ」
するとそれまで、がむしゃらに食うだけだった長田までもが、
「うまい料理とは、こういうものをいう」とほめだした。
「ほんとう、おいしいであります」佐伯もぬけめなく同調した。
「待ったかいがありました」
那須にどこまで気に入られたいのか、小茂田が負けじといった。
「まさしく天下一品であります。こんな美味を堪能できるなら、自分はなん日だって待つであります」
こんなつまらんものを毎回長時間待ったあげくに食わされるのか。
このままだと那須がどこまで増長するかわからない。今後ずっと食糧をにぎられたらと思うとぞっとする。
どうすれば・・・・・・間接的になら動かせるかもしれない。
たとえば那須を過大評価する小茂田がいなくなったら――やつは今ほど好き勝手にはふるまえなくなるのではないか?
翌日、食糧はまだじゅうぶん残っていたが、われわれは伝説の子孫とされる女を探しにふたたび市場へいった。しかし例の妻に似た女には会えず、俺は誰よりも落胆した。
おまけに洞窟へ戻ると、食糧がなくなっていた。
「Oh, my God! 盗まれた」
「あれも、なくなっとるぞ」
長田たちは顔をみあわせた。
「くそ、泥棒が入ったのか」
そろいもそろって目を血走らせ、地団駄をふまんばかりだ。俺の視線に気づくと、長田はとってつけたようにいった。
「金が。ここにおいといた金が」
「いったい誰が・・・・・・」
「地元の連中かもしれない。扉のあけ方を知ってるから。カギになる石が一個とはかぎらない。泉のところに赤くてしょっぱい石がほかにもなかったとはいえないでしょ。なんで確認しとかなかったんですか」
とりあえず泉に該当する石がまだあるかを探すことになった。われわれがみつけただけでも二つあった。
「廃棄もできんし、わしがもっているか」
「だめですよ。朝造も石もってたら泥棒しそう。今日買った食糧までへらされたらたまらないから、二つとも私が管理します」
だが食糧は、次の日われわれが市場から帰ったあと、また盗まれていた。
「われわれの外出時を狙って侵入しているとしか考えられん」
「どうする気」
「明日は衛兵をおく」
命じられたのは俺だった。翌日みなが外出中、俺は扉の前にひたすら立った。銃がなかったので木槍をかまえた。
「卯井、泥棒はきたか?」長田が戻るなりたずねた。
「いえ、誰もみなかったであります」
「ほんとうか」
那須が扉をあけた。
「うそじゃないようだね。今日はなにもへってません」
「そいつはよかった」
「だからってこのままみのがすつもりじゃないですよね。ここの石をもってるやつを」
「みのがすわけがない。絶対にとりかえさねばならん」
長田はなぜか、大変な気迫をこめた。
あくる日、われわれは留守をよそおい、洞窟の外の木にのぼった。こっそり監視するためだ。少々窮屈だが、枝は太く寝ようと思えば寝られるほど安定していた。だから長田までもがのぼる気になったのだろう。
「苦労して手に入れたものを、どんなやつにもっていかれたか、しっかとみてやるぞ」
一時間もたたないうちに、
「おお、ここだ、ここだ」地上から声がきこえた。支那語だ。
われわれは息を殺し、目に神経を集中させた。
白髪頭の男がまずみえた。六十すぎとみられるが童顔で、背が高く筋肉質でがっしりした体つき。動作も若々しかった。
「こっちこっち、早くう!」上機嫌で手をふる白髪男に、
「はあい、今いきますよお!」
こたえたのは、白髪を茶色くそめたおかっぱ頭の太った老婦人だった。
「みんな急いで急いで。洞窟はすぐそこだよ」
「あれが洞窟? あはっはっ、すごーい」
はしゃいだ声でつづいたのは、嫁らしい若い女だった。
「そっち木の根っこあるからころぶよ。こっちこっち、ほら」
五歳ぐらいの女の子があらわれた。手をひいているのは父親らしい若者。体格は白髪男に似ているが、色白で人相はよくはなく、道楽者の坊ちゃんという印象だ。
女はいずれもサリー、男はパジャマのような民族衣装。どうみても、ふつうの家族づれだった。
ただ妙なのは、うしろから珍奇なケモノがついてくることだった。いや果たしてケモノといえるかどうか――その姿は半分もみえない。
高さは大型犬ぐらいだが、大きな布をかぶせられていた。先っぽに黒い四つの手足らしきものがでていたが、体全体はまるで机に布をかけたように平坦で、頭のかたちとなると、さっぱり不明だ。そもそも頭があるのかどうか。鳴き声どころか、息づかいさえきこえない。
家族づれはそれを気にするそぶりもなかった。単に気づいていないだけなのか。彼らがとまると、ケモノも距離をおいてとまった。
「みてごらん。これが三日前おじいちゃんが探検した洞窟だよ」
「なにが探検だ、あのじじい」
小茂田が小声で毒づいた。
「ほんとだあ、すごーい、このなかに食べ物がたくさん入ってたんですかあ?」
「そうそう。ほかにも秘密のものがね!」
「秘密のものってなんです、なんです」
「秘密、秘密だから、ひ、み、つ。いえなーい」
「でも親父、昨日は人がいたんで入れなかったんだろう」
「おじいさん、これってあれでしょ。あの伝説の洞窟でしょ」
「それは奥の扉。みんな髪の毛がみえるか楽しみだろう」
「おじいちゃんは、みえたのお?」
「どっちかな。なかに入ってためしてごらん」
「ふざけやがって。あの家族づれ、全員ひっとらえてやる」
「待て。妙な動物がおるからな」長田が小茂田を制した。
「早くあけて、おじいちゃん」
「その前に、約束して。あけるときには、おじいちゃんの邪魔はしないこと。いいね? 約束するね」
「うん」
「ほら、この赤い石がカギ。そのまえにっと、だれか髪の毛みえた?」
「みえた人? だれもみえないみたいですよお。あはは、あはは」
「親父早くあけろよ」
「もうがまんできん。中隊長殿、突撃しましょう」
「いや待て。あのババアがなんかいっておる」
「髪の毛ならいつでも手に入るでしょ。うちの近くに伝説の女の子孫がいるんだから」
「おふくろ、それむやみに口にしちゃだめだろ」
「ごめんごめん。でもいわずにいられないのよ。あの女ほんと迷惑なんだから」
「たしかにそうですよねえ、あの女、このごろますます変になってるって」
「またか。あの女は髪綉がよりどころになってるから大丈夫という話だったんじゃないの」
「それがねえ。いよいよ・・・・・・」
「ママ、あの女って?」
「えっとねえ・・・・・・それよか、みてみて岩が動いたよ」
「わあ」
白髪男が扉をあけ、なかになにもないのを発見。落胆するかと思いきや、子どもに穴で遊ばせ、大人もいっしょになってさわぎだした。べつに穴のなかをしらべるようすはなかった。
例の妙なケモノは洞窟の外をぐるぐるまわりはじめたが、家族づれはピクニックのようにただただ能天気にすごしていた。
「あんなバカみたいなやつらに、大事なものを盗まれたなんて」
「無知蒙昧のやからですよ」
幸福な家庭とは無縁そうな小茂田が嫉妬と嫌悪感のいりまじった声で毒づいた。
彼らが帰るときになって、長田はようやく命令をだした。
「やつらは女の子孫を知っているようだ。あとをつけて居場所をつきとめろ」
小茂田がはりきって応じ、俺と佐伯をしたがえた。
俺は妻そっくりの女に会えるのではと期待した。
家族づれは、立派な屋敷に住んでいた。高い塀でかこまれていたが、彼らがなかに入るために門をあけたとき、碧色の屋根や赤いばらがみえた。
ケモノはいつのまにか姿を消していた。
「うおう」
「うおおう!」
塀のなかでほえていたのは、ケモノではなかった。ききおぼえのある声だった。先にきこえた方がさっきの幼女、後者は白髪男にちがいなかった。われわれが屋敷をはなれてだいぶたっても、まだきこえた。
「あのじじい、いい年して子どもになりきって遊んでるのか」小茂田はあきれ顔だった。
「程度が低いな。まったく未開民族で話にならん。さすが地図上にのらない村だけある」
「地図に村の名は書いてなかったでありますか」佐伯がきいた。
「なかった。せっかくだから俺が名づけるか。この村の名は、小茂田にしよう。支那語ではどう読む?」
「シャオマオティエンであります」
「なかなかいい響きだ。小茂田(シャオマオティエン)村。ハハハハ」
近所の家はどれも、さきほどの家よりも狭かったが、いずれも塀が高く、どれが女の子孫の家かはわからなかった。念のため、戸をたたいてまわったが、たいてい居留守をつかわれた。でてくれても、教えてはくれなかった。
そこで市場で再度、髪綉の絵を売る老婆に問いただしたが、女の家は知らないといいはった。ただ五人家族の屋敷ことは知っていた。一家のあるじ、つまりあの白髪親父は建築で財をなした村の顔役だが気がよく、旅の者でも家に泊めてくれるとのことだ。
以上を報告すると、
「その家に潜入するのが最上の策である」
長田はまた隊長ぶった。
「この困難な任務に志願する者はいるか?」
「自分がやります」小茂田が名のりでた。
「そうか。やってくれるか」
「目的はわかってる?」那須がえらそうにきいた。
「はい、ひとつは女の子孫の居場所をつきとめることであります。もうひとつは、やつらが盗んだものをとりかえすことであります」
「あとひとつ。伝説のこたえもわかるに越したことはない」
「はい。自分は目的を達成するため、旅の画家になりきって一家にとりいろうと思います」
「ほう、画家作戦か」
「自分は絵には自信があります。ただ支那語はそこまでではありませんので通訳が必要であります」
「そうだな。画家は安南人とでもすれば、通訳をつれていても不自然ではない。卯井、おまえがいけ」
「はい」思わず声がはずんだ。
俺には俺の目的があった。どこかできいた戦術が、頭にはあった。
〝まずは敵の神経を狙う。頭がまともにはたらかなくなるほど逆上させる。ころあいをみはからったところで決定的な打撃を与える〟
ここの一家はたしかに人はいいようだ。
安南人画家ソン・ゴク・ウーを名のる小茂田とその通訳にふんした俺をこころよく泊めてくれた。老婦人などは画家ときくと大喜びで絵を一枚でも描いてくださるなら、なん日でもいらしてかまいませんという。小茂田は一流画家気どりでひきうけた。
しかし頼まれた絵というのが奇妙だった。
よくある家族の肖像などではなかった。ケモノを描いてくれという。それも実在のものではない。老婦人はいった。
「想像しうるかぎりでもっとも恐ろしいケモノの顔をたのみます」
理由をきくと「ご勘弁を」といって教えてくれなかった。丸顔でたいてい笑っているような老婦人がこのときばかりは大真面目だった。われわれの頭にあのケモノがうかんだ。一家が洞窟にきた日、うしろからついてきた――胴体が机のように平坦で、長い布でおおわれ、先っぽに黒い手足がでていた・・・・・・。
あのケモノがこの家にいるかどうかを、小茂田は犬猫嫌いだけあって、はじめから過剰なほど気にかけていた。
広い家だった。石づくりの三階だてで屋上つきだ。一階に老夫妻、三階に息子一家が住み、二階が共用の場だった。小茂田と俺は二階に一間ずつあてがわれた。部屋数はぜんぶでいくつかわからないほどあった。犬が一匹と猫がなん匹か徘徊していたが、あのケモノはみかけなかった。ちなみに犬も猫も手足は黒くなかった。
小茂田は自分の部屋をアトリエにしてひきこもった。画家志望だっただけに自分の役に大満足で一日中絵筆を手ばなさない。諜報活動は二の次になり、食事に呼ばれてようやく顔をだすしまつだった。
もっとも俺は情報収集をおこたらなかった。庭に煙草を吸いにいったり、用足しにでるふりをして一家でかわされる会話に耳をかたむける。
「またあの髪綉女が・・・・・・昨日なんかは夜中に帰ってきてさ、こっちが目の前を歩いても無視だからね。えらそうに」
「いやですねえ。いったいうちになんの恨みがあるんでしょうねえ」
「まったく家にいてもわざとみたいに真っ暗にしてるんだから」
「でも絵ができますからね」
「そう、あの絵さえできればね」
「ほんとう、うちにあの画家さんがきてくれて助かりましたよねえ。やっぱり運が味方してるんですねえ。昨日も・・・・・・」
声は必ず途中でとまった。俺がよると気づかれる。それにしても、「あの絵さえできれば」とは? 小茂田が描いているケモノの絵が、女の子孫になにか影響するのだろうか。
一家は毎日のように宴をひらいた。主人にとりいる絶好の機会であるにもかかわらず、小茂田は毎度参加をいんぎんに断った。絵を早くしあげたいという理由だ。
その日も宴は午後十一時をすぎてもおひらきになるどころか会場を屋上へとうつし、いよいよにぎやかになった。五歳の少女もよその家の子どもと遊んで起きていた。酒が入った大人たちは子どもたちを寝かせようともせず、おしゃべりを楽しんでいた。
「ワハハハ、アハハハ」
高らかな笑いは、画家の助手をするという名目でアトリエにいた俺の耳にも入った。そのなかでも白髪親父の声がいちばん大きかった。
「やってみ、やってみ、こうやるんだよ」
なんの遊びか、子どもたちに教えているようすだ。
「待って待って、叫んでから。こうね」
山までとどくかと思われる蛮声がつづいた。
「うおおおおおーっ!」
「うおおーっ!」子どももまねして腹の底から声をだした。
「そうそう、その調子。じゃ、やってみ」屋上から球でも投げているのだろうか。
「気をつけてー」女たちの声がした。
「危ないよ」危険が回避されたのか、バカ笑いがおこった。
「まったくなん時だと思ってやがる」小茂田が筆をとめた。
「この時間に大声をだすとは、この家の大人には脳みそがないのか。ケモノ一家と命名してやる。ケモノ一家が。だからケモノの絵なんかたのむんだろう。ああ、うるさすぎて筆が進まん」
「注意しますか?」
「いや、まだいい。現時点で波風をたてるのは、ちょっとな・・・・・・」
「みんな、おじちゃんより声が小さいな。もっと思いっきり叫んで」
小茂田はこぶしをにぎりしめた。
「近所のやつらはなぜ文句をいわん。村のまとめ役だったら、なにをしても許されるのか。そんなに代表者づらしたいなら、掲示板に一家の日々の予定でもはりだせよ。それでその横に『本日も夜なかまで大さわぎします。近隣の皆様には大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません』とおわびの言葉をそえろよ。それもせんでなにが顔役だ。無神経なあるじめが。年寄りが、いい年して誰にも文句をいわれんからって遊び放題。六十すぎにもなって少年のつもりか。いい気な野郎だな。さぞ幸福な人生を送ってきたんだろう」
三十歳以上年上の老人にたいし小茂田はねたみをあらわにした。
「あの調子だと子ども時代は人気者だったにちがいない。そういうやつはなにをしても許される、大目にみてもらえる、と思いこんでる・・・・・・思いあがってる。地獄を知らんのだ。あいつも戦争を経験してみろ。二度とあんな子どもの遊びを心の底から楽しむことはできん。無邪気な心を永遠に失うからな。今からでは遅い。打撃を与えるなら若いころがよかった。二十歳のころのあいつを戦場につれだせたらいいんだが。そうすりゃあのじじいはおとなしくなるんだが」
こんなに文句をいっても小茂田はあるじ本人の前では愛想笑いをうかべていい人ぶっていた。
「あの嫁も、いつまで笑ってんだ。あのへらへらした声。いかにも、まぬけそうだ。いくらきれいでいい体してても、あれじゃ願いさげだな。もっともあんな強面の旦那がついてちゃ手もだせんが。ああ、うるさい。なにがそんなおかしいんだ。人の迷惑も考えんで・・・・・・まあいい、俺たちはあいつらに報復するんだ。第一に奪われたものをとりかえす。まずは金がどこにあるか、つきとめんことには・・・・・・」
翌日昼、戸をたたいてアトリエに入ると、
「なんだ卯井か」小茂田はほっとした顔をみせた。
「きいてくれ。今日はまた大変だったんだ。まったくこの家じゃろくに絵も描けん。いつもはじめようと筆をにぎったとたん必ず邪魔が入る。うるさい掃除の音がはじまったり、ババアと嫁が廊下で話しだしたり。最悪なのは犬をつれてくることだ。この部屋の前にだ。キャンキャンキャンキャン、こっちにむかって耳が割れるほどの音量で吠えつづけやがって。よっぽど戸をあけて怒鳴りつけてやろうかと思ったが、どうにか自分を抑えた。そのあとはババアが戸をあけて絵の進捗状況をこっそりのぞいていやがるし・・・・・・」
「ソン・ゴク・ウーは犬が嫌いだといった方がよいでありますか」
「俺がいってるのはそういうことじゃないんだ。俺が絵にとりかかろうとするときにかぎって邪魔が入ることをいっておる。わからんか? さあ、はじめるぞと筆をにぎり、神経をはりつめた瞬間、笑い声がきこえたらどうだ。せっかく入りこんだ世界がこわれてしまう。また一から集中しなおさにゃならん。もうもう腹が立つどころか、はらわたがぐっつぐっつと煮えくりかえり、わめきだしそうになるのをようやくこらえるというありさまだっ」
ほんとうに集中していたら、ささいなことは気にならないはずだが。そこは小茂田、みかけだけの画家だ。
「さっきなどは筆運びのリズムをつかんだところに、頭の上でドンドコ音がしだした。犬か猫が上の床を走りまわってたらしい。かなづちでたたくようなうるささだった。直下で俺が絵にとりくんでいるのを知ってて、わざと邪魔するためにやってるとしか思えん」
「はあ」
「あるいは犬や猫ではないかもしれん。卯井、おまえもこの家の連中をつけた日、あの奇妙なケモノをみたろう。あれはまだ姿をみせんが、やはりこの家のなかに存在するんだろうか・・・・・・あれが姿をみせんで、屋根であばれまわっていたのかもしれん。ひょっとしたら俺が犬の鳴き声とばかり思っていたのは、ケモノか」
「犬の鳴き声とはちがっていたでありますか」
「似てはいたが、微妙にちがうようだ。あのロウという、食事のときいつもいる灰色の犬もキャンキャン鳴く。今朝廊下でさわいでいたのもキャンキャンいってたが、ロウとかより少し老いた声だったように思う・・・・・」
あのケモノが、犬とそっくりの鳴き声をたてるだろうか。
「あ、また近づいてきやがった。俺が絵のことを頭の片すみで考えはじめたからだろう。くっそ、また邪魔しやがって。『ロウ! ロウ!』って犬の名前をなん回呼べば気がすむんだ、あのバカ嫁は。しつこいんだ。叱っているようでほんとうはあのケモノをけしかけてるんじゃないか。このしつこさは、あのあほ犬じゃない。ケモノだ、きっとケモノだ。うっさい! 俺をいらだたせるために、わざと呼んでるのか。俺がいらつくほど、絵のできがよくなるとでも思ってんのか。怒れば怒るほど、おそろしいケモノを描けるとでも?」
小茂田は画架に目をやった。ケモノの絵は色づけがまだ途中のようだが、下絵は完成していた。
真っ黒の四つ足。胴体はひらべったいが墨を流したように真っ黒で、火山のように泡立っている。
顔は胴体の下にあった。それもどろどろに溶けて・・・・・・眉ははっきりしていた。眉間のしわも。刃物でたたきつけたようなしわが百本近く――。
それをじっとみているうちに、なぜか小茂田の顔から怒りの色が急激にひいていった。廊下の吠え声はまだつづいていたにもかかわらず。まるで耳に入らないかのような穏やかな表情。次のひとことにはまったく意表をつかれた。
「なんだか腹がへった」
俺は通訳だけでなく、連絡役もつとめていた。小茂田が通訳を必要とする時間はかぎられていたから、日中は外にでられた。家の連中には市場見物にいくなどと称し、俺はひそかに洞窟とのあいだをいききした。
俺と小茂田が留守のあいだ長田たちは、伝説の女の子孫とされる人物をもうひとり、発見していた。
洞窟はアリの巣のように枝分かれしている。例の扉の横にある道をずっと奥へいったところに、そのおばさんはいた。もう二十年近くもそこで髪綉の仕事をしているという。床に色とりどりの髪や、各種の針をならべ、カンテラの灯りをたよりに、白い布に懇切丁寧に細い髪をぬいこみ、刺繍というより水彩画のような観音像をつくっていた。
市場の老婆にも確認したところ、そのおばさんは例の三十代とみられる女の母親だとわかった。しかし親子は絶縁関係にあるという。母親は二十年近く前に家だして、洞窟に住みはじめたそうだ。
年は五十すぎというが髪はまだ黒い上に長く、洞窟暮らしにしては身ぎれいだった。作品を市場で売ってもらうため、外部の人間とのつきあいがあるためかもしれない。
とにかく伝説の女の子孫に会えたというので、長田たちは問題のこたえもまだわかっていないのに、髪をもらおうとした。するとおばさんはいった。
「あなたがたはごぞんじでしょうか。むこうの洞窟にはさまった髪の毛がみえるという伝説があるのですが」
知っているというと、ふしぎにも例の問題を発した。
「その伝説はなんのために、今でも語りつがれているのでしょうか?」
那須も佐伯もこたえられなかったので、おばさんはくれなかった。仕方なくその場はひきさがり、おばさんが寝ているあいだを狙って髪をひっこぬこうとしたが、一本もつかむことすらできなかった。
「まるでみえない力に守られてるみたいなんだ」
佐伯が俺と二人きりになったとき、いった。
「それでも翌朝、那須殿が問題のこたえを思いついた」
「どんなこたえでありますか」
「伝説が語りつがれているのは、宣伝のためだって。つまり伝説の女はこの村における髪綉の創始者だった。髪綉の技術は代々継承されたが、作品が売れなければ生活できない。だから子孫たちは伝説を広めた。伝説を語りつぐことで女の髪の毛、すなわち髪綉に箔をつけるために」
「なるほど。しかしそれですと、伝説の舞台が洞窟でなければならなかった理由がはっきりしませんが」
「案の定おばさんは首を横にふったよ。俺もそのこたえじゃだめだとわかってた。那須殿にいえなかっただけで」
うそとわかったが、
「古兵殿にはこたえの見当がつくでありますか?」あえてきいた。
「ああ。でもまだはっきりとはしていない。今考え中だったんだ。読書しながらさ」
片手で煙草を吸い、片手で本をひらいて頁をめくった。一秒ごとにめくる。速読の名人とでも思わせたいらしい。
「せっかく自分の時間ができたから、眠いのをこらえて勉強してたのにさ」
本の題は『愛しの姑娘』だった。
「おまえに邪魔されたよ」
呼びとめたのはそっちだろうが。
「ああ眠い。昨日もろくに寝てないんだ。おまえはいいよなあ、らくで」
短くなった煙草を名残りおしげに吸うと、
「しょっちゅうこっちきてさ、通訳たってたいして仕事ないんだろ。おまえじゃスパイは素人で話にならんだろうし、ひまでいいな。一日中人の家にいるだけで掃除も洗濯もやってもらえて」
「・・・・・・」
「それにくらべてこっちは一日こき使われてんだぜ。やれ水くめの、火をたけの。俺は器用でなんでもてきぱきこなしちゃうから。役にたつ人間ほど苦労するってわけ。小茂田伍長殿も優秀だから、なんでもひとりでこなしちゃうんだろ。くずを使うと手間かかるだけだもんな。おまえはほんとずるいな。だらだらしくさって」
「・・・・・・はあ」
「『はあ』じゃねえ!」
佐伯はいきなり本を投げつけた。本は俺の肩にあたり、ぶざまにひろがっておちた。
「伍長殿にたよってんじゃねえよ。おまえが盗まれたものとりかえしゃ手間がはぶけるだろうが。どんだけ待たせんだ。さっさと仕事しろ!」
やつあたりとしか思えなかった。このとき佐伯がなにを求めていたか、俺にはわかりようがなかった。
「今度から食事はこのアトリエに運んでもらうことにした」
小茂田は俺に告げた。一家との食事は貴重な時間だというのに、それさえやめるとは本末転倒もいいところだ。
「犬をみんですむからな」
「は」
「犬はべつの場所で食べさせてるようだが、それでもあそこにつれてくるからな。おまえも知っておるだろう。俺が食べようとするときまってあの白髪親父が犬をつれてくるのを。楽しげに『こっちおいで』とかいって。子どもも嫁も笑いながら手をふったり、犬を追いかけまわして食堂をなん周もする。しまいには俺のそばに近づけてくる。さあ、なでてください、かわいがってやってくださいとばかりにだ。なでるわけがない。こっちは、あのペタペタする足音や、ハアハアいう息づかいをきいただけで、唾液でぬれた牙や不潔な病原菌だらけの毛を思って鳥肌がたってしかたないんだからな。みてやるものかとばかり、そっぽをむいて箸をとるが、もう食欲は失せ、腹立ちで胃が痛くなり、それをむりにこらえて食べると消化が悪くなり、あとで腹をくだす。人の迷惑も考えない連中などと一緒に飯が食えるか」
「伍長殿。お言葉ではありますが、連中は意図あって犬を徘徊させている可能性もあります」
「意図だと? ああ、それぐらいは俺も考えた。やつらが俺たちの正体を疑ってないとはいい切れん。連中は泥棒だからな。盗んだものを奪われんようと警戒しているとも考えられる。それならしかし、あんな小さな犬では・・・・・・」
眉を動かし、
「あるいは、あれもケモノがばけてるのかもしれん」
小茂田は耳をそばだてた。
壁のむこうから猫の声がきこえた。
――うあーう、うあーう。
うめくような、うらむような声。徐々に大きくなった。
「鳴いているのは一匹ではない」小茂田の顔が大きくゆがんだ。
「二匹だ。いや、一匹とひとりだ。高い声が本物の猫。低い方は人だ。猫の声をまねている」
「はあ」
「そいつは猫使いなんだ。猫をけしかけ、この部屋の前でわめかせている」
目をぎろりと光らせた。
「さてはやつらが、さっそく対抗してきたか」
「対抗?」
「俺がこの家のやつらの正体をケモノじゃないかと疑いだしたから、脅しにきたんだ」
「まさか」
「猫の声で俺の心をかき乱そうというんだ。ああ、うるさい。そんなに俺を怒らせたいのか」
への字になった唇と、逆への字になった眉の角がかぎりなく接近し、満面×の字を描いたようになった。
――うあーう、うあーう!
「やめろ」小茂田は耳をおおい、
「やめてくれ」
描きかけの絵に視線をやった。すると眉と唇がしだいに平坦になり、穏やかな表情に変わった。そして棚の缶に手をのばし、ビスケットをむしゃむしゃと食べだした。老婦人が夜食用に幾つか缶をおいていたが、ひとつ目はあっというまに空になった。二つ目もどんどんへっていく。
そういえば小茂田はここ最近だいぶ肉がついてきた。
「じき完成だ」小茂田は太った指でしめした。
「この絵をみると、どんなにはらわたが煮えくりかえっていても、ふしぎと気が休まる。なにに腹をたてていたのか忘れるほどだ。俺は今までたくさん絵を描いてきたが、こんなことはかつてなかった。まちがいなく最高傑作となるだろう。それを連中にくれてしまうのは惜しくてならんが、任務のためだ。やつらこの絵をみたら感動して手に入れずには気がすまなくなるぞ。そこを利用すれば、盗まれたものも必ずとり返せる」
仕上げに入った小茂田はそれまで以上に神経過敏になるかと思いきや、意外にもおちついていた。絵のケモノが生気をおびればおびるほど、鎮静剤としての効果が強まるようだった。アトリエにいるかぎり小茂田は平静でいられた。
しかし人間の生理上、日になん度かは部屋からでねばならない。
ご不浄から戻るだけでも、おおさわぎだった。たまたま廊下ででくわしたとき、小茂田は母親を待っていた子どものように俺のもとへかけよってきた。
「あの犬がまた吠えてうるさくてならん」
「・・・・・・なにも、きこえませんが?」
小茂田はでっぷりとした体をゆらし、うったえた。
「さっきまで吠えてたんだ。キャンキャンキャンキャンまるで目の前にいるかの大声だった。だがいくらみまわしても姿はみえん。人っ子ひとりみあたらん。この家にはあれほど人が住んでいるにかかわらず・・・・・・」
たしかに二階にはわれわれ以外に人がいる気配はなかった。
「いったいこれはどういうことだ? 連中、俺が部屋をでたから、わざと階上階下に消えたんではないか。俺をからかってるのか。姿をみせず、ケモノの声だけきかすとは・・・・・・みろ! あそこに猫が二匹もいる」
大きいのと小さいのとが廊下でくっついていた。親猫は茶と白のまだら、小猫は白く、とてもやせてぐったりしていた。
「なんであんなところにいやがる・・・・・・」
廊下の柵に干されてあった敷物を、親猫がひきずりおとしたのか、その上に小猫を寝かせてよりそっていた。
部屋に戻るには猫のいる脇をとおらねばならない。小茂田は仕方なさそうに及び腰で近づいていった。
親猫は、目をあける力もない小猫をかばうようにし、近づく人間を黄色っぽい目でみあげた。
小茂田はおびえながらも反射的にねめつけた。
親猫はきっとみかえした。
小茂田が目をそらすと、親猫は前方の柱をかけあがった。
「うわあ」小茂田はのけぞった。
親猫は柱をおりて小猫のところへ戻った。小茂田はやっとのことで猫のそばをとおりすぎた。それでもふりかえってはうしろを警戒した。すると背中をむけていた猫が、パッとふりかえった。今にもとびかかってかみつきそうな形相だった。
「卯井、早くおまえもこい」
部屋に入ってもなお太った首を外につきだしてきょろきょろし、
「あの猫、こっちをみてなくとも俺の視線に必ず反応する。今なんか柱の陰にかくれて毛しかみえんが、その毛を俺がみたとたん、首をくるっと動かしたようだ。やはりただの猫ではない・・・・・・あのケモノだ。ケモノがばけてる」
とっぴょうしもないことをいいだした。
「あるいはこの家のやつらが、ばけているのかもしれん・・・・・・」
完成したケモノの絵をみると、老婦人は大いに気にいり、広間に飾るといってすぐにもアトリエから運びだそうとした。
小茂田は待ったをかけ、代価を求めにかかった――この家に滞在させてもらうお礼として描いたものだが、いざ仕上がってみると手ばなしたくなくなった。この絵はソン・ゴク・ウーの最高傑作である。これには、みる者の怒りをしずめる作用がある。
「それなら私たちになおさら必要です」老婦人はいった。
「なぜですか」
このごろでは体裁をつくろわなくなった小茂田は敵意を隠そうともせずにいった。
「もう理由を話してくれませんか」
「・・・・・・それだけは、ご勘弁を」
「伝説の女の子孫と、関係があるんですか?」
老婦人は虚をつかれたようだった。
「なんのことだか・・・・・・」その顔には、あきらかに動揺があらわれていた。
「この絵は、女の子孫になんらかの影響を与えるのではありませんか」
はっとしたようすの老婦人に俺はみずからきいた。
「子孫の女が近所に住んでいるらしいですが、さしつかえなければ、どの家に住んでいるか教えてくれませんか?」
「・・・・・・ごめんなさい。今はなにもお話できません。とにかくこの絵をゆずって頂きたいのです」
老婦人は懇願した。
「友人たちに今週末には絵を披露すると約束してしまいましたし、どうかお願いします。お金は払いますから」
「そうですか、お金を。それでしたら、いやとはいいません。まあこの絵は、もう一枚描こうと思えば描けますから。ところでお金といえば、お宅は伝説の洞窟からもちだしたと噂をきいたんですが?」
小茂田は唐突に切りだした。
「え、うちが洞窟のお金を? そんな噂が?」婦人はあきらかに動揺していた。
「私はきいてませんけど。根も葉もないことですよ」声がうわずっている。
「お宅のご主人が洞窟の扉のカギをもっていて、食糧とお金をもちだしたと口にしたのをきいた人間がいるんですよ」
「ほんとうに? とにかく私は知りません」
老婦人はとぼけとおした。訊問をつづけようにも、婦人は犬をつれていた。吠えはしなかったが、小茂田が話せば話すほど足もとにじゃれつく。小茂田には我慢の限界だった。
「ロウ、だめよだめ。この子ったらおなかすいてるみたいで、ご飯あげないと。じゃ、お金はあとで払いますから。とりあえずこの絵はいただいておきますね。もう、ロウ!」
犬はむしろけしかけられたように小茂田のズボンの裾をなめはじめた。
「わかりました」一刻も早く帰らせるため、小茂田はいわざるをえなかった。
「すみませんねえ。次回作も楽しみにしていますから、どうかうちにゆっくり滞在してくださいね」
老婦人と犬が去ると小茂田はいった。
「まだ終わったわけじゃない。さらにいい作品を生んで、金もたっぷり払わせてやる・・・・・・盗んだくせになにが知らんだ。なめやがって。だいたいあのババアはなんであの絵を描かせた理由を隠そうとする。あいつらの正体がケモノだからじゃないのか。くそ、おまえがもっとうまくききだせば。へたな通訳しやがって」
あくる日は朝から夏のように暑かったが、家のなかは変に静かだった。
前夜遅くまで小茂田の愚痴につきあわされて寝すごしたため、ようすがよくわからなかった。
小茂田はアトリエで朝食をとってまもなく腕まくりして画架にむかい、
「絶対にあいつらにやった絵よりいいものを仕上げてやる。今日はうるさくなくていい。犬もまだ一回も吠えとらん。こりゃ集中できる。このまま静かでいてくれろよ。誰も二階にこないでくれよな。どうかこのまま、このまま、たのむぞお。今から世界に入る・・・・・・」
両手で両耳をふさぎ、白いキャンバスをじっとみつめた。
「音はしないな? 部屋の外で誰もしゃべってないな? この階に人のいる気配はないな?」
異状ありませんと俺はこたえた。
「ほんとうだな?」しつこいぐらい確認してようやく手を耳からはなし、
「よおし」小茂田は綿をふたつにちぎり、ねじって細くし、両耳の穴にさした。
「奥まで入れなきゃ遮音できん。鼓膜にとどくぐらいにつっこまんと。これじゃいかん」
なん度もなん度も入れ直し、綿が汗でびしょびしょになった二十分後、
「まあいい、この角度で。ある程度は耳が遠くなった。さてと、暑さが頂点に達する昼までに集中してやるぞ」
やっと鉛筆をにぎった。ところがとたんに小茂田はびくっと体をふるわせた。
「今、誰かが戸をたたいた。・・・・・・たたいたよな?」
同意しかねた。なにかきこえたにしても、戸をたたく音ではなかった。だが小茂田は俺の返事を待つことなく、
「誰だ。邪魔しやがって。むかむかする、あーっ」
かたくにぎったこぶしを、たたきつけた。鉛筆が折れ、キャンバスが破れた。
「くそ、こわれちゃったじゃないか! 俺の道具が・・・・・・あいつらのせいだ。なにもかもこの家のやつが悪い。今日という今日は許さんぞ。誰なんだたたいてるのは」
耳に綿をつめたまま、むしろおそるおそるといったようすで戸に近づいていく。
「なんだいつまでも呼びだしやがって」
誰も呼んでなどいなかった。
小茂田は床にうずくまって戸に耳をおしあてたが、しばらくすると両耳から綿をぬきとり、
「今日という今日はもうがまんができん」
戸をおしひらき、四つんばいで部屋の外へとびだした。
廊下には誰もいなかった。
小茂田は無人の部屋をあけては菓子や果物にかみつき、食いちらしていった。その姿はまさしくケモノだった。
「うおう」
「誰か叫んだ。この家の子どもだな」
「うおーう!」
「お次はあのじじいか。なんだ今度は歓声がはじまったぞ。今日は朝っぱらからなんの宴会だ。うおうお吠えやがって。あの低能親父が、周りの迷惑などいっさい考えず、子どもに輪をかけた声で・・・・・・うう、みてろよ、うう」
小茂田は四つ足で階段をかけあがった。だが三階も無人だった。いや、廊下のむこうでなにか動いている。手足が真っ黒の、黒い布をかぶった、顔のみえないあのケモノだ。
小茂田は身ぶるいして叫んだ。
「あいつだ!」
黒いケモノは奥の階段をかけあがった。
「今日こそ逃がしはせんぞ。つかまえて正体を暴いてやる」
小茂田と俺が屋上についたとき、ケモノの姿はなかった。かわりに一家の姿があった。
「わはははは」
笑い声がどっと耳にとびこんだ。犬が五匹ぐらい、走りまわっていた。そのむこうに子どもづれの家族が大勢いた。二十人近くが水着姿でプールに集まっていた。
小茂田は額に血管をうきあがらせた。それでも元来臆病で人目を気にする性質らしく、四つんばいをやめて二足歩行となり、おそるおそる前に進んだ。
「急に静かになった。俺がきたからか」
そうともとれた。実際、話し声はとぎれた。連中はこっちをむいて立っていたから、俺たちが視界に入らないはずはない。
「ババアが子どもになんかささやいた。『こわいおじさんがきたよ』とでもいったのか。俺がやつらをうるさがってるのに、いいかげん気づいたんだろう。あの子どもたちの俺をみる目つきといったら・・・・・・」
「ソン・ゴク・ウーさん、どうです、ごいっしょに」
あるじが気を使って声をかけたが、小茂田は無視し、
「もうその手にはのらん。ケモノ一家が、だまされんぞ。その場しのぎで愛想よく声かけりゃ俺がおとなしくひっこむと思いやがって。今日こそはけりをつけてやる、なんだあのどら息子、じろじろこっちみながら嫁に内緒話しやがって。『やつがにらんでる』とでも、ふきこんでるのか」
ぶつくさつぶやいたが、俺はもちろん訳さなかった。
あるじもこっちばかりかまってはいられない。今日の客をもてなすためにしきり直した。
「みなさあん、これからとっておきのもの、ごらんにいれますからねー」
「わあ、楽しみ」
「あっつい、あっつい!」
強い日差しでやけた大理石の上を、あるじはおどけたようすではねまわり、プールに足からとびこんだ。皆も続々とつづく。
水は半分も入っていなかった。栓がはずれているらしい。水深はどんどん下がる。あっというまに温泉なみになった。ところが誰も不審がらない。むしろはしゃいで、大人も子どももやたら「うおう」と叫びながら、ぱしゃぱしゃ残った水をはねあげた。
「みえてきた、みえてきた」あるじが叫んだ。
「わが家の倉庫」
「すごいすごい、これが扉?」
「そうそう、みんなの足の下にあるのがそうだよ」
「でっかーい、この扉」
「ほんとだあ、縦がだいたい大人三人分の長さ、横も二人分ぐらいある」
「こりゃ自慢だなあ。プールの底に倉庫がある家なんてなかなかない」
「扉の下に例のものが入ってるんでしょ?」
「そうです、お宝です、みんなで山わけ」
「あはは、あはは。ありがたい、ありがたい」
「でも扉あけるの大変だから、協力してくださいよ」
「もちろん、よろこんで協力しまーす」
水深は今やゼロだ。プールの底にある大きな把っ手に客たちはむらがった。
「お宝って、まさかあれのことか?」
小茂田は四つんばいになってプールのへりからなかをのぞきこんだ。
「よいしょお!」
男が四人がかりで把っ手をひいた。徐々にもちあがる扉をほかの大人もはしから支えていく。扉はひらいた。
「おおっ」
なかに、はしごがあった。その下には大量の食糧と酒がみえた。
「ありゃ洞窟から盗んだ食糧だ。まちがいない」小茂田がいった。
「ここにあるものを発見したとき、僕らは思いました。これは村の財産だと」
あるじはあらたまっていうと、愛嬌のある笑顔をふりまいた。
「そう、みんなのもの。だから遠慮はいらない。さあさ、一列にならんで。プールの下にしまってあったけど、ぬれてないから大丈夫。うちのみんなで運びこんだあと保管はちゃんとしておいたからね」
食糧と酒はまたたくまにいきわたった。
「金はどこにある」
上からいくらのぞきこんでも光るものはみえなかった。プールのなかはすでに宴会場と化し、おおさわぎがはじまっていた。
「いいかげんにしろよ、ケモノ一家が。今からどなりつけてやる。そのあとは、これだ」
小茂田は小銃をだし、かまえにかかった。そのときだった。
「う、る、せ、えー!」
支那語でそう叫ぶ声がひびきわたった。
黒いものが視界のはしを横ぎった。それはあのえたいのしれないケモノだった。顔と胴体を布でおおったケモノは、黒い手足を跳躍させ、プールにとびこんだ。
悲鳴がひびきわたった。客は潮がひくようにひいていく。
ケモノは立ちはだかる老主人の前にいくと布をかなぐりすて、全貌をあらわした。
黒くつや光りした胴体。そのさきに頭。うつむいている。顔は異様に長い髪に隠れている。髪の一部は細い三つ編みに結ってある。人だった。人間の女が四つんばいになっていた。手足が黒いのは黒い手袋と靴下を身につけていたからだ。体には黒いシャツとズボン。よくみると変わった素材――絹糸のよう。髪だ。服も手袋も靴下も髪の毛で編んである。
さしもの小茂田も言葉を失い、硬直した。
女が顔をあげ、髪をふりはらった。あらわれたのは狭い額に割ったような眉間のしわ、はれぼったいまぶた、すわった目、とびでた前歯――怒った妻の顔にそっくりだった。
「いいかげんにしねえかっ」女は人びとにむかって支那語をはりあげた。
犬たちが狂ったように吠えだした。
「うっせんだよ!」女は犬をけちらすまねをし、
「誰だ、けしかけたのは。子犬をみたら誰もがなごむと思ったら大まちがい。私は大っ嫌いだ! 犬よりも、それを飼ってるやつらが。特に子犬を飾りたててるやつがだ。自己満足のために動物に不自然な生活させて、なにが家族の一員だ。犬をつれた主婦がたがいの犬をなであい、なん分も立ち話しをしてるのをみると、なにが楽しいのかまったく理解できず、腹がたつ。そうだよ、どうせ私は人非人だよ。近所の犬、ぜんぶ集め焼き殺してえんだからな」
マッチに火をつけ、片手に刃物をにぎった。
「まずはここの五匹からだ。どうだ? いっぺんに焼き殺してやろうか。やだったら、とっととどっかへやりやがれ!」
おじけづいた客のひとりが犬をまとめて階下につれていった。
「ふん」女は刃物を一同につきつけたまま、
「多少は静かになった。いいか、てめえら。大きい家だからって、やりたい放題して許されると思うな。ここはなあ、てめえら家族もんだけの土地じゃねえんだよ。私みたいな人間も住んでんだよ。私は家で仕事してるんだ。知ってのとおり集中力と頭を使う髪綉だよ。毎日おめえらの遊び声をきかされてうまくいくと思ってるのか? いらだっておかげで髪綉がすこしもうまくいかねえ。稼がなきゃいけねえのに。てめえらのせいだっ!」
子どもたちが泣きわめいた。
「ねえ早くあの絵もってきて、早く早く」老婦人が息子をせかした。
「なんだよ、子ども育てる親の身にもなってみろって? みんな自分の子の大さわぎに一日中悩まされてるんだからって? 近所がうるさいのぐらい簡単に我慢できるじゃないっていいたいのか? なんで毎日毎日、私が耐えなきゃなんねえんだよ。私はほんとう人に恵まれねえ。いっしょに髪綉を学んだ友人は結婚して上海にいって、富裕で教養もある人たちにかこまれて暮らしている。べつの友人も隣近所はおとなしい人ばっかりだ。それにくらべてここは程度が低い。私もこの村に住んでるってことは、てめえらと同類だって? 冗談じゃねえ。私には立派な職もありゃ教養もある。てめえらは野蛮人だ。そんなやからに非常識な行動を連日とられて、いつまでも黙ってられると思うか? ああ、ほんとこの村はやだやだ。気のあう人間がひとりもいねえ。誰とも話す気がしねえ。ほんとやってらんねえ」
一瞬妻が話しているのかと錯覚した。よく似たような文句をきかされた。あれは妻なのか? いや、彼女はさすがにここまで異常ではない。第一、支那語が話せないし、髪綉とも無縁だ。別人にきまってる・・・・・・。
「仲間はずれにされたのが、そんなに頭にきたんですか」
老婦人がしいて笑顔で話しかけた。それに力をえてか嫁もいった。
「宴に参加したいなら、そういってくださりゃよかったのに」
「うるせえ、なめんなっ」
女はとびあがって嫁の首に腕をまわし、刃をつきつけた。
「死ね!」
「ひい」
「はは、今すぐはやんねえよ、その前に、金をとってやんだから。てめえらの行動は逐一承知だ。あほな行動、ぜんぶ記録にとってあっから。てめえらの傍若無人な会話きいて、金のありかはちゃんとわかってんだ。おっとお、だめだめ、邪魔すっとこの女やっぞ」
子どもがママ、ママとわめいた。嫁も涙を流している。
「大丈夫だから、僕たちを信じて、おちついて」あるじがはげました。
「もうすぐだからね。それまでの辛抱だよ。訓練だと思って耐えるんだよ」
「これは防災訓練なんかじゃねえ! おめえらにとって立派な火災だ、本物の火事だ。今まで我慢させられたぶん、やりかえしてやる。じゃないと気がすまねえ。わかってんだろうな。おめえら全員やってやるっ」
小茂田に女を狙う気配はなかった。むしろ銃を隠し、プールサイドにはいつくばってただみおろしていた。
「おい、わかったのかってきいてんだ。返事しろ!」
嫁はふるえながら首を縦にふった。
「わかったら、とっとと金をとりやがれ。そして私にわたすんだ。ほら! この特製倉庫の底にあんだろ」
女は嫁を歩かせた。嫁はうしろから刃物をつきつけられた状態ではしごをおり、なかから金の入った袋をとりだした。みおぼえのない袋だが、盗んだあとに入れかえたにちがいない。
「これは私が頂く。迷惑料には全然足りないがな。さてと、用はすんだ。嫁さんよ、死ねえ!」
首をさそうとした、まさにそのときだった。
嫁の夫が、女の面前になにかをつきだした。
女の動きがとまった。
それは絵だった。応接間に飾られていた小茂田の作品だ。
ひと目みるなり女は力がぬけたようになった。顔から怒りの色がひき、手から刃物がこぼれおちた。
女は嫁からはなれ、喪心したようにプールからあがった。
なぜか誰もつかまえようとはしない。
女はふたたび四つんばいになってはいだした。背中に金をのせている。
皆みてみぬふりをしていた。熊に遭遇したかに動きをとめて――。
「うぎゃあああ」
女は悔しまぎれのように叫んで屋上から走り去った。
「ありがとうございます、ウーさん」
老婦人が小茂田に近よった。
「あなたのおかげです。まさにこのために絵が必要だったんです。あの女がうちを恨んでいるのはわかっていました。一年前から不審な行動がはじまって、だんだんひどくなっていましたから。笑顔で挨拶したり、村内のみんなで声をかけたり色々努力したんですがだめだったので、試しにケモノの絵をみせようと思いましてね。やってみたら効果てきめんでした」
通訳の途中で小茂田はかけだした。女から金をとりもどそうと追ったのだ。
俺は老婦人に小茂田の無礼をわびつつ、問わずにはいられなかった。
「あの女の人は、なん年前からこの近所に住んでいましたか」
「十年以上前からです」それなら妻ではない。
「どうしてケモノの絵をみせるとおとなしくなるとご存じだったんで・・・・・・?」
「あの女の母親がそうだったときいたからなんです。とても怒りっぽかったそうですが、ケモノの絵をみたら、機嫌が直ったとか。そのケモノ、画家の頭が生みだしたものだったんですけど、とにかくおそろしくて、今にもとびだしてきそうな迫力があったんですよ」
「村に画家が?」
「ずいぶん前に亡くなりました。火事で絵も一緒に焼けて。だから画家のウーさんがうちにいらしたときは天の恵みだと思いました。あの女はもう二度とここには戻ってこないでしょう」
婦人の話は俺にひらめきを与えた。伝説がなぜ語りつがれているか、こたえが完全にわかった気がした。
「その金はこっちのもんだ」
小茂田は道で女にとびかかっていた。
「返せ、こら!」
女は必死で抵抗していたが、俺が屋敷からでてきたのをみるなり色を失い、動きをとめた。
・・・・・・今の反応はなんだ。おまえは千絵なのか?
「髪を、この髪をもらってやる」
小茂田は女をはがいじめにし、三つ編みをナイフで切ろうとした。
女はさっきとは別人のようにおとなしく、されるがままになっていた。顔をそむけたままなのは、俺の視線を避けるためとしか思えなかった。
「なぜさわれない」髪は小茂田の手をなん度もすりぬけた。
「なぜだなぜだなぜなんだあああ!」
小茂田は腹だちまぎれに刃先で女の服の一部をひきさいた。
「そうか、この服をもらえばいいのか。これはおまえの髪で縫ったものだな」
妻に似た顔が恐怖にゆがんだ。俺は自分でも意外なほどカッとなった。
「やめてください」思わず強い声がでた。
小茂田が驚いた顔でふりかえった。
「伍長殿。伝説のこたえがわからんかぎり、髪にはさわれんであります」
「・・・・・・だったら、貴様がこたえをみつけんかっ」
「みつけました、伍長殿。自分は、なぜ伝説が語りつがれているか、わかったであります」
「ほんとうか、卯井」小茂田は女をはなした。
「はい、ほんとうであります。問題のこたえを大尉殿に報告しにいってよくありますか」
「よし。女、おまえも洞窟へこい」
そのとき肌の白さにはじめて気づいたのか、小茂田は頬を紅潮させた。
俺は黙って自分の肩かけをはずし、彼女にかけた。
洞窟にいけば、二十年前に家出したという母親と再会することになる。女はためらうかと思いきや、すなおにしたがった。それどころか先頭だって洞窟に入っていった。俺と小茂田はあとを追うかたちになった。長田はみあたらない。
「お母さん、お母さん」女は呼んだ。
「おまえ・・・・・・」娘に気づいた母親は髪を縫う手をとめた。
「お母さん・・・・・・私ずっとひとりでやってくつもりだった。でも、だめだった」
「おまえ、昔の私と同じ目にあったのかい」
「もしかして、お母さんも?」
「髪綉を修得するのは並大抵のことじゃないからね。私も若いころはつねに気がたっていた。それで問題をおこして、みんなに避けられて、ここにこもったんだよ」
「私、ずっと誤解してた」
「おまえもこれからはずっとここで暮らすんだよ」
「私も、もう村には戻れないの」
「ああ、二度とはね」
そこまで訳したときだった。
「いや、そんなことはない」
小茂田がわりこんだ。
「そうはさせん。なんなら今すぐでよう。君と話がしたい。ほんとうは日本語、わかるんだろう? わかるはずだ」
彼女をみる目に異様な輝きがあった。俺は不吉な予感におそわれた。
女がふるえる唇をひらき、なにかいいかけたときだった。
「おばさーん」能天気な声とともに長田があらわれた。
「油条(ヨウティアオ・・・中国の菓子)もらいにきた」
佐伯におんぶさせている。那須もくわえ煙草で、ずかずか入ってきた。
「こりゃ小茂田に卯井。ここでなにしとる。屋敷の方はどうした」
「中隊長殿」小茂田はとっさに女をしめし、
「これを、自分は屋敷から連れて参ったであります。例の髪綉の女で、この母親の娘であります」
「例の金はどうした」
「金ならこのとおり、とりかえしたであります。もとの袋とちがってはおりますが」
那須がとびついて袋のなかをあらためた。
「よっしゃ、よっしゃ」
「小茂田伍長、ご苦労。ただし髪綉の女に関しては今さらだな。なん人ふえたところで、問題のこたえをとかぬかぎり髪はえられん」
「それでしたら卯井が、といたであります」
「まことか、卯井二等兵。こたえが、わかったのか?」
「はい。あたっているかどうかは、この親子にきけばわかるであります」
「よし、支那語で話せ。佐伯、われわれのために通訳せよ」
俺ははじめた。
「突然ですが、そこの伝説の女の子孫の方々。洞窟の伝説がどんな目的で語りつがれているのか、今から僕がこたえます。あたっていたら、あなたたちの髪の毛をもらいますが、好不好(ハオブハオ・・・よろしいですか)?」
「好(ハオ:はい)」親子は声をそろえた。
「この洞窟の伝説とは、『その女は敵に追われ、この山に逃げこんだ。いよいよ追いつかれたとき、山にむかってハンカチをふった。すると洞窟がひらいて彼女を迎えいれた。直後、洞窟はとじたが、彼女の背にたらした髪が扉にはさみこまれた。その末端は、今日でも心ある人間の目にはみえるといわれている』という内容ですが、この伝説のヒロインはある意味、人生の敗者だったと考えられます」
妻のことを思いだしながらのべた。
「その女はおそらく、村にいたとき人生に挫折した。人と自分を比べるたび、ねたみや怒りがわきあがり、年とともに自分が怪物化していくのを感じた。このままだといつ罪人になるかわからない。おそれた女は、洞窟にこもった。それだけでは安心できず、岩に扉をつくり、なかに自分をとじこめて一生外にでなかった。そして洞窟のなかで髪綉をはじめた。扉に髪の毛をはさんだのは、自分が存在することをせめてしめしたかったからでしょう。
伝説では、女は敵に追われたとありますが、敵とは怪物化する己自身だったと考えられます。
この村では子どもを叱るときに、『うるさいと洞窟につれていかれて、髪の毛をはさまれちゃうよ』というそうですね。
現代ではそれが脅しではなくなっていて、庶民は外でさわいだだけで、洞窟にとじこもって一生を送るようしむけられるとききました。
市場の売り手がいっていました――『俺たちはうるさいと思われたら最後、罪人にされる。大声をだすこともできない。許されているのは村の顔役など有力者だけ。だから無気力な態度をとるのが一番無難なんだ』。
要するに伝説は、庶民をおとなしくさせる目的で、語りつがれている。そうですね?」
「はい、正解です」母親がこたえた。
「あたった、あたりだぞ!」長田がさわぎ、
「さっさと髪ちょうだい」那須が手をのばした。
「ええええ、あげますとも。でもそのまえに、つきあってもらえませんか」
「なんにですか」
「宴にです」
「うたげ?」
「神聖な髪の毛を得る人には、清めの意味でお酒をのんでもらう必要があります。でもそれだけでなく、私はずっと待ち望んでいたんですよ、娘がお酌できる男性がここにあらわれるのを。この子もいい年なんでね。幸いここには五人もいらっしゃる」
一同きょとんとなった。
中年の娘は驚きと反発がまじった目で母親をみかえしたが、俺が視界に入るとまた恥らうようにうつむいた。やはり妻そっくりだ。長いまつ毛といい、白いうなじといい・・・・・・。
小茂田が鼻息を荒くした。
「喜んでおうけしますと早くいえ」
「そうだ卯井、のめてほしいものが手に入るならいうことなしだ」長田もうながした。
清めの儀式にしては煙草の煙でもうもうだ。
長田も那須も佐伯も、中年女にはこれといって興味をしめさず、手酌でのみまくっている。
小茂田だけが女に接近し、ここぞとばかりに酌をさせ、酔った勢いで丸い肩や腕にふれ、一方的に話しかけた。
「おたがい、あの低能一家には悩まされましたね。僕は画家、あなたは髪綉の専門家。通じるものがある!」
女はあきらかにいやがっていたが、日本語を理解しているかどうかまでは読みとれなかった。
やがて母親が娘を移動させ、しばらくしてから俺を呼んだ。髪の毛を渡すから奥にある別の穴にひとりでいけという。そこには女が待ちうけていた。
「早くこっちきて」
人前とはうってかわった態度だった。妻に似た女はサリーからはみでた太ももをみせつけるように横座りし、支那語で親しげにいった。
「縫ったげるから。私に肩かけをかしてくれたお礼」
「縫うって?」
「その服、安物でしょ。裾がほつれかけてる」
まわりには針や糸巻きがならべられていた。
「これ糸じゃないよ、私の髪。特殊な処置をほどこしたものだから簡単には切れないの。さわってみて。ほらこっちきて」
糸巻きからのびた黒い髪を、俺はしっかりとつかんだ。針金のようにかたい感触だった。
「ね、さわれるでしょ」
「ほんとうだ。自分の手にちゃんとおさまっている」
「あなたがこたえをあてたからだよ」
「ところで、前に会ったことあったかな」俺は探りをいれた。
「え? ないよ」女は目を泳がせた。
「でも俺と屋敷の外で会ったとき驚いてただろう」
「そんなこと・・・・・・気のせいだよ。きっとあんたに親しみを感じたのが、驚いたようにみえただけ。それより早く縫わせて」
「でもきたままじゃ」
「大丈夫、すぐおわるから」
女は俺に密着せんばかりによった。すばらしく器用な手つき。妻とは全然ちがう。家事が大嫌いな彼女は、つくろいものをしてくれるどころか、自分のぶんまで俺にやらせていた。やっぱりこの女は別人。外見がそっくりなだけ。俺は自分にいいきかせた。
世界には同じ顔の人間が三人ずついるというじゃないか。
「じっとして」
熱い息が首にかかった。おぼえのある匂い・・・・・・ああ、やっぱり彼女に思えてきた。自分をおさえ切れず、思わず日本語でいった。
「千絵?」
指が一瞬ふるえ、呼吸がとまったようだった。だが女はすぐにおちつきをとり戻し、支那語でかえした。
「なんていったの?」
「・・・・・・いや、いいんだ」
妻がわざわざ戦地にくるわけがない。第一この女はここで育っている。母親は髪綉の専門家だ。妻のはずがない。
「変な人」
女の胸が俺の腕にあたった。ふっくらしてやわらかい。だがこればかりは妻と比べられなかった。妻のにはさわったことがなかったからだ。願望はあっても、できなかった。十年間、ひたすら耐えた。この結婚には、別の目的があると自分にいいきかせつづけた。でも俺はあきらめきれなかった。ほんとうはほしかった――子どもが。
「どうしたの、こわい顔して。あんた全然のんでないね」
「そんなことないよ」
「もう。ここにあるから飲みなよ」
女は酒をついで俺の口にそそいだ。
「やだ、こぼれちゃった」
俺の唇からたれたしずくを指でぬぐい、なめた。
「おいしい」
この女は俺を誘っている・・・・・・。
酔いにまかせて、女のももにふれた。びくびくっと肉が反応した。女の息は荒くなった。調子にのった俺は奥へ手をのばしていった。
ふりはらわれた。
女はいきなり叫んだ。
「もうやだっ。髪はかえしてもらう!」
ぼう然とする俺の手から髪をひったくり、でていった。
「待て! どうなってるんだ」俺は追った。
「お母さん、ごめんね」
いいおくと、女はそれこそケモノになったような速さで洞窟の出口へむかった。
「なにいってるんだおまえ! でたら死ぬよ」
「おいおい、なにごとだ」長田たちもでてきた。
「女がいったんくれた髪を奪って逃走します」
「なんだと」
小茂田が真っさきに追跡した。
洞窟の外はまだ明るかった。
「待てえ」那須、佐伯、長田もでてきた。
いつのまにか土手にでた。女がふりかえった。俺をにらみつけたと思ったとたん、彼女は芝で足をすべらせたのか、ころがりおちていった。
その姿は途中のやぶにさえぎられ、みえなくなった。
「どこいった」われわれは目を皿にした。
「川におちたのか?」
「流されたのか?」
水面は夕陽を赤々と反射していたが、影すらみあたらない。やぶのなかも同様だった。女は完全に消えたとしか思われなかった。
「どうなってる・・・・・・」
探すひまはなかった。銃をかまえた人間たちがおしよせたからだ。
例の一家かと思ったが、ちがった。屋敷で女に飼い犬をけちらされた組のようだ。女がみあたらないので、われわれを標的にしたのかもしれない。
いつのまにか俺は倒れていた。
全身金縛りにあったように動かなかった。すると、声がきこえた。耳の奥から、妻の声が――。
この家に祖父以外の住人がもうひとりいるかどうか、探りをいれられている。
たった今、なにかがささーっと視界の片隅をとおりすぎた。黒かった。部屋をみわたしても、ゴキブリもねずみもいない。でもカサカサ音がする。いやカサカサではない、クスクス・・・・・・こっそり笑うような声。
今この家には私しかいない。しかし気配がある。皮膚で感じる。
晴れると光とともに監視の気配が、どっとなだれこむ。晴れていなければ空気にまじって、おしよせる。
あれは、目にみえぬ触角をのばして私の頭をつかみ、ウイルスみたいに毒気をしみこませ、脳みそをしびれさせ、心臓をつかむかのようだ。古びてかびた着物のような、すえた臭いが鼻からしだす。私は息苦しくなる。なんどつばを飲みこんでものどがつまりそうになり、手足がふるえる。耳がざわざわし、骨がじんじんし、子宮がメンスでもないのきゅるきゅるする。
私がこの家にいることは近所には知られていないはずなのに。感じる――隣の老婆がこの家のようすをうかがっているのを、うちの窓をじっとみているのを。うちの音に耳をすましているのを。
この調子だと仕事がぜんぜん進まない。老婆が狙っているものをみつけなければいけないのに。祖母が懸命に守りとおした大事なものがなにかすら、まだわかっていない。
老婆の気配がしない時間をみはからってとりかかりたいのだが、いつそのときが訪れるのか。老婆は一日中家のまわりにいる。ひとり暮らしのせいもあって、しょっちゅう外にでては人を呼びとめてしゃべりまくっている。私は人と話すのがあまり好きでないから共感できない。自分の心をかきみだすだけの存在。声がきこえるだけで心をわずらわされることに腹がたち、ふだんは気にならないふきんのしみをみただけで、いらだってしまう。
いっそのこと在宅をばらしてしまったほうがらくなのではと思うこともある。もし知られても、目的をとげることは不可能ではない。むしろ音に気をつかわなくてすむぶん作業も進むだろう。
でも在宅がばれたら、隣組に入ることになり、面倒がふえる。あの老婆と近所づきあいなどできない。
町内のいわば名主だ。それでいて慕われてもいる。ふだんは明るく元気で、雑用も率先してうけおうからだろう。
だがそれは表の顔にすぎない、道路側にある庭はつねにこぎれいにして植木鉢を並べて飾りたてているのに対し、うちと接する側の雨どいは穴があいて雨のたびに雫がおち、台所のトタン屋根にはねかえり、近所中に鳴りひびくような音をたてつづけても放っておき、トタン屋根が強風のたびにあおられ、ちぎれて破片がうちにとんでも知らん顔をし、台所の窓からくさい臭いをたえずまきちらし、油と煙でうちの窓を茶色く汚しても平然としているとおり、老婆には裏の顔がある。
「あの人に嫌われたら、おわり」といわれるだけあって、したがわない人間は排除する。
自分が上に立たなければ気がすまず、主婦という主婦を支配下におくだけでなく、近所の全住人の生活を把握したがり、その心のなかまでものぞきこもうとする。
いちど存在を知られたら、とことん干渉されるにきまっていた。
私にはとても無理だ。そもそも人づきあいが苦手なのだ。人ぎらいというべきか。いい小説を書くためにはたくさんの人を観察しなくてはならないとは思うのだが、道ゆく人をみることさえできない。こわい、緊張する。目があえば平常心ではいられない。自分がどうみられるかばかりが気になる。いつもしかめっつらばかりしているためにできた眉間のしわのあとや、しわで赤くなった皮膚をみられたらどうしようと、いちいち動揺する自分がいやで、つい人を視界にいれないようにしてしまう。
うしろ姿なら平常心で観察できるのだが、相手がうしろからみられていることを感じとると思うといやだった。注目していると思われたくない。ことに相手が男である場合は、つけあがらせたくないと考えてしまう。そして結局、歩いていても自分にしか注目しなくなる。人のことはまったくみずに、自分がどうみられるかだけ考えている。つけあがるのは、自分。注目されたいのは、自分。私は人が自分と同じことをしているのをみれば、いやな気分になる。たとえば同世代の主婦など。
私は人と同じがいや、とけこむのがいや。自分がなくなりそうで。自分が特別だと思いたい。私が小説を書くのは、優越感を抱くためなのだろうか。
自分が表むき一介の主婦ということをなかなか認められなかった。家事はしたが、料理好きになれば自分を平凡な女と認める気がして料理をさげすみ、新聞や雑誌の家庭欄にたいしてはかたきに対するように接した。不機嫌そのものになって一文字も読まないよう細心の注意を払い、大急ぎでめくる。食材を切るには殺意をこめ、切ったものは人を海につきおとす気もちで鍋の底にたたきおとした。夫は食事ができあがるのを待つあいだ、いつもこわい先生を前にした子どものようにちぢこまって新聞をよんでいた。そして文句もいわずに、まずい料理を食べた。
私にはもちろん主婦の友だちなどいない。人の話をきくのはまだいいのだが、自分のことをきかれると困るからだ。毎日家で小説を書いているということは近所には秘密だった。戦時下に子育ても勤労奉仕もせずにそんなことをしていると知られたら、ただではすまない。もっとも書きはじめたのは戦前だが、そのときからいえず、つきあいをさけていた。自分をおいこむためでもあった。他人と会って自分の存在を認められると、気がゆるむ。だからこの十年間、夫と祖父母以外の人間にはほとんど会わず、ひとりで創作にはげんできた。ほしいものも買わず、遊びにもいかず、日曜日だろうが朝早く起きて毎日机にむかった。にもかかわらず、劣等感を感じる。自分では禁欲的にはげんできたつもりだが、子もちの主婦の観点からすると、なにもしていないに等しい。人づきあいをいっさい避け、家事の腕もみがかず、ひたすら自分の好きなことばかりしてきたのは事実だ。そして十年がたってしまった。自分はあと四、五年で四十才になるというのに、なにも結果をだせていない。
夫はよい方向にむかっていると信じていた。長年勤めていた出版社が倒産して以来転職してはなじめず首になり、依頼をうけて原稿を書くようになってもなかなか仕事が入らなかったのが、得意先がふえてようやく安定するきざしをみせていた。そこを兵隊にとられた。もう三十五才だから赤紙はこないと思っていたのに。
結婚してからずっと夫婦で住んできた家に私はひとりになった。嵐の晩、風のうなりをきくたび、障子がゆれるたび、夫の不在を意識させられた。大事な人は去りはなれていく。この先どうなるのか。十年後は? 想像もできない。わかるのは老いるということだけ。老いるまで生きられたらの話だが、六十なんてすぐだ。この十年ですらあっというまだった。年を意識しただけで挫折感におそわれる。今さらどうあがいてもむだなのでは。懸念をくつがえすだけの気力が今の自分にはない。なにをたよりに生きれば。
せめて子どもがいたら。
考えてもしかたがない。みんな生きるので精一杯の時代。こうして生きていられるだけでも贅沢だ。私はまだ恵まれている。祖父だっている。祖母宅で祖母の宝を発見して守るという目的もある。さっさと探そう。音をたてられなくたって、できることはある。
あ、また影。ぬけ毛が、床のすみから壁にあがって・・・・・・。
これはいったい、どういうことなのか。
髪はどんどん集まり、いっせいに壁をよじのぼっていく。柱の表面に毛細血管みたいな網の目がひろがって・・・・・・目の疲れで変なものがみえるのだろうか。
いやあれは、本物。
*
またしても飢え、そして渇き。いつになったら陸がみえるのか。
川にいたあいだになぜ水をくんでおかなかったのか。ボートに夢中でのってきたものの、すぐさきに湖があり、その水が飲めないとは。これじゃまるで海だ。あまりに塩辛い。そのくせ魚一匹みあたらない。さすが支那だけある。奥地にこんなむだにひろい湖があるとは知らなかった。いわゆる『塩の大湖』としてターバン男がくれた地図にはのってるそうだが、二等兵にはみる権利がないから進路もなにもたしかめようがない。おまえら隠すんなら把握しろよ。完全に迷子になってるだろ。
まったくこいつらとこんな狭い空間で長時間密着するはめになるとは。しかもこの燦々たる日差し。水面からはねかえる光が目にささって痛い。そろそろ頭がおかしくなってきた。このままだと十九世紀に捕鯨ボートで漂流した白人たちが飢えのあまり仲間の死体を食らい、血をすって生きのびたという話が他人ごとじゃなくなる。
無人ボートをみつけた当時は、奇跡としか思えなかった。
銃をもった村人は恐怖だった。俺も一時は撃たれたと思いこんだ。昏倒したのはショックのためだったと気づいたのは意識が戻ってからだ。弾丸はかすりもしていなかった。われわれは標的にはなっていなかった。村人はあくまで女を探していた。しかし念のためやぶに身をひそめ、彼らが女を発見できずあきらめて退却したのをみとどけてからやっと、われわれはぬけだした。そして河岸にボートを発見した。
のってまもなく、女の髪の毛の束を発見した。オールに結びつけられていたのだ。誰もがいぶかりつつも幸運を祝う気になり、当初は大いに意気があがった。長田も上機嫌で、ぜんぶでちょうど五本あった髪の毛を、ひとりずつに配りさえした。だがよろこびは長くはつづかなかった。食糧も水もなく陸もみえなければ、気力はなえるばかり。漂流はすでに二日目に入った。
ところが小茂田だけはいやに元気だった。なにかといえばオールを手にこいでいる。
口にするのもバカらしいが、恋をしているためらしい。あの女――俺の妻そっくりな、あの支那人の女にだ。しかも本人のうわごとじみたひとりごとを総合すれば、両思いとのこと。根拠は、ボートと髪の毛。ボートは女が自分(小茂田)のために用意してくれたそうだ。髪の毛は自分への贈り物。洞窟から髪の毛をもって逃げたのは、貴様(卯井)のことがいやだったから。それすなわち小茂田伍長が好きという意思表示。自分に直接伝えなかったのは恥ずかしいからにきまっている。だが女はこの湖のどこかにいる。女は女でもう一隻ボートを用意していて、われわれよりさきに出発した。そして今ごろはこの湖のどこかから、こっそり自分の様子をうかがっている。みえないが、愛しあっている者同士だからわかる、感じる。ゆえに自分はこの湖のどこかにいる女を探す、探さねばならん!
とほうもない妄想もあったものだ。みな嘲笑するかと思いきや、そうか、そういうこともあろう、でなければ無人ボートと髪の毛が岸にあった説明がつかん、だと。
バカどもが、ひとりでもいいからさっさと消えろ! そしたら少しは涼しくなる。
なにを熱くなっているんだ俺は。小茂田のたわごとなんてきき流せばいいじゃないか。このいらだち、極限状態のせいばかりではないらしい。もしかして嫉妬? 俺が小茂田に? いさぎよく否定したいが、妻に似た女が俺の胸になでるようにふれ、熱い息をかけたのを思いだすだけで甘美で快い感覚にみたされ、いやなことが頭から消える。なん度も反芻するうち、あの女、というより妻の顔を思いうかべただけで条件反射的に胸がとどろくようになった。まさか、恋?
俺は妻を女としてみたことはないつもりだ。妻とは名ばかりだった。俺たちの結婚は、建前だけだった。同居はたがいを利用するためだった。
なのに、今ごろになって・・・・・・?
暑くてこれ以上思考が深まらない。ああ、腹がへった。小茂田の黒い顔が焼き鳥のつくねにみえてきた。うまそうな肉。屋敷でたっぷり栄養つけただけある・・・・・・まずい。しのぐには思い出にひたるしか・・・・・・それにしてもあの女はいったいどこに。死んだとは思えない。小茂田の空想ではないが、今はこの湖にいる? それらしきボートどころか、動くものはなにひとつみあたらないが。いったいどこまでつづくんだ水平線・・・・・・う、なんだこの臭い。
顔をあげて愕然とした。長田が尿をのんでいる。あの手の平にある黄色い液体はどうみたってそうだ。さっきから背中をむけて、こそこそなにかやってるとは思ってたが。もう恥も外聞もないか・・・・・・はじめちょびちょびやってたのが、ああ、一気に飲みほしやがった。うまそうにみえたんだから俺も人のこといえない。どうだ、おまえらもやれ、だと。ひらき直ったな長田。那須がまねしだした。佐伯も褌をほどきはじめた。みんなでやればこわくないって発想。小茂田はオールに集中。俺もまだ仲間にくわわる気はない。二本の竿が手の平に小便をたれはじめた瞬間だった。上空から爆音がきこえだした。音はあっというまに近づいた。
「敵機来襲!」小茂田が声をはりあげた。
みあげると戦闘機が一機。カーチスP51だ。
「アメさん、ようこそ」
長田はよゆうあるふりをしたが、次の瞬間急降下した敵機が機銃掃射してくるとみるや、いち早く湖にとびこんでボートの下に身をひそめた。ほかの三人もあとにつづいた。このときばかりは俺も進んでまねをした。
やがてカーチスは急上昇して去った。単なる民間ボートと誤認したようだ。日本軍とわかるものはなにもなかったし、五人とも民族衣装をきていたから、敵兵という確証はもてなかったのかもしれない。
いずれにせよ米機は射ってこなかった。ボートも無事だった。
だがもともとない体力を使い果たした上、新たな恐怖を植えつけられたため、ボート内の空気はしずみきっていた。
これまでは米軍もこんな奥地までは現れないという安心感があった。しかし、それが破られたのだ。
無事着岸できたとしても、そのさきに敵が待ちうけているかもしれない。人参果にたどりつける可能性は、ますます低くなった。そもそも存在するかどうかすら不明なのに、こんな旅をつづける意味はあるのか。
「あの女がみえればな」小茂田がつぶやいた。
「せめて名前がわかれば、呼べるんだが」
那須がきこえよがしにため息を吐いた。小茂田をみる目つきがけわしい。繰りごとはききあきたといいたいのか。いつもは煙草でごまかすが、ぬれてだめになったらしい。吸わない俺も気がめいった。誰もがむっつり黙りこんでいる。小茂田さえ不機嫌づらになった。まもなく水上での第二夜を迎える。
夕陽だけは今日も美しい。珊瑚色だ。その横に龍のかたちをした雲がうかんでいた。内部から光っているよう。一方には淡い桃色の雌のような龍がうかんでいる。時間の経過とともに両者の輪郭はとけていき、龍の骨が残されたようになった。やがてそれらもとろけ、しだいに濃くなる空は血の色に、二匹の骨があった場所には血へどのようなものだけがただよった。
太陽はまさに沈みゆく。その水平線上になにかが昇りつつあった。
黒い棒のような・・・・・・錯覚ではなかった。それは百メートルほど先の湖面からたしかに生えだしていた。露出はわずか数十センチほどだが、先端が突起していることからして――。
「潜望鏡じゃないですか、あれ」佐伯が声をふるわせた。
たしかにレンズのようだ。それはゆっくりと数度刻みに回転していた。とみるや、いきなり上空にむかってぐんぐんのびだした。水面に渦がまきおこった。潜望鏡の下から黒い司令塔が大量の水をもちあげるようにして姿をあらわし、つづいて巨大な鯨のような艦体が周囲に泡をたててのぼってきた。
「潜水艦が・・・・・・湖に・・・・・・」
水深は十分にありそうとはいえ、にわかには信じがたかった。波がボートをおそい、傾けた。われわれはあわててへりにしがみつき、つりあいをとろうとした。
「いったいどこのだ」
ヒントになりそうなマスコットマークすらみえなかった。当然国旗は掲揚されていない。戦車ならみなれているわれわれも、船となると海軍ではないので艦型での識別は困難だ。ただ直感はこういっていた。友軍なわけがない。さっき米機が通ったことからしても敵潜にちがいない。それならばどうしてみすみすわれわれの前に浮上を? 攻撃もせずに。停船させて臨検するのが目的か。ほかに船もない湖のことだから、どこのボートか怪しまれたか。それならなんらかの信号が送られるはずだが――。
国籍不明の潜水艦はボート至近にせまり、カーブを描いて舷側をむけ停泊した。甲板砲が威嚇のために今にもわれわれにむけられるかと思われたとき、先方の艦橋から突如、黄緑色の気体が柱のように噴出した。
「毒ガスっ」
長田がとっさに部下たちの陰に隠れた。顔を那須の背中におしつけ自分だけは助かろうという姿勢。あきれたおかげで冷静になった俺は、本で得た知識をもとに状況分析し、
「大丈夫であります」いってやった。
「特に害はないはずであります。おそらくハッチがあいたために艦内の空気が逃げだしたと思われます」
推測の域をでぬとはいえ自信はあった。
「潜水艦はつねにしめきっているので空気が黄色近くなるまで濁るといいます。あの緑がかっているのは腐敗物の色にちがいないであります」
「いやちがう」小茂田が即座に否定したが、
「ハッチがあいたなら乗員がでてくるぞ」という長田の声にかき消された。
艦橋はなお無人だった。
一同がボート左舷に集まって潜水艦の動きを監視するのをよそに小茂田は右舷に移動し、俺に目配せした。
「ちょっとこい、卯井」
俺の片耳をひっぱり声をふきこんだ。
「貴様、物知りだからって調子にのるのはいいかげんにしろ」
「は」
「あれが汚れた空気だと?」鼻で笑い、
「教えてやろう。あれは心だ」
「は」
「わからんか。あれは心、ココロだといっておる」
確信に満ちた声は狂気じみていた。
「俺にはわかる。女心だ。あの女が俺を思う気もち。それが煮つまったものだ。あの女が俺を呼んでおる」
上空にたなびく腐った空気をあおぎ、目を細めた。
「直感だ。あのなかには女がいる」
「でてきたぞ!」
那須が英語で叫んだ。小茂田は望遠鏡を手でつくった。左舷に舞い戻った俺の目にとびこんだのは、艦橋に立った白い軍服の男三人。やはり白人だ。海軍の制服はどこも似たり寄ったりなので確認はできないが、米軍としか考えられない。いずれも長い潜航生活のためか髪と髭がぼうぼうにのび、やせて顔色が悪くまるで囚人だ。みた目の悪さではわれわれもひけをとらなかったので不信感を与えるには十分だった。日本軍とばれたら・・・・・・この距離では潜水艦にも害がおよぶから砲撃はしないだろうが、そのかわりあの艦橋に機銃をずらりとならべ、われわれをひとりずつ撃つんではないか?
にらみあいは長くはつづかなかった。むこうがライトで信号を送ってきたのだ。
「なんだなんだ、なんといってきとる」
わめく長田に小茂田がうしろから、
「中隊長殿、卯井にきけばよくあります」
こことぞばかりいった。
「お勉強好きの貴様には、信号の解読など朝飯前だよな?」
「・・・・・・それが、できんであります」
「バカ野郎!」
平手うちがとんできた。久々の制裁。小茂田はここにきてふたたび俺を目の敵にしている。あの屋敷で俺に醜態をみられたのが気にくわないのか。だとしても敵前で小事にこだわるとは、なんたる狭量。
「ちょっと誰かなんとかしてよ。早く受信応答しないとあやしまれちゃうよ」
那須が文句をいいだした。
「こうなったらやけくそだ。なんでもいいから旗をふろう。信号にみえれば、めちゃくちゃだってかまわん。われわれに攻撃の意思はないということだけ通じればいいのだ。無視だけはいかん、無視は」
「しかしライトも旗もありません」
「肩かけをよこせ!」
臨時の旗を用意しかけたときだった。喚声が耳にとびこんだ。みると白人たちが笑顔で手をふっている。こっちにむかって。まるで味方に対するように。われわれは信号を送りかえしてさえいないのに。
「これはいったい・・・・・・」
「なにかの罠では・・・・・・」
艦橋の白人は六人に増えていた。どう対処するか迷っているうちに、むこうはゴムボートをおろした。水兵三人がのりこんで、どんどん近づいてくる。
「どうしたらいい」
「なんでくる。救命艇じゃあるまいし」
敵潜がわざわざ浮上して、われわれを助けるわけがない。
「俺たちを捕虜にするつもりか」
「そうだ、やつらが笑顔になったのは捕虜にできるのがうれしいからだったんだ・・・・・・」
頭が真っ白になった。日本軍人は生きて虜囚の辱めをうけるべからずと教育されている。捕虜は生き恥、敵に捕えられるまえに自決せよという。
万が一捕虜になりでもしたら、内地に帰れてもつまはじきにされる。その点逃亡兵も同じだが、われわれは潰滅部隊の生き残りだからごまかしがきくはずだった。
捕虜はそうはいかない。だからってここで自殺できるわけがない。命が惜しくて逃げてきたわれわれに軍人精神などなかった。
「右太衛門、アメさんがこっち着いたら、おまえが窓口になるんだ。OK?」
長田は那須に責任をおしつけ、那須は那須で空腹と渇きで頭も体も動かないといって逃げ、佐伯は自分にお鉢がまわってこないように予防線をはった。
「英語なら、卯井もできるであります」
「ほんとうか」
「早稲田の英文科をでていますので、少なくとも大学中退の自分よりは」
おまえだって慶応の商学部で商業英語を学んだろ。
「よし、あれの相手は卯井がしろ」
ゴムボートはまさに接舷するところだった。
「さ、いけ」
俺を左舷に押しだし、卑怯者たちは背をむけてボートの底にうずくまった。
下から白人がなにやら大声で呼びかけている。青い鋭い目。さっきよりけわしくなった表情。返事を待たずこっちに綱を投げてきた。つかめってことか? くそ、恐怖で体がこわばっている。
「俺がいく」耳を疑った。名のりでたのは小茂田だった。
「どけ。女が俺を呼んでいる」
笑顔で腰に綱をまきつけ、さっそうとゴムボートにのりうつった。
長田たちもあっけにとられている。
小茂田は軍服の白人と握手をかわし、なにやら言葉をかわしはじめた。英語は大してできないはずだが――。
「やっぱり俺が思ったとおりだった」
小茂田は俺と佐伯相手に報告した。長田と那須はみざるきかざるをとおしていた。
「艦内には女がひとり、いるそうだ。三十代の東洋人――あの女だよ。俺が湖で迷ったから、潜水艦をよこしてくれたようだ」
狂信者の目だ。小茂田はききとれた単語を適当につなぎあわせて都合のいいように解釈したにちがいなかった。
「救いの手だな」救うって敵潜でか?
「あの女は女神だ」
女神というより、悪魔の手下としかみえない風貌を白人たちはしている。油じみてよれよれですり切れた軍服。陽を浴びない生活のせいか緑色に近いぐらいの顔色。目の下の深いくま。こけた頬。ゴルフボールみたいに大きくぎょろぎょろした目。髭でよけい老けてみえるが、まだ二十代ぐらいだろう。
われわれは悪魔に魅入られたようにゴムボートにのりこんだ。
捕虜になってももう仕方ない。恥だのなんだのこだわってるよゆうなど、われわれにはなかった。生きたい本能に負けた。潜水艦内には、水と食糧があるだろう。一時的にせよ渇きと空腹が満たされるはずだ。そのあとは監禁され拷問されるかもしれない。手荒な扱いはしないということだが、あてにはならない。そもそも相手方がそんな発言をしたかどうか。小茂田の英語力は信用できない。那須と長田はこの期に及んで英語がわからないふりをつづけるどころか水兵たちから最大限はなれて座り、目すらあわせようとしなかった。
ゴムボートは湖面を進み、潜水艦に接舷した。
われわれは流れ作業的に綱で上甲板にひっぱりあげられた。ぬれた艦橋に案内されたころには、士官らしき三人はもういなかった。艦長はなかで待っているという。
水兵が前部ハッチをあけた。鉄ばしごが下にむかって垂直にのびている。ひとりずつ降りるよう、うながされた。マンホール並みに狭い穴。みるなり逃げだしたくなった。そのまま暗黒世界に吸いこまれそうで、理性を奪われそうで・・・・・・だがよろこんでとびこんだ小茂田のうしろにつづくしかない。
鉄棒は油と潮水でべたついていた。にぎるだけでひと苦労だった。全体重を支えなくちゃならないのになん度もすべりそうになって足は小茂田の頭にのっかるわ、手は俺につづく佐伯にふみつけられるわ。息をあえがせる俺の鼻に入ってくるのは、たまらなくすっぱい臭い。汗と汚物、腐った食べ物、すえた洗濯もののまじったような・・・・・・。
空気は一段おりるごとにひどくなった。やっとの思いでたどりついたのは、ものすごくじめじめした世界。水滴をおびた金属に密閉された空間。むし暑いなんてものじゃない。
着地したのは発令所で、壁には無数の計器類、赤いハンドルがきのこみたいにびっしりひしめきあっていた。天井からはかびの生えた肉がいくつもつりさがり、集まった人間の頭をサンドイッチにしている。
通常なら即座に胃がむかつくであろう光景だが、飢えた俺は唾液を噴出させ、腐っていようがおかまいなしに食いつきたい欲求にかられた。おかげで小茂田の姿がみえないのにも、しばらく気づかなかった。あいつどこいったんだ。敵中というのにまさか女を探しに?
艦内は各区画ごと区切られていて発令所の前後の隔壁にもハッチがあった。それをとじるドア――水密扉があいているので、むこうのようすが視界に入った。
士官らしきドイツ人が食堂車式のテーブルをかこんでいる。テーブルには〝Carifornia〟と文字のうたれたパイナップルの缶。その脇に小茂田が立っていた。英語での会話がきこえたが、内容まではわからない。
連中の顔から笑みが消えた。白い軍帽をかぶっているのが艦長らしい。こっちをみながら拳銃を胸ポケットにしまい、さっと立ちあがった。
小茂田のやつ、なにを話したんだ。
艦長はハッチをくぐり、手をふところに入れたまま、こっちへやってくる。つづく士官連中の腰には露骨に凶器が。
長田が俺を前へおしだした。那須も佐伯を盾にした。てめえらふざけんな。長田、それでも中隊長か。
敵が銃をぶっぱなしたら、瞬時にしゃがんで長田を的にしてやろうとしたそのときだった。
「あれは、ワルサー・・・・・・」佐伯がいった。
「なに」
間近に迫った士官の腰にあるのはドイツ拳銃ワルサーPPだった。
「軍帽も・・・・・・」
連中の制帽には、鉤十字章を鈎爪でつかんだ鷲が――。
艦長は小茂田をとめ、俺の面前に立ち口をひらいた。
「貴官が連絡将校のシミズ少佐ですか」イギリス訛りの英語が耳に入った。
連絡将校シミズ? なにをいっている。
ふところからだされた手に、拳銃はにぎられていなかった。握手のそぶりだ。
すると長田が俺をおしのけ、艦長の手をつかみとった。
「将校は自分であります」よどみない英語を発し、
「ジークハイル!」踵をそろえ、右腕をかかげた。
指のしめす方向には一枚の写真があった。その隣室の肖像に俺もようやく気づいた。カール・デーニッツ潜水艦隊司令長官。ドイツ海軍――。
「敬礼はここでは必要ありません」艦長は微笑をたたえた。
「潜水艦はほかの艦とちがって儀式とは無縁です。ごらんのとおり、下水道並みの環境ですから。士官も兵も区別なく汚れた格好で共同生活を営んでおります」
破れた半ズボンにサンダルばき、油のしみたシャツ、すり切れたジャケット。
「私たちも似たようなものです。いやもっとひどい」
「ハハ。艦長のオットー・ヴェルナーです。シミズ少佐、お待ちしていました。ところでリストによるとあなた方はぜんぶで三名ということでしたが・・・・・・」
この艦が支那くんだりで潜航していたのは、日本人を三人のりこませるためだったらしい。シミズ少佐は海軍の参謀かなにかだろうか。日本海軍とドイツ海軍は人材交流を行なっていて、新技術をとりいれるため枢軸国ドイツに日本人技術者を派遣することもあるときいたことがあった。シミズ以外の二名は技術者かもしれない。
「直前に五名に変更されたのです」シミズになりきった長田は切りかえした。
しかし私物のもちこみすら極端に制限するはずの潜水艦に、人間を二人も増やすのは無理では・・・・・・。
「もしご迷惑でしたら――」
「いえ、大丈夫です。途中で死傷者がでたので空きはあります」
長田は申しわけなさそうな顔をつくり、
「いたらない者たちですので」ことさら俺に目をやって、
「邪魔にならぬよう最善を尽くさせます」頭をさげた。
「こちらこそ、目的地におとどけするため最善を尽くします」
目的地ってどこだ。ドイツか? 冗談じゃない。
「ところで、さきほどこちらが――」艦長は小茂田をしめした。
「女がどうのとおっしゃるので、五名のうちには婦人もいるのかと思いましたが」
「それで勢いよくたしかめにいらしたんですか」
「もちろん冗談とはわかってましたよ。愉快な方ですね、コモダ中尉は」
小茂田のやつ、ちゃっかり自分の階級をあげたのはいいとして、うかつにも本名を名のったのか。リストにない名前は追加の二名とごまかせるにしても、偽者とばれる危険が増したじゃないか。
長田は状況を読んだらしく、
「ええ中尉は、これでなかなか勇敢ですよ」
そういってみせたが、すかさず話題をかえた。
「われわれの共通言語が敵国語というのも妙ですな」
「まったく」艦長は大きくうなずいた。
「私は教育熱心な親に戦前イギリスの大学に留学させられたもので、いやでも英語が得意に。貴官はみごとなアメリカ英語を話されますね」
「いえいえ」
「さすが情報員だけあります」
「ははは」ごまかしの笑い声とともに、腹の鳴る音がひびきわたった。
奥からただよう飯の匂いに、われわれは反応せずにはいられなかった。すると艦長がいった。
「さ、どうぞ士官室へ。食事の用意ができたようです。テーブルは四人がけですが、六人座れます」
「しかしわれわれが占領したら、みなさんは」
「私たちはさっきすませました。どうか遠慮なく。歓迎のしるしです。ヨハン、ご案内しろ」
炊事係らしき水兵がハッチの奥に招いた。
「ようこそ、Uボートへ」
音にきく独潜、Uボートに自分がいるとは・・・・・・うれしい気もしたが、そうでない驚きの方が多かった。
ハッチは体をかがめなくては通れない。なんとかくぐりぬけても、油断すると頭がパイプやらハンドルやらにぶつかる。体をろくにのばせない。とにかく狭かった。テーブルは通路にはみでていた。そっち側に座ると、うしろに人が通るたび押される。
ヨハンが真水をコップに注いでくれた。補給がとどこおっているらしく食事は缶詰中心で、あとはあきらかにカビを削りましたという感じのパンと肉。パイナップルの缶詰がカリフォルニア産なのは捕獲品のためらしい。衣服にいたるまで英米製のものが目についたのは、そういうわけだったのか。なんにせよ、われわれはだされたものにむしゃぶりつき、食いまくった。
どこまで、だましとおせるか――。
長田のやつ、裏切ったんじゃないだろうな。あいつだけがシミズ少佐になりきって士官室。それに対して、こっちは軟禁されたも同然だった。
艦首居住区には兵員用の二段ベッドが並んではいたが、ひとつのベッドを当直ごとに交替で使うため、つねに誰かが寝ている状態だった。われわれ四人が使えるぶんはなかった。
しかし艦長がうけあったとおり、よぶんな客のための場所がまったくないわけではなかった。
連れていかれたのは艦尾にあたる、後部魚雷室だ。
うなぎとよばれる銀色の魚雷と発射管に占領され、艦底は足の踏み場もなかったが、一日八時間を分解整備作業についやし魚雷とともに生活する魚雷兵のために、左右両舷側には組み立て式テーブルがあり、さらには折りたたみ式ベッドも複数設置されていた。これまた三名に二個のわりあててで、しかも下段は予備魚雷がつまれていたりするとだせないため、魚雷の上で寝なければならない水兵もたまにでるらしい。
ぞっとしたが死者二人とも魚雷兵だった関係でベッドに空きがあるとのこと。といってもたった一台。それを四人が交替で使うことになった。一日二十四時間だからひとり六時間ずつ。自分が使えない時間は魚雷のあいだに座るしかない。むやみに移動すると邪魔になるし、艦のつり合いにも影響するとかで便所以外は原則どこにもいけないことになっていた。
便所は艦内にひとつしかなく便秘にもなり、いらいらがとまらない。
それに同盟軍とはいえドイツ人は白人で、東洋人を異物とみているようで表面では笑っても目の奥は笑ってないのを感じるし、ドイツ語はわからないし、生活習慣のちがいもあってなにをするにも意思疎通がたいへんで居心地悪いことこの上ない。
狭い密閉空間で四十人近い人間が呼吸をする。換気扇は浮上時には稼働するが、臭いも暑さもがまんならない。
外洋にでれば浮上中揺れるだろうから、船酔いしない方とはいえ不安になる。
長時間潜航などしようものなら・・・・・・正気を保てるかどうかさえ不明だ。
いったい目的地はどこなのか。
いき先が日本でないかぎり長居すべきじゃない。
だいたい人参果はどうなったのか。ほかの連中はどう考えているのか。
那須はいわくつきの古兵だけあって、ここでも好き勝手やっていた。白人の前でおしゃれを気どりたいのか、俺が寝ている横で髭をそっては歌を歌い、靴磨きをしては臭いをばらまき、耳もとでドイツ語の発音練習をしたり。
ドイツ人にも迷惑がられるかと思いきや、アコーディオン係の魚雷兵と二人でリクエストに応じて演奏したり、炊事係とも親しくなって調理室に出入りし、皿洗いや皮むきの手伝いからはじめ、料理の腕をふるってもてはやされるようになった。移動はひかえるべきにもかかわらず、おとがめなしだ。さすが英語が母国語だけあって白人の心をつかむのがうまい。
それでもよけいなことは口にしないようだ。日本人の前でも同じだった。那須はなにを考えているのか、わからない。
この先どうするつもりなのか。指揮官長田にしたがうしかないのが現状とはいえ、その指揮官に裏切られたらおわりではないか。
俺は現状に甘んじるつもりはない。
ここから、ぬけだす。
浮上中なら可能だ。艦橋もしくは上甲板から水にとびこめばいい。ただし、できるだけ陸に近いところで。
以下の二点をおさえれば、成功は夢ではない。
一、現在地を把握。
二、艦橋にでる許可をえる。
水上航走中、艦橋には哨戒のため、つねに最低四人の乗員がいる。当直は毎日四時間交替だ。哨戒長は下士官以上。下級の兵は当直でないかぎりはそうそうあがれない。客となれば、なおさらだ。
喫煙者はたまに艦橋にあがれるとはきいたが、それも大勢いっしょにすませるもののようだ。次の喫煙許可がいつおりるかは不明だった。
自分が望んだときにあがるには、よほどの理由が必要だ。艦長に気にいられれば別だが――。
艦長は当直でなくとも艦橋にたびたびでる。その際話相手として好ましい人間を一緒につれていくことがあった。
艦長と親しくなる利点はほかにもある。発令所に入れてもらえ、海図もみられる。すなわち現在地を把握しやすくなる。
両方とも長田なら簡単だろう。やつの協力をあおぐのが近道かもしれない。考えたくもないが味方は必要だ。連中をまきこむしかない。
長田と連絡をとるには那須の協力がいる。那須をその気にさせるには佐伯の協力がいる。
ただし小茂田だけは、はずさねばならない。やつにだけは計画をもらせない。なぜなら反対するにきまっているからだ。
その証拠に、やつは「ビバーク」、「ピッケル」、「ザイル(綱)」と登山仕込みのドイツ語をやたらと口にし、ドイツ人にこびへつらっている。
彼らの機嫌を損ねさえしなければ、女にいつか会わせてもらえると信じこんでいるらしい。
俺は魚雷室につれてこられたとき、発令所から下士官室、調理室、ディーゼル・エンジン室、主電動機室ととおって女の隠れる余地などないと判断したが、小茂田はむしろ妄想をふくらませたようだ。
その割には女のことを口にしなくなったので、なぜなのか疑問に思い、探りを入れるとこういった。
「彼女は神聖なんだ。だから乗組員はあえて口にださずにいる」
たとえいき先がドイツでも、艦内で女と再会できると信じるかぎり、小茂田はUボートにしがみつこうとするだろう。
脱出計画の妨げにしかならない。邪魔者は排除――そうだ、いっそのこと、ここで小茂田に復讐をとげたらどうか。一石二鳥ではないか。
すでに下地はできている。あの屋敷でいい作品を描かせるためと家人をだまし、犬猫をけしかけさせたり、さわぐだけさわがせて小茂田の神経を参らせ、頭がまともに働かなくなるほど逆上させた。
あとは決定的な打撃を与えるだけ――。
具体的にどうすべきか、作戦を組み立てた俺は、まず佐伯に接近した。
やつは比較的船に弱い。大してゆれてもないのに酔っている。そのせいでいわれたことをまともにこなせず、よくない立場にたたされている。そこにつけこむ余地があった。
佐伯はこっちに戻るなり、痰を吐いた。
「ちくしょう、ほんと腹が立つ」
腹が立つのはこっちだ。いちいちあたりやがって。なにかといえば俺に愚痴をこぼして。ほんといらつくが、今は辛抱のしどころだった。
「日本人をなめくさって。あいつ挨拶もしやがらない。こっちは大声で丁寧にいってるのに、顔をあげもしなかった。東洋といやあ植民地で、東洋人といやあ野蛮人ぐらいにしか思ってないのか。米英の軍艦でボーイさせられてるフィリピン人やインド人と一緒にすんな。日本がいくつ植民地もってると思ってんだ。無知で無教養だから知らないんだろ。白人でもピンキリ。どこの国でも田舎者は田舎者、ハイクラスの人間とは全然ちがうんだって小茂田伍長殿がおっしゃったとおり! ドイツの田舎者がみ下しやがって。俺は大都市東京生まれ、しかも一流大学在学中に、超一流の文学賞をとった天才小説家だぞ。おまえに小説が書けるのか? 本もろくに読んだことがない顔の分際でえらそうにしやがって。挨拶ぐらいしろよ!」
すさまじい音をたてて鼻をかみ、ちり紙を俺の足もとに投げつけた。力はなかったが。
トントンという音が耳に入った。奥で小太りのドイツ人が魚雷の表面をたたいている。二十五歳のクレーマー魚雷整備二等兵曹だ。こっちをみて、しゃくれたあごを上むけた。
「なんだ、また呼びだしやがって」佐伯は舌打ちし、
「口で呼べよ、せめて」
ふらふらした足どりで奥にむかった。
小茂田は部下を船酔いぐらいで甘やかさないという姿勢をドイツ人にみせたがっている。佐伯に給仕のようなことをさせていた。那須が調理室に顔がきくようになってからというもの、原則移動禁止のたてまえを忘れたように、食事や飲み物を魚雷兵のもとにとどけさせている。若くてバタ臭い顔だちの佐伯なら、給仕の資格ありということか。俺はみばえの悪い中年だからか、今のところまぬがれていた。
注文をうけた佐伯は、調理室から盆をかかえて戻ってきた。盆には水の入ったグラス、コーヒーカップ、砂糖とクリームがある。
クレーマーは折り畳みテーブルにひとり陣どって背中をむけていた。佐伯はその脇に立つと、水の入ったグラスをはしっこにおいた。
とたんにクレーマーは佐伯をにらみつけ、ドイツ語でなにかわめくと、今おかれたばかりのグラスをこれみよがしにテーブル奥へと移動させた。
「グラスをテーブルのはじにおくと、ゆれて危ない」ということらしかった。
佐伯は英語であやまり、残りの物をおちにくい場所におくと、クレーマーのうしろで不動の姿勢をとった。許可もなく勝手に下がれないと判断したようだ。
クレーマーはみてみぬふりをし、悠然とコーヒーをすすった。五分ほどたったとき、
「なにぼうっとつっ立ってる」
小茂田がいきなりどなってベッドからおり、佐伯から盆を奪いとると、テーブルからうやうやしく砂糖とクリームをさげた。
「適宜さげる! 客の好みは一回みたら覚えろ」
「客・・・・・・」
「客もドイツ兵も同じだ!」
喫茶店主だった小茂田は、いいまちがいをつくろうように声をはった。
「砂糖とクリームは使いおわったら、すぐさげないと邪魔になる」
クレーマーはブラックでは飲まないが、甘党でもない。砂糖もクリームも最初に一回入れたらおわりだ。
「貴様は、冬のカカシか」
「・・・・・・?」
「うしゃしゃしゃ」
那須がしのび笑いした。人がなにかへまをしたり、悪口をいわれると必ずよろこぶ。
「慶応で作家になったやつが、わからんのか。これだから東京育ちは。カカシってみたことあるか? 畑や田んぼで鳥獣除けに置く、お人形。稲が実っているあいだは多少役に立っても、冬になればからっきしの用なしになる。つまり冬のカカシってのは究極の役立たずのことだ。覚えとけ」
「はい」
「もういい。クレーマー魚雷整備二等兵曹に『ただ今コーヒーのおかわりをおもちいたしますので少々お待ちください』とお伝えしろ」
「はい」
「コーヒーは俺が用意する」
小茂田の淹れるコーヒーは美味しいと評判だった。豆は同じでも淹れ方によって味は相当変わる。さすがプロだ。注文が大量でもすばやく対応できる。しかも質がおちない。すべてにおいて段どりがよく、ゆきとどいていた。
小茂田がどれほどだめな人間か。犬がいたあの家でどんな醜態をみせたか。話したところでなかなか信じてもらえないだろう。
しかし軍隊の上官としてどれだけ無能かは、証明できる。理づめで話せば、佐伯も否定はできないはずだ――。
仕事を終えて戻ってきた佐伯に俺はさっそく声をかけた。
「冬のカカシとは、自分もはじめてきいたであります」
「だから?」
「あれは言いすぎと感じたであります」
「感じた? おまえの感想なんか俺が求めてると思うのか」
「いえ、自分はただ、伍長殿がドイツ人に怒ってくれたらと・・・・・・」
「あのなあ、おまえなにもわかってないだろ、伍長殿の精神を。愛情がなければお叱りの言葉も頂けない。俺は毎回ありがたく頂戴してる。それをけがすようなこといいやがって。おまえごときに伍長殿のことを軽々しくいわれたくない。いいか、最低の悪口は、最上の激励の言葉でもある。親は自分の子に不良になってほしくないから『この不良』ということもあるだろ。愛情のあらわれさ」
思ったより重傷だな。小茂田教の信者かよ。
「おまえ『冬のカカシ』っていわれたことあるか。ないだろ? どうでもいいやつには、いわないんだよ。俺とおまえを一緒にすんな。同情して俺にとりいろうって気か知らないけどな、胸くそ悪いだけなんだよ」
とりつくしまがない、どうする俺。
喫茶店のマスターのような仕事をすませた小茂田に佐伯はいった。
「中尉殿はすごくあります」
ドイツ人の前では伍長ではなく中尉と呼ばれるのにも自尊心をくすぐられるのか、小茂田は胸をそらせた。
「要は経験と知識だ。貴様はまだ世間を知らん。そんなんじゃ次回作もだせんぞ」
「はい」佐伯はまた直立不動の姿勢をとった。
「貴様はまだ、かなり狭いところで考えがとまってる。そこからでていない。もっといろいろみた方がいい、いろんなものを感じろ」
「いろんなものを、でありますか」
「もっと生の声に触れた方がいい。考えるのではなく、人から感じるんだ。だからいろんな人と付き合わんと。庶民とも。でないと井の中の蛙になる。そんなやつがつくるもんは、たかが知れてるぞ。俺みたいに感じたまま表現できるようにならんと」
いつもなら煙草を立てて格好つけるところだが、艦内禁煙のため、すぼめた唇を天井にむけて息をふきだした。
「俺にとって絵は、生活そのものだ。食事や睡眠をとるのと同じ。ぬくことはできん。成果をあげようと描くのではない。自然につづけてきた。途中でやめられん。忙しいからできんということはない。なぜなら、絵を描かずにはいられんから」
「戦闘中や移動中は、どうするでありますか?」
俺がつっこむと、小茂田は眉をつりあげた。
「口をはさむな」佐伯がいった。
「卯井なんかには理解できない。なぜならその域に達してないから」
「うっしゃっしゃっしゃ」那須が笑った。
「卯井だって好きなことはあるだろう、芸術はだめでも。貴様のおふくろはなにが好きだ?」
「陶芸でありました」
母は俺が出征する前に死んだ。
「へえ。陶芸なんてのは、俺は素人がつくったのは嫌いだな。茶をいれてもはしっこが太くて飲みづらいだけだ」
「うっしゃっしゃっ」
「うは、まあ、俺も今は毎日描いているかといっちゃ、してない。だが頭にはつねに絵がある。みえてる。生きてるかぎり絵はある。佐伯には、わかるだろ」
「はい。自分もつねに頭に文章があるであります」
「俺は最近なあ、物からも感じられるようになった。じっとみてると、物から自分に語りかけてくる。物が呼んでる。みてくれ、感じてくれ、触れてくれ、と」
佐伯はひたすら尊敬のまなざしをむけていた。
「物には魂が宿っている。それ以上に、人の魂が宿ることもある。たとえばある人が今どうしているか知りたければ、物にきけばいい。物が知っている、もしくはみた人間のことを、教えてくれる」
バカげた思いこみ。これは利用できるかもしれない。
「中尉殿」俺はためしにいった。
「実は自分も、最近ある現象を経験したであります」
「どんな現象だ」
「いうべきかどうか、迷ったのでありますが・・・・・・」
「黙れ」
「いいんだ佐伯。卯井、話せ」
「実はこのところ毎日、この天井、この床が――」
魚雷装填用レールが走る銀色の内殻をみあげ、みおろした。
「女の姿を映しだすのであります」
それは女に飢えてるから幻をみるんだろう、とふつうなら笑うところだ。小茂田は果たして真顔になった。
「女って、どんな女だ?」
「三十代ぐらいで色白の、あの髪綉の女によく似てます。でもあれとちがって化粧が濃いです。服装は日によってちがいますが、比較的露出度の高い格好であります」
「どの程度だ?」くいついた。
「紺のワンピースのときもあれば、白いブラウスに黒いスカートのときもあります。胸がひらけていて二の腕は丸だし、素足であります」
「むう」目が爛々としてきた。よし、ここからだ。
「今日は床にみえました。魚雷と魚雷のすきまからのぞきこむようにして、必死で誰かを探しているようでありましたが、目的の人物をみつけられなかったのか、非常に落胆したようすで、やがて姿がみえなくなりました」
「目的の人物?」
「中尉殿の席ばかりうかがうことからしても、中尉殿にちがいありません」
「うそじゃないだろうな?」
うそにきまっている。ふつうなら、こんな話はまず信じない。
「俺が後部魚雷室にいるときには、みえんのか」
「なん度かみえました。女は中尉殿と目をあわせたかったのか、必死で視線を送っていました」
「くそっ! 全然気づかんかった。毎日きまった時間か?」
「きまってはいないようであります。このところは現地時刻でだいたい十六時から十八時半のあいだにみえますが」
「十六時というと二時間後か。よし、待機だ」
だまされたふりをしているのでなければ、小茂田は罠にかかるだろう。これで最後の布石がうてたと、ほくそ笑んだのもつかのま、伝声管から怒鳴るような命令がきこえた。
「総員、前部へ!」英語に訳してくれた水兵が補足した。
「艦長が潜航を命じた」
潜水艦は水中にもぐるとき、艦首を下げる。乗員を前部に移動させるのは、艦首の重量をてっとり早く増やしたいとき、すなわち緊急潜航時だ。まさか水上に敵影が?
艦内はにわかにあわただしくなった。後部の魚雷兵たちも次々走りだし、ハッチをくぐりぬけていく。つられて腰を浮かせると、ぶつかってふみ殺されそうになった。
「君たちは通路外でじっとしている」兵曹に叱られた。
Uボートが潜航中であったり攻撃下にあるとき、われわれ四人は、乗員の邪魔にならぬよう寝棚にかけこむなりして魚雷室からでず、ひたすら待機することを艦長からいわれたのを思いだした。
「那須殿が戻っとらんぞ」
がらんとした区画内をみまわし、小茂田がいった。
「調理室だな。佐伯、呼んでこい」
「え・・・・・・はい」
「すぐそこの区画だ。早く!」
艦は急速に沈降し、ひどく揺れていた。
佐伯はどうして自分ばっかりという目を、俺にぶつけてでていった。
ギャーッ、ギャーッと恐竜が叫ぶような警報ベルはまだ鳴っている。
テーブルの皿が次々すべりおち、こなごなに砕け散った。前傾はどんどんひどくなる。なにかにつかまらずには立っていられない。艦に危機が迫っているかもしれないというのに、那須は佐伯を責めつづけた。
「自分がなにしたか、わかってるの?」
「いったい、どうしてくれる」小茂田も口をとがらせた。
那須が潜航中に調理室にいたことが、そもそものまちがいだったにもかかわらず、自分のことは棚にあげ、ブルドッグ野郎はわめきたてた。
「いくらあわててたからって私を本名で呼ぶ? ねえ兄ちゃんさあ」
「・・・・・・」
「よりによってクレーマーが、トイレからでてきたときに」
便所は食糧貯蔵庫にもなっており、調理室と密接していた。
「おかげで私まで動転して、君のこと本名で呼んじゃったじゃない」
Uボートにのる予定だった三人はシミズ少佐のほか、オータニ造船大尉とイケダ機関少尉だった。二人の名を初日に探りだしてすぐ長田は、那須にオータニを、佐伯にイケダを名のらせた。
ちなみに小茂田は最初みずから本名をばらしたので、そのままコモダ。階級はイケダより上の中尉。役職は工作部長にした。俺だけ名前も階級もそのままで呼ばれている。
「クレーマーは絶対感づいた。ナスとサエキが本名だって。まさか子どものころ、日本にいたなんて・・・・・・」
頭に鈍痛。酸素がどんどん減り、水圧が増しているのを感じる。天井やパイプには水滴。ぽつぽつおちてきた。
「クレーマーは日本語ができると? われわれのこれまでの会話も、ぜんぶ彼にきかれてたと」
いったいなんメートルまで潜るのか。前部でなにかさわいでいる。どこかで浸水したんじゃないか。
「住んだのは三年で、かよったのは外国人学校らしいから、ほとんどわからないだろうけど、名前の区別ぐらいならできるんでしょ。私はあくまですましてたけど、あいつ私が偽の造船大尉って証拠をつかもうとするかも」
「佐伯、とりかえしのつかないことをしてくれたな。貴様が偽機関少尉だとばれるのも時間の問題だぞ」
「・・・・・・」
佐伯は泣いていた。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、哀願するような目をむけている。まるでガキ。他人に助けてもらうことしか頭にない。
発令所の方から笑い声がきこえた。おかげでテスト潜航だったことがわかった。そういえば前にもふいうちであった。艦長がストップウォッチ片手に、警報発令から潜航までなん秒かかるかを測る。敵の前では、いかに早く潜れるかで命運がきまるから訓練が欠かせないというわけだ。
まもなく艦は浮上をはじめた。ディーゼル・エンジンが再稼働し、機関のリズムが全身に伝わった。高圧がなくなっていく。
だがわれわれは緊張したままだった。
「・・・・・・ここは長田大尉のお力を借りるしか」
小茂田がいった。
「たしかに朝造はうそを信じこませるのが得意だけど、うまくいかなかったら? どうするわけ」
こたえる者はなかった。
「へたに糊塗なんかするより、問題の芽をつんだ方がいい」
那須は意味深な目をした。
「私は私でやるから、みんな邪魔しないでよ」
なにをするつもりか問おうとしたが、声がでなかった。俺だけじゃない。全員口がきけなくなっていた。真空状態は突如おそった。空気が一瞬にしてなくなったのだ。少しはあるかもしれないが、ないにひとしい。
おそらくなんらかの不具合で、シュノーケル装置が突然とじたにちがいない。潜航中、水上に通気筒をだして空気を艦内にとりいれる装置だが、空気吸入弁がとじると空気の供給を絶たれ、ディーゼル・エンジンが艦内の空気を数分で使いきってしまうため、乗員は呼吸困難の危機にさらされる、と読んだことがある。
佐伯がまっさきに膝をついた。
視界がぐらっと傾き、まわりだした。なんだこのめまい。艦は水平なのに、俺もへたりこんだ。のどがふさがったみたいに息ができない。舌がつっぱって前にでる。首から上の筋肉がひきちぎれそう、痛い、目がとびでる・・・・・・酸素がほしい、誰かくれ! 酸素。
・・・・・・こんなはずじゃなかった。どうしてこんな目にあわなきゃいけない。面倒ばっかり。ほんと逃げたい。青春時代はよかったなあ。とにかく楽しかった。大学に入学したときの、あの希望にあふれた気もち、あの解放感。無限の未来があると信じていた。したいことはなんでもできた。たっぷり時間があって、好きな世界にとじこもっていられた。
なのにこのザマ。社会にでてから、いいことなんてなにもない。時代のせいで。勤めた出版社はことごとくつぶれた。今やまともな本が売れないどころか、売ることさえ禁じられている時代。でも戦争のせいばかりではない。戦争が本格的にはじまる前から、俺は人生に失望していた。いくら苦労しても報われない。むしろ頑張れば頑張るほど不幸にみまわれた。実家は洪水で流され、父は死に、母は膝を痛めて歩行困難になったのがもとで事故死、自分は自分で偽装結婚――。
それでも耐えられたかもしれない、もっと精神的に強い人間だったら。十代前半から丁稚奉公でもしていれば、苦労は当たり前のものとしてうけ入れたかもしれない。器用に生きる術も身につけていたかもしれない。でも俺は苦労知らずに育ったから。心が鍛えられていなかったから。
人生を甘くみていた。この世のどこかに桃源郷があると信じていた。無知だけにすべてが新鮮で、どんなことも楽しかった。それでも大学を卒業したらすべておわりだと、心の奥底ではわかっていた。今だけだと、今が人生で最高の時期だと。社会にでたら、この時期をふりかえり、なつかしみ、心の慰めとするだろうと。
学生時代がおわってほしくなかった。年をとったらどうなるか、考えるとおそろしくてたまらなかった。三十五歳になった自分など想像もできなかった。五年後の自分すらこわくて思い描けなかった。卒業直前、未来は真っ暗になった。社会にでるのがこわかった。現実逃避の能しかない自分がうまくやっていけるとは思えなかった。すべてが面倒だった。毎日寝て過ごせたらどんなにいいだろうと思ったりした。「果報は寝て待て」というじゃないかと。
学生時代は、らくするのが目標だった。夢は、らくして贅沢すること。
世の中を知った今は恥ずかしいかぎりだが、でも正直、今でもあまり変わらない。努力してこそ成功できる、成果をあげるためには苦労は当たり前などと頭では思っても、心では思えない。
だから佐伯や長田みたいに大した苦労もせずに成功した経験のあるやつには心から嫉妬する。那須は生まれがいいだけで得してきたし。小茂田は苦労はしてるかもしれないが、根が腐ってるから出世したのが許せない。
俺だって社会にでてからは人並みに苦労してきたのに・・・・・・こんな末路? この十二年ろくなことなかった末に、こんな異国の潜水艦で死ね、と?
でももし生き残れたとして、それでどうなる。生きててなにかいいことあるのか。
今後の人生、なにを信じ、なにを支えに生きればいい?
発狂しそうな痛み。鼓膜が破れそう。キーンという音しかきこえない。必死で唾をのみこみ、聴覚を戻そうとした。
心の支え、支え・・・・・・ふいにあの顔がうかぶとともに、呼吸がらくになった。
シュノーケルの空気吸入弁を機関員が手動であけるかしたのだろう。まもなく俺は酸素を肺いっぱいに吸いこんだ。どうやら助かったらしい。鼓膜の痛みはまだ残っていたが、ディーゼルの音がちゃんときこえだした。体のどこも特別異常はないようだ。
佐伯は魚雷の横に嘔吐していた。小茂田は露骨に顔をしかめ、
「おい、きれいにしろ!」うずくまった佐伯の背中をけった。
「床を汚しやがって。じき十六時だってのに、これじゃみえんだろうが」
女がみえると俺がいった時間まで、あと十分だ。
「はい・・・・・・」
弱りきった声。まともに立つことすらできない佐伯の体を俺は支えた。心から心配そうな顔をして、
「古兵殿は休んでください」
「なに」小茂田が目くじらをたてたが、
「自分が掃除します」俺はあえて名のりでた。
「よおし。卯井、貴様がぴかぴかにしろ。十分以内にだ」
俺への感謝の念は佐伯の目にうかばなかったが、ほっとしたようすはみてとれた。
すでに十六時半。
「まだみえんのか」小茂田は魚雷の下をなめるようにみまわした。
魚雷兵の不審の目は十分集まった。肝心の佐伯の目も。小茂田の異常ぶりをさらす舞台はととのった。
「そこに――」俺はようやく床の一部をしめした。
「女が白いブラウスに赤いスカート姿で、白い二の腕と二の足をみせつけるようにして立っています。顔が真っ赤なのは、小茂田中尉殿に会えたうれしさのためかと――」
「ほんとうか?」
よだれをたらさんばかりの顔で小茂田は床にはいつくばり、さっきまで汚物があった面をのぞきこむようにみた。
「ううむ・・・・・・」
「女はじっとみています。中尉殿と目をあわせたがっているようでありますが」
「ここで、あってるんだな?」
小茂田は金属をなでた。物からなにかを感じとろうとするかに。
「中尉殿が女の目をみないので、今女の唇がとがりました。すねたように、眉間にしわをよせて、頬をふくらませて・・・・・・あ、いなくなります」
もちろん、銀色の面は女などうつしてはいない。
「待て、いくな」いやらしい手つきで床をもむようにし、
「ふう・・・・・・」ため息をついた。
「中尉殿には、みえんでありましたか?」
「みえたにきまってる」負け惜しみをいった。
「彼女の笑った口の息づかいまできこえたぞ。もちろん息の匂い、髪の香りだって、俺はかいだ」
佐伯が首をかしげたのを俺は目のすみでとらえた。
「俺と彼女の体はどんなにはなれていてもつながっている。むこうが俺を思っていると、必ずわかる。この胸が、とどろくから。頭がしびれ、彼女の魂が入りこむのを感じるから」
そのとき俺はまったく予期しなかったことに自分の頭がしびれるのを感じた。そして妻そっくりのあの女が、すぐそこにいるかに、まぶたの裏にみえだした。長いまつ毛から、スカートのしわ、体温を吸収してあたたかくなったブラウスのふくらみ、ぬれた赤い唇、毛穴に光る汗つぶまで・・・・・・心臓が高鳴り、どうしようもなく熱くなってきた。なんともいえぬ快さ。身をまかせると、すべてを忘れる。麻薬でも飲んだかのように。
俺がみているのは、支那の女か、いちども抱いたことのない妻とは名ばかりの女か・・・・・・女・・・・・・欲求が意志に反して急激に高まった。本能が全身を支配しそうだ――これじゃ小茂田と同じじゃないか。
「本気の恋だな。彼女は床下から俺をのぞきにきた」
小茂田のつぶやきが、はからずも体内の快感を一気に消し去り、俺に理性と思考力をとりもどさせた。改めて認識。標的は、作戦どおりの反応をしめした。
これを利用して、まずは佐伯を味方に入れる方により力を入れることにした。
寝棚は一日四人が六時間ごとに交替で使う。
那須、小茂田、佐伯、俺の順だ。体をのばして寝るのは数少ない楽しみだが、六時間後、俺は自分の番がきても、あえて佐伯にゆずった。まだ具合が悪そうだったから、今度こそ俺に感謝するとみたのだが、佐伯は借りができるのが不満なのか、あるいは下心を疑ったのか、ろくによろこばなかった。自分は階級が上だから当然といった態度。
さらに七時間後。
ボートが方向をかえ、ゆれの影響をうけやすい艦尾がもろに震動したときだった。
佐伯がころびかけ、けっこうな量の皿を、料理ごと通廊にとびちらせた。
「イケダ機関少尉、大丈夫ですか」
クレーマー魚雷整備二等兵曹がいったが、佐伯は反応しなかった。動転のあまり自分の偽名を一瞬忘れたらしい。
クレーマーはにやりとし、
「イケダ少尉?」
わざとらしくくりかえした上、海軍士官ともあろうものが船の素人でもあるまいに粗相を重ねるとは信じられぬといわんばかりの顔で、同じ失敗をUボート正式の配膳係がしたら三日間缶づめの罰をくうといったりした。
日本人は客であるし、配膳は自発的にいったものとして艦長はみのがしたが、小茂田がそれでは申しわけないからと罰をうけさせることにしたので、佐伯はディーゼル・エンジン室に一日缶づめになることが決定した。
そこで佐伯のかわりに俺が、これまた自発的な配膳係にさせられたわけだが、俺は佐伯並みに、いや、佐伯以上に派手によろけて派手に皿を割った。おかげで日本人にはもう二度と配膳はさせないという空気になったので小茂田は怒り心頭、俺をもディーゼル室送りにした。
室内は高温で高圧。しかも油の臭いが充満。
機関作動中は地獄のように暑く、地獄のようにうるさい。耳に綿をつめても音と震動は伝わる。船に弱い者には到底耐えられたものじゃなかった。
俺がなかに入れられたとき、上下にピストン運動を繰り返す左舷ディーゼルの横で、佐伯は死んだようにうずくまっていた。
案内の機関兵がはなれたので、俺はやつの肩をそっとたたいた。
佐伯はまぶたをあげると、「なんでおまえがここに」という目をした。
「自分も皿を割りまして」俺は騒音に負けない声をはりあげた。
佐伯は顔をしかめ、
「おまえ、狙いはなんだ」
というと、それだけで体力を使い果たしたようにぐったりとなった。俺がそれ以上なにをいっても無視した。
ほんとうにこいつを味方にできるのか・・・・・・。
考えているうち俺は機関の規則的な動きに身をまかせ、眠りにおちていた。悪環境のなかでうそのようだが、もう二十四時間以上起きていたせいだろう。
目覚めたのは七時間後。缶づめの残り時間が減ったのはよろこばしいが、計画はなにも進んでいなかった。あせりがつのったとき、艦が潜航し、ディーゼルが停止した。ディーゼル・エンジンの使用は水上航走中のみで、潜航中は電動機に切りかわる。
水中では音が伝わりやすい。戦闘中なら敵に位置を知られないよう私語も慎む。だが今、機関兵たちは遠慮なく会話し、汚れた手をふきふき、箱から壜をだして林檎ジュースを飲んでいた。
「テスト潜航ですね」
俺は口にした。佐伯も目ざめていた。あいかわらずだるそうだったが、
「いちいち話しかけるな。わかりきったことを。やつらがこっちをみる」
俺にいらだちをぶつけるだけの体力は回復したらしかった。
「ほら、機関兵曹長がこっちをみはじめたろ。兵曹になにかいってる」
「機関兵曹長はさっきクレーマーになにか耳打ちされていたので、もしかしたらその件かもしれません」
「クレーマーが、なにを」
「具体的な内容はわかりませんが、イケダという言葉がききとれました」
「それって僕のことじゃないか」
「はい。サエキという言葉も耳に入ったであります」
「なんだって。イケダの本名はサエキの疑いありって、クレーマーのやつ密告したんじゃ・・・・・・」
「本物の技術士官か試すように依頼したということも考えられます」
俺は極力おどすようつとめた。
「このあと古兵殿は技術力をテストされるかもしれません。ディーゼルの始動を手伝ってほしいなどと、機関兵曹長にいきなりいわれる可能性も」
狙いどおり佐伯の顔はいっそう青くなった。
「そんな・・・・・・そうなったらごまかしようが・・・・・・」
「監禁場所がディーゼル室でなければ、よくありましたが」
小茂田の非をほのめかした。
「なんで僕をよりによってこのなかに、伍長殿はとじこめたのか」
不満を口にした。よし、ここからだ。佐伯がつらい思いをしているのは、小茂田のせいだと思わせろ。
「伍長殿は慎重なときは非常に慎重ですが、そうでないときは直感重視であります」
「それは、芸術家だから」
「たしかに、小茂田伍長は根が芸術家でありますから、人参果探しに入って最初の村にむかったときも、いき方は特に把握せず、気のむくまま道案内にたよっていたであります」
「そうだった」佐伯がうなずいた。
「道案内をみつけろと命じられたが、ろくな人間がいなかった。しかたなくあの黒人のじいさんを使うことになったが、失敗だった」
小茂田の命令で損したことを列挙していけば、こいつも目がさめるはずだ。
「道案内を使うときめたのは伍長であります。川ぞいにいく方が確実でも、山道ときめたら山道。直感でこうときめたら、どんな困難があっても、それでいく人であります。あの砲弾にしてもそうでありました」
「那須殿が食糧のかわりにくれた砲弾か」
「信管をぬかれた無用の長物でしたが、伍長は爆発のおそれがあるとかたく信じ、われわれに手運びさせたであります」
「思いだしたくない、あの重さ、つらさは・・・・・・」
しかし佐伯は小茂田への忠誠をあらわすかに、つけたした。
「まああの場合は、誰でも慎重になるだろう」
「慎重すぎたかと。あのとき伍長は川岸についてなお、水路と陸路どちらをとるか迷っておられました。そのため明け方に川が氾濫し、大変な目にあったであります。自分と古兵殿が作った筏も流されました」
「あれは悔しかった。徹夜で作らされたのが」
「夜のあいだに移動できていれば被害は少なかったはずであります。果敢に行動すべきときむやみに慎重で、慎重であるべきとき無謀な命令をだせば、ろくなことにはなりません」
「今回もだ。慎重であってほしいときディーゼル室なんかに。技術力が問われる場所にわざわざほうりこんで・・・・・・」
「例の女のことが伍長の判断力に影響しているのかもしれません」
「女が?」
「女が艦内にいると伍長は心から信じているようですから」俺は意味深長な目をした。
「やっぱり、床に女の姿がうつったというのは、うそ?」
「はい」
「どうりでなにもみえなかったんだ。僕の目だけおかしいのかと思ったが。じゃ、伍長殿がみたというのは?」
「見栄をはったか、幻をみたかと。というのも今の伍長なら妄想と現実の区別がつかなくなっているということは十分考えられますので。正直信頼できん精神状態であります」
「おまえ、そんなこといったのがしれたら、ただじゃすまんのわかってるよな」
「大丈夫です。ここには日本語のわかる人間はいません」
佐伯はまわりをみまわすと、身をのりだした。
「伍長殿がおかしくなってるって?」
「実は屋敷の家に潜入したときから、伍長の言動にはだいぶ異常が生じていたであります」
家人が犬猫にばけていると信じたことから、小茂田自身がケモノみたいに四つんばいになって家人をおそいかけたこと、女にとびついたことまで、詳しく話した。
「はじめは敵視してたのに一転してべた惚れ? 女の体に触った直後から? 伍長殿は恋愛経験が少ないから免疫がないんだ。だからのめりこんで理性がとびがちなのか」
元ジゴロの頬に、嘲りの影がかすめた。
「女が乗艦していると信じるかぎり、伍長はこのボートを降りんはずです。伍長にしたがっているわれわれも潜水艦生活をつづけることを余儀なくされます」
「うえーっ、こんなところにだらだらいるなんて絶対にいやだ」
「いき先はいまだ不明ですが、ドイツの可能性も」
「それはないんじゃないか。いまだ海に入ってないんだから。この広い湖をぐるぐるまわるのがこのUボートの使命なんだろ」
「いつかは外海にでるはずであります」
「そうなる前に長田大尉殿が動くだろう。大尉殿は人参果をみつけたいんだから」
「しかし、小茂田伍長が強硬に反対すれば――」
「伍長殿も大尉殿にはさからえないよ」
「しかし長田大尉は、Uボートに満足しておられます。今では人参果よりもドイツで派手な生活を送ることの方に食指が動いておられるのかもしれません」
「そういえば、那須殿が大尉殿に会うと、ドイツ軍幹部がいかに贅沢に暮らしてるかって話をよくきかされるといってたな。Uボート士官の話のまたぎきって前おきで」
「大尉はこのまま情報将校でとおしてドイツに滞在するつもりなのかもしれません」
「たしかに、考えがころころ変わるお人ではある・・・・・・」
新しいおもちゃが手に入ると古いものはどうでもよくなる子どものように、長田は目新しい目標にとびついては、それまでとり組んでいたことへの興味を失う。
「長田大尉に過剰に期待せず、潜水艦から脱出する計画をたてた方がよいと自分は考えるのでありますが」
「計画ってどんな?」佐伯の目に光がさしたのを俺はみのがさなかった。
「おまえの頭のなかにはもうあるんだろ? だから俺に話すんだろ?」
「話す前に、古兵殿にお願いがあるのですが」
「なんだ、いってみろ」
「お約束頂けますか。小茂田伍長にだけは絶対にもらさず、自分を裏切ることなく協力すると」
「なるほどね。それが狙いでおまえ、最近俺にごますってたのか」
「・・・・・・」
「いいよいいよ、わかったよ、約束する、伍長殿にはもらさんから、早く計画とやらを話せ」
俺は打ち明けた。佐伯はさすが小利口だけあって、のみこみが早かった。ただ話をききながら、絶えずにやにや人を小バカにしたような笑みをうかべていたのが気になった。裏切られるのではという不安は正直ぬぐえない。それでも話したことで計画実現への道を一歩ふみだせたのはたしかだった。
クレーマーが消えたときいたのは、ディーゼル室をでた直後だ。
最初に気づいたのは新米の発令所付兵だという。当直交替のため早めに艦橋にあがったところ、先の当直兵が誰もいなかった。先の当直兵とは、クレーマーほか三人。四人とも当直開始時間前に艦橋にあがっており、艦内には戻っていなかった。
となると湖におちたとしか考えられないが、その時間の波も風もそこまで強くはなかった。
殺人の可能性がでた。
那須に疑惑の目がむけられた。
事件のあった時間帯、那須は調理室で小茂田と夕食をつくっていたことになっているが、ドイツ人はいなかった。調理室の天井にはハッチがある。潜航中でないかぎりハッチはあけられる。だから那須がハッチから甲板にでて、甲板から艦橋へ移動し、刃物で刺すなどの凶行におよび、四つの死体を湖に捨ててから調理室に戻ることは可能だった。
クレーマーは日本人たちの正体を疑っていた。発覚をおそれた那須が、ほかの三人をまきこんで殺したにちがいないと機関兵曹長は主張し、機関長も支持した。
那須はクレーマーと決して険悪な仲ではなかった。むしろうまくつきあっていた。死んだときくと、心から悲しむようすもみせていた。
枢軸国日本の客人がドイツ人を殺すわけがない。そう艦長はいって機関長たちをいったん黙らせた。
しかし機関長たちは、オータニ造船大尉とイケダ機関少尉の技術力を知りたいといいだした。要するに二人が本物かどうか試したいということだ。艦長は結局許可した。明日、非常事態が起こらないかぎり、二人を機関長にまかせると。
那須と佐伯が偽者とばれれば、当然それ以外の日本人にも矛先がむく。われわれ全員が、窮地に立たされる。それこそ非常事態だというのに、那須のやつ、なにをやってる。あいつが寝棚に入るべき時間がもう二時間もすぎてるってのに、いまだ魚雷室に戻っていないとは、どういうことだ。
あの長髪ブルドッグ、いつも遅れて寝棚に入りやがって、交替の時間になっても一時間はずうずうしく寝すごす。超過が二時間のときもある。順番が次の小茂田は文句をいったためしがない。那須が起きだすまでおとなしく待ち、遅れて布団に入った分、自分も寝すごす。その次の佐伯も同じくらい寝坊するから、どんどん時間がずれる。割を食うのは俺。俺だけが寝坊を許されない。布団に入る時間が二時間遅れても時間どおり起きなきゃならないから、その分睡眠時間が削られる。俺だけが慢性寝不足状態。
那須さえちゃんとすればすむのに、くそ野郎! 時間を守れないやつなんか信用できない。やつがまともだったら、脱出計画だって直接話せる。調理室ハッチから甲板にあがる方法だって相談できた。でも俺のことをバカにして、話しかけても相手する気ないって態度をとるから、佐伯をとおさなきゃならない。面倒かけやがって。勝手に殺しまで――俺は那須がやったと確信している。やつはいった、「問題の芽をつまなきゃ」「私は私でやるから、みんな邪魔しないでよ」。
これから脱出計画を進めようというときに、まったくよけいなことをしてくれた。おかげでこっちまで立場が危うくなった。
「那須殿は今、どこにいるんでありますか」俺はいった。
魚雷の脇にしゃがみ、スケッチに没頭するふりをしていた小茂田は青筋をたてた。
「うるさいぞ。なんだ?」
「那須殿はもう二時間遅れていますが」
「接待が長びいてるんだろう」
「接待でありますか」
「明日のことをどうにかするため、大尉殿とごいっしょだ」
技術力テストを回避しようと士官連中に働きかけてるのか。どうりで発令所の方からアコーディオンの音がきこえるわけだ。那須の演奏でもてなしか。むしろ逆効果だろう。容疑者なんだから。証拠がないとはいえ。
証拠といえば、那須と調理室にいた小茂田は真相を知っているにちがいない。教えてくれないだろうか。スケッチのできにほれぼれした顔。今ならきけそうだ。このいらつきをもってすれば、いける。
「あの噂は、ほんとうでしょうか」俺は切りだした。
「機関長が主張していることは・・・・・・」
たちまち小茂田は顔をこわばらせた。
「噂がなんだ」
「那須殿はやはり、『問題の芽をつ』んだんでありますか? クレーマーを・・・・・・?」
小茂田はスケッチブックをふせた。
「貴様、なにをいう」
つりあがった目をのぞきこんだ瞬間、俺は直感した――小茂田もクレーマー失踪に関わっていると。直接手をくだしたのは那須だとしても、小茂田がそそのかしたのかもしれない。クレーマーに正体をばらされたらUボートにいられなくなるから――。
「伍長殿は、那須殿――」
「黙れっ」
口をふさがれた。
「貴様が悪いんだ。那須殿をちゃんと動かせておらんから寝るのが遅れるんだろうが。自分が寝棚の進行係だと、命じられなくてもわかれよ」
寝棚の進行係? そんなのはじめてきいたぞ。
小茂田は俺の鼻をもふさいだ。息ができない。
「貴様など、このまま死んだらさぞらくちんで頂好(ディンハオ・・・最良の意)だろう。悲しむ者もいんだろうからな。嫁にも嫌われてるんだろ。貴様は不幸の臭いがプンプンする。一緒にいると運が下がってしかたがない。消えてもらいたいが、使い道があるうちは殺せんからな」
小茂田は手をはなした。
「ありがたく思え」
自分のなかでなにかが爆発した。復讐はもう少しあとのつもりだったが、予定変更だ。
「これを」物入れから、切り札をとりだした。
「ごらんください」
「なんだ」けだるげな目がたちまち光をおびた。
「あ、その写真は」予想どおり小茂田は俺の手から奪いとった。
「あの女ではないか。着物姿の・・・・・・」満面紅潮している。
小茂田の心の支えは、女に慕われているという幻想。その支えを、つき崩す。
「貴様にたのんだんだな。俺にみせるよう」
俺はこたえた。
「その女は、自分の妻であります」
「今、なんといった」
「ですから彼女は、自分の妻です」
小茂田の顔から血の気がひき、目がすわった。
「・・・・・・ふざけるな」
俺はひるまなかった。
「写真は、東京の自宅で撮りました。妻は自分を追って支那へきたのであります」
「あの女は、支那の女だ」小茂田は声をはりあげた。
「母親も支那人、村の女だ」
「妻の母親は、支那人であります。自分はいちども会っていませんでしたので、妻の親と知ったときには驚きました」
「しかし、あの女は、あの村で十年髪綉をしていたんではないか。だから村人にあんな怒りを爆発させたんではないか」
「芝居です。あれは自分へのあてつけです。十年ためた夫への不満を、ああいうかたちであらわしたのです。妻はそこまでして自分の気をひこうとしているのであります」
「あの村に住んでいたからこそ、村人はあの女を警戒していたのだ」
「村人も芝居をしていたのです。妻の作った筋書きにそって。自分の妻は女学校をでたあと一時劇団に属していたことがありました」
「そんなバカなことがあるはずない!」
むろん、うそだ。写真の女が妻ということ以外はすべて。だが俺はいった。
「すべて事実です。伍長殿」
「貴様っ。貴様はさっき、あの女は俺に会いにきたといったではないか」
「あれは、伍長殿を喜ばせるためにいっただけであります」
「この野郎っ! 貴様がなんといおうと、あの女は貴様の嫁とは別人だ。この写真の女はたしかにあの女にそっくりだが・・・・・・貴様は二人が瓜二つなのを利用し、うそをついているんだな。そうだ、日本の主婦が戦地にこられるわけがない」
「いいえ、あの女は妻です。二人は同一人物であります」
いいはることで、十分打撃を与えられるはずだった。ところが、
「仮に、この写真の女が貴様の嫁としてもだ」
小茂田はうちしおれたようすはみせずにいった。
「貴様を追ってきたのが事実としてもだ。慕ってではない。その逆だ。貴様もいったとおり、恨みを晴らしにきたんだ。それこそ戦死でもされたら一巻のおわりだからな。結婚して損した不満をぶつけなければ一生悔いが残ると思ったのだろう。それだけ貴様は憎まれているということだ。彼女は、この俺を、小茂田喬次を慕っている」
自分でも意外なほどの怒りがこみあげた。
「彼女が慕っているのは、自分です」思わずいった。
「証明できないだろうが?」
「・・・・・・」自信は皆無だった。
「いいいい、本人に直接きく方が早い。待ってれば、貴様の前に現れるんだろう?」
写真で一気につきおとすはずが、むしろ俺の方が追いつめられた気分だった。
「この写真は、あずかる」
小茂田はあわてたようにふところに入れ、俺からはなれた。
那須がいつのまに戻っていた。遅刻をわびるどころか、不機嫌そうに小茂田をおしのけ、寝棚にあがった。女は道具という考えのもちぬし。恋愛にうつつをぬかす男をみ下している。
「覚えておけ、卯井。俺には俺の考えがある」
きめつけたが、目の奥には動揺が宿っているようにもみえた。
那須と佐伯の二人が試されるときが、ついにきた。
長田の運動はむだだった。むしろ乗組員の疑念を晴らすにはテストをうけるのが一番だと艦長に説得された。反対しつづければ墓穴を掘るから、あらがえない。
「オータニ造船大尉」と「イケダ機関少尉」の化けの皮をはいでやれと、ディーゼル・エンジン室で要員が待ちかまえていた。機関兵曹長は指定の時刻前に後部室まで迎えにきた。
連行される犯人さながら那須と佐伯が重い腰をあげたとたん、警報ベルが鳴りだした。二人は足をふみだしかけたところで横倒しになった。
俺の視界自体、大きく傾いていた。手近にあるパイプに必死でつかまり、体を支えた。前傾がとまらない。艦が急角度で潜航していた。これまでにない速度で。まるでローラーコースター。
平静をよそおった艦長の声が伝声管からひびきわたった。なん度かきいておぼえたドイツ語の命令。意味は、「潜航配置につけ」だ。訓練ではないと直感的にさとった。
後部室で遊んでいた水兵たちが争うようにハッチをすべりぬけていく。上空に敵機があらわれたようだ。もはや日本人のテストどころではなくなった。機関兵曹長もあわててもち場へ去った。
突如、落雷のような音がおこった。衝撃波で体が上下左右に激しく揺れ、宙に投げあげられたかと思うと、床にたたきつけられた。骨盤の右側と両膝を打った。あちこちで悲鳴。発令所で計器類のガラスが割れ、床に砕け散るひびき。
明かりが消え、艦内は闇につつまれた。
大丈夫、膝はぬれていない、出血はなし。骨盤も。せいぜい打撲にすぎない。
非常灯がついた。今の振動の原因は? 爆撃か。それにしては損害が軽微のようだ。少なくとも艦尾は浸水していない。それたのか。敵は爆雷の調停深度をまちがえたのか。詳細はいっさい不明。
艦内は急に静かになった。むやみに音をたてると敵に位置を知られるからか。きこえるのはディーゼルにかわって稼働中の電動機のかすかなモーター音ぐらい。乗組員の誰もが息を殺してかたまっている。「だるまさんがころんだ」で鬼がふりかえったときみたいに。飛行機は空にいるんだから、ちょっとぐらい動いたってばれないだろうに。
もしかして駆逐艦までいるのか? まさかこんな湖に、と一笑にふしたいところだが、今のアメリカならやりかねない。狙い撃ちされたら一巻のおわりだ。やつらにはソナー(水中深信儀)という秘密兵器がある。音波を発信し、目標から発射されてくる反射音波を受信して方位や距離を測定する。Uボートがどの辺にいるのかを知るのは楽勝ってわけだ。
ピーン、ピーン、といった機械音がそろそろきこえるのでは。外殻にあたって、はねかえして探知されて・・・・・・だからいわんこっちゃない。もっと早く脱出しときゃよかったんだ。小茂田もドイツ人もなにも恐れずに、自力で。テストが延期になったって、撃沈されたらおわりじゃないか。
・・・・・・いつまでたってもソナー音はきこえてこない。敵艦のスクリュー音も全然。俺の耳が変なのか。たしかに小茂田に殴られて以来、鼓膜がときどき痛むが・・・・・・はっきりしてくれ! 敵艦は迫っているのか? いないのか? 聴音室にいってたしかめられたら・・・・・・聴音器は確実に音をとらえてるかもしれない。まだ遠いだけで・・・・・・恐怖がつのる。いざというとき艦尾が一番逃げにくい。艦橋からはなれている。とり残される可能性大。潜水艦で死亡率が高いのは機関兵および魚雷兵って読んだぞ。
気をまぎらわさないと。そうだ、骨折してないか確認するのを忘れてた。俺はパイプにしがみつき、立とうとした。力が入らない。全身が宙に浮いたみたい。頭だけ重い。脳の働きが刻一刻と鈍くなる。
隔壁がきしんでいる。無視できない騒々しさ・・・・・・異変の原因は俺じゃない。足は問題ない。歩ける、折れてはいない。ふわふわするだけ。この感覚は、深度が原因。水圧が増すと、体の重力がなくなったように感じるらしい。
艦はいまだ降下中。鼓膜がどんどん圧迫される。いったいどこまで潜る・・・・・・まさか制御不能になったのか? Uボートは今まさに沈みつつある?
ぶきみな船殻のうめき。われわれをとりまくのは漆黒の水。いやでも水滴が目につく。湿気がまして、なにもかもが露をおびる。
ドイツ人の測定によれば、この湖の最大深度は一千メートル強。Uボートの圧壊領域は水深二百メートルから三百メートルとされている。湖の底どころか半分もいかないうちに、水圧でぺちゃんこにおしつぶされるということだ。現在の深度は? 二百はいってないよな。たのむ、とまってくれ。
拝もうとして、手の動きがのろいのに気づいた。脳が指令をだしても反応が遅れる。潜航訓練で百五十メートルまで経験したが、ここまでではなかった。潜れば潜るほど動作が鈍くなるという。いやな予感。もしかしてすでに二百を越えたとか? やめてくれ。これ以上沈むな。どうか! お願いだ!
鋭い音が耳にとびこんだ。どこかで鋲でもはじけとんだようだ。同時に水がほとばしる音。前部からお。まさかまさか・・・・・・?
艦長がなにか怒鳴りかえした。兵の報告があちこちからあがる。いずれも泣き声に近い。魚雷兵が那須にたのまれて英語に翻訳している。「無線室に漏水」、「駆動シャフトが両方とも変形」、「調理室のハッチから浸水」。ついにおそれていた事態が・・・・・・?
水は前傾のため艦首の方へ流れていくが、すでに通路は細い川と化している。排水ポンプを動かす音がきこえるが、沈下がやむ気配はない。後部室にも水たまりができだした。このまま水位が高くなったら・・・・・・悪夢だ。そうだ、これは夢なんだ。現実でたまるか! 俺は目をとじた。現実逃避。
「卯井。卯井?」
肩をゆすぶられた。
「おい、卯井」
小茂田が呼んでいる。熟睡中の人間を無理に起こすようなしつこさ。やっぱり夢だったんだと思いながら、まぶたをあげた。期待は裏切られた。みえたのは、依然として危機迫る潜水艦内。俺はふりかえった。
小茂田は両手でパイプをがっしりつかんで立っていた。
「貴様にききたいことがある」
「はい」
「独身とは、なんだ」
いきなりなんだ、こんなときに。こっちこそききたい。
「独身の意味は、なに」
大真面目の顔。眉間にしわが寄り、しかめっつらに近い。
「こたえろ。思いつくことを」
やつの真意が不明だったのもあり、
「独り身であります」そうとしか、とっさにはいえなかった。
「ひとりみ」
小茂田は両手をパイプからはなした。
「ひとりみとは、なっに?」
白人がするように手の平を上むけた。
「ホワット?」
狂気の証拠をやつの目にみいだそうとしたが、非常灯の薄暗い光では確認できなかった。
「ひとりでいること――」ひとまずこたえた。
「結婚していない、ということであります」
「結婚していない。なるほど、それが独身」よろけつつも、
「小茂田喬次、三十歳。私は独身」舞台役者よろしく股をひらき、
「なぜ独身、なっぜ? ホワーイ?」
ピエロのように首をかしげた。
こんな姿をみるのははじめてだ。神経にひびが入りかけているのかもしれない。根は小心者の小茂田のことだ。恐怖に耐え切れなくなったか。今まではあの女に愛されているという幻想に支えられていた。それを俺がゆるがした。やはりあの写真がきいたにちがいない。このままいけば、小茂田は、狙いどおりに――。
期待が高まったとき、立つのが急にらくになった。艦が水平姿勢に戻りつつあった。排水がうまくいったのか、床の水位が下がりだした。
浮力タンクに圧搾空気の流れこむ音が耳に入った。頭上からの圧迫感が徐々にへっていく。Uボートは上昇しはじめていた。まもなく呼吸しやすくなった。
どうやら沈下はまぬがれたようだが、浮上はまだおあずけらしい。水平潜航。流れてくる空気はシュノーケルを通したものだ。
でも、いいのか? シュノーケルだって航跡をひく。空気吸入筒は海面すれすれにしか頭をださないとはいえ、日中ならみつかりやすい。さっきの敵にまた攻撃されるのでは? それとも潜航さえしてれば互角に戦えると? 危ない橋は渡るべきじゃない・・・・・・まあ、艦長をひとまず信じるしかない。潜望鏡で上のようすをみて大丈夫と判断したんだろうから――。
ディーゼルの振動と騒音が復活している。電灯もつき、艦内はにわかに明るくなった。
小茂田はわれに返ったようだった。
「俺が独身なのはだ」つくろった声で、
「理想の女が身近にいなかったからだ。しかし今はいる」胸をはった。
「これだけは覚えとけ。あの女は実質的に、俺の妻だ」
くそ、妄想はまだ生きている。
「運命の赤い糸で結ばれた者同士は、出会った瞬間にそれとわかる。われわれがそうだった」
俺から奪った写真を眺めた。
「彼女のこの目をみればわかる。貴様への愛情はない。こんな写真にすがるとは、あわれだな、貴様も」
くやしいが反論できない。やっつけるはずが、またもやられた気分。
「俺の記憶にある彼女は、この数百倍も美しい。せっかくだから描いてやろう」
得意げに鉛筆をもった。
空想に支えられているかぎり、小茂田は崩れない。さらなる打撃を与えるしかないが、切り札はもうない。このままだと計画は挫折する。こいつに復讐もとげられずに・・・・・・。
刹那、ものすごい音がした。艦外殻がうち割られたような。
爆撃? 反射的に頭をひっこめた。体がゆさぶられる。へそに力が入った。肛門がしまった。筋肉も神経もちぢまり、体が木片と化したかのよう。
小茂田もかたまった。鉛筆をおとしたのに気づいたようすもない。
さらに大量の食器が落下したような音。
直撃か? その割には無事。溺れていない。息ができる。やられたなら、浸水がひどいはず。外殻は割れなかったということ。みたところ穴もあいていない。
しかし音はやまない。
やっぱり敵は去ってない。なに者だ。さっき艦内を真っ暗にしたのと同じやつにきまってる。駆逐艦? 護衛艦? 艦船にしては、スクリュー音があいかわらずまったくきこえないのが異常。すぐ近くにいるのは確実なのに。さっきから別の音ばっかりする。
――ドタ、ドタ、ドタ・・・・・・。
真上をのし歩くような音。なにかが上甲板にいるようだ。いったいなにが。水中で歩ける生物なんてきいたことないぞ。それとも米英は新型兵器を発明したのか? 神経を逆なでする音をたてて人を参らせる兵器でも。
――ドタドタドタドタドタ・・・・・・。
どんどん激しくなる。足音そっくり。鉄殻がみしみし鳴りだした。いいかげんにしてくれ。なんでそんなにくっつく。早く失せろ!
恐怖にいらいらが重なったせいで、腹がごろごろしておちつかない。
Uボートはふたたび降下している。意図的にだろう。敵から逃れるには、深くもぐるのが一番。
せっかくシュノーケル深度まであがったのに、また新鮮な空気が吸えなくなった。便所にいきたくても行けない状況だし、苦痛が倍増。
おまけになぜか臭う!
俺じゃない。なじみのない臭い。Uボートがくさいのはいつものことだが、それともちがう。防虫剤の樟脳に線香がまじったような。畳で死んだ年寄りを思わせる感じ。強烈。鼻の粘膜にこびりつきそうだ。この臭い、肺まで占領する気か。
どっから漂ってくる?
皮膚がかゆくなってきた。じんましん。過度の精神的負担のため。かきたくてたまらない。特にひじとすね。でも、かくとひどくなるだけだから、我慢だな。
ため息が艦じゅうにひびきわたり、あせった。そんな大きな音をだしたつもりはなかったので。でもすぐに今のは自分じゃないと気づいた。じゃ、誰?
ふたたびきこえた。異様なため息が。あまりに大きく、あまりに長い。まるで強風。竜骨をふるわす勢い。人間わざとは思えない。タンクから空気がはきだされる音に似てる。でも無機質じゃない。これは機械音ではない。
かすかではあるけど、声がまじっている。「ああ」という低く暗いひびき。直感では、女の声・・・・・・女だと?
Uボートに女はいない。いるはずがない。となると外か、上にいる? さっきドタドタやってたやつか? 敵は女? 臭いの原因もそいつ? 俺の脳裏には、水中で潜水艦にのしかかっている妖怪みたいに巨大で不潔な女の像がうかびあがった。
待て待て。
現実ばなれしすぎだ。冷静に考えよう。過労で聴覚が一時的に異常をきたした可能性がないか。声なんて幻聴にすぎず、すべては機械音もしくは、鉄殻が水圧でおされる音の可能性がないか。
そうだ、ほかのやつにたしかめてみればいい。さっき女のため息みたいのがきこえませんでしたかって。小茂田じゃだめだ。幻聴のスペシャリスト。まともなやつを選ばなきゃ。・・・・・・誰も視線をあわせてくれない。どうした、水兵まで・・・・・そういうことか。俺を無視してるのではなく、自分の表情をみられたくないんだ。潜水艦のりともあろうものが、おびえてるとは知られたくないってこと。その証拠にどの顔も真っ青。
敵はえたいがしれない。さすがのドイツ兵も、こんな音をだす敵ははじめて? やっぱり幻聴じゃない? 今いちどたしかめようとすると、別の音が耳をつんざいた。
――ウォッホ! グォッホ!
女の咳がまじったような音が、電動機室の上あたりから、轟音並みの音量できこえた。艦体がふるえた。ボートが一気に横へ傾いた。足がすべる。両手で寝棚の柵にしがみつき、目をとじた。
パイプが破裂する音。圧搾空気が洩れたらしい。またゆれがおき、柵から手がはなれた。倒れそうになった体を誰かがうしろから支えてくれた。誰なのか確認したかったが、金縛りにあったようで首も動かせない。両耳を圧迫される感覚。耳鳴りがし、声がきこえた。またも、妻の声が・・・・・・。
私が朝食をとりだしたとたん、隣から音がした。
午前七時二十分だった。いつもなら隣の老婆は掃き掃除をはじめる時刻だ。うちからはなれた玄関前からやるので、私はその時間は比較的おちついて一階の居間で過ごすことができる。
ところがだ。
今朝は私が大根の漬け物を口に入れたとたん、たたくような音が隣の台所からした。
驚いた私は漬け物をのどにつまらせかけ、咳までだしそうになった。こらえたが、呼吸の乱れやあわてた気配など、空気の微妙な動きが伝わったのではないかと気が気でなかった。
私は漬け物をかむこともできず、口のなかに入れたまま、あふれる唾液でのどをつまらせぬよう注意しながら、立ちあがった。それ以上居間にいるのは危険だった。
一段一段バカみたいに時間をかけて階段をのぼっていき、なんとか音をたてずに二階の寝室へとたどりついた。
口のなかでふやけた大根の切れ端を、音をださぬよう上下の歯でゆっくりおし、少しずつ裂いて細かくし、のみこんでいったが、ほとんど足しにならなかった。
お腹はすいたままだった。食べかけの朝食が、夏の気温で腐らないか心配だった。祖父は祖母がいたときの癖で、ちゃぶ台にあるものに手をだそうとはしない。
隣の老婆は、午後まで台所からはなれない。買い出しにでる午後一時すぎまで、私は下におりられない。
ひとまず気もちを切りかえ、寝室にある小さな机の前に座し、創作のための資料を読みはじめた。宝さがしが使命とはいえ、右の事情でかぎられた時間しか動けないため、私は結局祖母宅でも一日の大半を読書と執筆に費やしていた。
野菜を切る音。鍋かなにかを力いっぱい台へたたきつけるような音。食器を重ねるグワシャッという音。隣の無遠慮な音をきかされつつ、くもり日の薄暗い部屋で、黄ばんで読みづらい紙面の小さな活字に集中しようとしていると、いらだちがつのり、ご飯を食べそびれたくやしさがこみあげた。
老婆のせいで、主婦ならふつうにできることが、なにもできない。
朝起きて自分で朝食をつくることも、居間で家族と話しながら食べることも、自由に音をたてて掃除することも、露台で洗濯を干すことも、外にでて新鮮な空気をすうことすら!
鈍い音が、耳もとでした。
すねが痛い。
まただ、またやってしまった・・・・・・。
腹立ちのあまり無意識に自分のすねをこぶしで思い切りたたいていた。すねが畳におしつけられた今の音、隣に伝わってやしないだろうか。
この前も私は老婆の在宅を知ったとたん動揺のあまり、それまでなめていた飴を歯で割り、割れた飴を舌に勢いよくころがし、ぶつけ、肉にくいいらせてしまい、ために舌が傷つき、恨みがさらにつのったが、同時に飴を割った音が伝わったのではないかと不安になった。
老婆が音をたてるのをやめた。
うちの音に耳をすましているとしか・・・・・・。
――バシッ。
ぬれ手ぬぐいを窓に投げつけたような音が鼓膜をふるわせた。
今のはなに? 仕かえし?
それからたてつづけに同じ音が二度、三度。
動悸が激しくなった。それ以上きくにたえず、私は耳に綿をつめた。
なん度も自分にいいきかせた。みずからのぞんでこの家にとびこんだはずだと。
変化を求めてもいた。いいかげんうんざりしていた。家にこもって机にむかうだけの生活に。十年以上毎日全力をつくし、体を悪くしながら書きつづけても、社会的には無であることに。ただ年ばかり重ねていくことに。
自分が表面的には死んでいくだけの気がした。
生活を変えなければ参りそうだった。疲れていた。休みたかった。
衝動的に祖母宅に入った。
しかし隣に耐えるのは思いのほかつらく。耐えるには私はあまりに弱く。それなりの強さは、この十年で身につけてはいるのだが――。
十年前は今よりもっと弱かった。あのころの自分だったら、とっくに根をあげていたはず。
二十代は東京丸ビルでタイピストをし、有能とほめられ華やかに暮らし、いい気になっていた自分。文章力を生かして作家になろうと思いたち、出版社の男と一緒になると片田舎にひきこもった。
だが現実は甘くなかった。すぐ壁にぶちあたった。小説を書くということが、どういうことかもわかっていなかったことに気づかされた。
人間を描くには、まず自分自身を知る必要があった。少なくとも自分がどういう人間か、なにが好きなのか。なぜそれが好きで、あれが嫌いなのか。どういうときに怒り泣き笑うのか、その感情をもったときどんな行動をとるのか。一個の人間を知ることは、人間一般を知ることにつながる。私は自分という人間を客観的に分析し、理解することに努めた。
さらに、独自の作品を生むため、自分の心の闇をみつめ、奥底にあるどろどろしたものをひっぱりだした。醜い感情も、いやな記憶も可能なかぎりあぶりだし、思いだし、むきあった。
つらい作業だった。いちど現実に戻ると、また再開するのに時間がかかった。小説を書くにしても、頭の切り換えがまだ身についていなかった当時は、心のなかの世界と現実をいききするのに一回一回ものすごく労力がいった。
たとえば友人と食事をしたあとに書こうと思っても、友人の声や顔の残像、会話の内容がまだ生々しく脳裏に残っているので、その方ばかり思って作品世界に入りこめず書けなかったりした。どうにかして今きいた会話の内容を忘れたいと思いつめるうちに腹を下し、それでようやく切り換える始末だった。
日中は集中しづらかったので、自然と夜型の生活になった。夏ならば日中は暑さで頭が働かないので昼すぎ三時に起き、新聞を読みながら「朝食」。洗濯をし、五時から読書。思いついたことをノートにメモ。
午後六時半、料理(同居人にとっては夕食、私にとっては「昼食」となる)。午後七時半、風呂を温める。午後八時、ひとりで食べる。
午後九時、その日に書く小説の構想をまとめる。午後九時半に同居人帰宅、少し会話。
午後十時から執筆。午前五時半、軽食。午前六時、風呂。午前六時半から日記と自己分析。午前八時、眠る(同居人は私が寝ている間に出社)。
ふつうの主婦とは正反対の生活だった。なにをおいても創作優先。同居人が最低限必要とする食事と風呂を用意するのと、不要不急のこと以外はいっさいやろうとしなかった。
頭のなかの世界だけに生きていると、自分の肉体が存在しないかのように錯覚しがちだった。魂が宙にうかんで言葉をつづっている気がした。時折感じる腹痛や歯痛は、魂に残された神経から伝達される幻の感覚なのだと考えた。
長時間創作に没頭したあとに歩いたり、水にふれたりすると、自分にも体があるのだとふしぎに思った。
おしゃれに対する興味を失い、毎日同じ服を着るようになった。袢纏のひじの部分が破れて白い綿がとびだし、セーターも穴があき、もんぺは股間の部分の布が破けてもつくろわず、洗いもせず、臭いは香水をかけて消そうとした。
しまいには化粧水を顔にぬること、髪をとかすこと、ボタンを穴にはめることすら面倒になり、省くようになった。
筋肉を使わないので、ふくらはぎや尻、腹回りがたるんだ。
現実が空想とちがって思いどおりにならないことに、いらだった。
社会で働いていたときには気にもならなかった音が神経にさわりだした。
外を走る自動車は地響きのように、自転車のブレーキは歯医者の治療のように、夜回りの拍子木は時限爆弾の秒読みのようにきこえた。いったん気になりだすと、私の想像力は簡単にしぼんだので、外のすべてが集中を阻むように思われだした。
劣等感と疎外感にさいなまれた。
子育ても仕事もしていないから、たまに買い物で外出すると近所の主婦にけげんな目でみられ、挨拶しても無視された。悪口をいわれていると感じた。祖母にはっきりといわれた――「田舎じゃ三年子なきは去れっていわれるよ」。
人の声をきくのがこわくなり、外から話し声がきこえると耳をふさいだ。
綿を、使うようになった。
執筆中はもとより睡眠中、料理中、同居人と話すときでさえ。騒音以上に人の声をおそれて耳に綿をつめた。一日のなかではずすのは、入浴中などのかぎられた時間のみになった。
しかし綿をすると今度は自分が食べ物を噛んだり飲みこんだりする音が、やたら鼓膜にひびく。ゴリ、ゴリ、ゴクッといった音がいちいち拡大されるのは、たまらなかった。
それに長時間使用していると、綿でこすれた皮膚が痛み、耳のなかにごみがふえるせいか、鼓膜の奥からぼわぼわという異音がしはじめた。
体のあちこちが不調をうったえていた。
文字を追うのに目を酷使するので、まぶたがぷるぷる震えた。部屋にたまったほこりを吸うせいで、のどがつまることがふえた。飴をなめても咳がおさまらないときもあった。
あせった。意思の力では制御できないことに。自分の体でありながら、その内部はみたこともなく未知も同然なことに。
肉体がえたいのしれない物体であることをあらためて認識し、寝つきが悪くなった。あおむけになれば息を吐くたび、ふくれる腹に肌着が密着する感触が意識され、腹の皮膚がサワサワし、皮膚の薄さを考えはじめ、その下にある内臓のことが気になりだす。自分の内臓がどんな色かを想像し、眠れなくなった。
子どものときの恐怖がよみがえった。毎晩八時半に寝ていたのが、九歳のある時期、九時をすぎ十時になり、十二時をすぎても眠れず、真っ暗闇のなかにたったひとり起きていると、世界じゅうの皆が死んだ気がしたこと。泣き叫んで両親をたたき起こしたこと。
私はすでに三十歳に近かったが、あの感覚をまた味わった。
人が寝ている時間帯に書いているとあまりに静かなので、今度は音がしないことがかえって気になった。
世界が自分にたいして沈黙している・・・・・・。世界はわざと冷たく私を無視している・・・・・・。誰も私を相手にしてくれない・・・・・・。
秋冬は起床後すぐに日が沈むだけに、特にあらぬ疑いや妄想がふくらんだ。
太陽はほんとうに昇っているのだろうか。世界は闇におちたのでは。人類は滅亡したのでは。自分だけが宇宙にとり残されたのでは。
そんなわけがないと理性は否定しても、窓をあければ外は真っ暗で、どこをどうみまわしても無人で犬の鳴き声ひとつしなければ、なにが現実だかわからなくなった。
私は発狂するのでは?
そう思うと動悸がし、のどがつまって息ができなくなった。
ある日、私は足を骨折した人みたいにおぼつかない足どりで玄関のドアをあけ、外にとびだした。
午前三時半だった。ちょうど飲み屋帰りらしい会社員風の男性がとおりすぎた。四十代半ばぐらいで眼鏡をかけ、背広の上に鼠色のコートを着ていた。
もううしろ姿だったが、ふと私の方をふりかえった。酔って気のぬけた笑顔。
ほっとして、のどがしめつけられる感覚がなくなった。異様な鼓動もおさまり、私は思い切り息をすった。夜気は新鮮で草の香りがした。風が全身を包んだ。
救われた気がした。人々は、生きている。生活が、そこにある。
そのあともほろ酔い加減の彼らには、なん度感謝したかしれない。昼間は会社で働いているだろう人たちが歩いているのをみると、かつて自分が属していた社会がまだちゃんと存在していると感じられた。
そんな私でも年を重ねるにつれ、孤独には慣れていった。
朝型の規則正しい生活に変え、運動もはじめ、近所の目もそこまで恐れなくなった。
まわりの評価など気にしても仕方がない。すべてはやがて衰えるのだから。なんにでも、おわりはある。
たとえば会社員時代に通っていた珈琲店。あんなに人気があったのに、不景気の影響で客足がとだえ、若かった店長は夜逃げした。
一時の評判などあてにならない。人の考えは簡単に変わる。そんなものを頼りにしてもなんにもならない。そんなものを基準に自分の行動を制約しては、もったいない。
まわりの思惑よりも気にすべきことが、ある。
自分が死ぬ前に後悔しないかどうか。
以降はそう考えてみずからを鍛えてきた。
それでも劣等感は消えなかった。だから他人にやさしくなれない。
私はあいかわらず不寛容で、音におびえ、感情を制御するのがへたで、怒ると頭が真っ白になり、表にだしてしまう。
今も老婆の音をきかされつづけたら、自分をおさえられるか不安になったのもあって耳に綿をつめたのだが――。
すでに四時間がたつ。
そのあいだずっと読書にも集中できなかった。音をたてないよう座ってただけ。すべきことは山とあるのに。おなかもすいているのに。
・・・・・・きこえる。外の音が大きい場合、綿は音量を下げる役にしかたたない。小さくなった音は、虫の羽音のようでかえって神経をさかなでる。
綿なんてしても意味がない!
発作的に両耳からはずし、私はため息をついた。
我慢できなかった。老婆にきこえてもいい、むしろこの怒りを伝えなきゃ気がすまない。さすがに声は殺したものの、荒々しいため息を、わざとらしくなん度も吐きだした。
・・・・・・音がやんだ!
気配もなくなった。台所からはもうしない。
かわりに隣のドアがひらく音、鈴の音、ドアがしまる音につづき、話し声がしだした。
老婆が外にでて、どこかのおじさんと話している。笑い声。反射的に耳をふさいだので、話の内容はわからない。知りたくもない。
二人の声はどんどん大きくなった。うちに近づいてくる。いや、老婆だけだ。おじさんは帰ったらしい。
老婆が咳をした。あまりに大きかったので、家のなかからきこえたのかと思ったほど。
――ウォッホ! グォッホ!
すぐそばにいるのはまちがいない。うちの目の前に立っている。私のいる寝室の真下の壁にむかってわざと咳をしている。
――ウォホゴッホゴホホッホ。
あんたの存在はおみとおしだよ、とでもいいたいのか。年寄りの執念がどんなものか、あんたのいやみなため息のおかえしにたっぷり大音量できかせてやるよ、といやみな咳をしている。外壁に唾と痰をあびせるだけではあきたらず、胃のなかのものまでぶっかけるのでは。
いつまで耐えねばならないのか。こんなことがつづいたらほんとうに発狂する。祖母の宝をみつけるより前に。
祖母もこうしてやられたのではないだろうか。ミイラとりがミイラになるのではないだろうか。
私が自宅にいたとき正気を保てたのは――。小説を書きつづけることができたのは――。自分の生活に心の奥底で自信をもてたのは――。
孤独感が急激におそった。祖父では、かわりにならない。今たよれるのは自分だけ。つらい。でも甘えてはならない。
戦地では、もっと苦しんでいる。不眠不休の果てに、生きるか死ぬかの瀬戸際。
・・・・・・ああうるさいっ。死ね死ね死ね死ね、死ね!
はたきをとり、槍のようについた。宙を。隣にむかってなん度も、つき刺した。
体がゆれ、壁がゆれ、柱がゆれた。
もう限界!
柱をついた、けった、たたいた。
せめて、子どもがいたら・・・・・・。
木目がゆらゆら、むくむくと動きだした。蛇がうねっているよう。
狂ったのか。
いいや、木目はあきらかに突起し、もりあがっていた。柱の一部がはがれそうだ。しかも表面にまた毛細血管みたいな網の目がひろがっている。赤っぽい色までにじんで。まるで、血。
もしや、宝は・・・・・・。
彼女の声はとぎれた。同時に耳を圧迫される感じもなくなった。幻聴か。夢だったのか。
俺は寝棚に寝かされていた。
誰かが助けてくれたのか。そばに那須と佐伯、小茂田がいたが、こいつらのわけがない。俺がおきても邪魔そうにみるだけ。
「もうおりろ」
小茂田にいわれ、俺は寝棚をたたみ、やつのうしろにうずくまった。
暑い暑すぎる。いったいこの状況があとなん時間つづくのか。
圧搾空気の洩れや浸水は、パイプに電気溶接がほどこされたのかおさまって艦は平衡をとり戻したが、敵はまだその辺にいるらく、いまだ潜航中だった。
寒暖計の目盛は三十九度を越えた。
潜航が長びくほど、艦内温度は上昇する。熱を発する機械のせい。電動機室から流れてくる空気は熱風そのもの。汗が全身をはいまわる。熱い雫は毛穴からぷっくりもりあがってやまず、皮膚をぐしょぐしょにし、床にぽとぽとおちつづける。全然とまらない。
頭ががんがんしてきた。窒息しそう。酸素は減って二酸化炭素がふえる一方。さすがのドイツ兵たちも死んだようにぐったりしている。
せめて水分補給できたら・・・・・・このままだとほんとうに気を失う。そしたらまた妻の声がきこえるだろうか。いつも意識がうすれかけたとき耳の奥からした。耳鳴りとともに、体が金縛りにあったようになって・・・・・・あれはやっぱりテレパシー? おいおい、俺の脳みそ大丈夫か。でも、そうでも考えなきゃ説明がつかない。海のむこうにいる彼女の声が内耳からきこえるという異常事態を。
もしほんとうにテレパシーが存在するとしたら。彼女は俺に思いをとどけたということ。つまりほんとうは俺を想っている?
そうかもしれない。たとえば、さっききこえた言葉――今まで「自宅にいたとき正気を保てたのは」「小説を書きつづけることができたのは」「自分の生活に心の奥底で自信をもてたのは」――卯井彦太郎がいたから、といおうとしたんじゃないか。「祖父では、かわりにならない」といったのは、その証拠では?
・・・・・・まさかな。やっぱり信じられない。俺を大事に思ってるなんて想像もできない。極限状態が妄想を生みだしてるだけ。
思いだせ。おたがい合意の上での偽装結婚。俺たちは偽夫婦。ビジネスの関係。彼女は俺に書斎を求め、俺は彼女に投資をした。
原石をみつけたつもりだった。若かった俺は、彼女が売れっ子作家になれば遊んで暮らせると夢みた。当時は小説らしい小説も書けなかったが、ほかの女にはない考え方をもっていた。履歴からしても素質はあるようだったし、やる気と野心にあふれてもいた。
磨けば必ず宝石になると信じ、名目上夫になった俺は、衣食住と蔵書と、プロの原稿書きとしての指導を与えた。彼女もそれによくこたえて努力し、かたわら家事もこなした。
だがいつまでたっても芽がでないから、いつも俺にやつあたり気味で不機嫌で、俺もいい気はしなかった。
愛情なんてなかった。少なくとも彼女からは、いっさい感じられなかった。はじめから、最後まで――。
俺が出征するときといったら。
前の晩、心づくしの料理を用意してくれるどころか、いつもの時間になっても夕食を作りださず書斎にひきこもっているので、ようすをみにいくと、こぶしを机にたたきつけていた。破壊できれば本望とでもいうように。
「どうしたんだ」ときくと、首を横にふって耳をしめした。綿をつめているのできこえない、というしぐさ。「はずせ」といっても、きかないのはわかっていた。「私の執筆をはかどらせたければ外の音を気にさせるな」というのが彼女のいい分だった。
仕方なく耳もとで同じ問いを大声でくりかえすと、彼女は蚊の鳴くような声でなにかこたえたが、よくききとれなかった。綿をしていると自分自身の声が鼓膜にひびくらしく、あまり大きな声をだしたがらない。俺がなん度もきき返すと、いらだちをあらわに筆談へと切り換えた。
「あなたが荷造りしてるのがうるさくて筆がろくに進まない」と彼女は反古紙に走り書きした。
さすがに頭にきた。なにもふつうの奥さんなみのことを期待してるわけじゃない。ふだんだって料理はつくってもらってるが配膳も洗い物もぜんぶ自分でやっている。あんたは俺の食器はいっさい洗わない。たまに一緒に食べおわっても、自分の茶碗だけわざわざ選びとって洗うのに、いちどでも文句をいったことがあるか。文句をいったことはなかった。そう思ったが、かろうじて自分をおさえ、「俺は明日出征する。せめてなにか食べるものを用意してくれ」と哀願する姿勢をとった。
すると俺をにらみつけ、「早く書き終えたいのに」と、それだけははっきり発音してから、机の脚をけって立ち上がり、台所にいってざるで野菜を洗いはじめたが、突然「外の犬がうるさい」といってざるを窓にむかって投げつけ、なかのものをとびちらせた。はねかえったざるは、鍋にあたって鍋がひっくり返り、火にかける前だったからやけどはせずにすんだものの、鍋の中身まで床にぶちまかれた。
その晩の料理は、それまでで一番まずかった。
翌朝別れがせまっても、俺への気づかいはいっさいなく、町内あげてのみ送りに妻として参加するために、ふだんの段どりが狂わされるのが大迷惑といった態度をとりつづけた。なにか話しかければ、「今日は執筆開始が三時間も遅れる」と、ヒステリーを内包した、うわずった声でくりかえし、いないあいだの注意事項を伝えても、あごの先でうなずくだけ。ふだんから、しゃべる労力がもったいないとでもいうように、彼女は声を節約し、俺が話しかけても顔を縦か横にふるだけですますことが多かったが、あのときは特にひどかった。
だが――。
ひょっとしたら不機嫌の原因は、俺がいなくなることにあったのではないか。俺とはなればなれになるのが嫌だった? だからふてくされたのか。
うぬぼれたことが、今までないわけじゃなかった。
ずっと気にかかっていることがある。
十年前、出会ったとき。
二人でいちどだけ外でお茶をしたことがあった。
そのころ俺は経済誌の編集者で、彼女の勤めていた会社の取材を担当していた。彼女が窓口だったので言葉をかわすようになり、たがいに文学好きと知った。好きな作家が一緒だったので話がはずんだ。彼女が作家志望と知り、興味がわいた。彼女も俺が出版社勤めなのにひかれたようだった。
おたがい二十五才だった。彼女は年ごろをすぎていたが、結婚願望は俺同様なかった。両親は学生時代亡くなっていて、みあいを強要されることもなかったという。
人と同じ生き方をするのはいやだという点で意見が一致した。結婚というかたちを利用しようということになった。
恋愛感情はないはずだった。
だが偽装結婚の契約をかわしたあの日、事務的な会合だと思っても、俺は意識の底ではうきたっていた。二人で会社以外の場で会うのは、はじめてだった。
六月の蒸し暑い土曜の午後だった。一番あかぬけているシャツをまとい、磨きあげた靴をはき、髪を念入りにととのえ、爪を切りそろえさえしても、自分が汗臭くないかがやたらと気になった。
俺は約束の時間より二十分も早く喫茶店についた。
淡い期待は、おひやの氷とともに小さくなっていった。
彼女は四十分遅刻した。予想したような女らしい服装ではなく、地味な上にくたびれた格好で、みたこともない眼鏡をしていた。
彼女は遅れをわびた。最寄駅で人身事故が起き、ホームが人であふれかえり、三十分近く待ってやっと電車が動きだし大混雑のなかようやくたどりついたということだった。
大変な思いをしてきてくれたことに俺は感謝する気になった。
注文した珈琲がそろうと、その日の目的である契約の話に入った。合間合間に彼女がカップをもちあげると俺もカップをもちあげてのみ、自然とあわせていた。だが逆はなかった。俺がさきにカップをもちあげても、むこうがあわせて飲むということはいちどもなかった。
彼女はふし目がちで、契約がおわると、疲れていたのか壁にもたれかかり、雑談にはまったく気のない声で応じ、あくびを無理にこらえているふうだった。十五分もたつと時計をちらちら確認し、
「そろそろいきましょうか」といった。
有無をいわせないためか、すでに鞄をもって立ちあがっていた。そのときだけ笑顔で、俺の目をまっすぐみていた。
俺はあわてて伝票をつかみ二人分を支払ったが、彼女は義務的に礼をいうだけで、店からでたあともきわめて他人行儀に、
「じゃ、ここで。私は寄るところがありますので」
愛想笑いをうかべると去っていった。
ぼう然とみ送った。駅までいっしょにいくつもりだった俺を拒否するかの背中。横断歩道を渡る彼女の横顔はとがっていて少しも隙がなかった。
むしろ割り切れていいと自分にいいきかせた。彼女とはあくまで仕事の関係。恋愛の相手はほかでみつければいいのだと。
それでも心のどこかでは、彼女も俺と会うのを楽しみにしていたはずだと思いたかった。
根拠がないわけじゃなかった。
ひとつは、眼鏡。
女らしさを感じさせないためにかけてきたのだとしたら、俺を男として意識していた証拠ではないか。彼女は眼鏡をかけなければ本心を隠せる自信がなかったのだと俺は考えた。
もっとも休日はいつも眼鏡だった可能性もあり、うぬぼれといわれれば、それまで。
でも、まだある。
財布だ。
彼女はあの日俺に会う前、財布をおとしたという。契約後の雑談できいた。最寄駅に入ったところでおとしたが、すぐに人がひろってくれたと。
なぜおとしたのかときくと、彼女は照れくさそうに「なぜでしょう」というだけだった。
人はめったに財布をおとすものではない。ただし、動揺しているときは別だ。
彼女は緊張していたのではないだろうか。俺と二人で会う前だったから。それが原因だったからこそ、財布をおとした理由をきかれても、恥ずかしくてこたえられなかったのではないか。
だがそれもまた憶測にすぎず、うぬぼれの域をでない。
いちばんのよりどころは、俺をみつけるなり笑顔になって「お久しぶりです」といったことだった。
ふつう四十分も遅刻したら、とりわけ待たせている相手が仕事関係の人間なら、まずおわびの言葉を口にする。そうでなかったということは、俺を単なる仕事相手とはみなしていなかったから、俺に会いたかったから、よろこびが思わずでたのだと考えられた。
「結婚」後の彼女からは、俺といられるよろこびなど感じられなかったが。
われわれの住まいだった一軒家には小さいながら部屋が四つあり、それぞれ自分の部屋がもてた。会うのは用があるときだけ。場所は居間にかぎられた。
偽装結婚である以上、俺が彼女の寝室兼書斎に入ってなにかするなど、ありえなかった。
しかしいちどだけ、彼女は自分の部屋に俺を招き入れたことがあった。
「結婚」して三カ月がすぎたその日、「いろいろお世話になっていることだし、いちど私の部屋で珈琲でもごちそうしたい」と彼女はいった。
「居間だと殺風景だし、どうせなら本のたくさんある私の部屋の方が雰囲気があっていい」というのは口実で、ほんとうは俺と関係をもちたいのかもしれないと憶測した。自分も欲求はたまっていたから断る理由はないと、はりきった。
なぜ夜ではなく午後三時の招待なのか。なぜ酒ではなく珈琲なのか、ということまでは考えなかった。
戸をあけたら、冬でも素足を露出させ、胸をはだけた彼女が意味深長な笑みでもって迎えてくれるというのは夢想にすぎず、実際には長いスカートの下に靴下をはき、胸のかたちを隠すかのようにゆったりしたセーターを着ていたが、それでもふだんとは全然ちがった。
いつも家ではもんぺ姿で男みたいなのが、その日は化粧までしていた。しかもめったにみせない笑顔とともに俺をなかに入れて彼女みずから部屋の戸をしめたから、密室で二人きりの感じがいやおうにも高まり、狭い入口で肩がふれあうと、そのまま理性がふっとびそうになった。
「ちょっとみてほしいものがあるんだけど」
ささやかれ、胸をおどらせてのぞきこんだ俺は愕然とした。
彼女がしめしたのは、ゴキブリの死骸だった。
「これが昨日でて、寒いから弱ってて殺虫剤かけたらすぐ死んだんだけど、どうしても触れなくて・・・・・・悪いけど、あとで捨ててもらえる?」
まさかそれが目的? 疑いがもたげた。
「あとでいいから、ね? ひとり暮らしのときもたまにでて、そのたびにとってくれる人がいたんだけど。束縛がひどかったから、一年つきあうのがやっとだった」
「一年も、男と、つきあってたの?」初耳だった。
「うん。今でも私のこと好きみたい。でもここに呼ぶわけにはいかないでしょ」
戸の裏にころがっているゴキブリに、なってしまいたい気分だった。
「あなたにこんなこと頼むのは不本意だけど、いいかな」
大人げない態度をとるわけにはいかず、笑顔で応じた。
「いいよ。あとで捨てとく」
「ごめんね。こんなのがいる部屋でごちそうなんて」
そのときはじめてなかをみわたした俺は、いっそうなえた。
布団どころか、座布団すら用意されていず、窓のカーテンは全開だった。屋根裏だが近所の目を意識せずにはいられない。
「さ、どうぞ」
案内された席の真横には、大きな置時計。秒針の音がいやにひびく。長居はさせまいという意味にとれた。
机の筆記具は片づけられていて、珈琲と茶菓子が並べられていたが、彼女の父親や祖父の写真もわざとのように飾られていておちつかない。
俺の下心をみすかし、無言の牽制を与えているとしか思えなかった。裏切られたような気もちと、変に期待した自分への怒りと恥ずかしさでいっぱいになり、いたたまれなくなった。
「つっ立ってないで、座ってらくにして」
彼女が俺の隣を避け、むかいに座ったのも警戒心のあらわれにちがいなかった。俺は腰をおろしたが、正座をくずさなかった。
「その珈琲、私が自分でいれたの」
「ああ」
「珈琲、のめるよね?」
俺は返事のかわりに目をふせた。
「前つきあってた人は、おまえの珈琲はうまいっていつもほめてくれたよ。だまされたと思って、さあどうぞ」
誰が飲むか。俺は裏切られたのに、そっちの思惑どおりにすべていくと思うな。うつむいたまま、とりあえずカップだけはにぎった。
彼女は待ち切れないようにあれこれ質問しだした。机に身をのりだして、俺の最近の体調から子ども時代の生活にいたるまで。
俺は自動的にこたえはしたが、自分ではなにを話しているのかは、わかっていなかった。彼女の顔もまともにみられず、ひたすら机の木目をみつめていた。
「そうなの? 暑いのに水も飲めなかったの」
彼女は顔の前で両手をにぎったようだった。セーターの裾がぱらりとめくれ、両手首がのぞいた。肌の白さは視界にぼんやりうつっただけだったが、意思とは裏腹に体が反応しかかった。
「ごちそうさま」
俺は立ち上がった。
「え。もう? 珈琲ものまずに」
小走りに戸にむかいつつも俺は期待していた。腕をつかまれ、ひきとめられることを。そうしたら即座に抱きしめてやるつもりだった。
「やっぱり体調悪いの?」彼女はうしろからついてくるだけだった。
「・・・・・・まあ、ね」
否定もできず、俺は苦虫をかみつぶしたような顔のまま、ゴキブリの死骸を反古紙につつみこんでいった。
「これ、処分するから」
「ありがとう」
彼女はその日一番の笑顔をみせた。「また遊びにきて」とはいわなかった。俺は逃げるように部屋をでた。
あのときすぐに帰ったりしなければ、関係は進展していたかもしれない。
彼女が俺を誘うことは二度となかった。
そりゃそうだろう。せっかくいれた珈琲に口もつけず、ろくに話しもせず、しかめっ面で目すらあわせようとしない男なんて、俺が女だったら願い下げ。仮にそれまで気があったとしても幻滅するはず。
それにしてもわからないのは、あのときの彼女の狙いだった。
なぜ俺を誘ったのか。ゴキブリを除去してほしかっただけ? それならどうして珈琲をあんなうれしそうに勧めた。どうしてあんな楽しそうに俺の子ども時代の話をきいた。俺に気があったからじゃないのか。だから俺と語りあいたかったんじゃないのか。ただ身をまかせるのはまだ早いと思ったため、カーテンは全開にし、俺が変な気をおこさないようにしただけでは?
こたえはいまだでない。この十年、あの午後をなん度もふりかえったが、彼女の本心は不明のままだ。
編集者と作家志望者。たがいに垣根を越えることはなかった。
もちろん長年同居していれば、家族らしくなった部分はある。よくも悪くもたがいに格好つけなくなった。おたがい相手のいやな部分にはなるべく目をつむり――たいてい耐えたのは俺だが――がまんできなくなると、「夫婦」らしくけんかもした。彼女は変人ぶりを隠すことなくあらわしたが、俺は受容した。耳に綿をしたまま話しかけられることにも慣れた。
しかし男女の愛情はなかった・・・・・・ほんとうか? だって彼女に男がいた可能性がないとはいえない。昔の恋人が「今でも私のこと好きみたい」といっていたし。
その男がどこのどいつかは、教えてくれなかったが。会社員時代に通っていた珈琲店の店長と仲が良かったらしいから、そいつじゃないかとにらんでいるんだが・・・・・・ふいにある顔がひらめき、俺は慄然とした。店長ってもしかして小茂田じゃないか?
そういえばやつはよく昭和八、九年の丸の内を話題にする。その時期はわれわれが偽装結婚する一、二年前にあたる。当時彼女は二十三、四だった。小茂田は五つ年下だからまだ十八、九だったが、中卒だからそのころにはとっくに店で働いていたはずだ。東京丸の内にあったのが自慢。彼女の会社も丸の内にあった。
当時が出会い? 小茂田が店長になったのは二十五才らしいから、彼女が俺と一緒になったあとも交流がつづいた?
それなら小茂田は自慢したいだろうに、黙っているのは、夜逃げのことまで話すはめになるからか。
支那の女は、彼女そっくりだから好きになったにちがいない。
・・・・・・衝撃が大きすぎて、なにも感じられない。
これまで彼女を女としてみることを封印してきた。少なくとも同居中は理性でのりこえた。だから今、自分の反応に驚いている。
いや、ほんとうはわかっていた。そもそも俺は「結婚」してから、ほかの女となん度か関係をもったが、いずれも本気にはなれなかった。いつも心のどこかで「妻」と比べていた。
ずっと認めるのがこわかった。でも気づいていた。俺は誰とでも住めるわけじゃない。仕事だからできたんじゃない。生理的にうけつけるだけでなく、なにかしら惹かれなければ。原石としてだけじゃなく・・・・・・。
つねに意識していた。年を重ねても消えない女らしさを。あの長いまつ毛、憂いをふくんだ眼差しを。機嫌のいいとき声にはつやがあった。きっと歌がうまいはず。のびやかで・・・・・・。
その声が、きこえた。いくらかこもったような声ではあったが、三度も耳の奥から。日本と支那。こんなにはなれているのに。海を越えてとどくなんて尋常じゃない。
といっても愛のささやきとは、ほど遠い内容なのは事実。毎回まるで日記の朗読。ひとりごとそのもの。俺の名前はいちども呼ばれていない。
だが、あの声は俺にしかとどいていない。小茂田には絶対きこえていない。
うぬぼれを心の支えにするなんて、人のことをいえない。小茂田のやつ、いったっけ。「彼女と俺の心身はどんなにはなれていてもつながっている。むこうが俺を思っていると、必ずわかる。この胸がとどろくから。頭がしびれて彼女の魂が入りこむのを感じる」と。俺も彼女を思うと麻薬をのんだかのように気もちよくなる。まるで彼女の霊と一体化したように・・・・・・霊? 声がきこえるのも、毎回ひとりごとみたいなのも、日本が夜のときに昼の出来ごとを伝えてきたのも、彼女が霊になったからだったのか・・・・・・まさか彼女、死んだのか?
おい、くだらん考えはよせ。暑さと恐怖に負けるな、しっかりしろ。ほら、電灯もついたことだ。もう闇じゃない。にしてもこの音は、なんだ。
――ガリッ、ゴリッ、ガリ、ガリ・・・・・・。
飴か漬け物をかみ砕くような音。艦の外からきこえる。下士官室の上あたりになにかいる気配。敵が戻ってきたのか?
スクリュー音もたてずに、どうやって接近した。
――バシッ、バシッ。
ぬれ手ぬぐいをたたきつけるような音。つづいてこぶしでたたくような音。女のため息みたいなのもした。それと一緒に咳みたいな音も。
なんなんだ。まるで彼女の言葉と連携しているかの・・・・・・または彼女の霊が直接いたずらをしているかの・・・・・・ほらまた油断すると妄想。彼女は死んでない、よな?
死んだのか?
もしも、仮にだぞ、仮に死んだとしたら、なんのせい。空襲? きこえた言葉にヒントはないか。
あれがほんとうに彼女の心の声だったならば、途中でとぎれたのが気になるぞ。たしか今回最後の言葉は、「もしや宝は」だったが。宝ってなんだ。彼女の祖母が大事に守っていたもので、隣のばあさんが狙っているらしいが。それがなにかは彼女も知らなくて祖母宅内を探していた。柱をけったら木目がむくむく動きだし、内部から血のような色がにじみだした・・・・・・。
宝のせいで死んだのだろうか。あるいはすべて彼女の妄想で、心労疲労が重なったあまり倒れたか。視界がゆれる直前、全力ではたきをふりまわしてたようだし。隣の音に怒って。ヒステリーが昂じて毛細血管が切れやしないかと前から心配だったんだ・・・・・・きめつけるな。彼女は生きている、はずだ。
――ドタ、ドタ、ドタ!
また足音みたいのがはじまった。最初のより強い。衝撃が体全体に伝わる。
――ドタドタドタ!
音はどんどん大きくなる。なに者かは電動機室の上を通過し、確実に近づいてくる。ただでさえ浅い呼吸がさらに浅くなる。誰か俺を安心させてくれ。
彼女にひと目会えさえすれば・・・・・・髪綉の女と彼女が同一人物という考えも捨てたもんじゃないかもな。心を病んでるところもそっくり。近所がうるさいと怒り狂ったところなんか。十年間、家にとじこもった女。小説が髪綉に置きかわっただけ。彼女の魂があの女にのりうつったようだった――のりうつった? またしても幽霊みたいないい方。
そもそも髪綉の女はどこに消えたのか。小茂田のいうようにボートにのって、この湖にのりだしたんだろうか。そんなことは考えられないが・・・・・・あの女は俺を刺激した。封印していた「妻」への思いを解き放った。
音が、真上でとまった。
敵が次になにをしてくるか、視線という視線が天井に釘づけになった。
小茂田はまばたきもしない。目はうつろ、口はあけっぱなし。顎の下から汗がよだれみたいにたれつづけている。
待つ。ひたすら。あえぎながら。
もし後部発射管がやられでもしたら・・・・・・うしろにも目がないことが不安になってきた。前しかみえないなんて。どうして人間も動物も、視界を三百六十度与えられていないんだろう。俺が神なら上下左右に目をつけるがな。眼球をとりだしたらどうだろう。ボールみたいなかたちをしてる眼球、手にもってまわしたら、うしろもみえるかな。考えたら目が痛くなってきた。もし今、俺が緊張に耐えられなくなって、手が勝手に動きだして、眼球をえぐりだしたらどうしよう。ああ痛い、頭が。さすっても少しもよくならない。こめかみの肉って、やわらかい。やわらかすぎるくらい。簡単に破れそう。もし俺が今本気をだして指でこめかみをおしたら皮膚が破けて、そのまま頭蓋をとおり越して、脳みそに触れるんじゃないか。そしたら死ぬのか。
――フー、ハー、フハーッ・・・・・・。
ため息?
――ウォッホ! グォッホ! ウォッホ、グォッフォ・・・・・・。
また咳。彼女の声が話していた、隣のばあさんの咳みたい。どうして艦の外から。
敵はいったいなに者なんだ。スクリュー音は依然ない。艦艇であれば、これだけ接近していてあの音を隠せるわけがない。それとも隠せるのか。英米は想像を超えた新兵器を次々うみだしている。艦によっては疑似スクリュー音もだせるとか。それなら音を消すことも可能?
物理的には不可能でも、ほかの音でかき消すことならできる。だからってこんな咳みたいな音を使うか? これじゃスクリュー音なんかカバーできない。
にしても、くさい。くさすぎる。咳がきこえるたび強くなる、線香と防虫剤がまじったような異臭が。真上から鉄殻をとおして、まきちらしてるとしか思えない。ただでさえ腐敗臭が蔓延してるのに、これ以上艦内の空気を汚すなよ。正体をあらわせ。くそ、思考力がおちたせいで、非現実的な図ばっかり頭にうかぶ。さっきと同じ、Uボートにのしかかる巨大な妖怪女。全体の輪郭はぼやけ気味。白いもやをただよわせ、頭からゴキブリみたいな触角をたらし、艦内のようすをうかがっている。顔は赤茶けてよくみえない。真上にいるのは彼女の霊か、ばあさんの霊か・・・・・・肩に手の感触。
「俺の鉛筆はどこだ」小茂田がこづいた。
「なぜ探さん。卯井」
「は」
「今描かねばイメージが消える。早くひろえ! だから貴様はだめなんだ」
魚雷兵が静かにするようにと英語で注意した。
「はい、わかりました」
小茂田がなぜか日本語でこたえた瞬間だった。大音響が艦をゆるがした。
――グォホ、ウォホゴッホゴホホッホ!
ゆれた。地震でいうと震度六以上。寝棚の水兵たちは、ふりおとされまいと必死でしがみついた。そのドイツ兵にむかって、ふいに小茂田が、
「駅長さん」日本語でいった。
「もしもし、もしもし、東京駅の駅長さんですか。自分は家に帰るので切符を予約してください」
小茂田はよろけ、あちこちぶつかりながら、うったえた。
「駅長さん、駅長さん、自分は家に帰るであります」
「中尉殿、中尉殿」俺は呼びかけた。
ふりかえった小茂田はみたこともない笑顔になった。
「喬一兄さん! 僕です、喬次です」
「自分は卯井二等兵であります」
俺の言葉は耳に入らないのか。
「小茂田家の繁栄を祝って万歳三唱。バンザーイ! バンザーイ!」
宙をみて腕をあげおろしする姿は、寒気を呼びおこしたが、俺は満足だった。
潜水艦における発狂者は、士気に悪影響を与えるのみならず、さわぐと敵に位置を知らせる凶器になるため、射殺されるにきまっていた。
小茂田はついに発狂した。
あとは待つだけ。そう思ったとき、佐伯がスケッチブックをかかげ、小茂田につきつけた。
例のケモノの絵が描かれてある。それをみたらふしぎとおとなしくなった、と俺からきいたのを思いだして、小茂田を正気に戻そうとしているとしか考えられなかった。俺に対する裏切り行為。佐伯め、敵に狙われて絶体絶命の今、脱出計画もなにもないと判断したか。
「中尉殿」
佐伯の声に小茂田が反応し、視線を動かしかけたとたん、絵はとびはね、床にころがりおちた。
スケッチブックをつきとばしたのは壁だった。妖怪が腕をつっこんだかのように突然もりあがった。先端はまさにこぶしのかたち。
異常をまのあたりにし、小茂田の表情も変化した。眉がより、目がつりあがった。
後部魚雷室の鉄殻の一部は今なお粘土のように破れることなくふくらんでいる。
魚雷兵曹長がどこかへいった。
「・・・・・・だましたな」小茂田がつぶやいた。
「貴様は卯井じゃないか」
スケッチブックをふみにじっているのにも気づかず、俺の胸ぐらをつかみ、ゆさぶった。
「この疫病神めが!」
刹那、小茂田の顔全体が時計まわりに四十五度、まがった。顔だけ回転させた小茂田は俺からはなした両手をうわむけ、肩をすくめた。
「ホワーイ?」
その顔が異様にのびてみえた瞬間、電灯が消えた。
非常電灯が点灯し、薄暗い光のなか、目の前の顔がとけだしたのがみえた。皮膚が溶岩みたいに流れおち、味噌のようにぼとっとたれ、床におちた。
異臭が鼻をついた。樟脳と線香がまじったような・・・・・・。
俺が嘔吐せずにすんだのは、感覚も思考も麻痺していたためだろう。
佐伯は腰がぬけたようだった。那須は笑いをこらえるふりをしてうつむいていた。二人とも小茂田を直視できていない。
ドイツ兵たちは我がちに異物からはなれようとした。
「おちつけ」
ハッチから声がとんできた。魚雷兵曹長だ。その前にみなれたシルエットがもうひとつ。
「そこをどくんだ、コモダ」
艦長の声が薄闇をつんざいた。魚雷兵曹長がつれてきてくれた。ただし艦長はまだ銃をむけていない。小茂田の精神状態をたしかめるのがさきか。
「Lieutenant Komoda(小茂田中尉)?」
返事はない。
「Mr. Komoda」
艦長はあきらめずに声をかけつづけた。
「Komoda, What are you doing?」
電灯がつき、ふたたび明るくなった。
小茂田の顔面を流れていたのは皮膚ではなかった。液だ。青洟みたいにどろどろの液が、蜘蛛の糸のように顔をからめとっている。
どっからでた? 突起だ。さっきもりあがった壁。腕みたいにのび、尖端が手のかたち。そこから液はしたたり、ふりかかっていた。外部からしみこんだらしい。どんな液体も鉄殻はとおさないはずなのに、どうしてだ。
粘液まみれの巨大な手は、小茂田の頭をつかんでいた。
「なっぜ?」
四十五度傾いた顔が、声を発した。その顔がさらに回転した。顎はずんずん左へ上がっていく。体に対してほぼ直角になった。
「機関長を呼べ」艦長が命じた。
「機関長は電動機室上部の亀裂に応急処置をほどこしています」
新たにあらわれた人物が報告した。
「かわりに自分がきました」
機関兵曹長だ。魚雷室の異常をみて目を丸くしている。
「ごらんのとおりだ。さっきから上にいるなにかが鉄殻をおし、異様な液を浸透させ、コモダをとらえている。とめられんか」
機関兵曹長はたじろいだ。
「・・・・・・毒性の有無を確認する必要があります。この際イケダ機関少尉の協力をえてはどうでしょう」
正体を暴ければ、一石二鳥というわけか。
「そうだな」
艦長の顔が佐伯にむいた。いけない、計画が台なしになる。
「小茂田中尉殿!」
俺は佐伯と機関兵曹長のあいだにわりこみ、叫んだ。視界の片すみには銃があった。艦長の腰にぶらさがっている。発狂者の処分を考えたからこそ用意してきたはず。ならば、思いださせなければ――。
小茂田はまだ突起にとらわれている。水平に停止した頭。上になった右耳に粘液はしたたりおち、たまり、あふれ、青緑色の川となって顔を横断し、左の耳たぶから雫をたらしている。
俺はいった。
「そこにいては危険です」
注意したところできかないはず――きかないでくれ。危険を回避する気がないとわかれば、艦長は狂気の証拠とみなし、決断するにちがいない。
「動けますか? 中尉殿」
小茂田はなにも知覚しないように虚空をみつめていた。と思いきや、にわかに動きだした。
しくじったと思ったのは早合点だった。小茂田は突起からはなれなかった。それどころか両手をのばし、ふれた。どろどろの部分に。
「コモダ! 正気か」
返事のかわりに、すくいとった液を床にとびちらせた。
艦長は銃をかまえた。
よし。やっと復讐その一が成就する。これで俺の憎む人間がひとり消えるのだ。誰も艦長をとめはしない。長田も助けにはこない。小茂田君、さらば――その前に確認しなくては。
「中尉殿、卯井は質問があります。彼女とはじめて出会ったのは、どこでしたか?」
通じるかどうかいぶかりつつも、問いかけた。上下に並んだ目にむかって。
「丸の内ですか? 中尉殿」
「なす」
縦にひらいた口が、声を発した。しゃがれてはいたが、意外にはっきりした口調だった。
「なす、ですか」
「那須に、殺しの疑い・・・・・・だが真犯人は、ちがう」
問いとは無関係の言葉だが、ききずてならない。
「犯人を知っているのでありますか」
「俺だ」縦の口はいった。
「それはほんとうでありますか? 中尉殿」
この世のものと思えない顔が、さらに九十度、時計回りにまわった。上下が完全に逆転した。てっぺんになった口がひらいた。
「俺、みずから、邪魔者を、除去」
突起に抱きつき、後頭部をむけていった。
「した。艦橋にいた三人、もろとも」
上下逆さの顔がくるっと真うしろをむいた。上になった口からよだれをたらしつつ、小茂田は叫んだ。
「アイ キルド メニー ピーポー(俺はたくさんの人を殺した)!」
鼻の下にたれさがった瞳孔二つが、矢のような光を発射した。
「クレーマー イズ ワンノブ ゼム(クレーマーはそのひとりだ)!」
艦長がひき金をしぼった。
弾丸は急所をはずれた。眼球は眼窩をとびでていた。弾丸に直撃されたそれは、卵のようにとびちった。
鼻の穴にたれた液が泡だち、シャボン玉のようにはじけた。
片目のぬけた、逆さの顔が嘲笑をうかべたようだった。
二発目の弾丸が、額をつらぬいた。
突起にしがみついた体は、床へとずりおちた。
小茂田は死んだ。
勝利のよろこびはなかった。ただなんともいえぬ後味の悪さがひろがったが、こだわっているひまはなかった。
天井からも粘液が、幕のようにたれていた。
われわれは巨人の口腔にとじこめられ、よだれがふるのをみあげる小人も同然だった。
なん人かの兵が粘液をもろに浴び、恐慌をきたした。
一方、小茂田をおそった例の突起はそれまで停止していたが、突如第二の獲物を求めるかに指をのばし、機関兵曹長の首にふれようとした。
兵曹長はとびのき、艦長は突起に銃口をむけたが、あきらめたようにおろした。弾で鉄殻に穴をあけるわけにはいかない。かわりになにか命じた。
たちまちドイツ人たちはハッチから退避しはじめた。われわれ日本人だけがとり残された。というよりとじこめられた。後部魚雷室からでるなという。報復としか考えられない。小茂田がドイツ人を殺したから。長田もそのうち連行されてくるのではないか。
粘液の幕は魚雷をふちどって下がり、そろそろ床につかんとしていた。
われわれはできるだけはなれたが、それでも一メートルがせいぜいだ。
「お前が悪い。伍長殿を追いつめるから。ドイツ人殺しの責任を負うことになった」
佐伯はぜんぶ俺のせいにした。
「お前がどうにかしろ。きいてんのか。よけいなこと企みやがってよ。こんなことになって脱出計画もくそもないだろうが」
「ちょっと脱出計画って?」
佐伯はあっさり暴露した。那須はばふばふ息を吐きだした。
「Fuck! 卯井! あの液かぶりなさいよ。ほらあの突起の、敵は生贄をほしがってるんだからGo go!」
「早く。毒性の有無を調べろ」
古兵の命令にはしたがわねばならない。とはいえ逆らおうと思えばできたのにそうしなかったのは、うしろめたさがあったためだった。
小茂田を死なせた。いくら憎いやつとはいえ、同じ日本人の命を奪った。直接手を下したわけじゃないが、俺が発狂させて殺されるよう仕むけた。
小茂田のこと以外でも責任を感じた。正体不明の敵を招いたのも自分が原因のような気がしてならなかった。彼女が俺を思う気もちがふくらんで妖怪になり、おそいにきたという願望が妄想となって、とりついていた。
白い靄が、いつのまにたちこめている。粘液の幕は床に到達したにちがいない。
俺は近づいていった。半分やけっぱち。
やっぱり小茂田なんて死んでよかったんだ。那須や佐伯をみりゃわかる。いくら日本人だって許せないだろ? 殺したくもなる。今はまだひとり目だから、なれないだけ。ひとりずつやるうち、なんてことなくなる。全員やれば、新境地にだって達するだろう・・・・・・少なくとも人参果は独占できる。実在すると仮定した上での話だが、不老長寿が手に入る。ほしいと思ったこともなかったが。ほんとうに老けずに長く生きられるなら、夢がふくらまないこともない。
未来は無限。年をとるたびにおちこむことはなくなる。死への恐れもなくなれば、飢えや病の心配もない。やろうと思えばなんでもできるから歴史に名を残すことも夢じゃない。ただまわりがさきに死ぬのはさびしいから仲間をつくらないと・・・・・・彼女の顔がうかんだ。
――ブッチャー・・・・・・ビャチャーッ。
粘液がしたたる音は一歩いくごと派手になった。恐怖で妄想がとまらない。妖怪の指が巨大になって一本一本蟹の手みたいに割れて俺をはさもうと狙っているのでは。
天井になんかある。み慣れぬ黒い二本の線。ぴくぴく動いてる。先っぽが枝分かれしはじめた。毛細血管のように広がっていく。壁という壁に網の目が。干ばつの大地みたいに・・・・・・。
――ごん、どどどん、どどん。
異様なひびきが頭蓋をふるわせた。今度はなんだ。くそ、靄で視界がきかない。もうおわりなのか?
――ちがうんだよおお。
声がした。この世のものとは思えない、地底の女の叫びのような声。
――よお・・・・・・よお・・・・・・よお・・・・・・。
きいていると、体がふわっと軽くなった。うしろへもちあげられる感覚。床がななめに・・・・・・ひょっとして、艦が浮上をはじめたのか? そういえば頭上の圧迫感が徐々にへっている。圧搾空気が注入される音もきこえた。靄も若干薄らいだようだ。
艦長は水上にでて敵の正体をみ極めることに決めたのかもしれない。だってそうするしかない。相手が船や飛行機じゃないことはもはや明らかだ。常識ではありえない現象がおきている。物の怪なら白日のもとにさらすのが一番。
もちろんその前に潜望鏡で湖上の状況を確認する必要はあるだろう。すべて敵軍の罠という可能性もすて切れない。上に敵が待ちかまえてれば、それこそ一貫のおわりだ。
視界はさっきよりよくなった。
靄の切れ目に内殻。例の突起。それがまたのびたとみえたとき、ハッチがひらいた。
「おまえたち、両手をあげろ」
日本語が耳朶をうった。長田が銃をかまえ、入ってきた。背後にはドイツ人。先任将校だ。その手にある銃は長田の背にあてられていた。
「いうとおりにしろ、両手をあげるんだ」
まさか、われわれの正体がばれたのか?
「どういうことか説明してよ朝造」
「いいから早く」
体がゆっくりと水平に戻っていく。波の音がした。ぴちゃぴちゃ、外殻にうちよせている。艦の浮上が完了したにしては、新鮮な空気が入ってこない。浮上したらまず司令塔ハッチをあけてとりこむはずだが――。
「両手を挙げたら、そこに並べ」
「だからなんで。私はわけをきくまで死んだって動かない」
先任将校が長田の耳になにかふきこんだ。長田はうなずき日本語でいった。
「今からいうことを、よくきけ。おまえたち日本人は、小茂田中尉がドイツ兵四人を殺害した連帯責任を負わねばならない」
「連帯責任?」
「そうだ。しかし協定上、本艦はシミズ少佐および技術士官をドイツに派遣する義務を放棄できない。よって卯井二等兵に、全責任を負わせるものとする」
朝鮮やくざのような冷たい目が俺の全身をつき刺した。のどにからまる痰を切りながら俺はようやくいった。
「全責任とは・・・・・・どういうこと、ですか」
「ドイツ人の命令だ。わしを恨むな」
「ま、待ってください」
「みなを救うと思え」
「そんな・・・・・・」
むちゃくちゃだ。なぜ俺が小茂田の罪の責任を。たしかに俺は小茂田を死においやったが、それとこれとは別だ。俺だけが殺されるなんてあってはならない。
「つべこべいうな。わしがやらなければ、先任がおまえをやる」
長田は俺に銃をむけた。その手はふるえていた。なんでも人まかせにしてきた男がいざとなって力を発揮できるとは思えなかった。
だがドイツ人がいる。すでに長田にみ切りをつけたのか、腰の銃をもう片方の手ににぎり、俺に狙いをさだめようとした。その瞬間頭上にバサーッ、バサーッと怪鳥のはばたくような音がひびきわたったと思うと、間髪を入れず天井に亀裂が走り、ガラスのように割れだした。
とっさにふせた。長田につきとばされた。敵襲を利用して先任将校からはなれ魚雷発射管の間にすべりこんでいる。そこには固定された救命ボートがあった。
「これで逃げる?」
那須が便乗しかけた刹那、魚雷吊上げ用滑車も、レールも、パイプも、爆破されたみたいに粉砕され、落下してきた。ついで水がなだれこんでくるかと思いきや、入ってきたのは新鮮な空気。粉塵にも消せない甘さ・・・・・・吸いこんだ。むせつつも思い切り。
みあげると鳥の影。靄のむこうにとぶ姿。
艦はやはり浮上していた。
はいあがろうとした。瓦礫を足がかりに。蟻地獄からぬけだすみたいに。粘液と血ですべっても。痛みをこらえて。
太陽はおがめなかった。雲が低くたれこめている。血のような紅に一部が染まっているだけで暗かった。これでも外なのか。湿気がまとわりつき、むし暑い。
長田たちの所在を確認するよゆうもなかった。
吐き気がこみあげた。やっとの思いで上甲板にあがったというのに、いつのまにか、おおわれていた。あの臭いに。下にいたときより十倍くさかった。
頭上をからすが旋回。くちばしの下に黒いひげみたいのがもりあがっている。視線があうと、目をぎろっと光らせた。
きいーっと白さぎは鳴いて遠ざかる。
なぜすぐ気づかなかったのか。それは足もとに、はりついていた。
われわれを苦しめたものの正体は、これか? これが鉄殻を破壊した? 俺の空想がそのままかたちになったようなのは、どうしたわけなのか。
それは、うつぶせになっていた。湖水がひたひたと打ち寄せる甲板に、しがみつくようにして。
枯れた葦のようにこんがらがり、くしゃくしゃにもりあがった髪。粘液まみれで濡れていて、半身をおおっている。
手足もあって、かたちはほぼ人間だが、どうみつもっても全長六メートルはあろう。生きているのか死んでいるのか、甲板の亀裂のむこうに延々とのびている。
先端からは、触角のようなのが二本。左右に弧を描き、甲板に垂れていた。
謎の生物はいきなりすべって湖におちた。
大量のしぶき。つづいて銃声が耳に入った。ドイツ人だ。艦橋から複数かけおりて俺に狙いをさだめた。
とっさに湖にとびこんだ。どんどん沈む。藻がからみつく。目をあけると茶色く丸い顔が視界を占領した。
干しいもに墨をたらしたような目鼻口。藻と思ったのは、ゆらめく髪――。
*
老婆にみつかるのが、さきか。
私の気が狂うのが、さきか。
隣の音に腹たつあまり柱をついたら、表面がむくむくともりあがり毛細血管のような網の目が走って蛇がうねったようにみえた。
錯覚だと思いこもうとした。新たな音が気になってもいた。
自分の鼓動だったらどんなによかったか。しかし体の外からきこえた。
――ドクドクドクドク・・・・・・。
二階には私しかいない。いくら隣の老婆でも、心臓の音をここまで拡大できるわけがない。
柱の木目がふくらんでみえた。いや木目ではない。しみか。ゴキブリの死骸が二匹並んだような・・・・・・カサカサカサ、ゴトゴトゴトという音がし、それは、こぼれおちた。粒状のものが、さーっと列をつくって下り、とまらない。
全身の毛がぞうっと逆立った。
柱に穴があいた。なかになにかが・・・・・・無数に蠢いている。
「千絵」
誰かが私の名を呼んだ。誰が? 枯れた声。祖父ではない。隣でもない。声はすぐそば、柱からきこえた。
「千絵、千絵」
しゃがれ声がまた。
壁にかかった祖母の遺影が私をみつめている。ひょっとして声は・・・・・・祖母? 常識ではありえないが、死んだ祖母が私に教えようとしているように感じた。
宝は、このなかだと。
ではあの黒いなにかが、そうなのだろうか。
声はもう、きこえなかった。
私はふるえつつ、柱にあいた穴をのぞきこんだ。
蠢いてみえたものは、無数の毛髪だった。
にぎって、ひきだした。
一本一本が太く、ふさふさしている。
心臓がとびだしそうだった。
私の髪質にそっくりだ。でも私のはこんなに枝分かれはしていない。しかもやたら長い。これは根こそぎひきぬこうとしても、ひきぬけないほど。
全体重をかけたとたん、どっと胸におしよせた。髪みずからなだれのように流れだした。あわててつきはなした。
大量の毛先が畳にたれ、おいでおいでをするようにゆれた。風はないにもかかわらず。
悲鳴をおし殺すので精一杯だった。
これはもう私の手には負えない。祖父にみてもらわないと。だが今話すのには危険をともなう。
老婆がきき耳をたてている。うちの目の前で派手な咳をして。いつまでこっちの様子をうかがっているのか。
またひとしきり高らかな咳。それを最後に足音は遠ざかった。が、監視はやんでいない。むしろこれからが本番だろう。そばにいなくなったと思わせて私を油断させ、音をださせて私が祖父と同居している証拠をつかもうという腹なのだ。
はなれてたって老婆にはわかるんだろう。ただの人間じゃない。窓からさしこむ光にあたると、皮膚がじいんとする。無遠慮な視線になめまわされる感覚。光、すなわち老婆の眼光。あの鬼は光をとおして私をみている。逃れられない。
あの柱といいあの髪といい、老婆の呪いにちがいない。
老婆はこの家が建った五十年前から隣に住んでいる。九州の田舎では貧しくとも小町とよばれた娘時代、野心をいだいて東京にでてきたが、そのあとは不幸続きだった。好きになった男は薄給の職人で結婚すると酒をのんでは暴力をふるい、よそで女をつくった。老婆は離婚された上、一番できのよかった次男の親権を奪われ、残った子ども二人と暮らすために養老院で働くはめになった。
下の世話にあけくれ、みずからの排泄物にもかかわらず「臭い、どうにかしろ」とののしる老人たちに際限なく呼びだされ、妄想にふりまわされ、彼らを施設に預けてろくに面会にこない家族に対する罵詈雑言をきかされ、「帰りたい」、「ここからでたい」とわめかれ、なにをしても恨みと憎悪をぶつけられた。もち前の気の強さでなんとか耐え、やっとの思いで育てあげた長男は戦死、長女は子宮癌をわずらって子はなく婿は放蕩者で苦労ざんまい。
つらい思いをするたび、老婆はこの家に呪いをふきかけたにちがいない。
穴から滝のようにたれた髪は、依然手まねきするようにゆれている。
その間にも老婆の意識が感じられた。
ふいに部屋の戸がひらいた。
入ってきたのは祖父だった。私が食べかけの朝食を放置したまま、昼すぎになっても二階からおりてこないので様子をうかがいにきたようだったが、柱をみるなり凍りついた。
「なんだこれは」
感情をめったに外へださない祖父が、大きくため息をつき、いった。
「だからいわんこっちゃない。この家はいわくつきだといっただろう」
「いわく」については結婚前にきかされた。
この土地はもともとさら地で木が一本立っていただけだった。五十年前日清戦争が終わったころどこかの会社員が家を建てたが、住んで一年もしないうちにその男の勤め先はつぶれ、夫婦で酒びたりになり、長女はいじめにあい、次女は万びきをして警察沙汰になった。一家は家を売り、逃げるようにいなくなった。そのあと画家志望の若夫婦が住み、生活のため春画を描きはじめたが、それさえ一枚も売れず、妻は精神を病み、夫は猫を外で拾っては壁にうちあてて憂さ晴らしをするようになった。夫妻はまもなく田舎へ帰った。二人の去ったあとの和室の壁一面には猫の毛がはりついていたという。そのあともこの家に住んだ人間は必ず不幸になった。
「でもこの柱のことはきいてない。なんで・・・・・・勝手に穴があいて、髪の毛がでてきて、心臓の音までした」
「いったいどうなっとる」
祖父の表情はいちだんとけわしくなった。
「わしがこれからなかを調べる。おまえはその間朝飯を片づけなさい。隣のばあさんなら外出したから」
私は今さらのように空腹を感じ、六時間ぶりに階下の食卓についた。ぬか漬けも、ふかし芋も蒸し暑さにやられていたが、あっというまにたいらげた。
腹がくちくなると、ありがたさが身にしみとおった。祖父は文句ひとついわず、私を庇護してくれる。孫として孝行するどころか、お荷物になっている申しわけなさ。これ以上わずらわせてはいけない。柱は自分で処置しなくては。
二階の寝室に戻るなり、ぎょっとした。畳が真っ黒。一瞬黒い布団にもみえたが、髪の毛だ。巨大なかつらのように長く、もりあがっている。
柱の穴はからになっていた。とびでていた髪がそっくり畳にうつったようだ。祖父がひっこぬいたのだろうか。
それにしても、祖父はどこに。
姿がみえない。隣室をみにいこうとしかけたとき、真っ黒な山が波打った。こんがらがった一本一本が蛇のように蠢いている。
その山の下からなにかが、のぞいた。小さな丸いものが五つ、ぴくぴく動いている。足指のようだ。
不吉な予感がした。勇気をふりしぼって毛髪のかたまりをもちあげた。恐怖のあまりとじかけた目をみひらいた。
祖父が、あおむけになっていた。
毛束をにぎっている。毛束はのどにつきささっていた。枝わかれしたのが歯や舌にまでくいこんでいる。私の腕にまでからまったが、全力でひっこぬいた。
「おじいちゃん。おじいちゃん!」
気づいたら大声で叫んでいた。
祖父の息はとまっていた。
頭が真っ白になった。
みればみるほど私の毛に似ている。五十センチはあるが。長さはちがっても、私のにそっくりな髪が、なぜ祖父ののどに。なぜ殺したのか。
くすぐられる感覚。手指に毛がはりついていた。払っても払っても、まとわりつく。首、頬、唇にまで。
恐怖とショックで理性を失った私は、
「おばあちゃん教えて」必死の思いで、遺影に呼びかけた。
「みてたならこたえて。おじいちゃんは呪い殺されたんでしょ。うちは呪われてるんでしょ、隣に。この家に住んだ人はみんな隣のせいで不幸になったんでしょ」
蝉の声が今日はじめてのように耳をうった。夏の光がまぶしかった。
「宝って、あの柱のことだったんだね。呪いの柱。私にいわなかったのは、ほんとうの宝じゃなかったからなんだね」
遺影はこたえない。だが障子が鳴り、天井がゆれ、ドクドクと鼓動のような音がひびきわたり、柱の表面が泡だったと思うと、一本の枝が頭上高く生えだした。
ひらいた枝先が手招きするようにとじた。
毛髪の山がふわりと宙にういたと思うと、柱の穴へと吸い込まれていった――。
*
少しもぬれていない。
湖でおぼれたはずなのに、なぜ俺は土手に座っているんだ。
そもそも、ここはどこなんだ。
なんの音もしない。
いや、声だけはした。ききなれた声が。佐伯、那須、長田――三人がなにかつぶやいている。ぼそぼそと、俺の横で。
やつらもぬれていなかった。けげんそうに川を眺めている。
数メートル先の水面から、なにかがはねあがった。白黒のまだら。鯉ぐらいの大きさだが、のっぺらぼう。かたちは、おたまじゃくし。ゆらゆらゆれる尾ひれ。ふたたび川におちた。
異様な生き物は幾匹も泳いでいたが、ふいにとまって円陣を組み、なにか浮いていたものをとりかこんだ。
しぼんだ風船のような、薄桃色の物体。
下からもちあげるようにして運び、われわれのそばにうちあげた。
死体だ、赤子の。
脂肪がすべてぬかれたみたいにしわだらけ。手足はちぎりとられていた。眼球もない。
大勢の人間が、むこうから近づいてくる。
主婦たちが死体のまわりに集まった。すぐそばにいるわれわれに不審の視線をむけるものは、ひとりもいない。それどころかこっちをみもしない。
その人たちに那須が中国語で話しかけた。
「こちら無関係ですよ。この赤んぼうは、むこうから流れてきたんだからね。変な魚に運ばれて土手に。ほら、魚はまだそこらへんにいるでしょう」
指さしたが、のっぺらぼう魚の大群はもうみえなかった。どっちにしても、村人は無視した。ふりかえろうともせず、自分たちだけでひそひそとささやきあった。
「またやられた」「犠牲になった」「あの霊が・・・・・・」といった言葉が、かろうじてききとれた。
「きいてんのか」
那須が声を荒げた。
「おい」
主婦の肩をつかもうとした那須はよろけた。
「どういうこと」
那須の手は主婦の体をなん度もすりぬけた。
「さわれない・・・・・・」
「さっき霊という言葉がききとれましたが」
佐伯が口にすると、長田がいった。
「これ、三途の川じゃないだろうな」
「それとも、すでにうちらは死んで幽霊になったとか」
縁起でもない。こいつらとあの世ゆきなど、死んでも死にきれない。俺は無意識に雑草をつかみ、思い切りひっこぬこうとした。
草はぬけなかった。それは芝でも萩でもなかった。髪だった。土に根を生やしている。
ほかの三人も目をまわしている。
われわれはやはり死んだのか。Uボートをおそったあの怪物は、死神だったのか。
そういえば、痛みも空腹も疲れさえもまったく感じない。むしろ全身に力がみなぎっていた。
「いきましょう」ふいに佐伯が立ちあがった。
「どこへ」
「大尉殿、どうぞ」背中をさしだしたかと思うと軽々と長田をおぶい、
「早く二人も」
右手で那須を、左手で俺の手をとり、有無をいわさずかけだした。川から逃れるように。
だがどこにいっても川はあった。右折しても左折しても、われわれの横を走っていた。支流が無数にあるのか、川のない道はなかった。
しかも進むにつれ、土手はいよいよ黒くなった。蘆のようなあの髪は、水中にも群生していた。土手から川底にむかってさかさに。
その一本一本に赤子がぶらさがっていた。死体かと思ったが、彼らは水中で生き、みずから好んで髪の毛にからみついているようだ。母親の乳房に吸いつくかのように。
さらにいくと川岸にもうじゃうじゃいた。むろん全員全裸。虫をついばむ鳥さながら、芝のような髪と髪のあいだに顔をうずめ、むしゃむしゃとなにかを食っている。
ひとりだけ、ちがうのがいた。黒髪がくるぶしまである。上流にむかって立ち、両腕を羽のようにひらひらさせていた。
赤子といっても一歳ぐらいの背丈。天使といった感じはまるでなく、ぶきみな雰囲気を漂わせている。
それが、いきなりとんだ。
まさに鳥のように。黒髪を翼のごとくひろげて。
「アレダッ! アレについていくのであります!」
佐伯はまた一段と速度をあげた。ふしぎとついていけた。俺も那須も、五輪選手並みに走れた。
のどがつまる・・・・・・舌に苔が生えたみたいにざらざらする。四肢から血の気がひき、頭がカアーッと熱くなった。
周囲の光景がゆらゆらゆれ、でこぼこでたりひっこんだりした。
走れば走るほどおかしくなる。
つまずきかけた。
おむつに。
大量にころがっていた。
どれもまっさら。道のおむつの数は、川の赤子の数に比例した。
いったいなんなんだ。
苦しい・・・・・・周囲に違和感と不快感を感じれば感じるほど、のどがふさがりそうになった。
俺は異物を追いだそうと、懸命にせきをした。
不安でたまらない。自分が大地に根づいていない感覚。なにからも保護されていない、なににも結びついていない感覚。
腹が大きく波打った。
のどから別の自分がとびだすのでは。俺は脱皮するのでは。
暑い。暑苦しい。
服をぜんぶ脱ぎたい――。
長髪の赤子は斜め前の川に着水し、もぐった。水の尾がかろうじていき先をしめしている。
しるしはいつしか消えた。いくら目をこらしても、水が濁っているせいもあってか、川のどこにもその姿はみえなかったが、佐伯はいった。
「アッチダ!」
少し先の竹やぶを指さし、ふみこんでいった。背中の長田、両側のわれわれもろとも、笹に顔を切らせてとおりぬけると、
――ホーホケキョッ。
鶯の声とともに、菜の花が目にとびこんだ。
春のやわらかい日ざしの下に、よく耕された土が、ひろがっている。農家の敷地なのか、大根や白菜が列をなし生えていた。端には鳥居、お稲荷。
そして、満開の桜。
「これは・・・・・・内地に戻ったのか」
「まさか、ありえない」
「なら、極楽か」
「ごらんください」佐伯が指さした。
桜並木のむこうに女がみえた。うしろ姿だ。
肩までの黒髪。上品なパーマネント・ウェーブと、赤いギンガムチェックのワンピースが風になびき、しまった尻のかたちがうきぼりになった。二十歳ぐらいか。
玉のような右腕をくるくるっと回し、女は前のめりにシュッとなにかを投げだした。
きらきら光るものが、かなりの速さでとんでいく。
バットのようなものをかまえ、とどくのを待っている男がいた。
こんなところで野球か。女が投手だとしても球がおかしい。回転しているから多少丸くみえるが、立体感がない。銀色だし手裏剣みたいだ。
男がもっているのも、バットではなさそうだ。細すぎるし、光を反射しすぎる。刀じゃないのか。
打った。
それは高くとび、われわれの方に落下してきた。
「危ない危ない」
そばの杉の根もとに刺さったのを確認すると、やはり手裏剣だった。
「女がとりにきたら面倒」
那須が行こうとするのを、長田がとめた。
「あれは上玉だぞ」
「はあ?」
「顔はみえんが、ジゴロが鼻をきかせた。のう佐伯、貴様がここへかけこんだのは、あれが目的だったのだろう」
「はい。良品は、匂いでわかるであります。あれなら高く売れます」
「そうだ、金になる。とうぶん食っていけるぞ」
「そうかもしれないけど・・・・・・いいの?」
「わしの好みとは、ちがうしな」
こいつら、なにのんきなこといってんだ。特に長田、Uボートであんなまねしといて、なになかったことにしてんだ。そもそも俺は湖におちたあとどうやってここにきた。意識を失っているあいだに、なにがあった。
「よし、突撃だ」
「中隊長殿」俺は声をあげた。
「なんだ卯井」長田は俺を殺しかけたことなどまるきり忘れような顔をむけた。
「打者の男が着ているのは軍服であります」
おぶわれ野郎は佐伯の肩越しにのびあがると、さすがに顔色をかえた。
「や、あれは日本軍・・・・・・」
「ちょっとやだ、ここ部隊の基地?」
みつかれば、脱走兵のわれわれは処罰される。最悪の場合、銃殺されかねない。
「兵営にしては軍馬がみあたりませんし、ほかの兵の気配も感じられんであります」
佐伯がいった。
「男は支那人で、軍服は盗んだ可能性があります」
「どっちでも、あわてることはない。わしらの姿がむこうにみえるとはかぎらんのだから」
「そういえば。川にいたおばさんたちは、うちらがみえなかったようだからね。あの人たちも同じかも」
それでも危険を回避してか突撃はしなかったが、長田の目は獲物を狙ったままだった。
女は手裏剣をとりにこず、ベンチに腰かけた。白い顔がみえた。ここからだと遠いのでよくはわからないが、整った顔だちのようだ。
刀をもった男が護衛のように横に立った。その背後の丘の方から娘が数人やってきた。籠からなにかをだし、女に与えた。
白く大きな丸いものを、女はなでまわし、胸にだきしめ、走りだした。こっちにどんどん近づいてくる。
「うちらがみえてる?」
「そうでもないようだが」
われわれの数メートル手前にきたとき、女は舌をだし、胸に抱いたものをぺろぺろとなめだした。
「なんだなんだ、あれはなんだ」
「手にもってるのは鏡餅のようであります。尻のような割れ目がありますが」
女は両手でつかむとぐちゃぐちゃにもみ、割れ目に舌をゆっくりとはわせた。
ガブッとかみついた。
ニヤッと笑った横顔――似てる。彼女の若いころ、二十五才のときの顔に。
その目が、しっかりと俺をとらえた気がした。
地面に黒い点がぽつぽつとにじんだ。冷風が首をなでた。雷音。稲妻が光ったと思うと、ざあっとふりだした。
太陽は雲にすっかりおおわれている。
気づいたら女は消えていた。
杉木立ちの下で雨宿りをきめこんだわれわれのもとに、白いものがあらわれた。全裸の娘三人。
さっきの女よりさらに若く、かわいらしい娘たちは傘もささずに歩いてきて、われわれの目の前でとまった。
「あなたたち、いつからここにいらっしゃるのです?」
ひとりが流暢な日本語でたずねた。
発達途中の胸、はち切れんばかりの太ももを雨にぬらしている。俺は興奮をおさえるのでせいいっぱいだったが、
「ついさっきです。ほんの少し前」佐伯は驚くほどおちついた声でこたえた。
「ここは神域です。あるじさまのお怒りにふれますよ」
「あるじ? 女郎屋の主人のことか。あんたたちそんな格好して、日本語上手だな」
長田がいった。さぞいやらしく娘たちの体をみてるかと思いきや、意外にも冷めた目つきだった。
どうやら欲情をそそられたのは俺だけらしい。女に飢えていたのは同じなのに、三人が反応をしめさなかったのはなぜなのか、謎だったが、深く考えるまはなかった。
背後からざざっと鉄兜をかぶった男が五人でてきて、長田を佐伯の背からひきはがし、われわれ全員を縄でしばりあげた。
五人とも陸軍の軍服を着ていた。
ここはやはり兵営か。女たちは慰安婦で、あるじとは部隊長のことか? われわれはとうとう脱走兵として処罰されるのか。
「さっさと運びな」
命じたのはさっきの娘だった。
「なにすんの」
男たちはいわれるがまま、われわれをトラックの荷台に入れ、あおむけに並べた。なにを考えているのか無表情でひとことも口をきかない。
こいつらは捕虜なのかもしれない。とすれば女は支那人で共産軍か国民軍の手先なのだろうか。
背中にくいこむ縄に振動がつたわった。
トラックが動きだした。
雨粒がもろに顔をおそったが、なんとか道を把握しようとした。丘があった。その上方に赤い光。屋根裏の窓。三角のガラス一面、電灯の色に染まっている。どこかでみた光景だ。なつかしい家そっくりの窓だったにもかかわらず、そのときはふしぎにも思いだせなかった。いずれにしてもその家自体は未知のもので、大きな屋敷のようだった。
甘酸っぱい女のような匂いがほのかに鼻をついたと思ったとたん、トラック上に巨大な物体が飛来した。
ゴキブリのようなかたち。それは木でできていた。無数の蔓がからみあい、風にもちあげられて宙にうかび、水滴をおびてふさふさゆれていた。頭にあたる部分からは触角のような二本の枝がとびでて弧を描いている。
あやうく声にだして叫ぶところだった。
潜水艦の甲板にはりついていたのと同じやつか?
ただし、これは尾が長い蔓で、どこやらへとつながれている。蔓は丘の木からのびている。大木が屋敷の方にみえた・・・・・・。
化け物とともに妙な匂いも遠ざかり、また雨の直撃にさらされ、それ以上特になにも発見できぬまま、ただ坂道をあがっていく感覚をうけとめているとトラックがとまり、おろされた。
目の前に小屋があった。入口につながれた一匹の犬がうるさく吠えだした。
金網をはった扉があけられ、われわれはなかへ投げ入れられた。縄ははずされたが、扉はしめられ、外からカギをかけられた。
「ちょっと待ってよ」那須がカギをかけた娘を呼びとめた。
「私たちをどうするつもり」
「あなたがたは、どうしてこの臨終へなどいらしたのです」
「臨終って、この土地の名前?」
「そうです、この辺の者なら皆知っています。臨終は神域で、神域を犯す者は死刑だと」
「死刑? 冗談じゃない! ちょっと兄ちゃん、君のせいだからね。こんな村にひっぱりこんだ責任とりなさいよ」
「すみません」佐伯はあやまった。
「ああもうそんなのききたくない。ジゴロなら本領発揮しなさいよ」
「お嬢さん」佐伯は死に物狂いで色気をふりまきだした。
「許してくれないかい。僕たちは知らなかったんだ。よそ者なんだよ。おわびならいくらでも、助けてくれたら僕がたっぷりお礼をするから、ね、お願いだよお」
裸の娘は今はじめて佐伯の顔立ちに気づいたように頬をそめると、いった。
「わかりました、私があるじさまに申しあげてみます」
「ほんとうかい。僕たちを助けてくれるのかい」
「保証はできませんが。今夜あるじさまにお目にかかりますので」
「期待してるよ!」
その夜――。
「期待できない。食べ物ももってこないし、私らを生かす気などないってことですよ」
「でもあの娘が――」
「助ける気がほんとうにあるなら、こっそり差し入れぐらいしてくれるでしょ」
「逃げだせんかな」
まわりは鬱蒼たる竹やぶ。人目をくらますには好都合だが、小屋の外には黒い犬と、軍服の男がひとり立っていた。銃をもっている。
「どうみても三八式歩兵銃」
「しっ、きこえるぞ」
「もうきこえてるよ。でもまったくの無反応。やっぱり日本語わかんないんじゃ」
「みせかけかもわからん。いずれにせよ早まったことはできん。ここの連中にはわしらがみえる。村人たちには、なぜかみえなかったようだが」
「臨終だってね、この土地。ぶきみ。死にぎわって意味でしょう」
「・・・・・・そうだ! 地図にのっていた。例の、『彼岸の村』というのが、臨終という名だった。わしとしたことが、なぜすぐに思いださなかったのか」
長田は地図を広げた。
「ほら、これだ」
「ほんと、臨終って最終目的地だった。ってことは、ここに人参果が?」
「そのようだ」
「人参果をさわるにはカギが二ついるよね。二つ目のカギもここにあるの?」
長田は自称仙人から奪ったもうひとつの紙を佐伯に翻訳させた。
「『第二のカギは、女あるじの下の毛。入手するには、以下の伝説のいわれを知らねばならない』」
「その伝説とは?」
「『臨終の赤子はまったく年をとらない。この村全体が女あるじの体。川は女あるじの血液であり、草は女あるじの体毛。女あるじは無数の赤子を生み、川で養っている』」
「たしかにここにくる途中の川、赤んぼうだらけだったけど。あれぜんぶ女あるじの子どもってこと?」
「・・・・・・それについては書いてありませんが、とにかくカギを手に入れるには、伝説が生まれた理由をあてねばならんようであります」
「またあ?」
「こたえをあてないと今度は下の毛をつかめないというわけか」
「女あるじってこの神域の女あるじと同一人物なんでしょうね」
「だとすると、さっき投手のまね事をしていた女がそれではないでしょうか」
その意見には全員が賛成した。
「それなら自分の魅力でどうにか――」佐伯はいった。
「あの女、自分に色目を使ったであります」
「うそじゃなくて? さっきの娘も助けにこないけど。そもそも私らどうなんの。せっかくあの湖からも生還したのに、こんなとこで死刑になるなんて私は絶対にごめんですからね」
「死にはしない。人参果が食えれば」
「それらしい木、みあたらなかったじゃない」
だが甘酸っぱい匂いが鼻をついた。トラックで化け物の下を通ったときも、同じ匂いがした。ずっとかいでいると頭と下腹が痛くなった。くらくらして視界がゆれるようだ。
赤い点が、宙にういた。だんだん大きくなる。燈火だ。裸の娘が食糧をもってやってきた。
佐伯は得意顔をふりむけつつ、
「で、どうなった?」金網越しにきいた。
「あるじさまにお伝えしました。あなたのことはお庭でおみかけしておぼえておられました。四人いたなかで一番の男前だとおっしゃってお笑いあそばされました」
「ほんとうかい。それじゃあ?」
「許せとまではおおせられませんでした。もう少し辛抱してください。みなさんも決して逃げだそうとなどせずに。それでみつかろうものなら絶対に許してもらえませんから」
「助かるみこみは、あるんだね?」
「はい。また折をみてあるじさまに申しあげます」
翌朝、娘がまたきて、あるじが佐伯を呼んでいると伝えた。
「なんで兄ちゃんだけ」
「いくからには伝説の背景をつかんでこい。そしてカギを手に入れろよ」
あくる朝、佐伯は戻ってきた。銀白の背広に身をつつみ、黒眼鏡をかけ、黒塗りのロールスロイスを運転して。
小屋の前に停車した佐伯は運転席から手をふり、白い歯をみせた。
全員あいた口がふさがらなかった。
「ちょっといったいどうなってんの」
「昨日屋敷に入ったんですよ。禁域中の禁域でごくかぎられた者しか入れないところに。そしたら自分、王子様です。一夜にして。伝説の裏はこれからですが、カギは手に入れられるんじゃないかな。今夜あたりあるじと床入りするんで。下の毛はよゆう」
上官に対する口のきき方ではなかった。
はねつけるように那須がいった。
「私らは、助かるの?」
佐伯は黒眼鏡に太陽をうつし、薄笑いをうかべた。
「日本語は通じませんでした。あるじは生き神っていうけど支那人なんでしょ」
「質問にこたえて。私ら、こっからだしてもらえるの?」
「いいえ。あんたらは、み捨てます」
耳を疑った。
「なにをいうか」
「なにもくそも、ほんとうのことをいっただけだよ」
「この野郎、本気か、本気でいってるのか」長田が激昂した。
「そっちこそ言葉に気をつけろ。僕は昨日までの佐伯悦人じゃないんだぞ」
黒眼鏡をはずし、恨みのこもった目で長田をにらみつけ、軍服男にむかって、
「やつらをよくみ張っとけ。なにをするかわからん」指図すると、
「おっとそうだ卯井、貴様にだけ別で話がある」
なにかと思えば紙を渡し、そこに書いてある日本語を支那語にしろという。
「これであるじは絶対おちる」
すべて虫唾が走るような口説き文句だった。しかもこの程度も話せないくせに翻訳を担当してたのか。バカバカしい思いで訳しおえると、俺は最後に以下の内容を支那語で書きくわえた。
「『あるじさま、あなたは卯井千絵、旧姓大下千絵の若いころに似ておられます。その意味がおわかりでしたら、お助けください。卯井彦太郎は待っています』」
女あるじが千絵に似ていたのは事実だった。髪綉の村といい、こうもたてつづけに彼女そっくりの女が現れるのは、偶然とは思えない。常識では考えがたいことだが、俺を追って支那にきた可能性はぬぐえなかった。
「古兵殿、どうか最後の文もお伝えください。お願いであります」
佐伯は鼻で笑い、紙をひったくると文面をみもせず、ロールスロイスで去っていった。
そして二度と戻らなかった。三日後、裸娘が報告にきた。
「佐伯さんは死にました。木に食われたのです」
「あんた、バカにしてんの。そんなの信じるわけないでしょ」那須がかみついた。
「ほんとうです」
「へえ、あんな王子様扱いしてたのに? わかった、あいつが、そういわせたんだ。もう私らと関わりたくないから、人をくった話を創作したんでしょ」
「いいえ、佐伯さんはほんとうに死にました」
「あのねえ。うそはやめて」
「ですから佐伯さんは、生贄として木にささげられました。これ以上のことは申しあげられません」
「・・・・・・そう、じゃ、これならこたえられる。木って人参果の木?」
「にんじんか?」
娘は乳首と同色の赤い唇をすぼめ、きょとんとしてみせた。
「とぼけないで」那須は食いさがった。
「この村には立派な木があるはずだよ。赤んぼうそっくりの実のなる木がね。一万年に一回しか実らないけど、今年がその一万年目」
「立派な木でしたら、たしかに知っています。屋敷の裏手にありますが、私どもはめったに近づけません。そばを通るときには最敬礼をし、絶対に音をたててはならないといわれています。人と同じように食事をしたり眠ったりする神聖な木ですので。彼女の生贄として、佐伯さんはささげられたのです」
「『彼女』って、木が人間を食べるわけないでしょ」
「あの木はほんとうに女性なんです。その証拠に毎月必ず血がでます」
「どっからよ。枝のあいだからでも出血するわけ?」
「これ以上は申しあげられません」
「まったく。日本語できても所詮は未開人。木が人を食べるだの、バカらしいにもほどがあるよ。でもそんだけ崇拝されてるってことは人参果にきまってる」
那須はずるそうに目を光らせた。
「ねえ、その木の生贄って、今度はいつささげるの?」
「さあ。それよりあるじさまのお言葉を早くお伝えしなければ」娘は俺をみた。
「卯井さんですよね?」
「なんで名前わかるのよ」那須が口をはさんだ。
「佐伯さんの残した紙に、卯井さんの名前があったそうです」
すると例の文が伝わったのか。女あるじは、千絵なのか?
「あるじさまは、あなたにお会いしたいとおっしゃっていました」
「ほんとうに、あるじさまが、自分に・・・・・・」
「よかったね。次はあんたが生贄にされるってことだよ」
那須はなにを思いついたのか、どんでもないことをいいだした。
「私もいく。この人も一緒に」
「右太衛門! わしは生贄にはならんぞ」
「朝造、まさかこんな小娘の話、信じたの?」
「いや、信じてはおらんが・・・・・・」
「でしょ。佐伯は生きてるにきまってる。大丈夫だって。I have an idea(私に考えがある)」
那須は自信たっぷりな顔を娘にむけた。
「三人一緒に生贄にでもなんにでもなります、三人でなきゃ卯井はいきませんってあるじに伝えてくれる? たのんだよ!」
匂いが濃くなった。甘酸っぱいかと思えば、どぶのような臭気に変わる。枝の化け物の下を通ったときもそうだった。あの大木が人参果だとすると、これは人参果の匂いなのか。かげばかぐほど息があがってめまいがする――。
赤い上下をきた娘たちが、ホテルのボーイのように屋敷の入口をあけ、軍服男たちに背後をかためられたわれわれ三人を出迎えた。
長田も今日は自力で歩いていたが、表情は明るかった。匂いに苦しんでいるのは俺だけなのか。
控えの間に通されたときにはほとんど貧血状態で、やっとの思いで腰をおろした。
ロココ調のソファ。精緻をきわめた鳩時計。明るい庭に面した窓。ふっくらひらいた鬱金香、白いこまかな泡吹の花は、楓の新緑ともども風にゆらめき、眠りを誘うようだ。
池には緋鯉。松にかこまれて。そのむこうには、大木――。
枝と枝のあいだに白い布が、おむつのようにはまっていた。そのひとつに赤黒い血のようなしみがにじみでているのがみえた矢さき、われわれは移動を命じられた。
「あるじさまがお呼びです。三階へ」
踏むたびにぎしぎし鳴る階段。オペラがきこえた。プチプチ雑音まじりのレコード。女歌手の狂おしい叫び。プッチーニの『マダム・バタフライ』か。
真っ暗でなにもみえない。人がいるのかいないのか。窓をしめ切っているらしく、むんむん熱気だけはすごい。ああ、この感じ、どこかなつかしい――。
吊り洋燈に火がついた。
そこは屋根裏部屋だった。思ったとおりだ・・・・・・千絵の部屋も屋根裏だった。同じく二階の上にあって、両側から傾斜した壁がせまり、部屋の中央でのみ体をのばして立てた。広さも同じくらいだ。床のきしみ具合まで似ている。
洋燈の赤錆びた光が、煤ぼけたガラスをわずかにとおり、うずくまるものをおぼろに照らしだした。
こたつに入った女の背中。この暑いのに真っ赤な袢纏をはおっている。うしろ姿のため、若いころの千絵に似たあの女と同一人物かどうかは判然としなかった。
「あるじさま?」支那語で那須が呼びかけた。
女は返事もしなければふりむきもせず、がくっとうつむいた。頭がかすかに上下し、ぺろぺろとなにかをなめる音がした。
「あるじさまは、生贄を・・・・・・」
長田がいったとたん、女の頭が静止した。顎は動いている。くちゃくちゃ咀嚼する音。千絵ではない気がした。彼女がいくら異常といったって、こんなぶきみな行動をとるはずがない。
「佐伯は木にささげられた、とききましたが・・・・・・」
「あの男は、みた目がよかった」女がいった。意図的にだしたかの低い声で、
「ふだんささげるのは、これだ」
うしろ手に放り投げたものを、那須がかろうじてうけとめた。大きな餅。尻のかたちで、色も人肌に近い。
「ただの餅ではない。特別な味だ。だがもう残り少ない。料理人が死んだゆえ」
「料理なら得意です」那須がいった。
「これと同じものをつくろうと思えばつくれます」
「だったらつくれ。二十四時間与える。下の設備を使うがよい。そのかわり期待を裏切ったら、許さぬぞ」
女は背をむけたままいった。
洋燈のむこうに、黒いカーテンがみえた。うちの屋根裏の窓と同じ大きさ。これにはやはりいわくがあるとしか思えない。
「あるじさま」
自分は卯井彦太郎です――いおうとした瞬間、洋燈の火が消えた。
われわれは一階の台所および隣接する応接間を使うことになった。軍服男たちが要所要所に立っているとはいえ、破格の待遇といえた。というのも台所には餅用の材料はもとよりその他の食材もふんだんにあり、応接間の酒、菓子、果物とともに好きなだけ消費してよいといわれたからだ。
ヴェルサイユ宮殿にでもありそうな豪奢な椅子にひとまず腰かけつつ、
「罠ではないか」長田もさすがに不審に思ったようだ。
ガラス棚には帆船の模型、漆色の仏像、孔雀の剥製のほか、弓矢までもが飾られてあった。棚には鍵がかけられていたが、ガラスを割れば簡単に奪えるだろう。
「これをみろ。ウダエモン、一騎当千の腕が鳴りはせんか」
「そりゃ私は那須与一の子孫だから、ひいふっとぞ射切ったるのはお手のもんですよ」
ブランデーを片手に短い足を組み、長髪をはらいあげた。
「それにしても佐伯の気配がないね。あいつほんとうに死んだのかな」
「木に食われたのは眉唾としても、つぶされたのは事実かもしれん」
長田はうまそうに酒をすすった。兵を失っても顔色ひとつ変えないのはいつものことだ。
「どうせみた目まかせの雑な口説きで下の毛をむりやり奪おうとでもしたんでしょ。伝説のこたえもわかってない段階でさ」
那須は髪をなであげ、
「私は絶対失敗しない。問題のこたえもちゃんとだします。それにはまず餅をつくって、あるじの心をつかまないと。でもさ、尻のかたちって異常だよね、ケモノみたいにぺろぺろなめてさ」
「しっ、きこえるぞ。ところでほんとうに大丈夫か? 味も独特らしいが」
あるじにもらった餅を那須はがぶりと食い、
「配合はわかった。あとはつくり方さえ頭のなかで組み立てられれば、そっくり同じものをパパッとつくれます。これからひらめきを待つだけ。それには酒がいる」
「ならば付き合おう」
二人でしたたか飲みだした。
待ってるあいだに四時間交替の軍服男たちが二回もいれかわった。がまんできなくなった俺は酔っ払いどもに気づかれないよう餅を味見し、台所にいった。実家は洪水で流されたが、料亭だった。結婚後は彼女まかせだったとはいえ料理は幼いころから相当しこまれている。
食べてみてわかったが、あれは餅ではなく団子だ。上新粉にゆずや抹茶、砂糖を微妙な配分でまぜあわせ、俺は味の再現に成功した。仕上げにかかり、あと一歩で尻のかたちができるというところで、葡萄酒をぶっかけられた。団子はみるみる朱に染まり、踏み潰された。
「子どものお遊びは、しゅうりょーう」
那須が酔眼をむけた。
「大人の食べ物をつくるよ。残り時間は二時間。さ、餅米をふかして」
あれは餅じゃないといってもまったくきく耳をもたず、俺に餅つきをさせた。長田の野郎は顔をみせにもこない。
「もっと早く早く、高速で!」
杵をふりあげ、ふりおろす。腰が砕けそうだった。
那須が餅をこねだしたすきに応接間にいって長田に訴えた。このままではあるじに許してもらうどころではないこと。餅と団子の区別もつかない那須ではなく俺にまかせてほしいこと。
これだけいっても長田は那須との関係をこじらせたくないとばかりきき流そうとした。那須が今までいかに諸悪の根源だったか、俺は列挙していった。信管のぬかれたゴミ同然の砲弾を食糧のかわりにくれたこと。そのせいで皆が溺れかけたこと。Uボートでは厨房にいりびたり、佐伯が呼びにいくはめになってクレーマーに正体を疑われ、危機を招いたこと。
「また害が及ぶのは必至であります。しかも今回こそ、とりかえしがつかない可能性が」
長田は酔いがさめたようにいった。
「あいつを呼べ」
那須はブルドッグ以上にふてくされた顔で応接間に入った。
「ちょっと今大事なところなんだけど」
「右太衛門、もう休め。台所は卯井がひきつぐ」
「はあっ?」
「人参果をあきらめたくはないだろう。わしもおまえをみはなしたくはない」
「朝造、あんたが私に非情になれるわけ・・・・・・」
「こんなこといいたくはないが、したがわないなら、まわりのやつにとりおさえてもらう」
「ウッシャッシャッシャッ」
「なにがおかしい」
「こんなこともあろうかと第一のカギである髪は盗んでおいた。あんたの物入れからね。こうなったら第二のカギも私のもの」
ガラスを割って弓矢を手にすると、階段にむかった。軍服男が銃撃した。那須はかわして矢を次々命中させ、外へとびだした。
カギをとりかえしたかったが、男に阻まれた。それでも俺はガラス戸に顔をおしつけ、那須を目で追った。
おいしげる荻のむこうに大木があった。萩をかきわけて進みだした那須の髪が突如燃えあがった。
なにが起こったのか、すぐにはのみこめなかった。誰かが那須の髪に火をつけたらしいとわかったのは、しばらくたってからのことだ。
俺はぼう然と那須自慢の長髪がゆらめく炎と化し、全身にとび火していくのをみつめていた。
全身火だるまとなってのたうちまわった体は黒焦げになり、動かなくなった。
ざまみろと思うよりも、俺はおそろしさに身動きもできなかった。すると、しばりあげられた。
縄で。その上からさらに真っ黒な布団で。その布団は人間の髪が無数に縫いあわされたもののようだった。俺はそのなかへおしこまれ、す巻きにされ、かつぎあげられた。
頭だけ布団の外にだしてもらえたのが、せめてもの救いだったが、息はだんだん苦しくなった。空気はほこりっぽく、湿気にみちていた。オペラがきこえた。例の屋根裏部屋にちがいない。
床に投げだされた。洋燈がついている。
人形が笑っていた。赤い旗袍を着た、おさげの中国人形だ。床に座り、大きな瞳をきらきらさせてこっちをみている。隣には日本人形。黒髪にふちどられた顔が薄笑いをうかべ、左手をさしのべていた。
「あるじさまがこられる」
軍服男が伝えてまもなく視界がまわりだした。俺は箸でもてあそばれる肉巻きのように、床にころがされた。
「あは、いひひひ」
足がみえた。女あるじが俺をけっていた。裸に袢纏をはおっただけのようで白くむっちりした脚をさらけだしている。顔はなかなか視界に入らない。
「おほっ、いひひゃっは」
日本人形の手が、おちた。首もとれて、ころがった。おかっぱがバサッとひろがり、白すぎる顔がななめに傾き、細い陰険な目にみあげられた。
「林、もういいよ。あとはひとりで十分だ」
軍服男は敬礼して立ち去った。階段の足音が遠ざかるのを待って女はいった。
「手荒にあつかって申しわけありませんでした。ほかの者の手前、ああするしかなかったのです」
言葉使いがあらたまったのに驚くあまり、すぐにはなにも返せなかった。
女は髪布団をしばっていたひもをとき、俺を床に寝かせた。
「大丈夫ですか」
女の顔がはじめて視界に入った。
雪のように白い肌、薄くきりっとした唇、細い鼻筋、切れ長の目。上品で知的で、つんとした感じといい、若いころの千絵そのまま・・・・・・いやちがう。瓜二つのようで、よくみれば微妙にちがう。第一、右頬下にあるべきほくろがない。
この女は、千絵とは別人だ。
「あなたは卯井彦太郎さんですね」
「そうですが・・・・・・」
「あるじさまは、あなたの伝言をお読みになられました。『あなたは卯井千絵、旧姓大下千絵の若いころに似ておられます。その意味がおわかりでしたら、お助けください。卯井彦太郎は待っています』という内容でしたね」
「そのとおりです。しかし、あなたがあるじさまでは?」
女は大きく息を吸いこんで、いった。
「私の名は、神経房実(しんけい・ふさみ)」
カーテンをひらき、窓をあけた。強い西風が入りこんだ。もつれた髪を払いのけようともせず、
「真のあるじは、あの方――」
女は指差した。
窓の外を俺はのぞきこんだ。
「あっ・・・・・・」
大木が、目の前にあった。しかもそれは、ぎょっとするほど飾りつけられていた。てっぺんにはパーマネント・ウェーブのかつらが、枝にはおむつのかわりに金銀の首飾りや耳環が、幹には旗袍(チーパオ・・・チャイナドレス)がまきつけられ、着飾った女のように立っていた。
「あの木こそが、あるじさま。あなたを呼んでおられます」
葉がざわざわと潮騒のように鳴りわたった。かつらの髪がゆらゆらとゆれた。
「あるじさまはあなたとお話ししたいそうです。千絵とおっしゃる婦人のことも」
「ち、千絵のことを?」
「はい」
「しかし、木がしゃべれるとは・・・・・・」
「女中たちにもおききになったでしょう。ふつうの木と一緒にされては困ります」
「僕にはどうしても信じられません。あなたはどうして、あの木が千絵を知っていると。神経房実さん、あなたは千絵の若いころに似てますが、なにか関係があるんですか」
「私はなにもこたえられません。すべてはあるじさまがご存じです」
真偽は別として、木のもとにいきさえすれば、なんらかのことはわかるにちがいなかった。どちらにせよ、選択肢はない。
「わかりました」
「ではあるじさまに身をささげることも、ご了解頂けますね?」
「え。身をささげるって?」
「あなたの肉体をあるじさまに提供してほしいのです」
「は。どういう意味ですか」
「あるじさまがあなたに要求しているのは、肉体の結びつきです」
「まさか、木と、交われと・・・・・・?」
「はい。あなたが助かる唯一の道です。やり方は、その場へいけば、おのずとわかります」
「ひょっとして、佐伯一等兵にも同じことを要求しましたか」
「いいえ。佐伯さんは生贄になっただけです」
「どうちがうんです」
「生贄は、死にます」
では佐伯はほんとうに死んだのか?
「とすると那須上等兵も、生贄に?」
「那須というと、あの髪の長い男性ですね。あの人は生贄ではなく、あるじさまに無断で近づこうとしたために死刑になったのです」
「火あぶりの刑にしたんですか。でも、誰が、あんな・・・・・・」
「あなたも逆らえば、同じ目にあうかもしれません。あなたの仲間で生きているのは、今はあと長田朝造さんだけです」
那須と佐伯がこの世から消えたと思っても、もはや特別な感慨はわかなかった。自分の手で復讐できなかったためかどうかはわからない。ただ長田が生き残っているのは許せないという思いだけがひろがった。
「長田大尉は、今どこにいます? なにをしてるんですか」
「いえません」
「あの人もあるじさまに呼ばれるんですか」
「あるじさまの理想は、あなたです」
「要求にこたえれば、千絵の話もきけて、命も助かるんですね?」
「はい、必ず」
この女のいうことを信用できるだろうか。
「ひとつ、知っておきたいことがあります」
「なんでしょう」
「あの木は、人参果ではありませんか」
「にんじんか?」
女は目を宙にさまよわせた。
「あの木には胎児そっくりの実がなるのでは?」
「そんな実、実なんて、私がきてからはいちどもなってません」
「僕目撃したんですよ、この村に入ったとき、川に赤んぼうの死体のようなものがうかんでいたのを。手足がちぎりとられていました。まるで食べられたあとみたいに。あれは人参果の実じゃないんですか。不老長寿をかなえるという」
俺は別に欲に目がくらんだわけではなかった。ただ長田にとられたくなかった。あいつがここにいるかぎり、その可能性はあった。あのクズが不老長寿を得るなんて、あっていいわけがない。阻止するには、先手をとるしかなかった。俺は必死でくらいついた。
「ほんとうのことを教えてください」
女はかたい表情をくずさなかった。
「とにかく私、人参果なんて知りません」
認めないなら、それでもいい。人参果の実は、カギさえあれば手に入る。この土地で得るべきカギは、あるじの下の毛――だがわからなくなった。今まであるじはこの女とばかり思っていたが、あるじがあの木となると、下の毛とはいったいなにをさすのか。
いずれにせよカギをつかむには、問題のこたえをとかねばならなかったが、その方はおおかた見当がついていた。
視界は闇。
なのに目がチカチカする。頭がズキズキ痛む。匂いが鼻についた。甘酸っぱくもあり、血なまぐさくもある・・・・・・。
「千絵」
その名を俺はなん度目かで呼んだ。反応はない、まだ――。
あの木に到達しさえすれば。木のところまで行けばすべてがわかる、そして千絵とつながれる、という気がしてならなかった。
俺は進んだ、裸で。闇のなかを。背後には監視。俺の行方をみはっている。もうあと戻りはできない。
肝心の木は暗くていっこうにみえず、なかなか到達できない。すぐそこのはずなのに。根っこだってこんなにあるのに。いやというほど素足につきささる。根の異常な長さに注意を払うよゆうはなかった。
まるで八幡の藪知らずに迷いこんだようだった。荻は俺より高く化け物のように伸びて、むきだしの肩をなでさすっていく。
波のようなざわめき。ゆれてる、足もとも。木の根っこがゆれてるのか、動いてるのか? まさか、ありえない。きっと地震だ、震度二か三だろう。
道はなきにひとしく、おまけに曲がりくねっている。血のような臭いが一歩いくごとに濃くなる。これで褌と千人針まではずされていたら、心細さはひとしおだったにちがいない。
冷たい夜風。はばたく蝙蝠。とびだす虫にも肌をいたぶられ、体じゅうがかゆくなり、下腹がしめつけられるように痛んだ。
まだゆれてる。ドクドクドクと鼓動のような音もきこえる。俺じゃない。俺の鼓動はこんなに大きくはない。下からきこえる・・・・・・根っこが微妙にゆれてる。道が脈打ってるよう。地震じゃないとすると・・・・・・。
雲が切れた。
金貨のような満月が黒い空にのぞき、あたりを照らしだした。
ビルヂングなら七階はあるだろうか。大樹が、ざんばら髪のように葉をふりみだし、枝を両腕のごとくひろげていた。
俺ははからずも、
「あるじさま」そう呼びかけていた。
返事があるわけがないと思いながらも、
「卯井彦太郎であります。こんな格好で失礼します。身をささげに参りました。ただ、その前にどうしても確認しておきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
ざわざわ音をたてたのが、先をうながしているようにきこえた。
「あるじさま、あなたは、人参果ですか?」
風で葉っぱが上下したのが、うなずいた姿にみえた。
「もうすぐ赤んぼうにそっくりの実がなりますか?」
木は上部をゆさゆさと前にふりつづけた。
「実をもぎとるには、カギが二つ必要とききました。ひとつは髪綉の女の髪の毛。もうひとつはここ臨終に君臨するあるじの下の毛。手に入れるには、この村の伝説のできたいわれをこたえる必要があるそうですが、私には、そのこたえがわかります」
強風で枝が横へかしぎ、ぎひぎひいった。その音にまじり、
「・・・・・・ほんとうにわかるの」
声が、きこえた。まさか! 木がしゃべる? しかも日本語で。だが今のは、空気がこすれあうような、風のひびきにも似たささやき声で、男女の別はおろか、子どもか大人かも判然としない。ききまちがいかもしれなかった。疑いつつも、俺はつづけた。
「はい、ほんとうです。今から申しあげますので、おききください。臨終の伝説、『この村全体があるじの体。川はあるじの血液であり、草はあるじの体毛。あるじは無数の赤子を生み、川で養っている』が生まれたのはなぜか? こたえはいたって単純です」
千絵を思いうかべながら俺は語った。
「その昔、臨終のあるじには子どもができなかった。その妻は子どものいる女をやたらとねたんだ。彼らの赤んぼうをわがものにしたかった。そこで権力を行使し、臨終で生まれた子どもをすべて各家庭から奪い、村全体のものとした。今でもそのならわしは残っている。だから赤んぼうが川にうじゃうじゃいる。要するに伝説は、子のない女の嫉妬から生まれた。ちがいますか?」
「ちがわない」
返事が耳に入った。あいかわらず、かすれてはいたが、声はつづけてはっきりといった。
「あたってる。あるじは女で、嫉妬に狂っておかしなことをはじめ、ああいう伝説ができた。でもひとついっておくと不妊症だったわけじゃない。結婚相手がみつからなかっただけ。それは今世紀になっても変わらなかった、つい三日前までは・・・・・・でも今は、ちがう」
びちゃっとなにかがおちて俺の肩に付着した。腐臭が鼻をついた。
「相手が、みつかった」
また木からなにかがたれ、よけたら足をふみはずしそうになった。
すぐ横に穴があいていた。底の方に水がたまっている。いや水じゃない、粘り気がある。おまけに強烈な臭い。Uボートにふりかかったのと同じだ。
粘液は、木の枝からつららのようにたれ、穴に雫をおとしている。
ぽちゃっと音がし、穴の表面がはねあがった。顔をのぞかせたのは、のっぺらぼうのおたまじゃくし。なん十匹も泳いでいる。ぐるぐるぐるぐるまわっている。
群れの中心には、人間の頭がういていた――男だ。ぬれたオールバックの髪がはりついている。顔は、目がない。眼球が二つともぬけている。黄色い歯がむきだしで、唇の跡もない。肉という肉はほとんどそげおち、まるで髑髏。
それでも、みおぼえがあった。髪型と、つむじの位置とに。
あれは、佐伯だ。
またピチャッとはねあがった。のっぺらぼうの魚が、おどけたように。
くそ、なんなんだ、いつも死骸にむらがるあのぶきみな生物は。精子みたいなかたちしやがって・・・・・・精子、そうか、佐伯は精液をしぼりとられて殺されたのかもしれない。だからこんななまぐさいんだ、ここは。
やっぱり罠か、俺は生贄として殺されるのか。
「交わろう・・・・・・」
幹が月光にはえた。太いわりにはやわらかそうで、すね毛のような毛がならび、かすかにうねっている。枝も蔓も地面をはいまわる根っこも、脈打つかにのたくっているようだ。
「さあ、おいで・・・・・・」
やられてたまるか。
「あの、カギは? 伝説のこたえがあたったなら、カギを頂きたいのですが」
「いいよ・・・・・・」
しゅるしゅるっと蔓がのび、俺の股間にからみつこうとした。あわてて手でつかんだ。うず巻く尖端は、人間の陰毛ほどの細さだった。
「これが、第二のカギなんですか」
「そう、下の毛。あげるから、あなたもちょうだい」
女陰のような洞(うろ)が、幹の下部で口をあけていた。粘液を含んでいる。
「ここに入れて。この中にあなたの命を注ぎこんで・・・・・・」
ぞーっと戦慄が走る一方で体は反応しかかっていた。いけない、佐伯みたいになっていいのか。あいつはあの穴につっこんだにちがいない。だからあんな結果に。
いやだ、俺はああはならない。俺は千絵が目的なんだ。
「あるじさま、ひとつ、どうしても確認したいことが。千絵は今どこに。ご存じだときいたのですが、無事なんですか?」
「こたえはあと。おいで、早く」
「よしきたあっ!」
背後で誰かが絶叫した。
ふりかえると、草むらに戦車。いやあれは、巨大なゴキブリ――長い触角を動かし、鬼瓦のような顔をこっちにむけ、白い目をぴかっと光らせ、
「人参果は頂きい」
老婆のような声を発したかと思うと、けたはずれに長い脚で草をふみたおしふみたおし近づいてきた。
「ああ、めでたやめでたや」
ゆさゆさとゆれ、はねる巨体から、だみ声がひびきわたった。
「今年が一万年目だというに人参果が実らんかったのは、栄養のせいだものなあ。栄養をみな蔓へ流しちまうんだから。蔓を若い女の髪そっくりにして、恨みをはらそうというんじゃからなあ。それもこれもあの女がのりうつったせい。要するにぜんぶ呪いのせいじゃ。呪いのために、成長がとまっとった。じゃがついに男をうけ入れる気になってくれたんじゃからの、ホホホ、なに、その気になりゃ受精はすぐじゃ。受精さえすりゃ、すぐ実る。もとははらみやすい体質というからに一日もかからんじゃろう。すぐじゃすぐ。人参果はもうこっちのもんじゃ」
触角を釣竿のようにふりあげて大樹の枝にひっかけると、化け物は俺の真横でとまった。
そのときはじめて気づいた。上に人がのっている。海亀にまたがる浦島太郎みたいに。むろんそんな牧歌的な感じはみじんもなく、殺伐とした声を男は投げてきた。
「今のをきいたか、卯井」
長田だった。
「老婆のお告げはありがたいものだぞ」
「・・・・・・老婆?」
「触角の下のお顔がみえんか。わしを快くのせてくださったこの虫さまこそ、臨終の真のあるじだぞ」
鬼瓦の口から拡声器を通したような声が、耳をろうせんばかりにひびいた。
「そうじゃあい、木にとりついている人間を退治するんじゃあい」
「ほら卯井、あのおなごだ」
いつのまに顔が、幹にはりついていた。いや、とびだしたというべきか。洞から半メートルほど上のあたりに丸い顔がうきぼりになっていた。
はじめ幻としか思えなかった。月光をあびた顔は、かたときも忘れられない面影に酷似していた。神経房実の比ではない。あれは三十代半ばの、俺が知っている千絵の顔そのものだ。右頬下にほくろもある。
懸命に目をあわそうとしたが、だめだった。どこをみているのか、うつろな表情。あまりに生気がない。まるでつくり物のようだ。
俺はなんとか理性を呼び戻していった。
「あれは、生きているんでありますか? 体はどこに」
「体はない。木と一体化しておる。心がとりついているのだが、首だけは丑三つ時になるとああして木のなかにうかびあがる。ところで卯井」
「は」
「ご苦労だったな。貴様の働きで幹に泉がわいた。あのおなごのお気に入りというのは、ほんとうだったようだ。おかげでたっぷりうるおっとる。これで十分楽しめる。交わりはわしがするから、どいてよいぞ」
「しかしあるじさまは、自分を・・・・・・」
「ほんとうのあるじさまはこの虫さまだといったのが、わからんか。そのあるじさまがわしを代打に指名した。貴様じゃ用は果たせんとな。及び腰で、仮に挿入できてもタネは注ぎこめそうにない。タネを注げなければ受精はできん。受精できんけりゃ、いくらカギが二つそろっていようが、人参果は実らず手に入らん。ちなみにひとつ目のカギである髪はちゃんとわしの手にある。予備をとっておいたからな。ほら、これだ」
長田は髪綉の女の髪をシガレットケースにしまうと、
「佐伯もおじけづいてなあ、タネを注入できんかったから、ああいう目にあったんだそうだ。貴様は命が惜しいだろうが? どいたどいた」
長田はあるじと称する化け物からおりたが、俺はゆずらなかった。
「なにをとまどっとる」拡声器の声がわめいた。
「受精がおわらにゃ女の退治に進めん、さっさと下がれ。ほんに煮え切らぬ男よのう、おまえもそう思うじゃろ、これこれ」
化け物は触角の先で、幹の顔をいたぶった。
「ヒヒヒ」頬をなぞる、ひっかく。
白い顔が苦悶にゆがんだ。ああ、あの顔は・・・・・・つくり物でも死体でもない、生きている!
――彦太郎さん、きて・・・・・・。
声がきこえたように思った。
「千絵、千絵?」
俺は幹へと近づいた。長田はなぜか黙認している。
女の顔はちょうど俺と同じくらいの高さに位置した。目があった。彼女はなつかしさをいっぱいにたたえ、涙をうかべ、唇をふるわせた。
「ああ、千絵・・・・・どうして・・・・・・」
言葉がつづかなかった。そんな俺をみると、千絵ははげますようにいった。
「早く入れて、あなたのを」
洞をみて驚いた。木の泉は消えていた。かわりに本物の女陰が口をのぞかせていた。襞がとびでている。茂みにはさまれたそれは、ぬれ光っていた。
「ね、こわいことはなんにもないんだから、さあ・・・・・・」
甘酸っぱい匂いが鼻をついた。これは千絵なのか、木のなかにいるなんて、ふつうじゃ考えられない。夢なのか。夢でもいい。十年間夫婦として暮らしながらも、いちども抱けなかった女。ほんとうは好きだったのに、打ち明けられなかった相手。ずっと彼女と結ばれたかった。その思いを、とげられるなら――。
人前なのが癪だが、覚悟はきまっていた。同じみられるなら木と交わる姿よりよっぽどいい。
長田が邪魔する気配はなかった。あれほど交代を強要したにもかかわらず――。
俺は、入れた。
「ああ、彦太郎さん・・・・・・」
思わず激しく腰をふると、木全体がゆれた。今にも倒れそうなほど。
歓喜の絶頂――このまま死んでいいとさえ思った。
大地が割れ、根っこがとびだした。幹が裂け、女の全身があらわれた。鼓動が伝わった。肌の匂い、髪の香り、すべて本物だ。
「千絵」
熱い口づけをかわし、立ったまま抱きあっていると、
「みせつけおって」長田の声が背中にささった。
「目をさませ卯井、お楽しみはおわりだ。あれをみろ」
「あ・・・・・・」
みるかげもなく倒れた大樹の、ひき裂かれた幹の中身は空洞だった。
「驚いたか。あれは人参果ではない」長田は楽しげに、
「木でさえもない。紙だ。日のあるときに間近でみたら、わかっただろうな。葉っぱと枝には針金や布、材料はほかにも色々大量に使ってるが、ぜんぶ娘たちの手づくり。こいつもだ」
巨大な虫をたたき、いった。
「房実さん、お疲れさまです。名演技でした」
化け物の下から拡声器をもった神経房実がでてきた。
「どうも。老婆の声ってけっこう難しかった。でもこれが本物っぽい動きをしてくれたので助かりました」
「化け物だと思ったろう、卯井は。大成功だ、なあ千絵」
やわ肌にふれようとするのを、俺は全力でさえぎった。
「千絵、どういうこと」
「ごめんなさい」彼女は甘えるようにいった。
「あの虫さまはハリボテのゼンマイ仕掛けなの」
「顔は鬼瓦で目は電球。羽は茶色いカーテンを加工したんです」
房実がぺろりとめくった布の下から、金属製のゼンマイがあらわれた。
「仕掛けは、支那人護衛たちのお手製です」
それには長田も驚いたらしい。
「なに支那人? 今のはわしも初耳だぞ。みんな日本の脱走兵ではなかったのか」
「支那兵です。日本の軍服着てるだけ。ばれないように、みんな日本人の前ではしゃべらないようにしてたの」
「わしを、だましたのか」長田は血相を変えた。
「約束は? あれもうそなのか」
「約束って?」千絵がいった。
「バカ、とぼけるのか。おまえ卯井をはめたら、わしにぜんぶくれると約束したではないか。だから今夜の作戦をたてたのではないか」
「作戦」
「そうだ。卯井におまえを犯させる。どうせ途中でおじけづくだろうから、わしと老婆の化け物でけしかける。そうすれば、おまえに惚れているはずの卯井は必ず挿入する。ただしおまえは正体をみせたくないから、ハリボテの木に隠れるという作戦だった。うまくいったら、例の物もすべてくれるとおまえはいった。わしは信じた。だから、おまえがどうしても卯井をおとさねばならん理由をほんとうは知りたかったが、あえてきかんかった。だが、おまえは卯井に正体をみせたりして・・・・・・すべてうそだったんか、え?」
「・・・・・・」
「うそとはいわせんぞ。丘のあっち側にあるとおまえはいった。工場も、例の物も、ぜんぶあるといえ」
なんのことなのか俺にはさっぱりわからなかったが、
「いいえ」千絵はきっぱりといった。
「あ?」
「ぜんぶは存在しない。工場なんてはじめからなかった」
「なんだと」
要所要所で銃をかまえている軍服男たちがいなかったら、長田はとびつきそうな勢いだった。
「この詐欺師め、話がちがうぞ」
「話? ちがわないよ。あんたの一番の望みはかなえてやる」
「ほんとうか」
千絵は俺に抱きついたまま、
「例のものはちゃんとやる、ほらよ」
長田をけったかにみえた彼女の右足指には透明な細いものが、はさまっていた。それを長田のふとももにつきさした。注射器だ。左足首に巻きつけている革帯に入っていたらしい。
「ほら、薬瓶もやるから」
革帯から足指でとりだし、なげつけた。
「たっぷりのヘロイン、好きなだけ楽しんで好きなだけ寝てな。私たちの邪魔はしないでよね」
俺たちは熱い抱擁をくりかえした。意識がだんだんもうろうとしていった。
存在しないはずの人参果の根っこが地中からはいあがり、俺の尻をむんずとつかんだような感覚におそわれ――。
三、昭和二十(一九四五)年四月 妻
これは私、通称卯井千絵に万が一のことがあったときのために、残しておく告白状であります。
私の罪は、つぐなおうとしてもつぐない切れるものではありません。
卯井(旧姓・大下)千絵は偽名。本名は山吹久子(やまぶき・ひさこ)です。私は子爵、山吹弘のひとり娘でした。
ことのおこりはドイツにありました。
学者だった父は欧州大戦後の大正九年から五年間家族をつれ、ベルリン大学で植物の研究をしていました。帰国すると日本になかった花をたくさん育てたのと、数々の論文を発表したのとで注目され、新聞雑誌の取材をうけるまでになりました。
私は神奈川の女学校をでるなり父にならってベルリンの大学に留学しました。
十歳から十五歳まで現地の学校に通っていたのでドイツ語には不自由しませんでしたが、学問用語となるとまた別で苦労に苦労をかさねたすえに学内一番の成績をおさめました。それが当局の目にとまり、四年生の冬、勧誘されました。
ナチスの諜報機関にです。極東情報部にとって貴重な人材だといわれました。ヒトラーが首相に就任して破竹の勢いだったころですが、父の助手になるときめていたのでうける気はありませんでした。
ところがそれからまもなく訃報が伝えられました。一九三三年、昭和八年三月のことでした。
新聞記者に日本の桜についてきかれ、正直に発言したのが命とりになったのです。桜が散るさまと武士道をむすびつけ戦死を美化する風潮を父は暗に批判しました。その発言をファシズムに支配されつつあった官憲がみのがすはずがなく、治安維持法違反とされた父・山吹弘はいきなり逮捕、投獄され、獄死したのです。五十六歳でした。遺体はひどい拷問のあとでうめつくされていたそうです。
母はショックで倒れ、その一年後に亡くなりました。
私は両親を殺したも同然の日本という国を憎み、葬式のあとドイツに戻るとやがてライン川に身をなげました。子爵令嬢が自殺したという当時の新聞記事をご記憶の方もいらっしゃることと思います。
そうです、私はナチスの諜報機関員になり、彼らに命じられるがまま死を偽装したのでした。時は日独伊三国同盟が結ばれる五年前。ドイツがまだ中国と親しく、蒋介石に軍事支援をいっていたころでした。
私は身なりをかえて帰国後、大下千絵を名のって上京、丸ビルにある大手商社のタイピストになりました。スパイといっても翻訳が主で、港を出入りする船の情報を会社から盗んで翻訳し、ベルリンに流すといった仕事が中心でしたが、二年目に転機がおとずれました。
人参果を入手せよ、という指令がくだったのです。
実在する別名ペピーノではなく、不老長寿をもたらす方という旨でした。『西遊記』にでてくるのは知っていましたが、あくまで架空の木だと思っていましたので、当初は暗号の解読を誤ったかと疑いました。指令が本物だとわかってからも上層部が血迷ったとしか思えませんでした。
しかしベルリンはこう伝えてきました。
「長生をもたらす人参果は世界に少なくとも二本は存在する。一本は中国に、もう一本は日本に。両者は地下でつながっており、どちらか一方の実がもぎとられると、他方は枯れるとされる。両者とも、おおよその所在地は把握ずみであり、わがドイツが入手する方針である」
私は植物に精通しているということで以下の命令をうけました。
「日本の人参果を発見し、監視せよ。経費の制限はない。会社は時期をみてやめること」
もっとも結婚もしないのにいきなり退社してひっ越したりすれば、周囲のどんな疑いを招かないともかぎりませんので、ひとまずは勤めながら、人参果があるという地域に足をはこぶことにしました。電車が必要な距離とはいえ、同じ東京府内でしたので退社後の時間にも十分かよえたのです。
情報部が把握している住所は、丁目まででした。その区画は密集した住宅地でしたので、各戸の庭を注意ぶかく観察しましたが、人参果らしき木はどこにも生えていませんでした。
そこで私は、人参果が家の壁や柱に同化している可能性を考え、一軒一軒観察していきました。
すると、ある家に目がとまりました。
その家からは、ほかにはない匂いがただよっていました。樟脳と線香の香りと甘酸っぱさが入りまじったような、人によっては頭痛や吐き気をもよおすだろう匂いです。もっともそのときは三月のおわりの寒い時期で薔薇の芳香ほどにも目立たなかったのですが、専門家の私には樹木由来のものだと判断できました。杉やヒノキの匂いは切断したあと年月とともに薄れていきますが、人参果は不老長寿の木だけにちがったのです。
さっそくその家の住人を調べにかかりました。
借主は一年前に入居したばかりの男性でした。私と同い年の当時二十五歳で、経済誌『近代経済』の記者でしたが、早稲田大卒で在学中には植物愛好会に所属し、帝大の植物学者らと交流、師事していた経歴がありました。仕事は単なる隠れみので、人参果狙いの、日本陸軍情報部等に所属する諜報員である可能性がありました。
監視する必要にせまられた私は、男性が私の勤める商社を取材するようしむけ、偶然をよそおって接触、文学好きの作家志望とみせて交流を深め、偽装結婚へとはこび、その家に住みこむのに成功しました。
大して広い家ではありませんでした。一階に十畳の居間、台所、浴室と便所、二階に六畳の和室と四畳の洋間、その上に六畳の屋根裏があるのみで、いたって簡素な造りで柱といっても数が知れてましたし、探すべきところはそれほど多くはなかったのです。
どの柱かはすぐに見当がつきました。
判断基準となったのは、ゆがみでした。
その柱には、一見わからないほど微妙な、凸凹がありました。
ゆがみは、根が水を吸うことによって生じます。年とともにゆがみは大きくなり、細胞が活発化していくのが感じとれました。夜間に耳をすますと、柱の内部で木の細胞の動く音がかすかにききとれることもありました。
とはいえ表だった変化はなかなかあらわれませんでしたので、ほんとうに実がみのるか不安でした。「人参果は柱や梁に同化しても成長し、一万年に一回胎児のかたちの実をみのらせる」というナチスの資料がたよりでした。
一万年目は、一九四五年ということでした。それまで十年――。
やがて大戦がはじまり日本と同盟を結んでも、ナチスの人参果独占計画に変わりはありませんでしたが、私の気もちは大きく変わらずにはいませんでした。
偽装結婚も、作家志望をよそおって小説を書くことも使命のためだと自分にいいきかせていましたが、月日がたつにつれ、自分をだましにくくなり、耐えがたくなっていったのです。
あの日、卯井が出征してまもない昭和十九(一九四四)年八月末日、「祖父」が突然たずねてきました。
とうもろこしをたくさんもらったからわけようと思ったとのことでした。それまでなにかもらうにしても私の方からいくのがならわしでしたし、八十に近い年でわざわざ暑い日にくることはなかったのでふいをつかれたかたちでした。
あとから考えると、あれもなにかのめぐり合わせだったように思われます。
「祖父」は私のほんとうの祖父ではありませんでした。
あの老人は若いころドイツで修行をしたヴァイオリン弾きでした。奥さんも同行し、むこうでいろんな仕事をして生活を支えていたそうです。そのときに夫婦と秘密組織とのつながりができたのでしょう。組織名はここでは明かせませんが、ドイツ帝国時代から存在し、現代でも変わらず世界じゅうに多くの会員をもち、ナチスとはたがいに利用しあう関係でした。
私のほんとうの祖父母は、私の両親が亡くなる前に他界しています。
あの老夫婦は、卯井の前で私の祖父母を演じるよう命令されていただけでした。
それでもほんとうの孫に対するようによくしてくれていたので、突然の訪問に他意があるとは思えなかったのです。
その午後、例の柱にひとりでに穴があき、なかから大量の髪がでてくるという異変を前にして心細くてたまらなかった私は、これ幸いとばかりに「祖父」に問題の場所をみてもらいました。
「祖父母」は人参果のことを知らされていませんでしたが、
「だからいわんこっちゃない」老人はため息をもらし、いいました。
「いわくつきの家だけある。およそ命令で住まざるをえなかったのだろうが、いずれなにか起きるのではないかと心配していた」
住んだ人間に不幸がふりかかるという「いわく」については私も知っていました。
幸運をもたらす人参果が一体化した家で不幸がおこるのは、いかにも矛盾しているように感じていたのですが、そのあとの半年間で私は以下のことを発見することになります。
人参果の木である柱の表面が、私の気分がはずんでいるときにはつやつやと輝き、枝や葉っぱが生えること。
反対に怒りや憎しみにとらわれたときには、柱の表面に網の目がうきぼりになって血のように赤い液がにじみ、いったんひっこんだはずの髪の毛がまた穴からでて蛇のように畳をはうこと。
人参果はそばにいる人間の感情を吸収して成長するとわかったとき、私は次のように考えずにはいられませんでした。
隣の老婆への私の怒りと憎しみが、幸運をもたらす実よりもさきに、あのおそろしい髪を生んだ。私の呪いが髪を動かした。髪は老婆とまちがえて同じ老人である「祖父」を殺したのだと。
荒唐無稽のようですが、そうと考えるよりほかありませんでした。自分が殺したも同然と思い、強い自責の念にかられました。その一年前に「祖母」を病気で亡くしたばかりでしたので、「祖父」をも失ったことは、ひどい打撃でした。
それだけに隣の存在が許せず、憎しみをおさえ切れなくなったのです。
私はあの老婆に長年苦しめられ、傷つけられてきました。はじめて挨拶にいったとき一応愛想よく迎えた老婆ですが、口は笑っていても、鬼瓦の面相にうめこまれた目はけわしく私をじろじろ値ぶみするように観察すると、開口一番「何才?」とききました。「二十五です」とこたえると、目をぎょろりとさせ、大きな鼻の穴から大砲でも発射するように息を吐きだし、ゆがんだ唇をひらいて、「へえ、のんびりしてるね。子どもが二人いてもおかしくない年だってのに」といいはなちました。
以後会うと必ず私の腹をじろじろ眺めては「子どもは、いつできる」ときき、「祖母」にまで「おたくのお孫さんはまだ妊娠しませんが、どうしてなんですか」と問いつめる始末でした。
三年以上たつと、うちの前に立ってきこえよがしに「この家の奥さんは病気もちなんだよ」といい、「はらむ気もないみたいだけどね」と近所にふれてまわりました。
「早く子どもをつくって近所のみんなといっしょに育てな」といわれたときに、素直に「はい」とこたえず、迷惑そうに「さあ、わかりません」とこたえたのが癪にさわったのでしょう。
創作に本気でとりくむ覚悟をきめた夏、髪を短く刈って帰ると、老婆は「知らない男の人が隣の戸をこじあけて、なかに入っていった」と警察に通報しました。私は老婆がみた「男」が自分だと警官に証明しなければなりませんでした。
私を「腐れ阿魔」呼ばわりし、排除するのに全力をあげたあの老婆こそ、間諜の疑いがありました。
十年前から私が人参果に関する調査をしているといつも壁の外からうちのようすをうかがっている気配がしていたのですが、同居人が出征し、「祖父母」が死んで以後はより露骨になりました。
近所の主婦と募金にきては、わざとらしく部屋をのぞきこみ、「お子さんもいらっしゃらないようだし、ちょっとははずんでよ」といって、ほかの家よりも多く払わせるまで帰りませんでした。早朝だろうが深夜だろうがおかまいなし。うちのなかを探るのが目的のゲリラ攻撃としか思えませんでした。
さらに老婆はなん度も私をお茶に誘ってきました。あまりしつこいので、いちどだけ応じました。案内されたのは仏壇とちゃぶ台がある、ごくありふれた和室で、間諜を匂わせるものはなにもありませんでしたが、それはみせかけで、私を油断させるのが目的としか考えられませんでした。お茶を頂いて、あたりさわりのない世間話をして帰り、翌日には煮物でお礼をしたのですが、老婆はそれだけでは承知せず、ついには「いちどでいいからお宅にあがらせて」と執拗にせまるようになりました。そのたびに私は理由をつけて断りました。
するとある日、ガキ大将が標的の家におしかけるように、七十二にもなった老婆が近所の主婦とつるんで「おねえさーん、遊びましょー」と大声あげ、うちの戸をドンドンドンドンたたきだしたのです。いちどあけたら最後、どっとなだれこんでくる気配がありました。
力ずくでなかに入って人参果をみつけようって魂胆か・・・・・・私の精神は崩壊寸前でした。
こうなったら、面とむかって対決してやる。
私はついに玄関の戸をあけ、老婆と対面したそのときでした。サイレンが鳴りわたったのです。
空襲警報でした。
とたんに蜘蛛の子を散らすように主婦たちは防空壕へと逃げていきましたが、ひとり老婆だけは動きませんでした。混乱に乗じてふみこむかと思いきや、老婆の体はいきなりぐらりとかたむき、その場にくずれおちました。
声をかけても意識がないのか返事もしません。年のせいなのか急病を発症したようでした。
日ごろの私からすれば、ざまみろと唾をはきかけてもおかしくなかったのですが、やせ細ったその体をみおろしたとたん、鬼のように考えていた人間が、ただのあわれな老人にみえると同時に亡くなった大事な人たちの姿に重なって、気づいたときには必死で近所の防空壕へと運んでいました。
やがて轟音と震動で意識をとりもどした老婆は、口をひらきました。
「あんた、あんたが私をここへ・・・・・・命の恩人だ。あんたには悪いことをした。ほんとうのこといっておかなきゃ気がすまない、あんた耳かして」
狭い防空壕にはほかにも人がたくさんいました。老婆は小声で、自分が日本軍の諜報員だった旨をうちあけました。
「あんたその顔は・・・・・・気づいてたんだ。こうなったら、うちの二番目の兄ちゃんのこともいっておこう。実は、あの子は・・・・・・」
次男の正体を知って私が驚きにうちひしがれているあいだに、老婆は息をひきとりました。
あの空襲で、うちも焼けました。人参果の木も黒焦げになり、日本におけるすべてが水泡に帰した気がしました。
その日から衣食を確保するのに奔走するはめになり、やがて理性を失った私はベルリンに以下の虚偽情報を流しました。
「卯井彦太郎が、日本軍の諜報員である証拠をにぎった。卯井は現在従軍中だが、真の任務は支那の人参果の破壊工作である模様。なお当方は阻止する自信あり。卯井の心はつかんでいる」
報告がうそだとは、当局は気づきませんでした。そのころにはドイツの戦況も相当悪化し、戦死者も増す一方でしたが、ナチスは奇蹟にすがろうとしていました。不死の人間をつくる人参果独占計画は、その筆頭だったのでしょう。ヒトラーは人参果を獲得しだい大量栽培することを本気で考えていたようです。
ところが日本の人参果は空襲で打撃をうけ、だめになりました。そのため中国の人参果が唯一の望みになったのです。
狙いどおり、私は卯井彦太郎をとめよという指令をうけました。
私の頭には、老婆の死にぎわの告白がありました。
「うちの次男も間諜・・・・・・支那で・・・・・・人参果をとる命令にしたがってる」
それを私はナチスに伝えず、卯井が間諜だとうそをつきました。ある目的のために、そうしなければならなかったのですが、それについてはあとでのべることにします。
いずれにしろ老婆が言葉とは裏腹に私をあざむいていたのは、まちがいありませんでした。次男が諜報員なのは事実でしたが、老婆は悪いと思うどころか、息子を使って私をおそう腹だったのです。悪意の証拠に、うちの外壁にはゴキブリの死骸がたくさんはりつけてありました。隣の台所の目の前の壁にです。老婆が生きていたあいだは隣との境をみないようにしていたので、あとから気づきました。近所に目撃者がいたことからして犯人が老婆なのはたしかでした。
中国に渡ってまもなく、老婆の次男と卯井がふしぎなめぐりあわせで一緒にいることを私は知りましたが、それも上には報告しませんでした。
しかし本物の間諜を放置するつもりはありませんでした。その男には個人的な恨みがありました。
復讐の舞台に選んだのはUボートでした。
水兵たちは知らされていませんでしたが、あの潜水艦は人参果をドイツに運ぶ任務を負っていました。人参果に近い湖に入ったところで司令部から日本の間諜を阻止せよと命令をうけた艦にのりこんだ私は、前部電動機室にひそみました。
そこへ卯井一行が漂流してきました。そうしむけたのは、むろん私でした。「シミズ少佐」云々は、すべて芝居です。艦長たちははじめから、卯井たちの正体を知っていました。本物の間諜が誰であるかも――。
老婆の姓は佐藤でしたが、卯井の同行者のなかに佐藤はいませんでした。なぜなら間諜は次男だったからです。老婆の長男と長女は両親の離婚後、姓が佐藤に変わりましたが、次男は父親にひきとられ、父親の姓のままでした。
その次男と私は面識がありました。あの男は応召する五年前まで少なくとも三カ月に一回、多いときは週に二度も隣にきていました。実の母親を慕ってのことだったでしょうが、ほかにも目的があったのはたしかです。
そのことに、私は気づいていました。
こうなったらなにもかも白状しますが、私はあの男をずいぶん前から知っていました。
出会いは東京丸の内の、私が勤めていた会社の近くにあった珈琲店。常連客はカウンターに座ってマスターや店員との会話を楽しめる店で、なん度もかよううち、当時店員だった男と親しくなりました。おたがい趣味や考え方が似ていて話があったためでしょう。
相手はまだ十九歳で、私は五つも年上の二十四でしたが、ふとしたはずみで男女の関係を結ぶにいたりました。
いい年をして恋愛経験もないあせりがあったのと、当時芸術について気がねなく話せるのがあの男だけだったのも手伝って交際をはじめましたが、相手の身勝手なふるまいに耐えられず、いやがるのをふりほどき、一年かけてやっと別れました。
男はだいぶおち込んだらしく店もしばらく休みがちになり、その後表面的には立ち直りましたが、ずっと独身のままで相手かまわず未練を口にし、私を待ちぶせては部屋に誘うこともいちどや二度ではありませんでした。断ればひきさがり、私が結婚してからは待ちぶせもやめましたが、そのかわり老婆の家を訪れながら、うちのようすをうかがっているのが気配で伝わってきました。
まさか半分は仕事でやっているとは、当時はみぬけませんでした。あの男は老婆とちがって根が臆病だから、間諜などできないとたかをくくっていました。そういえば、私と別れた一か月後にあやしい宗教だかに入ったらしいとマスターからきいたことがありましたが、それが実は日本陸軍の諜報組織だったようです。
こっちの正体もつかまれていたかは不明です。老婆が知らなかったからといって、息子も気づかなかったとはいい切れません。あの男のことですから、私がナチスのスパイと知ったとしても、それを脅しのたねに私に近づけると計算して誰にもいわなかったのかもしれません。
幸い日本ではまぬがれましたが、あの男に迫られる危険は、中国の人参果に近づいてからふたたび、つきまといました。
だから絶対に直接対面しないようにしていたのですが、途中で気づかれてしまったのです。
そうです、老婆の元夫の姓は小茂田。人参果獲得のために派遣された日本の間諜は、小茂田喬次でした。
だから私は、あの男をUボートで攻撃しようときめていました。
ところがまったく意想外なことが起こったのです。
外部から足音に似た音や、大きなため息や咳の音がきこえ、魚雷室の壁がもりあがり、その壁が小茂田の首をへしおり、異様な粘液がたれたのは、なんによったのか。いったいなにが、あれら異常な現象を生じさせたのか?
思いあたるのは、「怪物」です。
あれをはじめて目にしたのは、中国にわたってまもなく人参果のようすをうかがいにいったときのことでした。
中国の人参果は、Uボートから逃げのびた日本人四人が『彼岸の村』に入った日には、すでにある理由によって切り倒されていましたが、私が現地に入ったころにはまだ立派に存在していました。
こんもり茂った木のてっぺんに黒いなにかが、のっかっているのがみえたときの驚きと恐怖――。
それは巨大なゴキブリのように鈍く光り、葉っぱの山にふたをするかにおおいかぶさり、触角のようなものを巨木の根元にとどかんばかりにたらしていました。
監視担当の中国人スパイがいうには、一か月前に突然出現したため、植物に詳しい私の判断を待っていたとのことでした。
それは木の一部のようでした。
風がふけばゆれますが、みずから動く気配はいっこうにありませんでした。
ためしに私ははしごにのぼって近づいてみました。するとかたちこそゴキブリであっても、糸のように細い蔓が隙間なくからみあってできたものだとわかりました。人が編んでつくったものかと疑いもしましたが、自然に生えたという中国人の報告は事実のようでした。一部が枝で木につながっていることからしても、人参果の一形態だと判断できたのです。
養分がそれに吸いとられて実を結ぶ妨げになってはいけないので、さっそく切り離しました。
地上におちるなり、それは、六本の「脚」でみごと大地に立って巨体を広げ、今にも動きだしそうでした。少なくともそのときは、そうみえただけでしたが――。
これを利用しない手はないと思いつき、作戦実行日に、Uボート甲板に固定してもらいました。小茂田にみせて恐怖を与えるためでした。ところがお膳だてするまでもなく、勝手に動いた形跡があったのです。
私はあれが生まれた背景に思いをはせずにはいられません。
日中の人参果は遠くはなれていても、深い地中にある根っこでつながっているといいます。だとすると、一方が伐採されたり倒れたりすれば、その養分はすべて他方に移動する可能性はきわめて高く、もしそうならあれは日本の人参果の養分を吸いとってできたことになると考えたとき、私は以下の結論に想到しました。
あれは、日本の人参果の怨念を吸いとってできたのだと。柱からでた髪が「祖父」を敵とまちがえて殺したように、私の怨念を吸いとった物体は、私の怨念に反応して敵を攻撃したのだと。
Uボートから湖におちたあれは川に入り、奥地の村・臨終へと流れつくと、いったん姿を消しました。
そのかわりに水面からあらわれたのが、のっぺらぼうの魚でした。それまで存在しなかった魚が大量発生したのは、あれが変形したものと私はみています。なぜならあの魚たちは、私が憎んだ人間の息の根をとめたからです。他人のアイデアを盗んで賞をとった分際で大作家ぶったやさ男の佐伯悦人を私は嫌悪していました。
とはいえ佐伯も那須も長田も、実は私の計画の協力者でした。
はじめて接触したのは、彼らが「仙人」から人参果の地図を奪った晩です。碧緑湖付近の小屋で酒盛りしていたところに私は武装してのりこみ、日本軍の諜報員と称し、次の情報を告げました。
すなわち、人参果のあるところにはヘロイン精製工場がある。軍はこの工場と人参果を同時におさえようとしているが、自分は横どりしてひと儲けしようとたくらんでいる。それには男手がいるから協力してほしい。断れば、脱走兵として上につきだす。したがえば罪に問わないどころか、えものを山わけしてもいいと。
話がほんとうだと思いこませるため、その場でいくらか渡し、煙草の上にのせて吸う方法を教えました。彼らを中毒にするのに時間はかかりませんでした。
麻薬に犯された彼らは女をみても欲情しなくなり、エサさえ与えれば私のいうことにはなんでもしたがいました。私の真の狙いは別にあることを、彼らはうすうす察したようでしたが、あえて詮索することもありませんでした。
こうして私はみずからの計画を実行しました。目的の人物に人参果探しの旅をさせつつ、次々に試験をしかけていったのです。
「仙人」も、人参果の地図も、伝説に関する問題も、標的のために私が用意しました。
『千夜一夜物語』から着想をえて、仙人役の二人を、相棒の神経房実に選ばせました。房実は満州育ちなので中国語はお手のもの、中国人の抗日家になりすまし、日系ホテルのボーイだった中国人兄弟が故郷の両親を虐殺されてくさっているところへ報復計画に参加しないかといって誘ったそうです。兄弟はよろこんで協力、命を投げだすことも惜しまず役目を果たしてくれました。
伝説に関する問題も、私が作成しました。卯井千絵という女への理解を問うのが目的でした。
果たしてこたえは卯井が解きました。
『髪縫いの洞窟』で「その女は年とともに怒り、そねみといった感情ばかりが発達し、自分が怪物化していくのを感じた」というのをきいたときには、自分の心を探りあてられたように思いました。
髪綉女の正体は私でした。
洞窟で髪綉をいとなむ母親のほんとうの娘は、すでにこの世にいませんでした。村になじめず、いやがらせをうける日々に疲れはて、洞窟で自殺したそうです。
村人への復讐を誓った母親は、娘の死をあえて隠し、機会をうかがっていました。ちょうどそんなときに私が洞窟を訪れたのでした。計画を話すと、母親はとびつきました。
私が娘に似ていたのが幸いもしました。必要なメーキャップはしつつ、髪綉の衣装を身につけ、ケモノに扮して刃物片手に村一番の屋敷へおどりこみました。
最悪な女でも、私にそっくりだったら、卯井がかばうかどうか、知るためでした。
二つ目の村でも芝居をうちました。
『彼岸の村』はつくり物です。臨終は実在しません。もとは桜林という名で、略奪と焼きうちにあい、廃村となっていたところを舞台に選んだのは、川が網の目のように走っているのと、桜咲く日本的な風景が混在しているのが神秘的で、最後の計画を実行するにふさわしいと感じたからでした。
村人は他村の中国人に演じさせました。作戦に参加することで日本兵をやっつけられると信じこませたのです。若い母親たちも、よそで日本軍に殺された赤んぼうが流れてくるたび、明日は我が身と思っていたためか、協力的でした。
川岸に群がっていた赤んぼうは、すべて本物です。母親たちの許可をえて岸で遊ばせたていたのでした。ひとりだけ、空をとんだようにみせたのは、ワイヤーでつりあげたものです。
資本はナチスからひきだしました。日本の間諜をまとめて網にかけるためという名目は、必ずしもうそではありませんでした。
長田ら三人を最終的に始末することも、計画の一部でした。
湖からひきあげた卯井を薬で眠らせているあいだ、三人は自分たちの運命も知らず、私にいわれるがまま、道におむつをばらまいたり、長田でさえも無限のヘロインを手に入れたい一心で労力を大放出。すべての準備がととのったあとで、卯井の目をさましたのでした。
ところで卯井は私が語る声を道中なん度かきいたはずですが、あれは彼が意識がもうろうとしたときを狙って、三人の協力のもと、間諜・小茂田には気づかれないよう十分注意しつつ、私がそばに寄って声を送りこんでいたのです。もっとも直接耳にふきこむと熱や匂いで感づかれるおそれがあったので糸電話を用いました。その際卯井が手で糸電話にふれるのを避けるため、体は事前にしばっておいたので金縛りにあったように感じたことでしょう。
声をきかせた目的は複数あります。
私の思いを少しずつ打ち明けて、卯井の反応をみようとしたのが、ひとつ。
私のほんとうの職業と、私たちの家に人参果があったことを、それとなく知らせるのが、ひとつ。
「台所が近くて音がつつぬけ」というくだりで、卯井が気づくことを願っていました。老婆とは、祖母宅の隣人ではなく、私たちの隣人であることに。
私は卯井の応召後もずっと自宅に住んでいました。現実に異常が生じた柱は、私たちの家にあったのです。
祖母宅はカムフラージュでした。日本の人参果のほんとうのありかを、長田たちに知られないよう舞台を祖母宅にし、同居人を祖父におきかえて語る必要がありました。
私は卯井に人参果を手に入れてほしかったのです。
偽装結婚だというのにあの人はほんとうの夫のように尽くしてくれました。
どんなに疲れていても文句ひとついわず、いつも温かく私に接し、自分の仕事だけでせいいっぱいのはずなのに私の原稿を朝まで読んで校正し、机で寝ていたこともありました。
丸まった背中、けばだったセーター、かたちのいい耳、とじた細い目が、気もちよく眠る犬を思わせ、無精ひげが鼻の下でぴんと上むいているのが愛嬌にあふれていました。
監視のはずが、いつかみとれていました。
ひきしまったお尻。かがんだとき、丸いかたちがくっきりとうきぼりになるので盗みみずにはいられませんでした。ぷりぷりと弾力があって、つきたてのおもちのようでした。
少しでも気をゆるめると、独り占めしたくなってたまらなくなりました。それで自分の部屋に招いたこともありました。いちどだけ、ゴキブリをとってほしいという口実で。
あえてカーテンを全開にし、一線を越える気はない意志を表しましたが、ほんとうは期待していました。
けれどもあなたは渋い顔をしてうつむいてばかりで珈琲も飲まず、ひたすら迷惑そうにみえました。
それであきらめがついたといいましょうか。私は二度とこんなことはすまいときめました。少なくとも人参果が実る日までは、役に徹しようとあらためて誓ったのです。
だましとおすために耳栓をしたり、頭がおかしいふるまいをして、とにかく小説を書きつづけました。みせかけのはずが、いつしか本気で私の人生は紙の上にあるのだと思いこみ、あらゆる欲望を創作で昇華するようになりました。
三年がたち五年がたっても賞をとれるどころか予選にもとおらなくても頑張れたのは、私が職業作家になることを本気で期待しているのが伝わってきたから。つづけることで、うまくなることで、あなたによろこんでもらえると思ったから。
時がたつにつれ、あなたは間諜などではない、と確信しました。にもかかわらず上に報告しなかったのは、なぜだと思いますか。
みはりという名のもと、ずっとそばにいたかったからです。
できれば、あなたの子どもがほしかった。
でもふみ切れなかった。自信がなかった。あなたが私をどう思っているか。
一時的に結ばれたところで、ちゃんと子どもを産めるか、育てられるか。妊娠したところで、流産する気がした。
隣人のせいで。
かたときもやまない監視に神経をさいなまれた私は、少しの音にもおびえていた。仮に無事出産できたとしても、赤んぼうの泣き声に耐えられる自信もなかった。私はすでにじゅうぶんノイローゼだった。老婆が隣にいるかぎり子をもつのは無理だと思った。
そして名実とも、人参果に希望をみいだした。
子どもがほしい気もちを胎児の実がなる人参果にたくしたのです。
私とあなたのいる家で育てば、私たちに似ると信じたから。
なのに、あなたは兵隊にとられた。この十年苦労をしのんだけれど、かたちあるものを得るどころか、すべてを失い、今までの努力がなんの役にも立っていなかったと思ったとき――私は発狂したのでしょう。
すべてを呪い殺したくなりました。老婆は空襲で死んだから、恨みはその次男にぶつけることにしました。誰かのせいにしないと精神の均衡を保てませんでした。
わざわざ中国にいき、小茂田喬次をドイツ人に射殺させました。
さらに佐伯悦人を穴につきおとして溺れさせ、那須右太衛門を神経房実によって焼殺させ、長田朝造を薬物中毒で廃人同様にしました。
三人はやむをえず私の協力者にしたけれど、あなたがうけた扱いを知るにつけ小茂田同様憎悪するようになり、少なくともあなたがやられた分だけは絶対に報復してやらないと気がすみませんでした。
あなたへの罪ほろぼしのつもりでした。果たしてからでなければ、あなたに会わせる顔がないと思っていました。
私はあまりに身勝手でした。
自分に自信がないからといって、あなたの気もちをかげでこそこそ探ったり、そのために手のこんだ芝居をし、村を舞台装置にするなど大勢をまきこんで犠牲にしました。
これ以上生きる資格はありません。
それでいて相思相愛ならあなたに抱かれて死ぬ、という願望を最後まで捨て切れずにいます。
ほんとうにバカです。
彦太郎さん、どうか、お達者で。
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