第2話
ついに日がおちたと思うと、トラックの音がして塹壕の前でとまった。
背の低い小太りの男が運転席からおりてきた。よごれのない軍服。兵隊のくせに長髪でブルドッグのような顔をふちどっている。那須だ。きどった豚野郎は大遅刻を悪びれるふうもなくゆったりと足をとめ、俺をみもせずにいった。
「Listen carefully」
那須は英語でぺらぺらとまくしたてた。
こともあろうに適性言語で話すとはなにごとかと驚いたが、那須が上海生まれの上海育ちなのを思いだした。小学校から高校までイギリス系の学校に通ったキリスト教徒で、母国語は英語。日本語は得意ではないらしい。そもそも内地に住んだことがないのだ。
こんな日本人としての意識も希薄な人間を徴用せざるをえないほど日本の戦局は悪化したということだろう。大陸の制空権もアメリカにうばわれた昨今のことだ。それだけに米英のスパイの可能性がないとはいえないが、こいつの家系と地方での業績がわれわれに疑念をもつことを禁じていた。
那須右太衛門は有名なチェロ奏者で、内地に招かれ天皇陛下の御前で演奏したことがあった。徴用後は上官に抗命したせいでなん度も営倉入りになったが、その過去もまたやつに箔をつけたようで、どこに転属になってもハレモノ扱いをうけ野ばなしにされていた。
なにしろ那須与一の末裔ということだ。きめぜりふは銃を手にしての、「よつぴいてひやうと放つ」。これだけは、なまらないらしい。
「What are you speaking?」俺はようやくきいた。
那須は嘆かわしげに首をふると、手帳をとりだして万年筆を走らせ、書いた紙をちぎって地面におとした。ひろって読めということか。バカにするなと思ったが、我慢した。
英語はきくより読むのが得意な俺でも、手書き文字の判読には時間がかかった。手もとが暗くなっていたせいもある。すると那須が懐中電灯で紙面を照らした。光は敵の目標になるのであせったが、助かったのは事実で、文字がぜんぶ読みとれた。訳すとこうなる。「ぶつはもってきた。このへんにおろす」
たったそれだけのことだった。言葉どおり荷台から黒いかたまりをほうりなげると、那須はさっさとひきあげていった。
どうやら俺を殺すための罠ではなかったようだ。安堵したのもつかのま、うけとったものをみて凍りついた。
やつが運んできたのは食糧ではなかった。気づいたときには、トラックは遠くかなたに去っていた。
砲弾三個。仕方なく荷車にのせ、闇のなか、ひきずるようにしてもちかえった。
案の定、すべて俺のせいにされた。
長田は面倒お断りとばかりに小屋の二階にこもったが、小茂田は手にした軍靴で俺をなぐりつづけた。疲れると、佐伯にけらせた。あげくに俺を裸にし、湖のそばの木にしばりつけた。そのままひと晩すごせという。たとえ敵がいなくても、いつなにがおそってくるかわからない場所でだ。
なぐられたところは、はじめしびれたようで感覚がなかったが、今や麻酔がきれたように激痛をおこしていた。傷口が腫れあがり、熱が高くなったのがわかる。水がほしい。唇の皮がぽろぽろとむけ、のどがかわいてたまらない。
少しでも時間が早くすぎることを願い、俺は目をとじたが、寝られるわけはなかった。全身痛むわりに頭はさえていた。
三人は小屋で晩飯でも食ってるころか。なぜ俺がこんな目にあわなければならないのか。覚えてろよ! 叫びたかった。おまえら全員、ただじゃおかない。
そうだ、復讐してやる・・・・・・。
しだいに意識が薄れ、俺は茶をいっぱいのんでいた。ごくごくとのどが鳴った。ひんやりして、こうばしく、ほのかに甘みのある液体が体にしみとおっていく・・・・・・。
夢ではなかった。だれかが俺に茶をのませていた。目をあけると、あけがたの空がみえた。俺はいつのまに縄をほどかれ、木の下に寝かされていた。青白い光のなかに、褐色の顔に口ひげをはやした目の大きい、ターバンをまいた男がみえた。コップの茶を俺の口にそそぎつつ、男は日本語でいった。
「もうだいじょぶですよ、ウツイヒコタロさん」
なぜ俺の名を知っているのか。そんなことはどうでもよかった。俺は夢中でのんだ。
「あわてない。少しずつのんでくさい」
三杯もらって生き返った。痛みもいつのまにやわらいでいた。
「薬ききましたね。熱も下になっています。あなた寝ていたとき、うめいていた。それで私、薬与えました」
「・・・・・・ありがとうございます」俺はのどの奥から声をしぼりだした。
「あなたはこの村のお医者さんですか?」
「私医者でない。あなたに用事あるです」
男は豪華な衣装をまとい、荷を積んだ馬を横においていた。
「用事? いったいあなたはだれですか。なぜ僕の名を知ってるんですか」
「そのうち、わかる。今急ぎます。彦太郎さん、私のひじを背中もっていき、この縄でしばってくさい」
「は?」
「理由はあと。早くお願いします」俺がしばられていた縄をしめした。
「できるだけしっかり結んでくさい」
なんのために。共産軍の手先かもしれない。日本兵を食糧でつり、日本語で甘い言葉をかけ、仲間にひき入れるのがやつらの手口だ。
それとも英印軍? 疑おうと思えばいくらでも疑えたが、このときの俺はまだ正常な思考力をとりもどしていなかった。いわれたまま、縄を結んだ。
「もっとかたく、もっと。はい、いいでしょう。では『はじめ』といったら、私を湖のなかへほうりこんでくさい」
「え」
湖の水深がどのくらいあるかわからなかったが、相当深そうだ。まして明け方の水は冷たい。手も使えない状態でほうりこむなど自殺行為そのものだ。
「それから三十分のあと、私が水面に手をだすのがみえましたら、体よりさきに手を高くあげましたらです、網をうって急いでひきあげてくさい。魚とる網、馬の荷物にかかってます。もし、さきに足がでたら、私死んでます。そのときは馬と荷物あなたにあげますから、私のことかまわず、自分のところに帰ってくさい。そして絶対にこのこと、誰にも秘密してくさい」
半時間も水面下で生きていられるわけがない。いかれていると思いつつも、俺は前にもこれと似た場面に遭遇した気がした。そんなはずは絶対にないのだが、このあとの結果も頭にうかんでいた。
「はじめ!」
号令がかかると、兵隊のくせで考えるよりさきに体が動いた。
湖につきおとして三十分後、水面にぬっと両足がでた。男はやはり往生した。
馬に積んである袋をあけると、こんがり焼けた鶏肉が十個と、すもも、楊梅などの果物がどっさりと、ふんわりした饅頭(マントウ)がたっぷり入っていた。俺はむしゃぶりついた。朝がすっかりあけたのには気づかなかった。いくら食べてもへらなかった。
男への感謝でいっぱいになり、その死を悼むとともに、このできごとの背景を読みとこうとしたときだった。
「おい」声がした。
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