隣の音

吉津安武

序章

 今は昔、日本が戦争に負けた夏のおわり、焼け跡に身をよせる若い娘が隣の娘にいいました。

「ねえ、赤んぼうの実がなる木って知ってる?」

「あの噂ね。赤んぼうがぶらさがってたとかいう」

「ぶらさがってたんじゃなくて、木になってたんだって」

「蜜柑や林檎みたく?」

「そう。今はみえないけど。あの敷地にあったそうだよ」

「ジープがとまってMPがみはってるね。GHQが噂をきいて目をつけたのかな」

「そりゃ目をつけるよ。木が生えてることからして異常なんだから。三月の空襲のあと、いきなりあったんで私、肝つぶしちゃった。最初は焼けた柱かと思ったけど、夏になったら葉っぱまでおい茂って」

「あそこに住んでた夫婦、子どもいなかったよね」

「ね。二人とも三十代半ばぐらいだったのに。早稲田出身の旦那は出版社づとめで髪は薄かったけど、目鼻立ちは整っててて、それなりにいい男だったよ」

「あんた近所だけに詳しいじゃない」

「奥さんは謎だった。有名な女学校をでたあと結婚するまで丸ビルでタイピストしてたことしか知らない。毎日家にとじこもってたみたいで全然みかけなかったから」

「雑草だらけで、ぶきみな家だった」

「去年旦那に赤紙きてからは、よけいひどかったって」

「すぐ戦死したわけじゃないんでしょ」

「今も無事かはわかんない」

「奥さんも?」

「空襲は生きのびたみたいだけど、そのあと、どうしたんだか・・・・・・」

「あ、富士山」

 焼け野原はそのまま空へとつながっていました。空は青々と輝きわたっています。日本が戦争に負けたのが、うそのようでした。

「あの木、なんで生えたのかなあ」

 生きるためにパンパンとなった二人の娘は、かこいに目を戻しました。

「赤ちゃんの実もねえ。ま、そっちは単なる噂だろうけど」

 けれどもかこいのなかでは、このときまさにGHQが、こんもり茂った木にたったひとつみのった果実を、もぎとろうとするところでした。

 低い枝からたれているそれは、生まれたての赤んぼうにまったくよく似ていました。

 ちがいは、洗ったようにきれいなことと、へそではなく顔でつながっていることでした。

 結合部をはずそうと、アメリカ人医師はゴム手袋をした手に少しずつ力をくわえ、慎重に手前へとひいていきました。

 それは意外にたやすくはずれました。

 医師が色を失ったのは、あるべきものが欠けていたためでした。

 それは脈もあれば、呼吸もしていました。大きな葉に守られていたために日焼けしていない肌はみずみずしく、あたたかでした。

 しかし、口がなかったのです。

 鼻の下には、皮膚がのっぺらぼうのようにひろがっているばかりでした。

 日がかたむき、むし暑いなかにも秋を感じさせる夕暮れの風がふきぬけました。

 口のない赤んぼうは、泣くかわりに医師の腕のなかで手足をばたつかせてやみません。

 やがてまっさらな布につつまれ、とれたての実は、ジープでどこかへと運ばれていきました。



昭和十九(一九四四)年八月 妻


 隣の台所の窓と、うちの壁はたった五センチしか、はなれていない。

 隣の老婆は自宅を改築するとき、うちにはなんの断りもなく、ぎりぎりまで近づけた。

 居間の窓をあければ、料理中の老婆と対面することもある。老婆はひとり暮らしだが、しょっちゅう台所に立つ。

 おたがい木造だから音はつつぬけだ。がちゃがちゃごんごん、うるさい。

 なにをそんなにたたきつけているのか。思い切って窓をあけ、むこうの窓の柵をにらみつけたら、つづけざまに二度大きな音。対抗してきたとしか思えなかった。

怒りにまかせて階段をあがり、三階の屋根裏の窓をしめた。ただし、音はいっさいたてずに。こっちが音をたてたら負けだから。

 老婆はつねにきき耳をたてている。

 私が毎日家でなにをしているか、ばれたら、おしまい――。

 息がつまる。窓をしめたのに、きこえた。咳まで。わざとらしい。私をいぶりだそうとでもいうのか。

 屋根裏はむしぶろ状態。暑くて熱射病になりそうだ。せっかく涼しい一階にいたのに。音でうちに侵入して、こっちの行動を妨害しやがって。

 音はまったく中断せず、平然とつづいた。

 死ね!

 はたきをとり、槍のようについた。隣にむかってなん度も、つき刺した。

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