第1話

第一章 昭和二十(一九四五)年 夫


 いつになったらくる。

 日が暮れるじゃないか。朝十時と指定したのは、むこうだぞ。昨日ふった雨で水のたまった塹壕。そこでもう七時間も、あの野郎に待たされている。いくら華南の春とはいえ足首までぬれっぱなしでは、さすがに冷える。おまけにいつ敵襲があるかわからない。

 もっとも敵影はなかった。頭をだして確認するかぎり、朝からずっと人っ子ひとりみかけない。

 青空、緑、そして湖。あとはちらほらと小鳥。

 だがこの静けさがぶきみだ。敵がひそむ場所はいくらでもある。事実、さっき左の山の中腹あたりでピカッピカッと光が点滅した。支那兵は日本軍が夜間通行すると懐中電灯を点滅させて連絡をとりあうが、あれに似ている。

 俺はこんな支那の奥地でむだ死にしたくはない。三十五歳でなにもなしとげないまま、子孫も残さないまま・・・・・・。

 ひょっとして罠なのか。長田と小茂田と佐伯のやつら、俺をはめたのか。あの外道三人――。

 思いだせ、昨日のことを。俺は夕方、石をひろって小屋に戻った。すると小茂田喬次(こもだ・きょうじ)伍長ドノがいった。

「なんだこれは。俺はどんな石をひろってこいと命じた」

神経質そのものの細い顔をしかめ、

「色、丸み、どれをとっても不合格」

 俺の手をたたいて石をふりおとし、軍靴のかかとで踏みにじった。

「要するにおまえには才能がない。それにくらべて佐伯一等兵は、さすが小説家だけあって審美眼がある。なあ」

 すみにいた佐伯悦人一等兵ドノに小茂田は微笑をなげた。慶応ボーイだった佐伯は、いやみな二枚目の顔をせいいっぱいひきしめ、声をはりあげた。

「自分は、伍長殿には到底及ばないであります」

 小茂田は満足そうにうなずき、

「しかし貴様は俺の好みをわかっている」

 佐伯のひろった石を手にとり、

「つやもいい」口にほうりんだ。

「この触感。じつにまろやかで、うまい」

 舌ですすり、歯にぶつけてごろごろと音をさせた。

「俺は石を味わえる。のみこんで腹のたしにすることだって、できる。だが中隊長殿はちがう。うまいものが食いたいのう、といっておられるのは卯井(うつい)、貴様も知っているな?」

 中隊長というのは長田朝造(おさだ・あさぞう)大尉のことだ。正式には中隊長ではない。長田もふくめ、われわれ四人は、某中隊の生き残りだ。「生き残り」というときこえはいいが敗残兵であり、実質的には逃亡兵だ。

 ふつう生き残りは、べつの部隊に合流したり、大隊本部に帰還したりする。つまり日本軍という組織に戻らねばならない。だがわれわれは日本軍から逃げ、大陸をさまよっていた。こうした状況下では階級など無意味になるものだが、ここではまだかつての上下関係がいきていた。

 総領が長田大尉三十八歳、次にえらいのが小茂田伍長三十歳、佐伯一等兵二十五歳、そして俺、卯井彦太郎二等兵三十五歳の順だ。

 俺は年をくっていても初年兵で最下位なわけだが、三人を少しも尊敬していない。むしろどいつも軽蔑している。長田なんかは特にだ。一日中小屋にひきこもっているだけ。なにがうまいものを食いたいだ。そう思いつつも、俺はこたえた。

「はい、知っています」

「声が小さい。おい卯井、早大をでたからってつけあがるな。いっとくが俺は早稲田の中学出だ。大学よりよっぽど倍率の高い受験を突破し、必要な勉強は中学ですませた。十代で世にでるためだ。卒業後一流の珈琲店で修行をつみ、二十五歳で自分の店ももった」

 画家志望で働きながら芸大を五年も受験して夢をあきらめたことには、ふれないんだな。

「しかも今は伍長だ。俺にくらべ、貴様はどうだ」

石をけりあげた。

「三十すぎても三流出版社の下請け仕事をしてただけ。今は二等兵。要するに貴様は、くずだ」

「・・・・・・」

「返事はどうした。伍長のいうことがわからんかっ」

「・・・・・・」

「いいか、貴様なんざ今ごろひとりでいたら死了死了(スーラスーラ:中国語で死んだ死んだの意)で一巻のおわりだ。それを食糧までめぐんでやってるんだから、ありがたく思え」

 くそったれ! 伍長の階級章なんぞ、二等兵と同じ星ひとつに金筋一本くわわっただけのもんじゃないか。だいたいこっちは五才年上だ。青侍め!

 そう面とむかっていえたらなあ。いえるわけがないんだ。このはげちらかした髪、やつれた顔。これぞ負け犬といった容貌。自分に自信がないから、態度の大きいやつの前にでるとすくんでしまう。そして結局したくもない返事をしてしまう。

「はい」

「よおし。卯井二等兵、貴様には明日単独で湖岸にいってもらう。二十キロさきに宿営中の那須上等兵と連絡がとれた。明朝十時に、当面の食糧をはこんでくれるそうだ」

 最初の疑惑がわいたのは、このときだった。

「十時、でありますか」

敵に狙われやすい日中は避けるのが常識だ。

「なんだそのいい方は」小茂田は石をぎしぎしとかんだ。

「那須右太衛門殿の命令は朕の命令と心得よ、だ」

 那須は俺より一才年下だ。四年兵で上等兵とはいえ、階級は小茂田よりも低い。そいつを天皇陛下と同等にみなせという。

 小茂田だけでなく、長田までもがやつのいいなりになっているのには、いくつかの理由があった。

 そのひとつは食糧だ。現在大陸を南下中の某輜重隊に所属している那須は、輸送中の食糧をピンはねしては売っていた。長田が銀貨や高級煙草をたくさん隠しもっているおかげで、われわれは食糧を手にすることができた。食糧をにぎるものは力をもつ。われわれは長田に頭があがらず、長田は那須に頭があがらないというわけだ。  もっとも長田と那須はどこで出会ったのか特別な仲らしい。

「よいな。那須殿が十時と指定したら、十時だ!」

――なにが十時だ。もうすぐ十七時半だぞ。

 やっぱり罠なのか? 俺はここで殺されるのか?

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